岡山県総社市 宝福寺
Hofukuji, Soja city, Okayama
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Culture | 重文 三重塔 | |
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総社市井尻野1968 宝福寺三重塔 重文 近世以前/寺院 室町前期 永和2(1376) 三間三重塔婆、本瓦葺 銘札1枚 19270425
Nov.29,2020 瀧山幸伸
A camera
B camera
July 14,2015 瀧山幸伸 source movie
Dec.2010 撮影:野崎順次
撮影日: 2010年12月29日
岡山県総社市井尻野
臨済宗東福寺派
井山 宝福寺
宝福寺は創建の年代は不明であるが天台宗の僧・日輪によって開かれたとされ、元来は天台宗の寺院であった。鎌倉時代の貞永元年(1232年)に備中国真壁(現在の総社市真壁)出身の禅僧・鈍庵慧總によって禅寺に改められた。時の帝、四條天皇は病気であった。鈍庵が天皇の病気平癒のために祈祷を行ったところ、壇前に客星が落ち、天皇の病気は平癒したという。
星が落ちた場所に井戸を掘り「千尺井」と名付けた。これが山号「井山」の由来となった。
その後、寺院は天皇の勅願寺となり発展した。一時は塔頭・学院55、末寺300寺を数えるほどの巨刹となり隆盛を誇った。水墨画で有名な雪舟(1420-1506)は、備中赤浜(現岡山県総社市赤浜)に生まれ、幼くして宝福寺へ入り、涙でネズミを描いたという有名な逸話を残している。戦国時代に起こった備中兵乱のため、天正3年(1575年)には三重塔(重文)を残し伽藍のことごとくを戦火により失った。
その後、江戸時代に至るまでの間は荒廃していたが、江戸時代初期に復興され、再び山門・仏殿・方丈・庫裏・禅堂・鐘楼・経蔵(いずれも登録有形文化財)の禅宗様式七堂伽藍を備える本格的な禅寺となった。
本堂にあたる仏殿(別名・法堂〔はっとう〕)は享保12年(1727年)に再建されている。説明板、伽藍配置図、門前の石仏など
山門(明治後半)
六本柱の楼門で十段の石段上に東面して建つ。屋根は入母屋造りの桟瓦葺で、上層は正面3間、側面2間とし、周囲に高欄付きの縁を廻らす。
仏殿(江戸後期)
寺域の中心に位置して東面して建つ。禅宗様式の意匠が典型的に示された、方三間一重裳階(もこし)付き仏殿である。
仏殿内部
仏殿周囲、千尺井など
重文 三重塔(室町中期)
臨済宗の寺院の塔は、伽藍の後方や脇の小高い所に建てられることが多い。ここでも仏殿の後方の小高い所に建つ。方三間の本瓦葺で、総高18.46m。
石仏、雪舟碑
経蔵
方丈(江戸時代中期)
雪舟のネズミの伝説を残したところ。方丈は禅宗寺院において住持の居室を意味し、訪問客の接待や仏事法要など公式儀式に関する場としての性格を強く持つ。
禅堂
庫裏
如意輪観音堂
鐘楼
梵鐘(県重文)は、総高115cm、口径が59cmでやや丈が長い。中央に宝珠をいただいた双竜式の竜頭をもつ。陰刻銘によると、応仁2年(1468)の室町時代に、霊仙寺のための梵鐘として鋳造されたものだが、なぜ宝福寺に移ったかは明らかではない。
般若院
門口と開山堂
帰途。石仏の道をたどり、畑で凧を上げる親子を見て、JR総社駅に着くと遥か山上に鬼ノ城が見えた。
参考資料
総社市HP
ウィキペディア「宝福寺」
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