滋賀県大津市 比叡山 延暦寺
Hieizan Enryakuji,Otsu city,Shiga
(一部京都市にまたがる)
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大津市坂本本町4220 延暦寺根本中堂 国宝 近世以前/寺院 江戸前期 寛永17(1640) 桁行十一間、梁間六間、一重、入母屋造、瓦棒銅板葺須弥壇及び宮殿3具 18990405 19530331
大津市坂本本町4220 延暦寺根本中堂廻廊 重文 近世以前/寺院 江戸前期 寛永17(1640) 桁行折曲り四十一間、梁間二間、一重、両下造、正面前後軒唐破風付、両側面車寄各唐破風造、とち葺 18990405
大津市坂本本町4220 延暦寺常行堂及び法華堂 常行堂 重文 近世以前/寺院 桃山 文禄4(1595) 桁行五間、梁間五間、一重、宝形造、向拝一間、とち葺廊下1棟 19550622
大津市坂本本町4220 延暦寺常行堂及び法華堂 法華堂 重文 近世以前/寺院 桃山 文禄4(1595) 桁行五間、梁間五間、一重、宝形造、向拝一間、とち葺 19550622
大津市坂本本町4220 延暦寺相輪とう 重文 近代/宗教 明治 明治28(1895) 青銅製相輪? 19170813
大津市坂本本町4220 延暦寺大講堂(旧東照宮本地堂) 重文 近世以前/寺院 江戸前期 寛永11(1634) 桁行七間、梁間六間、一重、入母屋造、向拝三間、銅板葺 19870603
大津市坂本本町4220 延暦寺転法輪堂 重文 近世以前/寺院 室町前期 貞和3(1347) 桁行七間、梁間七間、一重、入母屋造、とち葺形銅板葺 19000407
大津市坂本本町4220 延暦寺瑠璃堂 重文 近世以前/寺院 室町後期 室町後期 桁行三間、梁間三間、一重、入母屋造、檜皮葺 19120208
January 15,2022 大野木康夫 source movie
1月14日に近畿北中部に雪が降ったので、奥比叡ドライブウェイの通行止めが解除されるのを待って、翌日午後に比叡山を訪問しました。
奥比叡ドライブウェイ
横川
参道
横川中堂
赤山宮
横川鐘楼へ
横川鐘楼(重要文化財)
部分撮影
元三大師堂へ
元三大師堂
四季講堂(重要文化財)
部分撮影
元三大師御廟へ
元三大師御廟
元三大師御廟拝殿(重要文化財)
部分撮影
御廟
帰路
根本如法塔
西塔へ
西塔駐車場
参道を浄土院へ
浄土院
浄土院拝殿(重要文化財)
部分撮影
御廟へ
伝教大師御廟
浄土院唐門(重要文化財)
部分撮影
伝教大師御廟(重要文化財)
部分撮影
西塔へ
常行堂及び法華堂(重要文化財)
常行堂
部分撮影
法華堂
部分撮影
渡廊
転法輪堂へ
転法輪堂(重要文化財)
部分撮影
西塔鐘楼(重要文化財)
部分撮影
相輪橖へ
相輪橖(重要文化財)
部分撮影
瑠璃堂へ
瑠璃堂(重要文化財)
部分撮影
帰路
東塔駐車場
参道
戒壇院(重要文化財)
部分撮影
大講堂(重要文化財)
部分撮影
鐘楼
根本中堂(国宝)は修理中
修理現場公開
文珠楼への石段は通行止め
文珠楼(重要文化財)
部分撮影
根本中堂覆い屋を見下ろす
山王社(重要文化財)
部分撮影
東塔 諸堂
西塔 諸堂
瑠璃堂
横川 諸堂
元三大師御廟
Ganzandaishi gobyo
仰木の棚田
本尊:薬師如来 宗派:天台宗 創建:788(延暦7)年 開基:最澄
小雨が降る中での訪問は始めてである
叡山ケーブル:叡山駅
根本中堂の改修
