JAPAN GEOGRAPHIC

Monthly Web Magazine  Aug. 2023


■■■■■ Topics by Reporters

■ 夏のあがりこ大王   瀧山幸伸

8月3日、新潟の長岡花火を撮影してから山形に入り、5日の酒田花火を撮影するまで時間があるので涼しい所に行こうかということになり、鳥海山麓の秋田県側、にかほ市の獅子ケ鼻湿原を訪問した。

以前同じ時期に訪問した折、鳥海山の雪解け水のおかげで水面から霧が出るほどひんやりしていた記憶があった。実際、下流の水田に引く水の水温を高めるための上郷の温水路群は県の文化財に指定されているほどの水温が冷たい地域なのだが。

 

いざ獅子ケ鼻湿原に入ってみると、水音はいつもと変わらないのだが、とにかく蒸し暑くて、冷気を求めるどころか汗だくになってしまった。湧水付近に密集していた天然記念物の蘚苔類も鮮やかさを失って茶色に変わっているものが多かった。ここでも温暖化の影響が出ているのだろう。

 

あがりこ大王をはじめとする奇形ブナの森は以前と変わらなかったが、科学者は22世紀には世界的に見ても貴重な国内のブナ林の多くが失われると警鐘を鳴らしている。

 


■  久しぶりの撮影 大野木康夫

5月末に興福寺五重塔を撮影に行った後、家内が両足首を負傷(骨折と靱帯損傷)して動けなくなり、休日は家事に専念していましたが、ようやく伝い歩きができるようになってきたので、約2か月ぶりに撮影に行くことができました。
行ったのは東近江中部、午前中にできるだけ多くの文化財建造物を撮影しようと計画しました。
この間、還暦を目前にして五十肩の症状が出てきて、腕を後ろに振ると痛みますが、幸いなことに上にあげることはできるので、差し上げ撮影も問題なく行うことができました。

浄厳院(5:30~6:00)
   

沙々貴神社(6:00-6:30)
   

超光寺(6:47~6:52)
 


伊庭御殿址・望湖神社(7:05~7:24)
  


大浜神社(7:40~7:50)
 


五箇神社(8:08~8:32)
 


八幡神社(8:46~9:00)
 


豊満神社(9:13~9:24)
 

建部日吉神社(9:49~10:13)
 


布施神社(10:32~10:45)
 


雨神社(11:00~11:08)
 


高木神社(11:26~11:39)
 

13箇所で撮影して昼食までに家に帰りました。
家に帰ってLightroom Classic で現像していたら、パソコンのCドライブの容量不足で、10枚くらいづつしか現像できず、苦労しましたが、久しぶりの撮影、現像は楽しかったです。
今後も、仕事の関係であまり平日は休めないので、週末は1月に1回くらいは撮影に行けるよう時間調整をしたいと思います。


■ 蟇股あちこち40  中山辰夫

先月に続いて大阪府内の社寺です。聖徳太子と関りの深い「四天王寺」・「叡福寺」と勝鬘院・交野天満宮・片埜神社・春日神社です。

 


■今月はニャンコ 酒井英樹


 かなり以前のことだがWEB-MAGAZINE2022年1月『虎 時々 彪(ヒョウ)?・・・所により、猫??でしょう・・』にて重要文化財建造物内の「虎(あるいは彪)」の彫刻を羅列したとき宿題としていた「猫」の彫刻。
 犬と同様に身近な動物の猫・・重要文化財建造物内にある彫刻としての猫を探してみた。
 
 今更ながらと思われるが、宿題の回答・・。
 2002年1月号に記載した写真は92枚、その内、虎と豹以外は1枚のみ
 久能山東照宮(静岡市)玉垣に麝香猫(ジャコウネコ)が写っている。
麝香猫(久能山東照宮玉垣)
 

 だが、麝香猫は生物学上「ネコ科」に属さず「ジャコウネコ科」に属す。
 そのため、生物学上「ネコ科ヒョウ属」に属する虎や彪の方が猫に近い。
 よって猫は0匹???・・それとも・・猫と呼ばれているのだから猫として1匹・・
 答えは読み手の皆さんの判断で・・

 今回、重要文化財建造物内にある猫の彫刻を列挙しました。

 「猫」の彫刻で最も有名なのは、
日光東照宮(栃木県日光市)の 『眠り猫』
 


 徳川家康が眠る奥社入り口にあたる坂下門に入る手前にある東回廊の中備(蟇股)にある。

日光東照宮坂下門
 


家康が眠るとされる日光東照宮奥社宝塔
 

一説では、駿府で死去した家康の亡骸は久能山(静岡市)に埋葬されたのち、日光には名義のみ移設して亡骸は久能山東照宮宝塔の下に眠っているとされる。

久能山東照宮宝塔
 

 眠り猫は平和の象徴と言われている。
 正面から見ると一見眠っているように見える。神聖な家康の墓に不審者(ネズミ)が入らないように見張っているのだが、何事もなく平和な日常に眠っているといわれている。
 しかし、角度を変えると前足を整え今にも飛び出しそうにした姿勢で、眼下ににらみを効かせるような姿とも言われている。
眠り猫(別角度)
 


