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Monthly Web Magazine   Aug. 2023


■■■■■ Topics by Reporters

■蟇股あちこち 40 中山辰夫

先月に続いて大阪府内の社寺です。聖徳太子と関りの深い「四天王寺」・「叡福寺」と勝鬘院・交野天満宮・片埜神社・春日神社です。


四天王寺は最古の寺院、空襲で被災した後、コンクリート造で復元されており、飛鳥様式の建築が見られます。
「雲斗」、「雲肘木」、「人字形蟇股」、「叉首」、「卍崩し勾欄」、「間斗束」、「扇垂木」、「エンタシス円柱」、「しろこ葺屋根」、などに出会えます。

四天王寺
大阪市天王寺区四天王寺1-11-18

四天王寺は聖徳太子が593年に建立した日本仏教最初の官寺です。戦災で殆どが焼失し,昭和に鉄筋コンクリート造で再建されました
   
四天王寺の伽藍配置は南から北へむかって中門、五重塔、金堂、講堂を一直線に並べ、それを廻廊が囲む形式で「四天王寺式伽藍配置」と称されます。
総面積約11万㎡の広大な敷地内に、伽藍のほか、聖徳太子の御霊を祀る聖霊堂などが建っています。
毎月21日の縁日には、JR天王寺駅近くの商店街から、境内に多くの出店が並び、今も信仰篤い人々が参詣に来られています。

蟇股を軸に巡ります。
コース1
 

■石鳥居 国重文 建立:1294 石造明神鳥居、島木木製銅包、貫柱間、額束及び額銅製
   
もとは木造とか、1294年(永仁2 鎌倉時代>に石鳥居に改められました。9

■手水舎・見真堂
      

■西大門 (極楽門) 創建:593 再建:1962 (松下幸之助が寄進) 極楽浄土への入口とされ、極楽門とも呼ばれています。
     

これより伽藍に入ります。伽藍は北から講堂、金堂、五重塔、中門(仁王門)が一直線に並び、廻廊が金堂と五重塔を囲みます。
コース2
   

■中門(仁王門) 三間一戸 八脚門、入母屋造 段差を付けて瓦を葺く「しろこ葺」 一軒隅垂木 棟上に鴟尾を載せる。 
     
創建位置に鉄筋コンクリート造で復元されました。雲斗など全体に意匠は飛鳥様式です。上部は単層です。
四天王寺中心伽藍の入り口となる門。
中門の両脇には伽藍を守護する金剛力士 (仁王像)が安置されており、一般的には仁王門とも呼ばれます。
寺社の正面玄関に相当します。日本相撲協会の寄進です。

□中門の軒裏 飛鳥様式
 
雲肘木、柱の胴張、皿斗などに飛鳥の特徴が出ています。垂木は丸で、扇垂木(隅の垂木が放射線状)となっています。法隆寺の垂木は四角です。

□参考 しころ屋根
 

■西重門
   
中心伽藍への入口です。ここで拝観料を納めます

■廻廊
     
仁王門から講堂まで、五重塔と金堂を取り巻いています。柱はエンタシス様式。四面に四天王寺の梵字をあしらった金色の豪華な灯篭を吊るしています。

■五重塔 国登録文 再建:1959 8代目 鉄骨鉄筋コンクリート造 瓦葺 壁画に仏画がみられます。五重目まで階段で登れます。
     
台風で倒壊 搭高約37m。外観は飛鳥様式を基本により古い形態とされています。屋根の勾配が緩やかです。 設計:藤島亥治郎

■金堂 国登録文 再建:1961 入母屋造 上下二重 しろこ葺 鉄筋コンクリート造 
    
外観は法隆寺金堂に似るも裳階なし。中門、講堂と同様しろこ葺です。
高さは法隆寺の塔と金堂の関係に倣い、外観は法隆寺金堂を基本として、より大陸的で直線的な構成のされました。
発掘成果に基づき古代寺院の姿を復元した初例とされます。

□軒裏と高欄
 
勾欄の造形が飛鳥様式です。卍崩しも胡真っ赤な処を丁寧に再現されています。

■講堂 再建:1963 鉄筋コンクリート造 一重 入母屋単層 しろこ葺 
  
金堂に比べて柱が細く、胴張弱いのは初唐様式を参考に差別化したことによるとされます。古代寺院の姿を復元した初例です。

■東重門 中心伽藍の東側の入口の門です。西重門と対になっています。普段は閉門です。
  

■参考
伽藍内を終了とします。
法隆寺伽藍と四天王寺現伽藍とに共通する細部として、雲形斗栱・皿斗・卍崩し勾欄・エンタシス付円柱があります
これらはいずれも中国の南北朝時代またはそれ以前に使用されていた様式との資料があります。
 