総本堂である根本中堂の10年がかりの大改修が始まった。総工費約50億円、61年ぶりの改修である。
大改修は屋根の葺き替え、極彩色に彩られた蟇股彫刻や金具の塗りなおし、柱や軒廻りの改修などが行われる。
現在根本中堂の屋根や壁が覆われており、来年3月になると外からは見られなくなる。
4月には中庭に4階建ての「ステージ」が出来上がり、間近に改修の様子がうかがえるよう整えられる。
現在の建物は1571年9月、織田信長による焼き打ち後、徳川三代将軍、家光の命で1642年に再建されたもの。国宝である。
堂内は撮影禁止のため記憶に残すのみである。
建物の内部の概略は
外陣、中陣と内陣に分かれる天台仏堂特有の形式である。本尊の秘仏、薬師如来を安置する宮殿(くうでん)である内陣は、中陣より3m低い。
つまり内陣にいる一般参拝客と同じ高さに本尊がおられる設計になっている。
中陣の格天井には約200個の花の絵−「百花図」が描かれている。各地の名産を大名が献上したもの。その中に『カボチャ』が含まれている。
宮殿の前には3つの吊り燈籠がある。創建以来1200年間灯り続ける『不滅の法灯』である。
現在の補修技術で、江戸時代の匠の世界をカバーできるか楽しみである。でも10年後〜見られそうにない。
雨の境内散策の始まりは無動寺谷からである。
無道寺谷周辺を目指して約20分歩く。距離は約2km 参道には回峰行を満了し阿闍梨となられた行者の記念石燈が並ぶ。
無動寺谷(むどうじたに)「叡南」「南山」とも称される。
無動寺は千日回峰行の拠点である。無動寺谷には、明王堂、連立同上、大乗院、法曼院、弁天堂がある。
弁才天堂参道前に着く 無動寺谷への参道(無動寺坂)が続く 今回は参拝を行わない。
無動寺弁天堂は寛永年間(1624〜44)の創建で、回峰中の相応和尚を守護するために白蛇として現れた弁財天を祀っていると伝えられる。
無動寺 正式名:比叡山無動寺 宗派:天台宗 本尊:不動明王 創建:865(貞観7)年 開基:建立大師相応・千日回峰行の祖 宗派
手水舎周辺
「堂入り」を行った行者が一日一回本尊に捧げる清水を取水に明王堂からやって来る。距離は200m
明王堂(本堂) 国重要文化財
相応和尚は葛川に参籠した際、生身の不動明王を感得。863(貞観5)年等身大の不動明王像を造立し、865(同7)年無動寺谷に一同を建立、その像を安置した。これが無動寺明王堂の開創と伝えられる。元慶6年(882)には勅により天台別院となり、延喜15年(915)には藤原仲平により三間の仏堂に改築されました。現在の明王堂は1843(天保14)年の火災後再建されたもの。
回峰行の根本道場で千日回峰行者が根拠とする寺院。「堂入り」の儀が執り行われる。
鐘
堂入りして9日間、断食・断水・断眠 ・断臥の行を満行し出堂の儀が行われるとき撞かれる。
法曼院
明王堂の石段を下りた所にある 無動寺谷の総本坊
千日回峰を満行した大阿闍梨が輪番で住持して相応和尚を祀り、回峰行者の思想をされる。
明王堂の直ぐ下の石段を下りた所にある。緩やかな坂の道もある
社殿
法曼院からの琵琶湖の眺めは叡山第一といわれるが雨でダメだった。
無動寺谷から叡山駅に戻り、雨に濡れた延暦寺を散策する。
アプローチ 参道を往く
文殊堂—国重要文化財とそ周辺
文殊菩薩を本尊とする修行の道場。「文殊の知恵」で親しまれ、試験シーズンになると祈祷札が並ぶのは昔も今も変わらない。
慈鎮和尚(慈円)歌碑
石段を登った右側に立つ。「おほけなくうき世の民に おほふ哉 我たつ杣に 墨染の袖」(百人一首)
