Monthly Web Magazine Dec. 2023
■蟇股あちこち 44 中山辰夫
今回は島根の社寺が中心です。隠岐の社寺も含みます。重要文化財指定を受けている社寺が多いです。
染羽天石勝神社本殿(1583・島根・重文)、常念寺(桃山時代・島根・重文)、月照寺(1644・島根・県重文)、日御碕神社(1644・島根・重文)
焼火神社(1673・島根・重文)、玉若酢命神社(1793・島根重文)、清水寺(1859 島根・県重文)と薦神社(1622・大分・重文)、隠岐国分寺です。
1583 染羽天石勝神社 そめばあめのいわかつ
島根県益田市染羽町1-60
725年に創建、古来より境内の弁天池の背後にある注連岩を石神とした磐座信仰の形式で祀られていました。
社殿の右手にある高さ数丈に及ぶ屹立した安緑岩の大磐石を石神として祀りました。、弁天池があります。
染羽の地を開いた春日族が、石神(いわがみ)として祀ったことに始まるとされます。中世は益田氏の庇護を受けて発展しました。益田父子の再建です。
鳥居を過ぎると神楽殿です
大きな建物です。屋根には益田氏の家紋―「上がり藤に久」の字―が読めます。
拝所 切妻造 銅板葺 提灯には三つ葉葵
徳川家より朱印状を賜ったり、第二次長州征伐の時幕府軍の陣地であったことから、徳川とのつながりがあったようです。
本殿 国重文 再建:1583 三間社流造 身舎側面二間 庇床張り 土台建 檜皮葺 益田藤兼と子の元祥が再建
三間×三間の身舎の前に奥行一間の吹放し板張りの廂床を設け、両側のみに高欄付の縁をもちます。
このような構造は重文の建造物で唯一のものです。
組物出三斗 中備蟇股 庇繋頭貫 妻叉首
正面蟇股 手前と奥に六個の蟇股が配されています。
身舎の蟇股
家紋の「久」が入っているとされますが・・・
手挟 引用
本殿の特異な平面構成と装飾彫刻の蟇股や手挟に桃山時代の特色が見られます。
桃山時代 常念寺 表門
山口県萩市下五間町17
常念寺は1532年に開山、建立されました。輝元が築城の際に宿舎にしたといわれ、その縁で表門が寄進されたとされます。
1669年堂宇が焼失、毛利家の援助で再建されました。
表門のほか、本堂、書院、位牌堂、庫裏が並びます。
■表門 国重文 建立:桃山時代 四脚門 桁行3.66m 梁間 3,12m 切妻造 控柱付 本瓦葺 両袖にくぐり戸付
寺伝によると、京都聚楽第にあった裏門とされ、これを豊臣秀吉から毛利輝元が貰い受け、伏見の自邸に移建し、のちに萩城内に移し、さらに常念寺に移したとされます。(正式な資料はありません) 移建時のものとされる1633年(寛永10年)の棟札が残っています。
小規模ですが木割が太く雄健です。江戸時代初期の建物が少ないやまぐちけんでは貴重とされます。
■本殿 1671年建立 唐破風向拝付 入母屋造
1644 月照寺
島根県松江市外中腹町
月照寺は浄土宗の寺院。境内に松江藩主・松平家の墓地があり、国史跡です。
荒廃していた洞雲寺という禅寺を、松平直正が、生母の月照院の霊碑安置所として再興しました。
父・直正の遺命を継いで綱隆賀直正の廟所を営み以後、九代藩主の墓所となりました。
茶人藩主として著名な七代藩主・不昧の廟門は名工・小林如泥の作とされ、見事な彫刻が見られます。
境内には力士・雷電為右衛門の碑があり、茶室もあります。
小泉八雲はこの寺をこよなく愛し、墓所はここと定めていたともいわれます。
松江城からほど近くにあります
雷電為衛門の碑
松江藩お抱えの力士。史上最強の力ともいわれ、碑には雷電の手形が刻まれています。
境内の正面入り口
通用門から境内に入り所の書院が受付です。
こより廟所を巡ります
鷹身院廟所の廟門 県指定有形文化財
細部彫刻
