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埼玉県熊谷市 市街
Downtown,Kumagaya city,Saitama

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Apr.2015 柚原君子

中山道第8宿「熊谷宿(くまがいじゅく・くまがやじゅく)」

行程
1日目:JR高崎線「行田駅」→熊谷堤→久下一里塚→みかりや跡→久下神社→東竹院→ムサシトミヨの住む元荒川→八丁の一里塚跡→JR高崎線「熊谷駅」→熊谷寺→本陣跡→星渓園→八木橋デパート→秩父道標
2日目:熊谷駅〜バス乗車〜『植木』バス停下車〜新島の一里塚〜忍領石標〜熊野大神社〜愛宕神社熊谷宿概要
熊谷(くまがや)地名の由来に諸説あります。「クマガヤ」は「クマケヤ(神谷)」の意で、高城明神の鎮座によって起こったとする説、また辺り一帯が荒川の広域河川敷の一部で氾濫原だったので、古くから「曲谷(くまがや)」と言い伝えられてきた説、また、熊谷次郎直実の父直貞が人々を悩ましていた大熊を退治したことから起こったとする説などがあります。
平安時代中期、武蔵七党と呼ばれた武士団の一つに私市直季(きさいなおすえ)率いる「私市(きさい)党」がありました。1053(永治元年)年、私市直季(きさいなおすえ)は武蔵の国の目代(もくだい・がんだい……国司の私的代理人)として熊谷に館を定め、地名をとって初めて熊谷姓を名乗りました。その後、約30年に渡って政治を行い、熊谷の基礎を作りました。武将で名高い熊谷直実(くまがいなおざね)(のちの蓮生法師)は四代目になります。
江戸時代(1603年〜)の頃の熊谷宿は、忍藩(おしはん)の領地で、中山道の宿駅として、忍・秩父・川越・太田・足利方面への脇往還が通じていました。
1665(寛文5)年頃の記録では、熊谷宿の通りは9町6間(約1K)で246軒の家が中山道の両側に並びその裏側や南側には松や杉が茂っていました。
1812(寛政12)年頃には家数937件、人口3276人、多葉粉(たばこ)屋、旅籠屋、穀物屋、太物屋、油屋、肴屋、うどん屋、湯屋、金物屋、酒屋、餅屋、紺屋、材木屋、薬種屋、古着屋、紙屋、瀬戸物屋、合羽屋、などが有りましたがその多くが半農半商でした。
1843(天保14)年の『中山道宿村大概帳』によれば、熊谷宿の宿内家数は1,715軒、うち本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠42軒で宿内人口は3,263人とあります。宿内の中町に大小の旅籠がありましたが女郎衆を置くことは禁じられていたので、大きな宿場の割には落ち着いた街並みだったそうです。
1868(明治元年)年、明治政府になって廃藩置県の政策がとられます。忍藩が治めていましたので明治4年には「忍県」、その後「入間県」、入間県と群馬県廃止により明治6年には「熊谷県」……(熊谷県庁は熊谷寺の庫裏を仮庁舎とする。支庁は川越、秩父、前橋となり、人々はわけも解らずケンチョウガクル、ケンチョウガクルと喜んだそうです)、がわずか3年後の明治9年には熊谷県も廃止となって、埼玉県と群馬県に分かれます。以後、熊谷は埼玉県の管轄となって現在に至っています。
明治16年に高崎線が開通して「熊谷駅」が設置されましたが、その時に売られた駅弁が日本初めての駅弁となっています。昭和10年には陸軍飛行学校が開設されたこともあって昭和20年の空襲により町の70パーセントが消失してしまい、宿の面影はほとんど無くなりました。営業中のデパートの中が、旧中山道として通行可、という珍しい現象を持つ宿場でもあります。
宿があった江戸時代は「くまがい」と呼称されていましたが、現在の正式な自治体名は「くまがや」です。現在でもお年寄りの中には「くまがい」と呼んでいる方も多いそうです。日本の中でも岐阜県多治見市についで埼玉県熊谷市は最高気温の多いところで有名です。先回の「吹上間の宿」では、熊谷土手を途中で降りてJR高崎線「行田駅」で終了しましたので、本日はその続きを歩いて熊谷宿に行きたいと思います。行田駅より熊谷土手(荒川土手)に。菜の花の咲く季節になっています。 1、行田駅〜久下一里塚
