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JAPAN GEOGRAPHIC
大分県竹田市 岡城跡
Oka Castle,Taketa City,Oita
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総役所
大手門
西の丸
賄方 籾蔵へ
太鼓櫓 三の丸 二の丸 本丸
御廟
下原門
大手門へ戻る
June 16, 2018 野崎順次 source movie
大分県竹田市大字竹田
岡城跡
(Remains of Oka Castle, Taketa City, Oita Pref.)
国史跡
城の築かれた天神山は標高325メートル、比高95メートル、城域は、東西2500メートル、南北362メートル、総面積は23万4千平方メートルに及んだ。
伝承では、文治元年(1185年)に緒方惟義が源頼朝に追われた源義経を迎えるために築城したことが始まりであるという。その山城は、南北朝時代の建武元年(1334年)に後醍醐天皇の支持を受けた大友氏一族の志賀貞朝によって拡張され、岡城と名付けられたとされている。一方、『豊後国志』によると、志賀氏が直入郡に入ったのは応安2年(1369年)以降のことで、同郡内でも岡城に入る前には木牟礼城(騎牟礼城)を居城としていたという。
天正14年(1586年)、先に耳川の戦いで敗れ衰退した大友氏を下すべく、薩摩の島津氏が豊後府内に迫る快進撃を見せていた中、岡城のみは志賀親次の指揮のもと再三にわたり島津軍を撃退し、親次はその功績から豊臣秀吉より天正15年正月3日付けの褒状を受けている。
豊臣秀吉の時代の文禄2年(1593年)文禄の役で大友吉統が秀吉から鳳山撤退を責められ所領を没収されると、大友氏重臣の親次も岡城を去ることとなった。翌、文禄3年(1594年)播磨国三木から中川秀成[注釈 2]が移封され、入城後に3年がかりで大規模な修築を施した。
この修築では、縄張設計に石田鶴右衛門、三宅六郎兵衛、石垣普請に山岸金右衛門などが携わり、志賀氏時代の城域の西側天神山に本丸・二の丸・三の丸御殿・櫓を造営し、城の西側を拡張、重臣屋敷群を設けた。本丸に御三階櫓を設け、城門は志賀氏時代の大手口であった下原門に加えて近戸門を開き大手門を東向きの下原門から現在見られる西向きの位置に改め[注釈 3]、3口とした。また、城下町は志賀氏時代の挟田に加えて西方に竹田町が整備された。2代久盛の代には清水門が整備され、3代久清の時に西側の重臣団屋敷を接収して西の丸を築き御殿を造営している。岩盤の台地の上に築かれたため、台風や地震、火事などの被害を多く受け、特に8代中川久貞の明和8年(1771年)には本丸、西ノ丸、御廟など城の大半を焼く大火が起きている。
明治維新後、廃城令によって廃城とされ、明治4年(1871年)から翌年にかけて城内の建造物は全て破却され、現在残っているのは高く積み上げられた石垣のみである。なお、昭和62年(1987年)には築城800年祭の記念行事として20日間限定で模擬天守と大手門が復元された。
昭和11年(1936年)12月16日、「岡城址」として国の史跡に指定され、平成18年(2006年)4月6日、日本100名城(95番)に選定された。平成2年(1990年)には、「岡城公園」として日本さくら名所100選に選定された。
(ウィキペディア「岡城(豊後国)」より)
JR豊後竹田駅でタクシーに乗り、天守閣に一番近いところまで行くようお願いした。一番手前の駐車場で入場券を買って、山腹の恐ろしいほど細い道をくねくねと進む。最後に大きく曲がって、坂を上ると、城の東の端にあたる下原門の石垣が見えたので、降りた。
下原御門、御廟跡、清水門跡,東中仕切跡
本丸石垣を南から西に回り込む。
本丸
二ノ丸(滝廉太郎像)と三ノ丸
太鼓楼門と谷を隔てた家老邸跡石垣
城代屋敷跡、中川但見屋敷跡
古大手門跡
大手門跡
西へ下る。
竹田の町へ
参考資料
現地説明板
竹田の阿蘇火砕流堆積物
阿蘇火山は、現在も活動中の世界有数のカルデラ火山である。火山活動は約30万年前の阿蘇1火砕流から、約9万年前の阿蘇4火砕流までの間に火砕流を主とする4回の大噴火を起こし、大カルデラを形成した。大分県竹田市では,阿蘇火山のこの4回の火砕流堆積物全てが観察できる。
大分県竹田市は,一級河川大野川の支流稲葉川沿いに展開する,近世城郭としてまた,滝廉太郎の荒城の月の舞台としても著名な岡城の城下町である。
阿蘇火山は、九州の中部にある世界有数のカルデラ火山である。カルデラの大きさは南北約25km、東西約18km、面積は約380平方キロメートルあり、現在もカルデラのほぼ中央に位置する中岳が活動中である。阿蘇山は約30万年前の阿蘇-1火砕流の噴出で始まり、約9万年前の阿蘇-4火砕流までの間に4回の火砕流を流出する大噴火により、現在の阿蘇火山を象徴する大カルデラができた。火砕流堆積物のうち特に溶結凝灰岩は、石材として利用され、城の石垣、石橋、磨崖仏,石棺など九州の歴史と暮らしを語る上でも欠くことができない。
阿蘇火砕流堆積物は,当時の九州全域を覆い地形を平滑化した。岡城は,南北を稲葉川と玉来川に挟まれた平坦面上に位置するが,この平坦面は阿蘇3火砕流堆積物の堆積した面であり,岡城の石垣も阿蘇火砕流堆積物の溶結凝灰岩を利用している。このように阿蘇火砕流堆積物は,石材としての重要性に加え,九州の地形形成にも大きな影響を与えている。こうした重要性をもつ阿蘇-1〜阿蘇-4の全ての火砕流堆積物が観察できるのは,竹田地域だけである。
竹田市挟田の、稲葉川左岸の旧国道トンネル横の露頭では、稲葉川に沿った大きな崖に露出した阿蘇火山起源の複数の火砕流堆積物が観察できる。
崖最下部には,阿蘇1火砕流が分布し,上位に向かいレンズ状に,古土壌と久住火山起源のKm火山灰(厚さ約1メートル)を挟んで,阿蘇-2火山灰の軽石とスコリア層,阿蘇-2火災流堆積後に降り積もった火山灰層(厚さ7.5メートル)が重なり,崖の左手から右手にかけて阿蘇-3火砕流堆積物(厚さ最大70メートル)が重なる。阿蘇-3火砕流は,デイサイト質軽石流からなる下位の阿蘇-3Aと,上位に向かって溶結の度合いが高くなる阿蘇-3Bの二つのユニット分けられる。さらに崖の右手から稲葉川の河床にかけては,阿蘇-4火砕流堆積物の強溶結凝灰岩が分布する。
また,稲葉川上流の飛田川付近の河床では,阿蘇-1火砕流の識別に欠かせない阿蘇-1時期の火山灰層の上位に,阿蘇-1火砕流堆積物の溶結凝灰岩が重なる地層が観察される。
さらに,指定予定地の稲葉川の河床には,広く阿蘇-4火砕流堆積物の強溶結凝灰岩が露出するが,ことに稲葉川と玉来川の合流点付近では,河床にみごとな甌穴が発達する。
竹田市周辺では,火山国日本を代表する阿蘇火山の火砕流堆積物の全てを狭い範囲で観察することができる。天然記念物に指定し,保護を図ろうとするものである。
(文化庁データベース)
A camera
B camera
岡城址
Oka castle
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