招堤・直正の墓所 最も大きい
大圓廟 七代松平治郷の墓所
細部
雲龍の彫刻 左右には葡萄の透かし彫り
松平治郷は、七代当主で、江戸時代を代表する茶人ともいわれ、号「不昧 ふまい」で知られる。
「松平藩中興の祖」とされ藩の財政をを立て直しました。廟門も豪華です。彫刻はお抱えの名工・小林如泥(じょでい)です。
木画蒔絵菊花文透冠棚ー如泥作 サントリ―美術館
国宝・松江城 廟門を出ると見えます。不昧公は城がよく見えるこの場所を選んで、廟所を造らせたとされます。
善隆院御廟 五代当主・松平宣維の墓所
月照院の墓地
月照院は徳川家康の二男・松平(結城)秀康の側室で、松江藩松平家初代・直正の生母
隆元院御廟 三代目・綱近鴻の墓所 門扉には桐の紋と葵の紋が見えま。
三つ葉葵が定紋ですが松江松平家では「六つ葉葵」の替紋を使用していました
最期の墓所
天隆院御廟 門扉の金剛力士像が印象的です
大亀伝説 寿蔵碑といわれ、七代の治郷公が父の六代宗衍(むねのぶ)公の徳をたたえ、寿命長久を祈願するために建立したもの。
この大亀は小泉八雲の怪談にも登場しています。
桃山風の造り、龍や菊などを彫った廟門は、江戸時代各期の建築美術の年代別標本を見るようだとも言われています。
松江藩主松平家歴代の幕所は、同家の菩堤等である月照寺に営まれている。月照寺はもと洞雲寺と称したが、寛文四年(一六六四)、松平直政は生母月照院の霊脾をここに安置し、蒙光山月照寺と改称した。同六年に直政が没すると、二代藩主[[綱隆]つなたか]は直政の遺命により廟所を月照寺に営み、山号を歓喜山と改め、ここを藩主歴代の菩堤所と定めた。直政以後、二代綱隆・三代[[綱近]つなちか]・四代[[吉秀]よしとみ]廟・五代[[宣維]のぶずみ]・六代[[宗衍]むねのぶ]・七代[[治郷]はるさと]・八代[[齊恒]なりつね]・九代[[齊貴]なりたか]に至るまで九代の藩主廟墓が造営されている。
初代直政の廟所の南奥に東面して営まれている。廟門は一間一戸の薬医門の形式で、直政没後一三年を経た延宝七年(一六七九)の建立になる。切妻造の屋根の正面・背面には軒唐破風をつけ、その下の出桁には渦文若葉・眉を彫り、破風との間に竹と虎の彫刻を嵌め込み、格調高く仕上げている。廟門の内側に造られた濠には石橋が架けられ、参道正面に石造の鳥居が建ち、その奥に石垣を組んでいる。
日御崎神社
島根県出雲市大社町 本殿は2002年から2006年の間保存工事が行われました。
日御碕神社は、日御碕の島根半島の西端に位置し、出雲大社から海岸線沿いに北西へ向かう道路を約8km行った所にあります。
神社は、日沈宮と神の宮の二つに分かれています。日沉宮は境内の西側に東を正面とし、神の宮は日沉宮の東北の小高い位置にあります。
両社とも拝殿後方に弊殿を設け、その奥一段高く本殿を配しています。朱塗りの社殿は、桃山時代の面影を残す権現造です。
現在の社殿は、日沉宮、神の宮ともに徳川家光の命で再建されました。
江戸幕府が造営した格式の高い建築で、日光東照宮完成直後の1644年に造営された権現造様式です。
朱塗りの社殿で、蟇股などの彫刻や彩色も鮮やか、細部の手法も優美な桃や模時代風の建物です。
特に本殿内部の彩色、金具の唐草などは最たるものです。
蟇股には、竜虎をはじめ鶴亀や松竹梅、三猿といった彫刻が多く配されています。あまりに多く配されていますので紹介は一部です
■全景 稲佐の浜から日御碕灯台へ続く日御碕街道から、神社全体を見下ろせます。
上の宮(本殿・幣殿・拝殿・玉垣・宝庫・鳥居二基)と下の宮(本殿・幣殿・拝殿・玉垣・祓所・廻廊・楼門・客人二棟)からなりすべてが国重文です。
■神の宮(上の宮)鳥居 東側・西側 国重文 再建;1644 石造明神鳥居