土手を歩いて行くと右下にお稲荷さんが一緒に祀ってある「久下の一里塚」が見えます。その先の土手の中腹に「馬頭観世音碑」と彫られた石塔が建っています。天保12年と刻まれています。1841年のことですから、今から174年前、まさしく『中山道宿村大概帳』が記載された頃ですね。見上げると現在の土手がありますが、当時の中山道は一段下の細い道のほうです。石垣の跡もまだ少し残っています。細い道の土手を進んで行くと左側に水準点が(※1)あります。
案内の立っている下にマンホールがあり、その位置が水準点となります。その横に立っている大きな石碑は荒川の「修堤記録 輪型の碑」です。かつては輪型の碑と馬頭観世音碑の中間辺りに久下の渡しがありました。荒川の水量が多くなると沈んでしまう冠水橋だったそうです。想像をしながら歩いてきた荒川土手を振り返りながら土手を降ります。
久下神社に向かうために細い方が旧中山道。その土手を降りて久下公民館の前に出ましたが、公民館前の案内板に釘付けになりました。案内板の立つ位置は久下村ですが、土手を川方面に降りる反対側、つまり今まで歩いてきた荒川の河川敷となるところに、集落があったというのです。100年程前には河川敷一帯に舟運と養蚕で栄えていた久下新川村というのがあった、という案内板なのです。
じっくり看板を読んでから、その面影を現在の河川敷に重ねてみたいと、下ってきてしまった土手に再び上がりました。河川敷はところどころに緑濃い「屋敷森」が点在し、その周囲には確かに畑が広がっていることがわかります。人の住まう屋敷はすでに一軒も存在していませんが、荒川の土手をはさんで国道17号寄りの現在の久下村のほかにもう一つの久下村(久下新川村)があったという事実がとても驚きでした。
……先ほど輪型の碑がありましたが、人と荷馬車、農作業の大八車が超えるにはあまりにも大きな土手を、荷物を積んで牛馬も超えていったのでしょうね。河川敷は畑の様子やこんもりとした森の様子があって、どう背伸びしても荒川の本流が全く見えず、あまりにも広すぎることに疑問を持っていましたが、河川敷でありながらかつては人が住んでいた形跡のある広い屋敷森の点在する村跡で有ったのですね。河川敷のあまりにもの広さがやっと解りました。
公民館前の久下新川村が存在した印の看板には村の生活の様子が細やかに書かれていました。荒川を利用して江戸などに資材物資を運んで栄えた村がかつてあった……と。遠い森影に当時をしのびながら再び堤防を降りました。

※1
水準点とは全国的に決めている高さの情報で、日本の土地の高さ(標高)は、東京湾の平均海面を基準(標高0m)として測られています。東京湾の平均海面を地上に固定するために設置されたのが日本水準原点です。現在は国土の測量や地形図の作成は国土地理院が行っていますが、戦前は軍事機密にも関わるため、陸軍の陸地測量部が担当していました、1991(明治24)年に全国の測量の基準となる水準原点が当時陸軍省の敷地だった国会議事堂の北の前の庭にあります。
見ることはできませんが、「台石に取り付けた水晶板の目盛の零線の中心」に当たり、その標高は24.4140メートルと定められています。これを基準として日本各所の土地の高さを水準測量によって導き出しているわけである。では、水準原点の標高が24.4140メートルとは一体どこからの高さかというと、これは東京湾の平均海面の水位を基準としています。具体的には東京湾の隅田川にある霊岸島の検潮場で1873(明治6)年から6年間にわたって測定した東京湾の潮位の平均値を標高0メートルと定め、これに基づいて水準原点の高さを測量し、日本全国の高さを測る不変不動の基準としました。もっとも、水準原点の標高は絶対に不変というわけではなくて、関東大震災による地殻変動で、土地が低くなってしまい、再測量の結果、得られた数値が24.4140メートルということですが、2011年3月11日の東日本大震災の影響で、日本水準原点は2.4センチ沈降しました。それですから2011年10月21日付で24.3900メートルへと88年ぶりに修正されたそうです。 2、久下神社〜みかりや跡