コース3
 

■亀井不動尊と龜井堂
      

■太鼓楼 建立は1984年です。
     
北鐘堂と相対峙して、伽藍の両耳を成しています。毎月21日に開堂されます。

■北鐘堂
   
四天王寺中心部にある太鼓楼と対の位置にある鐘楼です。石舞台で天王寺雅楽を舞う時に鐘を鳴らすお堂です。

■楽屋・御供所
     
毎年4月22日の聖徳太子の命日におこなわれる聖霊会(ショウリョウエ)では石舞台で「雅楽」「舞」が行われます。その雅楽を演奏する場所です。

コース4 少し戻ります 
 

■龍の井戸
     
聖徳太子が仏法の邪魔をする龍を封じ込めたと伝わります。この井戸は、金堂本尊基壇下にある菁龍池を水源とし、龜井水に導かれる霊水です。
龍の影が映るとされる天井には龍の絵が描かれています。覗いて水面に映る龍に祈れば厄災を除くと信じられています。現在も湧出でています。

コース5
 

■番匠堂 大工道具で描かれた南無阿弥陀仏の幟
    
聖霊院の猫の門前にあるお堂。聖徳太子は大工技術の始祖として番匠(大工)から崇拝され、金尺をもった聖徳太子像が祀られています。金剛組が寄進

■聖霊堂(しょうりょういん) 聖徳太子の霊廟です。中心伽藍の東側に位置します。
聖霊堂は二つの門を有しています
□猫の門 再建:1979年 空襲で焼失した以前の猫の門に彫られていた猫の彫刻は左甚五郎の作であったとされます。
   

□虎の門 再建1979年
      

□聖霊堂  再建:1954 入母屋造 妻入り 
    

□向拝
    

□蟇股 正面・背面・背面拡大
         

□奥殿 再建:1979年 平面は完全な円形
 

聖霊院唐門と太子井戸屋形
 

■聖霊院唐門 国登録文 建立:1808 木造平屋建 四脚門 切妻造 唐破風付 銅板葺(元は檜皮) 二軒垂木 桟唐戸 禅宗様の意匠 
禅宗風の衣装と蟇股等の精巧な彫刻で格式高く、飾っています。徳川家康を合祀した用明殿の正門として建築されました。
□正面側
      

□背面側
     

■太子井戸屋形 竜の彫刻や彩色された植物や流水の彫りが見ものです。
        

コース6
 

■南大門と南鐘堂

   
コース7
 

■六時堂 国重文 創建:816 再建:1623 桁行七間 梁間五間 切妻造 平入 本瓦葺 正式名:六時礼讃堂

      
昼夜六回にわたり緒礼讃することからこの名が付きました。

□細部
   

石舞台 国重文 創建1623 再建:1808 長方形 楯20m余、横10m余、200㎡ 石橋及び石造高舞台 木造高欄付 徳川家康寄進
     
六時堂の手前の「亀の池」の中央にあります。石舞台は「日本三舞台」の一つ(他は住吉大社の石舞台、厳島神社の平舞台9

コース7
 

■英霊堂
     

■大黒堂
    

■元三大師堂
   

□蟇股
     

コース 8
 

■本坊西通用門 国重文 建立:1623 四脚門、切妻造、本瓦葺
  

□蟇股
     

■五智光院) 国重文 再建:1623 桁行七間、梁間三間、一重、入母屋造、向拝三間、本瓦葺
    

□五智光院の入口
 
本坊の南西に建つ正門。向唐門本瓦葺で元桧皮葺。格天井とし、禅宗様を基調としています。徳川歴代将軍の霊牌を祀る五智光院の正門として建築された。

虹梁上の霊廟守護の雲流彫刻、扉の三つの葉葵紋透彫り、錺金具を施すなど格式が高いです。


1603 叡福寺 聖霊堂
大阪府南河内郡太子町2126

叡福寺は聖徳太子の御廟を守る、四天王寺、法隆寺とならんで、太子信仰の中核となった寺院です。太子宗の本山。
聖徳太子ゆかりの寺として歴代の天皇や権力者に重んじられました。嵯峨天皇、清盛、空海、親鸞、日蓮、一遍などが参籠したとされます。
創建年代については諸説あります。推古天皇が土地建物を寄進し、墓守の堂を建てたのが始まりとされます。
1574年の織田信長の兵火で、古代の建物は残っていませんが、豊臣秀頼が復興し、1603年に聖霊殿が再建され、1615年までに復興されました。
現在の境内伽藍は江戸初期以降のもので、聖霊殿と多宝塔が国重文です。境内に聖徳太子の廟があります。
      

