大阪府大東市 飯盛山
Iimoriyama,Daito City, Osaka Pref.
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February 3,2020 大野木康夫 source movie
飯盛山城
飯盛城は、大阪平野の東縁部に位置する生駒山地の北部から、西北に派生する支脈である飯盛山山頂(標高314m)を含む馬の背状の尾根筋を中心に構築された戦国期の山城である。
現代の行政区分では、大東市と四條畷市にまたがる山中ということになるが、西麓を走る東高野街道と、北麓の大和に至る清滝街道、南側の古堤街道(中垣内越)が交差する地点に近く、当時から交通至便な土地であった。
さらに西麓には深野池が広がり、河内を網の目のように流れる大和川水運の結節点となる港にも至近で、大阪、堺、更には瀬戸内から四国、九州にもつながる交通の要衝であった。
城の西側面は海抜数メートルの深野池から標高314メートルの飯盛山山頂まで、急峻な崖が立ち上がり、北麓を巡り、東側の谷を流れる権現川からの斜面も急で、唯一生駒山から尾根が連なる南側だけが緩やかで、攻めるに難く守るに易い城地であった。
飯盛城は、享禄年間(1528-1531)、河内守護の畠山氏に仕える河内守護代木沢長政の築城と考えられている。
1560年、足利将軍家と和睦した三好長慶が、畠山氏や守護代として飯盛城にいた安見氏を河内から駆逐し、飯盛城を自らの居城と定め入城した。
三好長慶は、室町幕府13代将軍足利義輝を近江に追いやり、斎藤道三、北条早雲と並び戦国時代の下剋上の代名詞と言われる人物である。
しかし、織田信長に先立ち、信長と同様に将軍を放逐して将軍家の権威を借りずに実権を握った、戦国時代最初の天下人である。
信長上洛以前の畿内の争いは、将軍家内の権力闘争程度に見られていたが、最近見直しが進み、三好長慶も、信長と同様、朝廷と結んで将軍家の権威を借りない独自の政治を始めたことが分かってきた。
信長の先進性の証とされる兵農分離、鉄砲、石垣の築城なども実は長慶が先といわれる。連歌の会や茶の湯など、風雅にも優れた文化人だった。
飯盛城に入った長慶は、当時、「天下」と認識されていた、京都から摂河泉までを一望のもとに収める、270度の展望を持つ拠点城郭として飯盛城を整備した。
大がかりな堀切、本格的な石垣や切岸、畝状縦掘りを駆使して多重の郭を連結させた戦闘のための施設等はもちろんのこと、狩野永徳の「洛中洛外図屏風」に描かれた「三好邸」のような、三好一族の居住スペースや、政務をとったり、家臣や公家、来訪者を招く文化サロンのスペースがあったと考えられている。
現在の城跡は、規模で東西400m、南北600m以上を超える、中世最大級の連郭式山城の跡を残している。
北から「御体塚郭」「高櫓郭」「千畳敷郭」などの曲輪が尾根筋に連続的に配され、その周囲に帯曲輪、腰曲輪が囲むばかりでなく、中央の尾根筋から東西に延びる何本かの支脈に沿って副次的な曲輪が複数段築かれ、曲輪の総数は70を超える。
城内のいたるところに石垣が残っており、近年の調査で、特に東側は石垣が全面的に築かれていた可能性が浮かび上がってきた。
その他、堀切、土橋、土塁、虎口、切岸等の遺構も確認でき、戦国時代の最高権力者が築いた、政治の中枢の場であった巨大山城の様子を現代にまで伝えている。
(大東市ホームページより)
飯盛山城(飯盛城)は北河内の生駒山地北部、四条畷市と大東市にまたがる飯盛山の山頂にあった山城です。
室町時代、河内の守護代として大きな勢力を保持していた木沢長政によって築かれた後、畿内に君臨した三好長慶が摂津芥川山城から移って居城としました。
三好長慶は飯盛山城で没し、城内の御体塚曲輪に3年間仮埋葬されていたそうです。
その後、三好三人衆や畠山氏の残党が拠点の一つとしていましたが、天正4(1576)年に織田信長により落城し、廃城となりました。
現在の遺構は、三好長慶の時代のものではないかと言われています。
詳細図(四条畷市ホームページから引用)
飯盛山案内図
北側の登山口である四条畷神社から登りました。
車は鳥居前の伊勢屋さんの駐車場(1回500円)に停めました。
四条畷神社
南北朝時代の四条畷の戦いで戦死した楠正行を祀った神社です。