小学校の先に久下神社があります。源頼朝の前で熊谷直実と領地争いをした久下直光が創建した三島神社が始まり。後に周辺の神社を合祀して久下神社と改名されています。
久下神社を過ぎた辺りが久下の立場があったところの様ですが、特に何の説明も残っていません。白木蓮がほころびかけている街道を進んでいくと「新井」という表札の格式のありそうな佇まいの家屋が見えます。新井姓は関東地方北部特有の名字で、埼玉県北部から群馬県東部、栃木県西部に多いそうで、新井姓の約半分は埼玉と群馬にみられる。そういえば、かの有名な新井白石群馬県太田市の出身、などなどと思いながら写真を撮らせて頂きました。曲がりくねった道を進んでいくと旧中山道はまた荒川土手(熊谷土手)に上がるようです。土手に上がる手前にまたまた「権八地蔵」があります(熊谷市指定有形民億文化財)。吹上宿の説明でもお話しましたが同じ権八地蔵です。どちらが本当の物なのか定かではないそうです。このあたりは熊谷堤に突き当たった丁字路の追分で右に行くと中山道熊谷宿、左に行くと久下の渡しで荒川を渡って松山宿。1787(天明)年に建てられた灯篭が権八地蔵堂の前にありました。
荒川土手を再び降りるとみかりやの跡。『みかりや』とは忍藩藩主安倍豊後守が狩りの時に立ち寄り、休憩をするときに柚餅子(ゆべし)を注文していたとのことで、狩り場のそばにあったことから『御狩屋』というのれんを賜ったと、ということが説明板にありました。

3、東竹院〜ムサシトミヨ(埼玉県指定天然記念物)〜八丁一里塚
『みかりや跡』を出て道なりに直進していくと右側から出てきた道に合流します。しばらく行くと左側にあるのが「東竹院」です。開基は久下直光で熊谷次郎直実の叔父にあたる人物です。墓所はまあそれなりに時代物ですが、境内にある達磨の形に似た石がおもしろかったです。江戸時代の寛文年間(1661〜1672)に忍城主の命令で秩父から荒川を利用して運んでいた石ですが、途中の久下辺りで荒川の中に落ちてしまったそうです。それが1925(大正14)年に東竹院前の河原で発見された!というのです。約260年の年月を経て、見つけてもらうのを待っていたなんて、さすがに達磨さん、忍耐強いという落ちもあって、歴史としてはおもしろい伝説ですけれども、この石、達磨ねぇ、と思ってみれば見られないこともありませんが。
東竹院を出て北上します。10分くらいで元荒川通りと交差する手前の川に出あいます。世界でも熊谷市にしか住んでいないムサシトヨミが生息する元荒川です。ムサシトミヨは漢字で書くと→「武蔵富魚」です。トゲウオ科に属する体長4〜5センチの淡水魚で絶滅危惧種です。サラサラとした清い流れですが理由があります。
ムサシトミヨは清流でなければ育ちません。市街地を流れる川にはもう清流はありません。清流にしか住めない絶滅危惧種であるだけに、普通の川の状態ではもはや生息させられないということで、実は上流の熊谷市ムサシトミヨ保護センターからポンプで汲み上げられた地下水がここに流されてきているのです。先回の東京オリンピック時の建設ラッシュで荒川の土砂が大量に採取されて、豊富に湧き出ていた地下水が枯れてしまったのだそうです。なるほどね。きれい過ぎた水の理由です。
元荒川通りを横切って『元荒川基点の碑』を横目に進んで行くと、曙町に出ます。万平自治会館奥に小さい社があり一里塚の名残となっています。久下の土手にあった一里塚から一里の場所にあり、その間に八丁の堤(久下の長土手)があったことからここを『八丁の一里塚』と言ったそうです。街道は熊谷駅に向かって都会風になってきます。

4、熊谷駅〜高城神社(境内にある常夜灯……深谷市指定有形民俗文化財)〜本陣跡(熊谷市指定文化財)
八丁の一里塚から街道は緩やかに都会モードに変化して曲がっていきます。高崎線の踏切を越えて駅前の少し手前の交差点を右手に取って旧中山道は国道17号へと続きます。その後、しばらくは国道17号を北上。駅前に熊谷直実の銅像の雄姿があるので撮影を。熊谷直実はこの先にある熊谷寺(ゆうこくじ)の辺りの館で生まれ、二歳のときに父を亡くしたので叔父の久下直光に養育されます。兜に扇子を掲げた銅像。凱旋の後なのでしようか、荒々しい息遣いが聞こえそうな馬に乗って熊谷駅の方を向いています。自動車の洪水と林立するビル群と新幹線の駅のこの発展を、『熊谷』姓を名乗った一番乗りの熊谷直実はどう思っていらっしゃるのでしょうね。