■楼門 国重文 再建:1644 三間一戸楼門、入母屋造、こけら葺
□蟇股
楼門をくぐると、正面に下の宮、右手の小高い所に上の宮があります。
ここから日枕宮(下の宮)です
■門客人社 西・東殿は参道を挟んで建っています。一部の細部意匠を除き同形同大です
□西殿 国重文 再興:1644 一間社 入母屋造 向拝一間 檜皮葺
□東殿 国重文 再興:1644 一間社 入母屋造 向拝一間 檜皮葺
■廻廊 国重文 再興:1644 折曲り延長四十一間、切妻造、檜皮葺
■拝殿 国重文 再興:1644 桁行五間、梁間六間、一重、入母屋造、向拝一間、唐破風造、檜皮葺
□向拝周辺 蟇股と木鼻
■身舎の蟇股
■禊所 重文 近世以前/神社 江戸前期 寛永21(1644) 桁行六間、梁間四間、一重、入母屋造、妻入、檜皮葺、配膳所を含む
■本殿 国重文 再建:1644 桁行正面三間、背面五間、梁間五間、一重、入母屋造、檜皮葺
日沉宮本殿・幣殿・拝殿正側面(北東よりみる) 工事報告書より転載
□妻部
□身舎の蟇股
神の宮(上の宮)
□幣殿 国重文 再建:1644 桁行二間、梁間一間、一重、両下造、後面唐破風造、前面拝殿に接続、檜皮葺
■拝殿 国重文 再建:1644 桁行三間、梁間三間、一重、入母屋造、向拝一間、唐破風造、檜皮葺
□向拝 蟇股・木鼻
□身舎蟇股
■本殿 国重文 再興:1644 桁行三間 梁間三間 一重 入母屋造 檜皮葺
神の宮本殿・幣殿・拝殿正側面(北西よりみる―工事報告書より転載)、
□妻部
身舎蟇股
□身舎の蟇股
両本殿内陣の内壁や天井には、狩野派や土佐派の絵師による絵が描かれています。
1673 焼火神社(たくひ) 拝殿
島根県隠岐郡西ノ島町大字美田
焼火神社は標高452mの焼火山中腹(300m)に所在します。天照大御神を祭神とし、航海安全の守護神としても信仰を集めています。
創建は一条天皇の頃と伝えられ、古くは焼火山権現窓など称し、真言宗に属していましたが、明治の廃仏毀釈で焼火神社と改名しました。
山腹を利用して東西に細長く広がり南面する境内の東端に岩盤を利用した傾斜地が有り、高い位置から順に本殿・通殿・拝殿が階段状に並びます。
本殿の一部は大きな岩窟の中に造られています。
拝殿は1673年、本殿は1732年の改築です。その後も改造、修理がおこなわれています。
急傾斜地に配置された社殿の構成に特徴があり、本殿は、細部の彫刻が優秀で見るべきものが有り、造営の方法も建築の歴史を知る上で注目されます。
■拝殿 国重文 建立:1673 桁行四間 梁間三間 一重 入母屋造 妻入 向背一間 軒唐破風付 銅板葺西面神饌所付属
本殿より時代が古いです。その後改造・修復が行われています。向拝は1877年に新設されました。
唐破風回り
向拝蟇股・周辺 蟇股・斗栱回り・掛鼻・手挟・海老虹梁
拝殿外陣から内陣を、内陣から外陣を見ます
内外陣境の欄間
■通殿 国重文 建立:1902 桁行二間 梁間一間 一重 唐破風付 こけら葺
■本殿 国重文 建立:1732 一間社流造 正面軒唐破風付 正面通殿間庇 片流れ 東側綿唐破風造 銅板葺 岩屋の中です。
大坂の本殿造営大工の大工集団宮屋が、大坂で主要部材を木造し、米子の大工がその他の部材を地元で調達し現地で組み立てを行ったとされます。
宮屋が造営した本殿は滋賀・兵庫・京都・奈良でも仕事をしています。1671年kら1731年の間に、14件の実績が残っています。プレハブ工法のはしりです。
本殿は岩の洞窟にすっぽりと嵌めこむように造られています。
ここで図面を引用して並べます。
□平面図
□南面正面図
□正面細部
正面水引虹梁・正面蟇股
□正面向拝頭貫・掛鼻・海老虹梁、獅子飾り
□東面側面図