慈円(1155〜1225)は鎌倉時代初期の天台宗の僧で、天台座主に四度も任命されるなど、父は関白藤原忠通。九条兼実は兄にあたる。
『愚管抄』を著したことでも知られるが、歌人としても名高く、『新古今集』など歴代の勅撰集に多くの歌が収められている。
報恩会のあとの和歌会で詠んだ和歌2首を記した慈円の「懐紙」は国重要文化財指定となっている。
61年ぶりの根本中堂の大改修・ほか
大講堂−国重要文化財とその周辺
学問修行の道場。現在の建物は1956(昭和31)年の焼失後に、坂本にあった讃仏堂を移築したもの。
国宝殿
1992(平成4)年に開館。国宝・国重要文化財を含む寺宝の展示と仏教関連資料の調査・研究施設でもある。
ここでいう「国宝」は、宗祖最澄の著した「山家学生式」の中の「一隅を照らすこれ則ち国宝なり」に由来する。
最澄は「国宝」とは「物」ではなく「人の心」であると述べている。(HPより抜粋)
境内配置を再確認する
バスで西塔に向かう
にない堂−国重要文化財 (法華堂・常行堂)
二堂が渡り廊下でつながっている。「弁慶のにない堂」として知られる。法華と念仏が一体であるという延暦寺の教えを建物で表している。
恵亮堂と円戒国師寿塔
石段の手前左側に建つ。恵亮堂は西塔の発展に寄与した恵亮和尚を本尊に祀る。寿塔は生前墓のこと脇に石仏が並ぶ。
釈迦堂−国重要文化財
西塔の中心。現在の建物は、信長の比叡山焼討後地、秀吉が園城寺の弥勒堂を写したもので、山上では一番古い。
内陣特別拝観
秘仏本尊:釈迦如来像が33年ぶりに開帳された。雨を押して拝観する人が多かった。
椿堂
聖徳太子が杖にしていた椿の枝を咲いて帰った所、椿が一面に育ったというのが名前の由来。本尊は千手観音
最終バスの時間をにらみながら駆け足で浄土院を訪れた。
浄土院
伝教大師の御廟所。比叡山で最も正常な聖域。大師は822年位入寂された。
御廟を守る僧は侍真と称し、12年間籠山の誓いを立てて行にはげむ。今も続いている。
山王社と山王院を取り違えたため、再度訪問しました。
朝一番に東塔に向かいました。
山王社(重要文化財)
慶安2(1649)の建築
三間社流造、銅板葺
大書院の前に建っています。
境内図に名称が書かれていません。
この日は子どもと一緒に訪問したので、各所を回りました。
東塔
西塔
相輪トウ(トウは木偏に棠)は修理中でした。
瑠璃堂
横川
7月25日付け告示で重文指定された建造物を中心に訪問しました。
今回指定された11棟は広大な延暦寺境内の各所に分かれて建っています。
慈眼堂(重要文化財)
所在地 滋賀県大津市坂本4-6-1
正保3(1646)年の建築
桁行三間、梁間三間、一重、宝形造、桟瓦葺
附:厨子1基
桁行一間、梁間一間、入母屋造、妻入、軒唐破風付、こけら葺
麓の滋賀院門跡付近に建っています。
苔むした境内はいい雰囲気ですが、柵があって撮影しにくい状況です。
今まで重要文化財建造物がなかった横川地区でも3棟が指定されました。
横川鐘楼(重要文化財)
18世紀前期の建築
桁行一間、梁間一間、一重、切妻造、桟瓦葺
横川中堂から奥に向かった正面にあります。
堅牢な感じがする朱塗りの鐘楼です。
四季講堂(重要文化財)
承応元(1652)年の建築
桁行五間、梁間四間、一重、入母屋造、瓦棒銅板葺
附:厨子1基
桁行一間、梁間一間、寄棟造、軒唐破風付、板葺
棟札5枚
宝暦四年三月、宝暦四年九月、天明元年九月、文化八年六月、明治一五年八月
おみくじの元祖、元三大師を祀っています。
四季講堂の前にある箸塚弁財天