国道17号には旧中山道の面影というか大正時代の家が多少残っているようです。呼び止められてお伺いした雑貨屋さんは裕次郎さんの写真でいっぱい。古いコマーシャル写真も多く黒光りした居間に時代を感じました。
その先に見えてきたのは高城神社。立派な鳥居です。創建年代は不詳ですが905(延喜5)年の延喜式内社(※2)に示される古社です。江戸時代には忍藩主阿部豊後守忠秋公により、1671(寛文11)年に社殿の寄附を受けたそうです。神話の神・高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)(「古事記」では高御産巣日神。別名に高木神)が祀られています。
神社の入り口にある常夜灯は青銅製で高さ275cmもあります。1841(天保12)年に造られたものです。常夜灯が作られた1841年は伊藤博文が長州藩で生まれていた年、水野忠邦が天保の改革をした頃、ジョン万次郎がアメリカに向けて出発した頃ですね。見上げなければならないほど大きい常夜灯ですが、当時の紺屋150人程の奉納者名が刻まれています。樹齢800年以上と云われる「御神木の欅」も境内に注連縄を飾られてありました。
このあたりの街並みは楼閣とまでの建築ではないものの、料理屋風情の町家や蔵がところどころに残っています。


※2
古代日本の社会制度である「律令制」の中で、刑法にあたる「律」、行政法その他にあたる「令」、令の追加にあたる「格」 、法律の施行細則にあたる「式」からなります。
「延喜式」は全50巻から成る律令の施行細則を記載した書物です。その中の神名帳は国家が神祇祭祀をどのように行うかを定めた「延喜式」に付随したもので、祭祀を行う対象の神社を一覧表にしたものです。記載されているのは国、郡別に(当時の)神社名と祭祀の「格付け」です。「幣を案上に奠らざる神」が433座。宮中ではなく地方の国司が祀る神2395座(国幣社)。そのうち大社と記載されるのが188座。それ以外(国幣の小社)が2207座となっています。
この神名帳に記載されている神社を「延喜式内神社」または単に「式内社」と称しています。延喜式の完成時点(延長5年=927年)に確実に存在していたことがわかり、今日までその神社が継続しているのであればそれだけ歴史のある(由緒がある)神社であり、当時においても有力な神社ということになります。
バスの停留所のような雰囲気ですが、いよいよ本陣です。
立て札が残るのみの少し味気ない熊谷宿本陣(竹井本陣)です。かなり大きかった本陣のようです。市の教育委員会立て札が立っています。内容は以下です。
『本陣は、江戸時代初期の寛永12年(1635年)、諸大名に対する参勤交代制度が確立されてから各街道の宿場町に置かれたものである。諸大名や幕府役人・公家貴族などのための特別な旅館であり、門・玄関・上段の間を具えることができて、一般の旅館(旅籠屋)とは区別されていた。従って、本陣の経営者も土地の豪家で苗字帯刀を許されるものが多かった。熊谷宿の本陣は、明治17年(1884年)の火災と、昭和20年(1945年)の戦災で跡形もなく灰燼に帰してしまったが、嘉永2年(1849年)一条忠良の娘寿明姫宿泊の折、道中奉行に差出した本陣絵図の控えが竹井家に残っており、その絵図によって内部の模様が細々と分かる。中山道に面し、間口14間5尺(約27米)で、奥は星川にまで至り、上手の御入門・下手の通用門・建坪・部屋数・畳数など全国に現存する旧本陣と比べても規模・構造共に屈指のものである』
また、『壬戌紀行』(1802(享和2)年3月21日、大田南畝が大坂銅座詰の任を終えて大坂を立ち、木曾路を経由して4月7日に江戸に着くまでの紀行)の中には次のように書いてあるそうです。
