Monthly Web Magazine Mar. 2023
■明恵の生き方 瀧山幸伸
京都高山寺を拝観した方なら目に焼き付いている開祖明恵の樹下座像(国宝)は、一般の人が見ても未来的というかスーパーマン的な印象を受けるのではなかろうか。
この絵がずっと気になっていて、深い共感を覚える明恵の人生観・世界観をもっともっと知りたく、出身地であり修行の地でもあった和歌山県有田地方の「紀州明恵遺跡」を詳しく調査してみた。
国史跡に指定されているのは以下の7か所
明恵上人 紀州遺跡 吉原笠塔婆 康永三年(1344年) 和歌山県有田郡有田川町歓喜寺字中越179
明恵上人 紀州遺跡 筏立笠塔婆 享和二年(1802年) 和歌山県有田郡有田川町歓喜寺字西原1103
明恵上人 紀州遺跡 糸野笠塔婆 康永三年(1344年) 和歌山県有田郡有田川町糸野字上人谷650-1
明恵上人 紀州遺跡 神谷笠塔婆 康永三年(1344年) 和歌山県有田郡有田川町船坂字聖人793-1
明恵上人 紀州遺跡 星尾笠塔婆 康永三年(1344年) 和歌山県有田市星尾
明恵上人 紀州遺跡 西白上笠塔婆 康永三年(1344年) 和歌山県有田郡湯浅町栖原
明恵上人 紀州遺跡 東白上笠塔婆 康永三年(1344年) 和歌山県有田郡湯浅町栖原
最初の訪問は2006年だったが、その頃は明恵について深い知識を持ち合わせていなかったので、紀州明恵遺跡のうち彼の生誕地付近(吉原と筏立)への訪問のみだった。今回は国史跡に指定されている7か所の塔婆を中心に訪問した。彼の世界観・人生観がなぜ生まれたのか、それがどのような修行やその後の宗教活動につながったのか、少しでも知りたいとの思いからの調査だったが、実に納得できる体験だった。
だが今回の調査で理解できたのは明恵の1%にも満たないと思っている。もっと深く知るには似たような場所で修行するしかないのだろう。自分で耳を切るのは難しいが。
■ 文化財建造物の指定告示文から 大野木康夫
1 「構造形式」の表現について
昨年末から収集している文化財建造物の指定告示文を眺めていると、「構造形式」の表現に興味がわきました。
一番最初の告示文は明治30(1897)年12月28日付け内務省告示第八十七号、当時の根拠法令は「古社寺保存法」、指定対象は44件の寺社の建造物ですが、その構造形式は色々な表記が混在しています。
パターン1 桁行〇間、梁間〇間
現在の表記と同じもので、建物正面の柱の間の数を桁行、建物の奥行きの柱の間の数を梁間で表現しています。
例
教王護國寺金堂 桁行七間、梁間五間、重層、屋根入母屋、本瓦葺
東大寺法華堂(三月堂) 桁行五間、梁間八間、禮堂、中堂、本堂ヲ連合シ、屋根本瓦葺
パターン2 〇間四方
桁行と梁間の柱の間の数が同じものを表現しています。
例
念佛寺本堂(愛宕念佛寺本堂) 五間四方、單層、屋根入母屋、本瓦葺
西明寺本堂 七間四方、向拜三間、屋根入母屋、檜皮葺
パターン3 〇間四面
いわゆる「間面記法」で、梁間二間の身舎(母屋)の四周に一間の庇が付く建物に対し、〇間(身舎の桁行)四面と表します。
しかし、この方法で表記されている3件(淨瑠璃寺本堂(九體寺本堂)、興福寺東金堂、唐招提寺金堂。觀心寺本堂は七間四方の誤記)はすべて桁行〇間、梁間四間の建築物で、間面記法であるとすれば左右の庇がありません。
例
淨瑠璃寺本堂(九體寺本堂) 十一間四面、向拜一間、屋根四注、本瓦葺
(正しくは桁行十一間、梁間四間)
唐招提寺金堂 七間四面、屋根四注、本瓦葺
(正しくは桁行七間、梁間四間)