元三大師御廟拝殿(重要文化財)
江戸中期の建築
桁行五間、梁間三間、一重、寄棟造、向拝一間、シングル葺
附:御廟瑞垣1棟 石門及び石柵からなる
鳥居1基 石造明神鳥居
短期の修理中でした。
アスファルトシングル葺の重文建築は初めてかもしれません。
背後の鳥居、石柵は附指定です。
帰路
西塔駐車場から浄土院に向かいました。
浄土院は伝教大師最澄を祀るところです。
浄土院拝殿(重要文化財)
寛文2(1662)年の建築
桁行五間、梁間三間、入母屋造、銅板葺
掃き清められた浄土院の奥に建っています。
浄土院伝教大師御廟(重要文化財)
寛文2(1662)年の建築
桁行三間、梁間三間、一重、宝形造、瓦棒銅板葺
附:棟札1枚 文化八年六月
拝殿から建物伝いに裏に回ると朱色の御廟があります。
石柵に囲まれており、厳かな雰囲気です。
浄土院唐門(重要文化財)
寛文6(1666)年頃の建築
一間一戸向唐門、銅板葺
浄土院から東塔へ徒歩で向かいました。
新指定の山王社と間違えて山王院堂を撮影
弁慶水
阿弥陀堂鐘楼(重要文化財)
寛永11(1634)年の建築
桁行一間、梁間一間、一重、切妻造、銅板葺
元は東照宮の鐘楼で、本地堂が大講堂として山上に移築された際に一緒に移築されました。
東塔、阿弥陀堂付近
戒壇院(重要文化財)
大講堂(重要文化財)
根本中堂(国宝)
まもなく修理に入ります。修理期間は約10年ということです。
文殊楼への石段
文殊楼(重要文化財)
寛文8(1668)年の建築
三間一戸二階二重門、入母屋造、銅板葺
坂本から本坂を上った際に山門として機能するようです。(延暦寺HP)
階上に上がることができます。
帰路にも山王院を撮影
天然記念物比叡山鳥類繁殖地の石碑
西塔に戻る
常行堂、法華堂(重要文化財)
転法輪堂(重要文化財)
西塔鐘楼(重要文化財)
18世紀中期の建築
桁行一間、梁間一間、一重、切妻造、銅板葺
転法輪堂(釈迦堂)前広場から左手の尾根の上に建っています。
太い柱が印象的です。
帰路
新指定の重要文化財建造物のうち山王社は下調べ不足で撮影できませんでした。
(8月5日に撮影)
今回は横川区域を訪ねた。京阪電車の「比叡山1dayチケット」がお得である。交通費が半額以下になる。
アプローチ、叡山電車「出町柳」から「八瀬比叡山口」
ケーブル八瀬駅まで新緑の中を少し歩く。
ケーブルとロープウェイで比叡山頂へ
バス乗り場まで少し歩く。シャクナゲの季節だ。シャトルバスで横川へ。
横川区域は慈覚大師円仁によって開かれ、源信、親鸞、日蓮、道元など、名僧たちが修行に入った地で、横川中堂を中心に聖域の雰囲気が漂っている。パンフレットと現地説明板。
青もみじの道を行くと、龍が池と龍が池弁天、観音石仏たち。
根本如法堂
第三世天台座主慈覚大師(円仁)が石墨草筆をもって自ら書写した法華経一部八巻を納める宝塔を建てたのが起源であり、横川発祥の聖蹟であるところから根本如法塔と称している。
釈迦・多宝の二仏を本尊とする。境内の地下からは如法経を埋納した銅筒や「金銅宝相華唐草文経箱」(国宝・延暦寺蔵)などが出土している。現在の塔は大正十四年(一九二五)篤信者山口玄洞氏の寄進で建てられたもの、塔前の小祠は法華経守護の三十番神を祀っている。
(現地説明板)
檜から樹皮を剥がす作業(檜皮葺の材料)など
横川中堂
このお堂は首楞厳院と称し、横川の中心となる大堂です。