神社の南側から登山道が続きます。
登り始めて10分で尾根筋に出ますが、ここからは急な階段が続きます。
尾根筋に出てから20分ほどで飯盛山城の北端の曲輪に着きます。
西側にわずかに石垣が残っています。
大阪平野の眺望
飯盛山史跡碑付近
御体塚曲輪との間の堀切とその付近
御体塚曲輪東側の石垣
御体塚曲輪の東に連なる石垣群
四条畷市が発掘したものです。
東側尾根筋
現存最大の石垣群があるのですが、倒木がひどくて撮影は断念しました。
本郭東側の石垣
楠公寺口付近の大堀切
千畳敷から高櫓郭に至る堀切と土橋
高櫓郭
飯盛山の頂上にあたり、小楠公像や三角点があります。
本郭
展望台があります。
東側に石垣が残っています。
倉屋敷郭
西側にも東側にも石垣が残っています。
三本松郭付近
御体塚曲輪付近
帰路
帰りは20分弱で駐車場に着きました。
June.12.2018 中山辰夫
大阪府大東市北条
飯盛山は、大阪府生駒山地北西枝にある山。大東市と四条畷市にまたがっており、山頂は大東市にある。標高は314.3m。
山頂一帯には三好長慶の居城であった飯盛山城の跡があり、現在でもその曲輪跡が多く残る。
楠木正行と高師直が戦った四條畷の戦いの古戦場でもあったため、山頂には楠木正行の銅像が建っている。
付近一帯はハイキングコースとして整備されており、「野崎観音 - 野崎城跡 - 飯盛山城跡 - 山頂 - 四條畷神社」のコースが良く利用されるほか、複数のコースがある。
今回は、野崎駅-野崎観音-飯盛山-四条畷駅コースを辿った。
野崎駅から慈眼寺へのぼる。野崎観音の愛称で知られるこの寺は、眼にご利益があるとして昔も今も多くの人がお参りをする。
100段近い石段を登って本堂でお参りをし、飯盛山へは東側の墓地の中を登ってゆく。
野崎観音
本堂の裏側から登る−長方形の石の造りが並ぶ。休憩に使ったものか。吊り橋からは展望が拓ける
石を削った階段をのぼる−やや難所である
山道を上り下り繰り返す
七曲りのつづら折りを登る
辻の新池付近
案内板
いよいよ山頂 FMラジオ送信所を過ぎると本丸跡の平地や土塁、堀切と見られる箇所を通過。
山頂
展望
アベノハスカル・ほか
四条畷神社を目指して飯盛山から下山する
コース
楠公寺−南に下がるとすぐにある。
飯盛山楠公寺は、「妙春日祥法尼」によって、1950(昭和25)年に開山された。開祖は91年にわたる生涯を法華経と共に生きてこられた高僧とか。
「妙春日祥法尼」が能勢山中で、日蓮宗の布教に精進しておられた時に、南北朝時代の南朝の武将楠木正行公の御霊から、「法華経で我が魂を鎮めよ」とのお聲を賜った。正行公は楠木正成公の長男。1336年、父正成公は京都へ攻め上がる北朝の足利尊氏を湊川で迎え撃って討死。父の無念を晴らすために足利軍と戦った正行公も、12年後の1348年高師直の軍と戦い、四條畷で討死。尚、当寺の号「楠公寺」は故池田勇人氏が命名したという。
結構な坂道を下りる
滝谷楠水の水汲み場−豊富に水が出ている。休憩場になっている。
権現の滝 本尊:不動明王 月一回護摩焚がおこなわれる。
権現滝ハイキングコオースからむろいけ園地方面へ向かう
宝池付近−新池・古池・中ケ池・砂溜池の四つの池の総称
散策コースは木道
室池を中心とした水辺のエリアで、散策コースが整備されている。
湿性花園—ボードウオークが設置され、身近に花を見ながら散策ができる。ミズバショウ・ミソソバ等が咲く。行った日は公園はお休み、花も終わっていた。
緑の文化公園−むろいけ園地 入口
園地内にはふれあいの森、野外活動センターなどの諸施設がある。
瀧尾寺
御机神社
当社は延喜式神名帳(905年〜927年) に載る古社で起源は奈良朝時代に鎮座されていたと推測される。
1560(永禄3)年 三好長慶が飯盛山に居城した頃には飯盛城鎮護 の神として崇敬も厚かった。
御机神社は、古くは現在地の東方字宮地に有ったがその後堂山に移し更に1700(元禄13)年にこの地に移転したとされる。現在の社殿は1881(明治14)年に建てかえられたものである。
四条畷神社
四条畷駅前から続く参道の左右には商店が目立つ~四条畷駅がゴールである。
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