觀心寺本堂 七間四面、向拜三間、屋根入母屋、本瓦葺
(七間四方の誤記)
パターン4 複合建築物
構成する建物を列記しています。
例
北野神社本社 拜殿、樂ノ間、石ノ間、本殿ヲ合セテ所謂八棟造、檜皮葺
平等院鳳凰堂 中堂、兩翼及後尾ヨリ成ル、中堂三間二面裳階アリ屋根入母屋、總本瓦葺
その他のパターン
楼閣
例
本願寺飛雲閣 三層閣、書院造、屋根杮葺
八角堂
例
法隆寺夢殿 八角圓堂、單層、本瓦葺
門
豐國神社唐門 四脚唐門、檜皮葺
法隆寺中門 四間二戸樓門、梁間三間、本瓦葺
塔
法觀寺五重塔(八阪塔) 五層塔婆、本瓦葺
法起寺三重塔 三層塔婆、本瓦葺
その後の指定告示に出てきた表記
方〇間
〇間四方と同じ意味です。
例
東大寺開山堂(良辨堂) 方三間、單層、屋根寶形
明治32(1899)年4月5日付の告示から塔の表記に柱間の数が加わりました。
例
大傳法院多寶塔(大塔) 二層塔婆、下層方五間、上層圓形、屋根本瓦葺
明治33(1900)年4月7日付の告示から入母屋造・複合建築以外の神社建築が加わりました。
例
神魂神社本殿(大庭大宮又神納神社) 大社造栩葺
明治34(1901)年3月27日付の告示で鳥居が指定されました。
例
氣比神宮大鳥居(赤鳥居) 四脚造
明治34(1901)年8月2日付の告示で三方庇の日吉造(聖帝造)の社殿が指定されましたが、間面表記法は不完全なままです。
例
日吉神社本殿 聖帝造、五間三面、單層、屋根入母屋、檜皮葺
(本来の間面表記法であれば三間三面のはず)
明治35(1902)年4月17日付の告示で石塔が指定されました。
例
般若寺塔婆(十三重石塔) 十三層石塔婆
明治35(1902)年7月31日付の告示で書院が指定されましたが、柱の間の数で表記されました。
例
南禪寺方丈(清涼殿竝虎之間) 正面九間、側面十二間、單層、屋根入母屋造、杮葺
明治41(1908)年8月1日付の告示で東照宮社殿、輪王寺大猷院霊廟が指定されましたが、離れた場所にある社殿も含め、一括して指定されました。
例
東照宮社殿
本殿、桁行五間、梁間五間、石之間、桁行四間、梁間三間、拜殿、桁行九間、梁間四間、權現造、唐門、左右瑞垣、神樂所、神輿舎、上社務所、陽明門、東西迴廊、鐘樓、鼓樓、本地堂、輪藏、上神庫、中神庫、下神庫、水屋、神厩、表門、五重塔、石鳥居、坂下門、奥社寶塔、唐門及拜殿、參道(石鳥居以内)、之レニ附屬ス
大正15(1926)年4月19日付の告示で長さ表記が取り入れられました。(茶室、書院等)
例
稲荷神社御茶屋 桁行二十三尺二寸、梁間二十六尺、單層、屋根入母屋造、上部棧瓦葺、腰迴檜皮葺、玄關、車寄之ニ附屬ス
昭和5(1930)年5月23日付けの告示から国寶保存法に基づく国寶の指定告示となりました。
昭和6(1931)年12月14日付の告示で長さ表記が尺貫法からメートル法と尺貫法の併記に改められました。
例
金澤城石川門 表門左右太鼓塀 左方塀延長四米八〇(一五尺八寸四分)、屋根鉛瓦葺
右方延長三米六〇(十一尺八寸八分)、屋根鉛瓦葺
また、「方〇間」という表記はこの昭和6(1931)年12月14日付の告示で最後となりました。
三重塔(𦾔燈明寺塔婆) 方三間、三層塔婆、屋根本瓦葺
なお、「間面記法」もどき(〇間四面、〇間三面)の表記は大正14(1925)年4月24日付の告示が最後となっています。
本圀寺經藏(輪藏)
三間、四面、單層、屋根寶形造、本瓦葺
また、メートル法と尺貫法の併記だった長さの表記は、昭和12(1937)年8月25日付の告示から、再び尺貫法表記に戻りました。