第三世慈覚大師円仁上人が、嘉祥元年(八四八)に開創し、本尊に聖観音を祀った以来豊臣秀頼と淀君の再建したお堂は昭和十七年夏、雷火で焼失しましたが、幸いに本尊聖観音は災火を免れ、昭和四十六年伝教大師入滅千百五十年遠忌の記念として、当時を偲ぶ朱塗の美しい舞台造りが復元されました。
また、新西国観音霊場第十八番の霊場でもあり、善男善女の信仰のメッカです。
付近には横川全域に西国三十三所の観音石仏めぐりも出来、静寂な霊域でもあります。
(現地説明板)
護法石
鹿島明神、赤山明神影向へ古記・霊跡 影向石に曰わく両明神共に比叡山延暦寺の守護神である。特に赤山明神は比叡山東麓の守護神日吉山王に対して西麓の守護神である。
(現地説明板)
赤山宮
慈覚大師円仁和尚が勅許を得て、入唐留学の時、中国の赤山に於て、新羅明神を留学中仏法研究の守護神とし、勧請自らの呪命神として受持し、その功徳によって十年間修業が無事終わったので、帰国後この地に祀られました。
以来全国の寺院では、慈覚大師を天台法義伝承の大師と仰ぎ、赤山新羅明神を天台仏法守護神として祀っています。
御利益は除災延寿と方除の神として、赤山明神と拝唱し、地蔵菩薩の化身でもあります。
(現地説明板)
観音石仏の道
虚子の塔
高浜虚子は在京の折、比叡山に上り、紀行文「叡山参り」(明治四十年)を著し、横川中堂の政所(一念寺)に泊まり、小説「風流懺法」明治四十年)を執筆した。比叡山をこよなく愛した俳聖を称え、昭和二十八年十月に虚子の塔(逆修爪髪塔)が建立された。毎年、俳聖を偲ぶ法要が一族をはじめ、慕う方々参列のもと、元三大師堂において奉修されている。
清浄な 月を見にけり 峰の寺 虚子
(現地説明板)
「鎮嶺」石碑
一九九一年一月四日遭難した日中友好第二次梅里雪山学術登山隊隊員十七名(中国人5名、日本人12名)の慰霊のために建てられた。
恵心堂へ向かうと、その途中に海軍の慰霊塔が並ぶ広場がある。
恵心院
恵心僧都の旧跡で、藤原兼家が元三慈恵大師のために建立した寺です。門前に「極重悪人無他方便唯称弥陀得生極楽」とあるように、念仏三昧の道場です。恵心僧都は恵心院に篭り、仏道修行と多くの著述に専念され、有名な「往生要集」や「二十五昧式」「六道十界ノ図」「弥陀来迎ノ図」等を著し、浄土教の基礎を築かれました。毎年六月十日のご命日には「二十五三昧式」の講式が唱えられ、僧都の報恩法要が営まれています。付近の都率谷墓地に恵心廟があります。
(現地説明板)
恵心堂の裏に錫杖を持つ石仏の上半分だけがある。
観音石仏道を戻り、さらに奥へ進む。
元三大師堂の境内へ
四季講堂(元三大師堂)
第十八代天台座主として十九年間在職され、延暦寺中興の祖として仰がれる慈恵大師良源(元三大師)の住房であった定心房の跡をついでいるお堂で、村上天皇の勅命によって春夏秋冬の四季に法華経の論議が行われたので四季講堂の名があります。また、はじめは弥勒菩薩を本尊としていましたが、いまは元三大師の画像を本尊としてお祀りして大師信仰の根本道場となっているので、元三大師堂の別名でも呼ばれ、親しまれています。
(現地説明板)
滋賀県指定文化財 建造物
延暦寺四季講堂一棟
(大津市坂本本町)
四季講堂は、桁行(けたゆき)五間、梁間(はりま)四間、一重、入母屋(いりもや)造、瓦棒銅板葺の建物です。四季講堂は、慈恵大師(元三(がんざん)大師)良源の住房の地に建ち、康保四年(九六七)以来、年間春夏秋冬の四回に法華経の論議がされることから、四季講堂と呼ばれるようになり、現存の建物は承応元年(一六五二)の建立になるといいます。