■南大門 再建:1958 三間一戸 八脚門 入母屋造 本瓦葺 扁額「聖徳廟」は岸信介元首相の筆。
□正面側

         


□背面側
     
中備に蟇股「正面・背面」 中備は間斗束もあります

■手水舎
    

■本堂に向かって右側には諸堂が並んでいます。
  

■客殿
   

■念佛堂
    

■弘法太子堂 方三間 宝形造 本瓦葺 一間向拝付
 

■見真大師堂
          

■多宝塔 国重文 国重文 再建:1652 三間多宝塔 本瓦葺 折衷様 江戸の豪商三谷三九郎により再建
     
左右の柱間二は連子窓 蓑束も配されています。

□蟇股は中央の桟唐戸の上、四面に配されています。当初は極彩色
     

■金堂 大阪府指定有形文化財 -再建:1732年 桁行五間 梁間四間 入母屋造 本瓦葺
      

□細部
     
中備は大瓶束、板蟇股 側面に連子窓、その虹梁の中備に板蟇股 

■聖霊堂(太子堂) 国重文 再建:1603 桁行三間 梁間五間 向拝一間 入母屋造 本瓦葺 南面突出部 桁行三間 梁間二軒 入母屋造 本瓦葺 
      
内部には鳥羽天皇から下賜された聖徳太子像が祀られています.L字型の特異な平面です。虹梁中備は蟇股 彫刻は唐獅子、花も彫られています。

■鐘楼 大阪府指定文 1603年頃の再建
   
聖徳太子御廟
■二天門
    
入口には二天門が南面して建っています。切妻造 本瓦葺です。1688年に再建されました。

御廟はその先にあります
■聖徳太子廟 「磯長墓」 宮内庁の管轄です。
  
考古学的には「叡福寺北古墳」と呼ばれています。拝所は墳墓の南斜面に造られています。
聖徳太子は622年に薨去し、その直前に亡くなった母と妃と共に内部の石室に埋葬されているとされます。
□細部
         

□向唐破風
   
虹梁木鼻は唐獅子の頭の彫刻、組物は三斗 中備は 波間を飛ぶ竜の彫刻 妻飾りには阿弥陀三尊ともおもわれる仏像の彫刻 兎毛通は菊の彫刻

 


1597 勝鬘院 (しょうまんいん) 多宝塔
大阪市天王寺区夕陽ケ丘5-36

寺伝によれば、当寺は聖徳太子が開いた四天王寺にある敬田院、施薬院、療病院、悲田院のうちの施薬院に始まると伝えられます。
この施薬院の本堂に勝鬘夫人の像が祀られており、また聖徳太子が勝鬘経を講ぜられていた事から施薬院は勝鬘院とも呼ばれました。
平安時代以降は金堂の本尊として愛染明王が祀られるようになると、勝鬘院は愛染堂とも呼ばれるようになりました。
1570年から80年の、織田信長と大坂本願寺との石山合戦で伽藍を焼失、1597年に豊臣秀吉により伽藍が復興されました。
1615年の大坂夏の陣では戦火を免れました。金堂は1618年に徳川秀忠が再建しました。

■多宝塔 国重文 再建:1597 三間多宝塔、本瓦葺 銅銘版1枚 大阪市内最古の木造建築物 画像は1936年撮影されたものの引用です。
     

□細部
       
もともと彩色が施されていました。剥離していますが片鱗が伺えます。

□蟇股
多宝塔の初重四方に十二支入りの蟇股が並びます。 十二支としては現存最古の装飾彫刻です。十二支が建築彫刻に使われるのは桃山以降ことです。

配列
 

□撮影分です。 寅・卯・辰・巳・牛・亥・酉・丑 上手くうつせません
        

1936年に撮影された画像を引用させて頂きます。
              
「酉」と「巳」については表面と裏面を並べています。表と裏がまるで別のものが彫られています。

■金堂 大阪府指定文化財 再建:1618 徳川秀忠により再建
  





1402 交野天神社 本殿
大阪府交野市樟葉丘2-19-1

『続日本紀』及び『岩清水神宮 縁起』によると、桓武天皇が787年、交野に父光仁天皇を祀るための郊祀壇を設けたとあり、ここがその地とされています。
境内には原生林が生い茂っています。本殿の北東に貴船神社の末社があります。この場所は継体天皇の樟葉宮跡と伝えられています。
神社の境内一帯は1984年に枚方市から「枚方八景」の一つ「樟葉宮跡の杜」に指定されました。
現在の本殿は何回もの修理を経ていますが、鎌倉時代から室町時代に書けての様相が観られます。
交野天神社本殿に隣接して末社八幡神社本殿が並んで建っています。いずれも国重文指定です。
    