一方、「眠り猫」の裏の蟇股彫刻は2羽の雀が戯れている姿を示している。
眠り猫の裏側にある雀遊興の蟇股彫刻
 

これは、平和な世界で猫が雀を狩る必要がなく(飢えることがなく)、自分の役目を全うしていることを示しているとされている。

 日光の「眠り猫」があまりにも有名すぎて、他の彫刻が浮かばないかもしれない。
 だが、探してみるといくつか存在する。

 実はもう一つ「眠り猫」が存在する。

 紀州東照宮(和歌山市)
本殿、石の間、拝殿
 

 紀州東照宮は徳川家康の10男で紀州和歌山徳川藩初代藩主の徳川頼宣が家康の死の5年後の元和7年(1621)に建てられたとされる。
 彫刻があるのは西瑞垣の中にある潜門の蟇股。
  

 西瑞垣の建立時期は本殿などと同じ元和7年、日光東照宮が現在の形になったのは家光時代のであり、こちらが古くなる。
 しかし、日光の眠り猫の姿は古来からの純粋な和猫(日本猫)・・現在の猫ではあまり見かけない姿を現しているが、紀州東照宮の眠り猫はどちらかと言えば親近感のある猫の姿を示している。後補の作とされている。
 ちなみにこちらの蟇股の裏には何も彫刻はない。

 続いて、紀州東照宮の隣にある和歌浦天満宮(和歌山市)
 こちらは、紀州徳川家が入府する前の浅野藩初代浅野幸長が自身の祖とする菅原道真をまつって建てた神社。
 

 本殿背面の蟇股に猫の彫刻がある
 

大崎八幡宮(宮城県仙台市)拝殿
 

 内部にある猫の彫刻
 


妻沼歓喜院(埼玉県熊谷市)聖天堂
 

 猫の彫刻
 


神部神社・浅間神社(静岡市)
 日光東照宮『眠り猫』に対して対となる猫がいる。
 舌を出して猫の顔を洗う習性を表しているので『目覚めの猫』と呼ばれている。

神部神社・浅間神社拝殿
 


 拝殿内部にある蟇股彫刻『目覚めの猫』
  

 最近、一部のテレビ番組で取り上げられて、知る人ぞ知る存在になったが、残念ながら拝殿内部にあり一般に公開されていない上に、今年の夏から大拝殿の修理が始まるためしばらくは見ることができない。


 以上、知る限りの重要文化財建造物内の「猫」の彫刻を紹介しました。
 重要文化財建造物以外の猫の彫刻として

 四天王寺聖霊堂 猫の門 蟇股彫刻(戦災焼失後再建)
 


 他にあるかもしれません。
 猫に関するもう一つの宿題もあることで・・続きは次回?・・もしくはいずれまた・・



日田祇園祭バスツアー雑感  田中康平 

コロナ以来、歳のせいもあるのか出不精になっていて、せめても、とバスツアーなどを利用することが増えている。7月は日田祇園祭の山鉾集団顔見世に行く日帰りツアーに博多駅前から参加したが、それなりに色々感じるところもあった。まずは、全国旅行支援だ、まだ使えてツアー料金が2割くらい安くなりおまけに2000円分のクーポンが付く。フーンという感じだ、今月行く別のツアーでもまだ使えるようでこんな制度は一度始めたらやめられなくなるようでもある。今回のツアーでは目玉の集団顔見世が夕方なので、それまでに近くの慈恩の滝湯布院に寄るスケジュールになっている。このエリアは7月初めに豪雨災害があったばかりの場所になっていて、その意味でも観光が復興支援になればとも思う、これくらいならできる。慈恩の滝は日田市と玖珠町の丁度境目にある、本来は滝の裏を見たり上段部を見に行ったりする遊歩道を歩けるはずなのだが2020年7月の大雨災害以来立ち入り禁止になっていて滝つぼから眺めるばかりだ。滝があるような地形は災害も多そうではある、行政の境目では災害対応もめんどくさいのではないかとも思ってしまう。ともかく国道120号線のすぐ脇で豪快な滝の割にアクセスがいい。湯布院で、4時前なのにと随分早い夕食を取る羽目になった後日田駅前の集団顔見世に向かう、夕方の祭りは食事が難しい。駅前から少し離れた文化会館前で下ろされて8時にこの場に再集合といわれて一旦解散する。10年以上前に宇都宮から行った秋田の竿灯のバスツアーも同じような感じで現地再集合だったが初めての場所で暗がりの中全員良く戻れると感心した、ここもそうだ、外国ではこんなやり方は成り立ちそうにない。これもこの国の文化なのだろう。集団顔見世のほうは、秋田の竿灯のような曲芸はなく博多の山笠の様な殺気もない、のんびりしている。
帰りは1時間と少し走ると博多駅前に着く、早い。自分で走っていけばいいのだが駐車場所の確保など気楽にも行けない、祭りはバスツアーに限るとやっぱり思ってしまっている。