正面中央は双折唐戸(ふたつおりからど)、その左右に蔀戸(しとみど)と舞良戸(まいこど)をはめ、側面はほとんどが板壁で囲まれた素木造で、低い縁高欄が周囲を繞っている堂々として風格の建物です。蟇股(かえるまた)彫刻などに時代の特色がよくあらわれています。昭和四二年(一九六七)九月に滋賀県の有形文化財に指定されました。
平成五年(一九九三)一〇月一日 大津市教育委員会
(現地説明板)
鶏足院灌室
旧恵雲院
帰途
滋賀県大津市坂本本町4220
比叡山 延暦寺
パンフレットと現地説明板
冬季の公的交通機関は琵琶湖側の坂本ケーブルしかない。延暦寺駅から東塔地域へ歩く。24日は大雪の後、31日は雪解けの後であった。
国宝 根本中堂 江戸前期 寛永十七年(1640)
桁行十一間、梁間六間、一重、入母屋造、瓦棒銅板葺
国重文 根本中堂回廊 江戸前期 寛永十七年(1640)
桁行折曲り四十一間、梁間二間、一重、両下造、正面前後軒唐破風付、両側面車寄各唐破風造、とち葺
周辺
市文 文殊楼 寛文8年(1668年)火災後再建
桁行三間、梁間二間、二重、入母屋造、銅板葺
周辺
大黒堂あたり
大講堂への石段と鐘楼
国重文 大講堂(旧東照宮本地堂) 江戸前期 寛永十一年(1634)
桁行七間、梁間六間、一重、入母屋造、向拝三間、銅板葺
前唐院と瑞雲院
国重文 大乗戒壇院堂 江戸中期 延宝(1673‐1680)
桁行三間、梁間三間、一重もこし付、宝形造、正面軒唐破風付、とち葺
東塔への石段と鐘楼
阿弥陀堂 昭和12年(1937)
法華総持院東塔 昭和55年(1980)再建
灌頂堂など
国宝殿
西塔地域への道
山王院堂
長い石段を下りていく。
浄土院(伝教大師御廟)
それから
椿堂
にない堂(常行堂、法華堂、廊下から成る)
国重文 常行堂 桃山 文禄四年 (1595)
桁行五間、梁間五間、一重、宝形造、向拝一間、とち葺 附廊下1棟
国重文 法華堂 桃山 文禄四年 (1595)
桁行五間、梁間五間、一重、宝形造、向拝一間、とち葺
西塔政所
恵亮堂あたり
国重文 転法輪堂(釈迦堂)室町前期 貞和3(1347)
桁行七間、梁間七間、一重、入母屋造、とち葺形銅板葺
周辺
国重文 相輪橖 明治28(1895)
青銅製相輪橖
一隅を照らす森
弥勒石仏
こんな石仏も
いったん奥比叡ドライブウェイに出てから再び山道をたどって瑠璃堂へ行く。
国重文 瑠璃堂 室町後期
桁行三間、梁間三間、一重、入母屋造、檜皮葺
山道を戻る。
西塔駐車場近くの弁慶杉
ひたすら、ケーブル延暦寺駅に戻る。
参考資料
延暦寺ウェブサイト
国指定文化財等データベース
ウィキペディア「延暦寺」
暑さにめげず人出は多かった。山頂では、ほんの少し和らぎが感じられた。 スタートは延暦寺坂本駅(国登録文化財) 日本最長の:ケーブル:2025m、山頂までは約11分
延暦寺」とは、比叡山の山内にある500haの境内地に点在する約150の堂塔の総称。延暦寺という一筒の建造物があるわけではない。
山内を地域別に、東を「東塔(とうどう)」、西を「西塔(さいとう)」、北を「横川(よかわ)」の三つに区分している。これを三塔といい、それぞれに本堂がある。
東塔巡りから始める。 東塔区域地図「延暦寺HPより引用」
万拝堂と大黒堂
本尊の大黒天は、「三面出世大黒天」と言われ、大黒天と毘沙門と弁財天が一体になった姿をしているとされる。
根本中堂
天台宗総本山の中心道場。最澄が比叡山にこもり、小さな草庵を結び、そこを一乗止観院と名付け法灯をかかげた。そのお堂の発展したのが根本中堂である。
現在の建物は、織田信長の比叡山焼き討ち後、徳川家光の命で再建された。 廻廊