□妻・力士型大瓶束、妻虹梁、東面平三斗(枠肘木鼻、頭貫鼻)
□西面側面図
□本殿西側細部
妻飾は虹梁大瓶束です。細部の彫刻が優秀で見るべきものがあります。
参道から見える西側面は特に意匠を凝らしています。
身舎は各所に動植物の彫刻で飾っています。庇は、雲と鶴の彫刻を入れています。
□背面図
■宮殿 組重文 附指定 桁行一間 梁間一間 切妻造 正面軒棟破風付 こけら葺
本殿の附指定で本殿内々陣に安置されています。1672年京都で造られ運ばれました。当時は焼火山雲上寺でした。
黒漆塗りで、各部を飾金具で装飾した豪華な造りです。
■社務所 建立:1902 入母屋造 瓦葺 名残をとどめる大きな石垣が残っています。
■某 祠
1797 玉若酢命神社 本殿
島根県隠岐の島町下西713
玉若酢命神社は、隠岐島後の旧周吉郡に所在する古社で、隠岐開拓の祖神とされる「若酢命」を主祭神としています。
開創年代は不明ですが、『延喜式神名帳』にその名がみえ、来歴は古代まで遡ります。
隠岐国国造の末裔とされる社家「国造億岐家」が今も祭礼を司ります。
同社は中世近世を通じて「惣社」と称し、隠岐国の歴代の守護、佐々木氏、山名氏、堀尾氏、松平氏等の助力を得て、造営を行って来ました。
現在の境内は東面して随身門を開き、東西に延びる参道の西端に本殿が建ち、その前部に拝殿が建っています。
社家億岐家住宅の敷地は、境内の南東に隣接し、神社と一体となった景観を形成しています。宮司億岐家は四十七代目(2002年)です。
境内は東向き 右より随身門(国重文)・八重杉「天然記念物」・拝殿・本殿(国重文)、左に半分見える桟瓦葺建物は旧拝殿と池越しの本殿です
全景と説明
境内図
■随身門 国重文 建立:1852 桁行三間 梁間一間 一重 入母屋造 茅葺
中央一間を広く開放し通路としています。随身像を安置しています
■旧拝殿 国重文 建立:1866 桁行三間 梁間一間 一重 切妻造 妻入 桟瓦葺
■拝殿
■本殿 国重文 建立:1797 桁行二間 梁間三間 切妻造 妻入 茅葺 向拝付(片流、檜皮葺) 彫刻類が多用され、装飾性豊かです
棟梁鈴木儀八以下十三人の隠岐の工匠を中心に行われ、造営事業は、島後二郡全村から建築材料・人夫・資金・食料が徴収された全島あげての大工事。
柱上組物は出組板下輪とし、中備破蟇股、軒は一棟繁垂木、正面妻飾は二重虹梁䑓瓶束とし、中央に蟇股を飾っています。
□妻飾
かぶら懸魚 と 妻飾 その大瓶束笈形・上段蟇股(正面・裏面)・下段蟇股(正面・裏面)
□向拝 三間 左端・右端・中央前部と裏面
正面丸桁を垂木掛けとして、本屋の軒下に納まる特徴ある形式.中備に蟇股を置く 植物紋様が中心で、写実的な草花、草木です
□身舎の蟇股
■社家 億岐家住宅 国重文 建立:1801
境内に隣接する隠岐地方の代表的な大型民家。入母屋造茅葺きで享和元年(1801年)の建立である。
建物は東を正面とし、内部は北側を土間、南側を3室×2列の床上部とする。
神棚をまつる「神前の間」(2畳大)や土間下手の「ミソギベヤ」など類例の少ない設備があり社家としての特徴を持っています
■八百杉 国指定天然記念物
1859 清水寺 三重塔
島根県安来市清水町528
三重塔のある清水寺は、鰐淵寺(出雲市)・三仏寺(鳥取県東伯郡)・大山寺(鳥取県西伯郡)と並ぶ天台宗の古刹です。
寺伝では587(用明天皇2)年に尊隆上人が開いたとされ、平安時代前期には40余坊の伽藍を数えたとされます。
戦国時代には毛利・尼子氏の保護を受けて寺勢を強め、江戸時代には松江藩主堀尾氏から寺領100石を与えられました。
伽藍は、戦国時代の兵火で根本堂を残してすべて焼失しましたが、江戸時代に再興され、現在に至っています。
アプローチ