2005年から2005年に修理保存工事が施されました
 

本殿 国重文 建立:1402 一間社流造 身社側面一間 桧皮葺 本殿
     
全体の外観は鎌倉時代の様式を残しています。

本殿西面妻飾・組物詳細
 

本殿欄間(身舎正面欄間) 上段:修理前 下段:修理後
 

蟇股 配置

蟇股は向拝と身舎のまわりにあります
蟇股などの彫刻は、繊細で美しく、室町時代初期の特色を備えています。蟇股の透彫刻モチーフは、身舎東間が「蓮+宝珠」、同中間間は「橘」、同西間は「椿」
庇中央間は「龍蛇神徳も」、同西間は「椿」とされます。歯・九鬼・龍は緑青色、枝は灰色、ツバキの花葉赤色、ハスの花は桃色
西側面蟇股 現在~竣工時~修理前
   

正面蟇股 現在~竣工時~修理前
   

西妻大蟇股 現在~竣工時~修理前
   

東妻大蟇股 現在~竣工時~修理前
   
向拝の蟇股
 

末社八幡神社も2005年から2005年に修理保存工事が施されました
 

末社八幡神社 国重文 一間社、身舎側面一間、浜床付、流造、檜皮葺
    
交野天神社本殿よりやや小ぶりですが、応永頃の建築と考えられます。両社とも室町時代中期(1402年頃)に遡る枚方市内の古建築としては最古のものです。

本殿欄間(身舎正面欄間) 上段:修理前 下段:修理後
 

向拝の蟇股
   


1602 片埜神社 本殿 
大阪府枚方市牧野阪二丁目21-15

古来より牧の郷の一宮として崇敬されてきた神社とされ、延喜式内社です。社殿は14世紀前半に動乱で兵火にかかり社殿を焼失したとされます。
室町中期に再建された社殿も戦国時代後期の天文・永禄年間頃に再び焼亡したと伝えられています。
現在の社殿は、大坂城から見て鬼門に当たるため、慶長7年(1602)に豊臣秀頼が片桐且元を奉行として造営したものであり、この時の棟札が残されています。

■鳥居~拝殿 南門は府指定文化財 
      
別に東門があります(府指定)黒門。室町時代に作られたもので、鎌倉時代に武家や僧侶の屋敷に使用された棟門の貴重な遺構とされます

■本殿 国重文 再建:1602 三間社流造 桧皮葺 極彩色
     
細部に至る間で桃山時代の華麗な様式を示しています。 珍しい平面構成や慶長期の力強い造形に大きな特徴があります。

□細部
     
2009~11年に檜皮葺根の葺替、彩色の塗装が行われ、朱彩色に極彩色の社殿がよみがえりました五三の桐もえがかれています。

■蟇股
□向拝の蟇股
   
「竹に虎」 「芙蓉にせきれい」 「椿にひよどり」など、絵画的で精巧な彫刻が揃い見応えがあり、時代の特色が現れています

□本殿の蟇股 順不同
        
四面を飾っています。正面は中央・左右とも牡丹、背面は中央に椿、左にかきつばた、右に菊、東妻は太閤桐、西妻は栗などが彫られています。

□身舎東妻
   

■末社
  


1884 末社春日神社
大阪府枚方市茄子作三丁目15-26

枚方市の南部、茄子作の住宅地の中心に古墳跡らしき小高い所がありそこに鎮守の社があります。
厳島神社の右側に建っています。

■拝殿
     


■本殿 国重文 移築:1884 一間社 身舎側面一間 流造 桧皮葺 本殿は厳島神社の旧本殿を移築
     
幕末の頃に良春日大社の旧殿を厳島神社本殿として譲り受けた際、先の厳島神社本殿を移築したものです。
建立年代については資料がなく明らでないですが、交野神社本殿と共通する様式も見られ、概ね室町時代中期から後期と推定されます。
庇まわりや造作などは後世に改修されていますが、主体はよく残っており、細部の意匠も優れた貴重な遺構です。

社殿は大阪府下の南部とは異なった特色があるといい、こうした地域的特性を背景に建立された建築としても貴重な文化財とされます。
 

蟇股
向拝の中央部に配されています。
   


 

 

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