日中戦争が始まったのと関係があるかもしれません。
例
源敬公(德川義直)廟 築地塀 桁行延長七十一間、屋根銅板葺
最後の尺貫法表記の告示は昭和35(1960)年2月9日付の告示となります。
旧矢箆原家住宅 桁行七十六尺一寸、梁間四十三尺四寸、一重三階、入母屋造、茅葺、東面水屋附属
昭和36(1961)年3月23日付の告示以降はメートル法により表記されるようになりました。
開智小学校本館 建築面積五一一・九平方メートル、二階建、寄棟造、棧瓦葺、中央部八角塔屋附
おおむね、このような変遷となっています。
今月は、岐阜県の南宮大社(重文)、真禅院(重文)、名奈波神社(県文)、善光寺、岐阜東照宮です。
加えて飯野八幡宮(福島県 いわき市 重文)と境内社の若宮八幡宮(重文)です。
八幡宮は極彩色の蟇股が並びますが、蟇股の形式は福島県やその近辺県でよく見られた「蓑束式蟇股」です。
■人形がいっぱい??? 2023 =舞(蘭陵王)= 酒井英樹
3月3日は上巳の節句。
旧暦(太陰太陽暦「天保壬寅元暦」)の3月3日頃に桃が開花することから「桃の節句」、あるいは雛人形を飾ることから「雛祭り」と呼ばれている。
住宅事情もあって段飾りを飾る家が少なくなったという現在・・・内裏雛が主流の現在、雅楽に関係する我が家・・出番の少なくなった囃子方の『五楽人』を・・・昨年来・・雅楽人形として飾ってきた。
時折・・場所を変え・・・メンバーを交代させながら・・
『五楽人』(2022年3月撮影)
今年の上巳の節句にあたり『五楽人』に・・あらたに舞人を加えて飾ってみた・・。
『舞人』
演目は左方の楽(唐楽)・・「鳳笙」がかなでられる・・・の走舞、一人舞の『蘭陵王』
『五楽人』のため「鉦鼓」の演奏者がいないのは御了承を・・
【参考】「鉦鼓」
後方に鼉太鼓(だだいこ)も飾ってみた。
童舞の仕様の為・・素面に化粧を施され、頭に天蓋を付けて舞う童子
大人が舞う場合は舞楽面をつけて舞う
古舞楽面(室町時代)
図録『春日舞楽の名宝 舞楽面・舞楽装束・雅楽器』(春日大社)より
記憶ではわが家の納戸にも『蘭陵王』の舞楽面があったような・・探してみたが残念ながらすぐには見つからなかった。
その際見つかった『蘭陵王』???
一刀彫(戦後直後、桴は後補)
土鈴(宮島)
そして、旅先で見つけた『蘭陵王』・・・
宮島口(連絡船 広島県廿日市市)駅前のモニュメント
明治神宮宝物殿(東京都渋谷区)正門の『蘭陵王』の舞楽面をモチーフにした装飾
実際の舞姿
小倉神社(京都府大山崎町)
醍醐寺(京都府京都市伏見区)
藤森神社(京都府京都市伏見区)
氷室神社(奈良県奈良市) 南都楽所系
厳島神社(広島県廿日市市) 四天王寺楽所系
平清盛が大坂四天王寺から移入したとされる
我が家の近くの小さな稲荷神社の洞・・・そこで夜な夜な舞われる狐たちの舞楽・・それをイメージしてクレイアートで作ってみた・・
小さな石の舞台で篝火の光を浴びて狐の女の子が舞う童舞の『蘭陵王』・・『五楽人』ではなく鉦鼓も入った『六楽人(狐)』・・彼らの演奏もつけてみた。movie
造っているうちに・・思わず自分も舞ってみたくなり・・扇子を桴に見立てて久しぶりに舞ってみた・・
だが、五十肩で思うように腕が上がらず・・膝のケガが原因で体幹が崩れへっぴり腰に・・仕舞には舞の動作を度忘れしてしまう始末・・とても舞えたとは言えない.
日頃の不精進が今になって悔しい・・。悔い改めて来年には納戸にあるであろう面をつけもう一度きっちりと舞ってみたが・・できるかなぁ???