『熊谷の駅にいれば道はゞ岡部よりもひろく、人家ことに賑ひて江戸のさまに似たり。木戸にいらんとする左のかたに蓮生寺みえしが、日高ければ宿につきて後にみんとて行過しぬ。人家に即席御料理など書かるる看板あり。薬うるものゝ軒に出せる招牌に、薬種とかける文字はじめて楷書に書きて、江戸の薬舗に異ならず。去年東海道よりはじめて京大坂の町々をもみしに、薬種の文字はかならず草書に書きてみえしが、けふはじめて江戸にいれる心地す。かばかりのものも故郷なつかしく覚ゆるは、旅人の心なるべし』。屈指の大きさを誇った熊谷宿はさぞかしにぎやかであったでしょうね。熊谷宿を人々が行き交う息遣いが『壬戌紀行』の中からガヤガヤと聞こえてきそうです。蓮生寺とは蓮生山熊谷寺(れんしょうざんゆうこくじ)のことで、1205(元久2)年、熊谷次郎直実の館跡に建てられた寺のことです。公開はされていません(時々公開有り)が後に通過します。現在の本陣の跡の碑の前には大きな銀行があります。斜め前方に見えているデパートが、旧中山道が店内を通っているという珍しい光景になります。後に通過します。
本陣の横の鎌倉町交差点は追分で、八王子通り大山道の起点となります。 5、星渓園(熊谷市指定名勝)
竹井本陣の別邸。1623(元和9)年、星渓園の西方にあった荒川の土手(北条堤)が切れて洪水になりました。その時に出来た池ですが湧き水も出るようになって、玉の池と命名されました。回遊式庭園で星川の源流となっています。星溪寮、松風庵、積翠閣の数寄屋風建物の三棟が配されています。昭和初期、この地を訪れた前大徳牧宗禅師が、「星溪園」と命名。昭和25年に熊谷市が譲り受け、昭和29年に市の名勝として指定されました。平成2年から4年にかけて園内の整備が行われた際には、老朽化の見られた建物は数奇屋感覚が取り入れた上で復元されています。訪れた季節は3月、赤い椿と深い緑と落ち着いた池の周囲の景観でした。緩やかな坂を上下しての散策路が設けられています。

6、熊谷寺〜八木橋デパート〜秩父道標
旧中山道をはさんで星渓園の向かい側にある熊谷寺です。公開は原則として日曜日、平日は事前予約申込者のみ参拝可)。
武将として名高い熊谷直実は、1141(永治元年)年に熊谷の館で生まれています。二歳のときに父をなくしたので叔父の久下直光に養育されました。直実が生まれた熊谷の館という所が、今の熊谷寺に当たります。直実は源頼朝に「日本一の剛の者」と評せられた武蔵武士であり、「一の谷の合戦」では、敦盛を討ち取りますが、世の無常を感じて出家します。『蓮生法師(※3)』となった直実は熊谷に戻って小さな草庵で余生を送ります。直実の没後350年余り、庵は荒廃しますが蓮生を慕ってこの地を訪ねた京都の高僧、幡随意上人がその草庵を熊谷寺として再建します。やがて熊谷寺は幕府から寺寮30石を拝領して門前の熊谷宿周辺は栄えました。
当初の熊谷寺は1854(安政元年)年に火災で焼失しています。明治中期から後期に蓮生法師700年忌を期して上棟されたのが、現在の熊谷寺です。みせていただけたらなあ、という思いで塀越しに写真を数枚頂きました。


※3
熊谷直実が「蓮生法師」名乗ったいきさつには下記のような話が残されています。
一の谷の戦いのときのことです。直実は、幼い頃から弓矢の達人で、源頼朝に「日本一の剛の者」とほめられるほどでした。一の谷の合戦で平家は敗れ、平敦盛(たいらのあつもり)が馬に乗って逃げているときに、直実がその後ろ姿を見つけて首を取ろうとしました。しかし、敦盛がまだ自分の子供と変わらない年齢だったことと、きれいな化粧をしていたので助けてやりたいと躊躇します。が、源氏が後ろから迫っていたのと、自分の命がない事を覚悟した敦盛から「私の首を取ってから行け。大手柄になるだろう。」と言われ、泣く泣く切り落としたということです。その後、今までの自分のしてきたことに罪を感じ、法然上人に、救いを求め、「弟子にしてください」と頼み出家しました。「蓮生」は、「一蓮托生」から。罪深く殺した人々と一緒に、極楽で同じ蓮華の上に身を託すと言う意味からきているそうです。
八木橋デパートは中山道中のなかでも面白い体験です。商魂かな?とも疑いましたが(ゴメンナサイ)、店内を通過してみて、純粋に旧中山道をたどる気持ちを優先させているという感じで、店内中仙道には案内もあり、通路も広めに取ってありました。通行人を目指してセールをしているわけでもなく、ただただ通しているという感じです。どうして店舗の中を通るようになってしまったのかというと、八木橋デパートは1897(明治30)年創業で、元々の店舗は北側(右側)にあったのですが、1989(平成元年)年に熊谷市の再開発事業で南側(左側)に増床をして、旧道を取り込む形となったということです。