左右に続く延長90mの廻廊は国重要文化財 廻廊のくぐり戸から中に入る。
根本中堂
建物は国宝 外陣、中陣、内陣に分かれる。全体が巨大な柱に支えられている。
中堂の外観
中陣の天井には草花の図が描かれ、内陣の中央壇の厨子には本尊(秘仏)が安置され、その前にある三つのつり灯籠には、1200年続く不滅の法灯が灯る。 文殊堂
国重要文化財 平安初期、円仁により創建され江戸期再建される。文殊堂は比叡山の総門の役目を果たす。
文殊堂は急な石段の楼上に安置されている。高低差20mもある石段の最上段は、根本中堂と同じ高さといわれる。
根本中堂遠景
中堂の優雅な姿が拝見できる。
鐘楼
国重要文化財 大講堂の前に建つ。除夜の鐘で知られる。
大講堂
国重要文化財 本尊は大日如来で、その左右には比叡山で修行した各宗派の宗祖の木像が祀られている。
ここで比叡山の主要行事が行われる。
戒壇院
重要文化財 天台宗の僧侶になるために必要な大乗戒を受けるところ。
戒壇院を西に進むと52段の石段がある。成仏に通じる石段で、人は悟りを開くには52の段階があり、それを一段一段修行を積み重ねると成仏に至るとされる。
法華総持院
平安初期円仁が創建.昭和期再建。東塔・灌頂堂・阿弥陀堂などの総称。
阿弥陀堂
国重要文化財 ここでは宗派を問わず先祖の回向が受けられる。
灌頂堂(かんじょうどう)
国重要文化財 密教の灌頂の儀式が行われるところ
東塔
国重要文化財 多宝塔形式に建てられている。法華経千部が納められている。
山王院
浄土院へ向かう石段
比叡歩きのだいご味が感じられる道の始まりである。両側には古い杉が聳えたち、石垣には苔が蒸している。石段はまっすぐに浄土院へ続いている。この道は回峰行者も通る道である。石段の先に、霧に包まれた浄土院がうっすら見える姿は言い難い重さである。(にわか雨の後に起こりやすい)
浄土院
最澄の眠る聖域 ここでは「待真」という修行僧が最長の霊前に仕えている。待真は12年間山にこもり、外界と隔離された環境で最澄の教えを実践している。
ここは枯れ葉の一枚、雑草の一本もないほどに清められて世界である。大師が今も生きておられるがごとく、お給仕を続け、定められた勤行や修法を実践する。
浄土院までを東塔、椿堂からが西塔と称される。
西塔を巡る 西塔は静かな修行の地である
西塔は釈迦堂を中心とする地域。東塔と西塔は、阿弥陀堂から浄土院を通り、椿堂へと延びる道で繋がれ、椿堂からが西塔と称される。
東塔からは約1kmの距離。
地図
浄土院より先に進む
椿堂
聖徳太子が椿の杖を立てたとき、それが根付いて茂ったという伝承を持つ。「常座三昧」の道場である。回峰行者も必ず立寄る。
草野天平詩碑(弁慶の飛び六法や日本野鳥の会を設立し、自然保護活動の草分けとされる)と中西悟堂の歌碑
恵亮堂
にない堂(常行堂と法華堂)
国重要文化財 二つのお堂を併せた名称で、お堂は渡り廊下で結ばれている。この廊下を天秤棒に見立てて「担い堂」という名がついた。
弁慶の逸話が残る。
法華堂には普賢菩薩が祀られ、90日間座禅を続ける行「常座三昧)、常行堂には阿弥陀如来が祀られ、90日間歩行しながら阿弥陀仏を唱え続ける行「常行三昧」の道場である。
釈迦堂(本堂)
転法輪堂ともいわれる。平安初期に創建、現在の建物は鎌倉時代のもの。西塔の中堂の役割を果たす。信長の焼討ちで焼失したが、秀吉の時、園城寺の金堂を移築したもので、今の比叡山では最古の建造物である。本尊は釈迦如来で伝教大師作とされる。
行者道