写真は順に 慈恩の滝、湯布院のお土産物街、日田駅前の山鉾集団顔見世風景
   




■ 不運な山形行 川村由幸

JGの交流会と重なった今回の山形行。交流会を欠席してまで出かけたにも拘わらず、なんとも不運な撮影旅行でした。
何が不運なのかお聞きになりたいですか。
自分自身の事前調査の悪さにも大きな原因があるのですが、何の障害もなく撮影できたのは一か所だけだったのです。
まず、寒河江の慈恩寺を訪問しました。車を降りると山形も関東と変わらない厳しい暑さ。
山門に向かうと本堂がシートに覆われているではありませんか。
   
上の一番右の画像を見てください。シートに覆われ本堂を全く見ることができません。残念。
工事中だからと言って、この寺も堂内の仏像を撮影させてくれる訳ではありません。撮影可拝観制度を是非作って欲しいものです。
スタートから暑いは情けないはでいきなり暗澹たる気持ちになりました。
それでも、初めて訪れる文化財、できる撮影は可能な限りと思い直しシャッターを押してきました。
次に向かったのが羽黒山の五重塔。
随神門から入り、巨木の杉並木をぬう石段を辿って行きました。
   
ジャジャーン、五重塔は前面ネットで覆われているんです。
500mほどの石段の上り下りで再び汗だくになっているなか、落胆の気持ちが大きくて立ち直れません。
帰りの石段のしんどいことと言ったら、老骨には激しくこたえました。
駐車場に戻り、汗で雨に濡れたようになっている状態のまま車に乗り込み出羽三山神社に向かいました。
なんとなんと、上の右側の画像をご覧ください。出羽三山神社も鐘楼と本殿が工事中なのでした。
撮影のスタートから三件続けての不運。何かに呪われているのか今回の山形行。
思わず交流会を欠席した罰が下っているではと考えてしまいました。
この後の加茂水族館では夏休みで人が多かった以外、何の障害もなく撮影ができました。
初日はここまで、いささか暑さにやられ熱中症とまでは行きませんでしたが、体力の消耗が激しかったです。
鶴岡市内のホテルに宿泊し、翌日は朝6:00過ぎにホテルを出て弥陀ヶ原に向かいました。
ホテルを出て、標高1,000mを超えるころまでは良く晴れていて美しい画像が撮れそうだとウキウキとした気分でいたのです。
   
ところが月山八合目(標高1,400m)の弥陀ヶ原湿原に到着すると上の画像の有様。
濃い霧で遠望が全くききません。しばらく待ってみようかとも考えましたが、月山の登山者がたくさん上がって来ていて
駐車場はほぼ満車状態となっていましたので待つのはあきらめ、霧の中弥陀ヶ原湿原の遊歩道を辿り撮影を実行。
花には多く出会うことが出来ましたが、美しい風景には出会うことが叶いませんでした。
弥陀ヶ原の撮影が終わり車に戻ったら、まだ朝だというのに次に向かう気力が残っていないことに気が付きました。
自宅まで500kmを運転してゆく体力と気力だけは残しておかなければなりません。
暑さもありましたが、被写体の保全工事に大いに悩まされた山形行でした。
きちんと事前調査をしておけば、工事を避けての撮影も出来たかも知れません。不運ばかりでなく事前準備の不備も
悔やんでいます。
久方ぶりに遠方への撮影旅行でしたのに、なんとも不満の残る山形行でした。


■京都の泰山タイル 野崎順次

泰山タイルは、大正6年(1917)から昭和48年(1973)の間、京都の泰山製陶所によって作られた建築用装飾タイルである。清水焼をベースとして、全ての工程が手作りで、優れた精巧さと釉薬の窯変による芸術性の高い製品が生み出された。

それらの製品は、日本国内のみならず、東アジア各国で使用されたことが判明している。今回は、泰山タイルオフィシャルウェブサイトに導かれて、京都に残る使用例をいくつか追ってみた。