■ 九州大学跡地に残された建築遺産を訪れてみる 田中康平
九州大学が糸島に移転した後、福岡市内箱崎の跡地には一部の建物が残り、近代建築遺産として国の登録有形文化財に登録保存される(2022年11月答申)というので見に行ってみた。
1925年に建造された赤レンガ造の本部第一庁舎(旧九州帝国大学本部事務室棟)と1930年に建造された鉄筋コンクリート3階建ての工学部本館(旧九州帝国大学工学部本館)などが保存されていて、後者は九大総合博物館として整備運用されつつあるようだ。現在は1階の一部と3階の一部(常設展示室)が公開されている。中に入ると1階廊下にアンモナイトや鉱物展示などがあり、3階常設展示室には福岡市内を走る警固断層の剥ぎ取り標本や岩石標本、化石標本、出土した縄文・弥生人の人骨標本など興味深い展示があるが、量的にはまだ少ない。
建物の設計は本部第一庁舎、工学部本館いずれも当時九州帝国大学の職員である建築課長で講師(後に助教授)の倉田謙だった、建築学科は未だ置かれていなかった、という(wikipedia
による)。そういう時代だったようだ。
箱崎の九大というと学生闘争が盛んな1968年6月に米軍のファントム機が墜落したことでも記憶にあるがその現場となった研究開発センター(当時の建築中の大型計算機センター)も取り壊されている。更に、近代化産業遺産群に認定されていた5つの建物(旧工学部本館、旧工学部応用物質化学機能教室、旧工学部超伝導システム科学研究センター、旧道路工学実験室、旧工学部航空工学教室)も旧工学部本館だけが保存され他は解体撤去されたようだ。古いものの保存には限りがあると思い知らされる。
添付写真は順に 01:地図、02、03:本部第一庁舎、04,05,06,07,08工学部本館及び入り口付近、09、10:1階展示品の状況、11:階段、12,13:常設展示品の一例
■野木町煉瓦窯(旧下野煉化製造会社煉瓦窯) 川村由幸
栃木県野木町にこんな産業遺産があることを知りませんでした。すぐ傍の古河公方公園には幾度も撮影に出かけているにも係らず、県が違うことで情報を得ることが出来なかったようです。
早速、撮影にでかけました。(野木煉瓦窯のパンフレット)
煉瓦窯とは文字の通り、煉瓦を製造するための焼成炉です。現存する焼成炉は1890年(明治23年)6月に稼働開始したホフマン式輪窯です。
なんともカッコいい姿の産業遺産ですよね。巨大な煙突を中心としたシンメトリーな姿は威厳さえ感じます。
煉瓦で作った炉で煉瓦を焼成していたというわけです。
確かこれと同じ形式の煉瓦窯が渋沢栄一ゆかりの深谷市にもあり、今は修繕補修工事中で見学が出来ないようです。
炉の内部も全て煉瓦です。この炉は16室に分割されていて、焼成工程を順繰りに繰り返してゆく方法で製造していました。(詳細はバンフレット参照)
階段で焼成炉の上部に昇れ、ここも見学できます。中央を貫く六角形の煙突を間近に見ることができます。
二回に昇ると炉全体を見渡すことが出来、その巨大さを実感できます。現在はいろいろな産業で炉は使用されていますがこれほど大型の炉はないのではないでしょうか。
見学を終え、この産業遺産が重要文化財に指定されていることを納得もし、建造物としてみても十分価値のあるものだと感じました。
今は見学できない深谷市の煉瓦窯にも出かけてみたいとの思いが強くなりました。
■「言葉のあぶく」その8 野崎順次
25年くらい前から、おもしろかった話や、ふと思いついたことをメモしています。
近鉄電車の特急に乗ったら、ネッカチーフとタイトスカート着用の中年女性職員が回ってきた。キャビンアテンダント(CA)のごときおしゃれな職名があるのかなと思い、聞いてみると、単に「車掌です。」とのこと。
街並み撮影のため、ある城下町に行った。酒類が飲みたくなったが、近所に居酒屋もコンビニもない。やっと酒屋があったが、手軽の飲めそうなのは、ワンカップ大関だけである。ところが古いから無料でよいという。濁ってないから大丈夫ともいう。せっかくだから飲んだが、異常なかった。ちなみに賞味期限は5年前に切れていた。撮り残しがあったので、1週間後にその城下町を再訪して、まったく同じ状況になり、無料のワンカップ大関をまた飲んだ。
関東で十数えるのに「だるまさんがころんだ」というが、関西では「ぼんさんがへをこいた」という。
京都のある店で買い物をしたら、おつりが400円ちょっとだった。
店員「あと100円だしたら500円玉が渡せます。」
私「なんで俺が500円玉貯金をしてると分かった?」
店員「何となく雰囲気で」
私「この間、豚の貯金箱がいっぱいになって数えたら18万円あった。」