三重塔は境内の一番奥、高台にあって、約120段の石段を上ります。3層に登れば中海が広がっています。
三重塔 県指定文 建立:1859(安政6) 三間三重塔婆 本瓦葺 素木造 塔高さ21.2m。初層縁廻りは擬宝珠高欄付の縁をめぐらせる。
1827年から33年の歳月をかけて完成。一万人の浄財により建立されました。棟梁も富谷寛太から孫の唯市の代になっていました。
正面の中央間は板唐戸、脇間は連子窓、中備えは中央間に立体的蟇股 初層組物は三手先、初層軒廻りは二軒繁垂木
「龍」の彫刻
蟇股 花
三重塔は、二階、三階まで登れます。江戸時代前の塔では例がないとされます。
大門 入口から約108段の石段を上ります。四脚門
弁天堂・開山堂・水盤舎
稲荷社
護摩堂
根本堂
毘沙門堂 古門堂茶室
鐘楼
1622 薦神社 神門
大分県中津市大字大貞209
薦神社は、三角池を御神体として、承和年間(834~48)に創立されたと伝えられています。
社殿の西に広がる5ha余の三角池をご神体とし、池を内宮、社殿を外宮と称しています。
草創時より宇佐神宮との関係は深く、宇佐行幸会の時、神輿に納める霊代の枕はこの神社の三角池に自生する真薦でつくるならわしでした。
御神体
1108年に七堂伽藍が建立されましたが、1184年の源平合戦の時に破却され、その後大内氏が再建した社殿も戦火で焼失しました。
1622年に中津城主細川忠興が長らく途絶えていた宇佐行幸を再開する一環として、薦神社の社殿も再建されました。
三棟の本殿、拝殿、廻廊を築地塀、神門、裏門で囲んだ社殿は、外宮といわれ、境内は古木の繁る社叢に守られ、厳粛な神域を伝える古社です。
現在の本殿、拝殿、廻廊は江戸時代末期のものですが、神門は墨書から1616年の細川忠興の造営と分かりました。
神門 国重文 建立:1622 三間一戸 入母屋造 初重前後裳階 前面軒唐破風 こけら葺 東面
蟇股が見られる裳階は、桁行を荒間完で繋ぎ、身舎とのつなぎは海老虹梁で繋ぎ、正面中央は唐破風状に起こり上げた虹梁としています。
蟇股は裳階の唐破風板壁に見られます。
正面
南 表(梅) ・ 裏(梅)
中央 唐破風内 三菱階(小笠原家紋後補)
北 表(波に飛龍) ・ 裏(菊)
背面
南 表(残存せず) ・ 裏(菖蒲か?、葉のほか欠失)
中央 表(枇杷) ・ 裏(枇杷)
北 表(ツバメ) ・ 裏(牡丹)
欄間彫刻 中央通路小壁に見られる彫刻
彫刻は唐獅子牡丹で、中央に赤の牡丹・両脇に白の牡丹を配置し、牡丹の間に唐獅子を配置しています。
大きさは幅六尺九寸、高さ八寸七分、材質は檜。
隠岐国分寺
島根県隠岐郡隠岐の島町池田風呂前5
創建741年。聖武天皇の発願で、全国に建立された国分寺の一つです。
1331年、元弘の乱で倒幕に失敗した後醍醐天皇が、1332年隠岐に配流された際に、この国分寺を行在所とされました。
西ノ島町にある黒木御所も天皇の行在所とされたようです。
1869年に起こった隠岐廃仏毀釈の際、隠岐の寺院はすべて焼失しました。
元国分寺の境内は、1995年に遺跡の包含地として国の史跡に指定されています。
2011年奈良時代の遺構や遺物が発見され、それ以後も発掘調査が進まられました。
山門 建立年不明 瓦葺 棟門
11菊花紋と桐紋が合体した寺紋を見受けます。
境内を進みます 鐘楼
本堂 再建::2014年
2007年火災で焼失しました。前の広場で舞が舞われます。
毎年4月21日に行われる「蓮華会舞(れんげえまい)は重要無形民象文化財の指定を受けています。。
平安時代より地元住民に引継がれている舞です
後醍醐天皇行在所の碑
史跡国分寺境内
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