その前に我が家に伝わる灰皿が泰山製品と分かった。色が少し違うが同型のものを泰山タイル展で見たからだ。裏にはっきりとマークがある。
    


京セラ美術館、本館1階の旧玄関床部分
  


先斗町歌舞練場、施釉鬼瓦「蘭陵王」
 


喫茶静香、入口の布目タイル
   


京都大学文学部東館、建物の柱上部の集成モザイク
       


旅館東山ホテル、外壁の布目タイルとレリーフタイル
   


喫茶築地、大部分が泰山タイル
    


アンデパンダン (1928ビル・旧毎日新聞社京都支局)、腰壁のタイル全て同じ辰砂釉
  




■「父の匂い」 柚原君子


朝起きてくると、調理場の5つあるガス台の全てに大小さまざまな鍋が乗り、そこからいっせいに湯気が立っていた。
香菜、にんにく、鶏ガラの入ったスープ鍋は煮えたぎり中で、豆腐と油揚げの入った味噌汁は火を止めたばかりの様子。
蒟蒻と生姜と牛蒡を炊き合わせた香りが濃く漂い、さばの味噌煮が落し蓋の下からはみ出し、ご飯を炊く釜が踊るように噴いていた。
私は半目覚めのまま、調理場が見える階段に座り込んで、まるでオーケストラのような朝の調理場を見ているのが好きだった。

父は調理師の免許を持っていなかったので、職業安定所から斡旋してもらった初老のコックさんにいろいろ指導されていた。メニューの書き方、コック帽のかぶり方、烏賊の皮むきや刺身の盛り付け具合までコックさんは父に丁寧に教えてくれていた。父は自分の身丈よりやや大振りの真っ白な白衣を着てコックさんの話に神妙にうなずいていた。

父は6人兄弟の末子だったが戦争から帰ってきたのが一番早かったという理由で、家業の農業を継いだ。田も畑も養蚕もする農家であったが、農閑期には土木工事の現金収入に出向くなど暮らし向きはあまり良くなかったようだ。
加えて父はアレルギー体質で養蚕のため桑畑に入らなければならないことがかなりの苦痛だったようで、農業に従事する先行きにも不安を覚えていたらしい。

昭和34年、5000人を越える死者・行方不明者をだした伊勢湾台風が中部地方を襲った日の20日前に、父は農業に見切りをつけて田畑と家を売り払い、高齢の母親と妻と私を長女とする弟妹の子ども三人をつれて生き馬の目を抜くという東京に出てきた。そして東京の下町、墨田区業平橋の交差点脇に11坪ばかりの小さな大衆食堂「さかえ屋」を開店した。

当時の父の手帳をみると店舗用の家を借りて食堂の什器を買い入れると残りの手持ち金は30万とある。木造二階建て家屋の賃料が5万円の時代だったので、食堂が成功しなければ半年でドロップアウトの切羽詰った状況が読み取れる。
朝定食が、ご飯、味噌汁、納豆、お新香で150円。カレーライスが200円。営業時間は朝の6時半から夜の10時まで。売上げの予測やコックさんへの支払いなどの算段をした30代半ばの父のやる気が伝わってくる文字が手帳の中に見える。
一切を売り払ってきた郷里に再び帰ることはできず、わずかな手持ち金の中から、やがては借りていた家を買い取るまでには相当な苦労があったと思うが、調理場の湯気越しに見る父の目はいつも優しく、父の体に染み付いていったさまざまな食べ物の匂いを嗅ぎながら、私たちは安心して東京の生活になじんでいくことができた。

昭和59年6月に父は胃がんの手術をした。そして余命3年の宣告どおりこの世を旅立って行った。享年62。
繁華街に出ると私は時々路地裏に足を向ける。特に飲食店のたくさんある路地は、チャン鍋のガチャガチャした音や、食器の触れ合う音と共に調理場の独特の匂いがあって懐かしい。白衣を着ている人の中に知らず知らずに父の面影を追っていることもある。

余談であるが、結婚をしてはじめて夫に味噌汁を作ったとき夫は「まずい」と言って箸を置いた。湯の中にお豆腐と油揚げとねぎを入れて味噌をいれた。……私が毎朝見ていた調理場での味噌汁と全く同じ様に作ったはずだった。一人暮らしの経験もある夫は「あれはお湯を使っているんじゃなくて、だし汁を使っているんだよ」と言った。父に言ったら「たわけめ」と言われた。
食堂の娘をもらったけど失敗した、と夫はしばらく言い続けていた。



■ おばちゃんカメラマンが行く 事務局

★今月のニャンコ

大分県臼杵市 小手川酒造のふくちゃん

 

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