八木橋百貨店前には中山道の石碑、宮沢賢治が立ち寄った時の句碑などが残されています。
そのまま店内を抜けて一番街と書かれている道路に入っていくと八坂神社が路地の角にあります。八坂神社の疫病退散のお祭りで各家で赤飯を炊いてどんな来客にも振る舞っていたのが、配るものがその後は団扇に変わり、熊谷うちわ祭と呼ばれるようになったといいます。参勤交代の行列もこの団扇祭りに出会うと通行路を買えたといいます。
八坂神社を過ぎて閉じられた店舗が多い商店街を進んでいくと、国道17号の歩道橋が見えてきます。石原一丁目の交差点その脇の公園の中に秩父道志るべ(埼玉県指定旧跡)があります。
『秩父道志るべ』は室町時代から始まった秩父札所の観音信仰の巡礼者の為のものです。江戸からの順路の一つとして、この石原で追分となって札所の一番の四萬部(しまぶ)寺に行ったそうです。公園の中にある3基は年代こそ違いますが、いずれも道標です。左側にあるのが「ちゝぶ道 志まぶへ十一リ」。建立は1766(明和3)年。これだけが県の指定旧跡となっています。真ん中が「秩父観音順禮道一ばん四万部寺へ/たいらみち十一里」と刻まれています。1858(安政5)年製です。右側が弘化4年(1847)製の宝登山道道標で、「寶登山道 是ヨリ八里十五丁」と刻まれています。元々は歩道橋のあたりにあったそうです。足もホトホトくたびれましたので今回はここで終了です。 7、新島の一里塚・忍領石標〜愛宕神社
先回は歩き疲れて熊谷宿を網羅できずに挫折(笑)。秩父道志るべのある歩道橋の公園脇で終了しました。今日は再び熊谷駅にやってきて新島一里塚から出発するためにバスに乗りました(先回に新島一里塚近辺までバスがあるのを確認した。ラッキー!)。さて一里塚。「新島一里塚(植木一里塚)」ですが、樹齢300年のケヤキが残っています。ばっさりと樹木医に手術をされたような姿でしたが、後方からは葉も出てくる気配がある様子。ちょっとホッとしました。
一里塚の先に「忍(おし)領石標」(埼玉県指定文化財遺跡)が左側にあります。
「従是南忍領」とあります。徳川御三家に次ぐ親藩であった忍藩が1780(安永9)年に16ヶ所に建てた藩境の1本で、明治維新のときに撤去されたまま行方不明だったものが、昭和14年に発見されてこの地に再建されたそうです。
道は続きます。雨の日でしたが、早春の花は紅梅も木蓮も洗われてきれいでした。久保島歩道橋に出て17号を横切って旧道に入って行きます。バスも通っている道です。長い土塀の続く旧家などを見て、更に玉井南の交差点を直進して、緑一色の麦畑の中を歩きます。とに角テクテクと。
深谷市指定文化財の「熊野神社」もあっさりと過ぎようとしたのですが、本殿の彫刻があまりにも見事だったので、石の柵の間から写真を撮りました。
熊谷宿最後は「火之神 愛宕神社」です。愛宕神社が所在する昔の地名、武州幡羅郡原郷村の歴史書の中には以下の文章があります。
『元禄の検地以後百年の間に、村の家の数が五十一軒も減ってしまった。畑が余ってしまひ、芝地となって耕作放棄地とみなされないように、林に仕立て替へをして(入会地として)薪などを採って少しでも年貢負担が軽くなるように取り計らってもらった。
五十一軒も家が減ったのは、深谷宿へ移住したり江戸へ出て商売を始める者が多かったためと思はれる。江戸時代には江戸や宿場町の人口は著しく増大したが、特に関東の在の村々の人口は、どこも減少傾向であったらしい。原之郷村の人口の減少は極端なところがあるが、畑は山林となり、土地交換などで愛宕林の周辺に山林が集まるようにしていったのだと思はれる』。
現在は何も説明のないひっそりとした愛宕神社ですが、かつては広大な森林の中にあったようです。地名的にはもう次の宿の深谷に入っているようです。今回はここまでです。


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