店員「私のお父さんはブリキ箱に500円玉を貯めて、40万円になったので、ハワイに行きました。」
加齢のため記憶力が減退したので、「ごま豆乳仕立ての」DHAドリンクを飲み始めた。毎日125mlパックを一つ飲むのだが、よく飲み忘れる。
ダーティージョーク
今回は「あぶく」が少ないので、おまけに超辛口のダーティジョークを翻訳した。かつてはブラックジョークと言っていたが、黒人の差別につながるので、ダーティージョークの方がよいとのこと。
我が家の裏庭を掘っていたら、手のひらいっぱいの金貨が出てきた。すぐに女房に知らせなくてはと思った時、何のために掘っているのかを思いだした。
ある男にマッチをあげると、しばらくは暖かく過ごせるだろう。でも彼の身体に火をつけると、死ぬまで暖かい。
電気椅子に座った死刑囚に牧師が尋ねた。「最後の頼みがありますか?」
死刑囚は答えた。「どうぞ私の手を握っていてください。」
僕はおじいさんの最後の言葉を忘れない。「はしごをしっかり持っているか?」
スカイダイビングにパラシュートは必要ありません。2回するなら、必要です。
■キンピラゴボウ 柚原君子
お弁当箱のふたを開けると、真っ白なごはんがびっしり詰まっているだけで、おかずは何もなかった。私はあせってしまった。
高校に入学して初めてのお弁当の日、友達もまだできず、おかずを分けてもらうこともできない。それよりも貧しそうに見えて恥ずかしかった。とにかく少しだけでも食べて早々に箸を置こうと白いご飯をひとすくいしたら、一番下からお肉の塊が出てきた。やられた!と思った。
またある日は、大きなおにぎりの中から小紙片。何が書いてあるのかと広げているうちに、級友たちが寄ってきた。「またいたずらされたの? 今日は何? クイズ? それとも説教?」。
★
私の実家は墨田区業平橋のバス停前で大衆食堂をしていたので、調理場にいる父が子どもたちのお弁当を作ってくれていた。
父が作るお弁当だから雑だったが、何かしらのいたずらが隠されていて、口では「恥ずかしいから普通のお弁当を作ってね」と言いつつも、学校で開けてみるのは楽しみだった。
★
小さな大衆食堂だったので家族用のリビングはない。お店が空いた頃を見計らって,子どもたちは「今のうちに夕ご飯を食べろ~!」と呼ばれる。子どもたちはお店に坐りメニューを見て夕食を注文する。妹は「鯖の味噌煮とトマト」、弟は親子丼に大根おろしシラスかけ」、私は「天ぷらと菠薐草おひたし」等と口々に言う。それなりの小盛りの分量で出てくる。母が運んでくれる。その後は母も時間を経て,メニューで頼んで夕食をする。父は調理場を出て住まいである二階に上がる階段の下で夕食を摂る。摂る最中にお客さんから注文が入るとそれを作りに調理場に行く。ごはんの途中でも。
★
ある夜、ご飯の上に箸を乗せたままの父の夕食が階段の脇に置いてあった。
食べ始めたもののお客さんが入ってきたので中断したのだろう。父は調理場で威勢のいい音を立ててチャンナベを振り回して野菜炒めを作っていた。
父のおかずはキンピラゴボウだった。私と弟にある考えが浮かんだ。洗濯籠の中に父のベルトがあった。長年の愛用品でベルトの先がぼろぼろになっていて、そして見事にキンピラ色だ。常日頃の父のいたずら弁当のお返しとばかりに、私と弟はハサミを持ってきてベルトの先を細く切った。そして……父のキンピラゴボウに混ぜた。見事にマッチした。何処にベルトの切りくずが隠れているのか解らなかった。
私と弟は期待に胸弾ませて、階段の上から父のキンピラゴボウを見つめていた。
一区切りついた父が戻ってきて、ヨッコラショと座り、新聞を読みつつご飯を食べ始めた。キンピラを口に入れた。
動きが止まった。口の中から何だこれは……と出しつつ私たちと目があった。
「何かしたなぁ~お前たち!」
「いつもお弁当にイタズラされるからそのお返しだよ」と弟が言った。
「たわけんとらぁめ!」
馬鹿なやつらめ……と父が名古屋弁で言った。
父は口の中から出したものをしげしげと見て「ベルトを切ったのか」と言った。父はお茶で口をすすぎ
「たわけめ!あのベルトの先は、俺が便所に入るときにいつも前に垂れ下がってしまって、おしっこが染みているところだぞ!」
おしっこが染みているところがキンピラに!私と弟は畳の上を転げまわり涙が出るほど大笑いをした。
★
子どもたちをユーモアたっぷりに、おおからにゆっくりと育ててくれた父が逝ってから、片手で指折り数えても足りない十何年の月日が過ぎた。
我が家で時折キンピラゴボウを作る。会いたいなぁ、と思う。
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