釈迦堂から横川まで、即ち西塔から横川までのおよその距離は3.7km。比叡山回峰行者が踏み固めた行者道で、峯道(みねどう)ともいう。
峯道に沿って進むと玉体林へ。玉体林は、回峰行者が石の蓮台に座り京都御所に向かって遥拝する聖な場所である。
この地点からの眺めは絶好とされるが樹木が邪魔する。。
横川
横川は争い事や俗事から離れ学問や研究をするに絶好の静寂の地。学問の道場として日本文化に大きな影響をもたらした。横川への道は、僧侶の行き交う道と元大三師信仰の参詣道からなる。参道の両側には、比叡山で学び修業した高僧の略伝を描いた絵が掲げられている。西塔から約4㎞の距離である。
横川中堂(本堂)
昭和17年の落雷で焼失したが、昭和46年に再建された。旧堂の寸法に合わせて忠実に造られた舞台造である。城壁を思わせる石垣は穴太積と称されるもの。
「元三大師」とは、正月三日に入滅した良源の大衆的尊称である。良源は「比叡山中興の祖」といわれ、学識・寺院経営・後継者育成の全ての面に優れた高僧であった。その一方で、「角大師」という疫病除けの護符や「定心坊」と呼ばれる漬物、や「観音百籤」というおみくじを考案するなど、いまだに仏門をくぐれぬ大衆への良き導きの師であった。
近くに元大師御廟・四季講堂(元三大師堂)がある。大原への道
元三大師道を介して横川と大原が結ばれる。
参考資料≪比叡山を歩く、延暦寺HP,他≫
西塔参道青もみじと桜
紅葉の比叡山京都盆地の雲海
何度訪れても根本中堂の大きさには驚かされます。その荘厳さに圧倒され静かに参拝しました。
夏の暑さに負けて、東塔のみの取材となりました。
京都西山トレイル:比叡山〜仰木峠〜戸寺口散策
京都市左京区~京都市右京区大原戸寺町京都一周トレイルは
京都の東南,伏見稲荷から,比叡山,大原,鞍馬を経て高雄,嵐山,苔寺に至る全長約70キロのコースと
豊かな森林や清流,田園風景に恵まれた京北地域をめぐる全長約40キロのコースからなる。
これらのコースを、閑な時間に併せて、順番に歩いて一周するのが大人気で、年間を通じて賑わう。今回は西山コース・比叡山から北山コース・仰木峠経由戸寺口(大原)までである。
京都西山コースとほぼ並走する東海自然歩道も併せ辿りつつ、比叡山内を主にめぐった。
これまでは、シャトルバスを使って建造物主体の拝観ばかりだったが、今回は自然を満喫しながらの比叡山
散策が出来た。高度800m前後の地点をぶらついている感じが全くしない。新緑が眩しい一日だった。
本日のコース
比叡山鉄道坂本駅〜延暦寺駅 比叡山ケーブル利用
比叡山延暦寺の表参道として、昭和2(1927)年に敷設された坂本ケーブル。
登録有形文化財に選定されたケーブル坂本駅とケーブル延暦寺駅間、日本最長の2025mを11分で結ぶ。
延暦寺駅舎
国登録有形文化財
入口の庇を支える金属製の持ち送りや2階の縦長の窓は坂本駅者と共通する意匠で、全体に重厚な仕上げ。
待合室は腰にタイルを張り、柱や梁・壁に陶器ビート繰型状の縁取りをつけるなど装飾を施す。
いよいよ徒歩での比叡山巡りの始まりである。標高800mもの高地点を散策しているとは思えず、自宅の周り
を歩くと同じ感じである。
西塔近辺までのコース
景色が素敵な標高700mの比叡ドライブウェ−から西山ルートの山道に入りすすむ。
NTT無線中継所や智證大師御?を過ぎると、やや高盛になっている場所にでる。大比叡である。
大比叡
標高848.3m、三角点が立つ。とても頂上の感じがしない。四明岳(838m)の方が高いと思われている。
ドライブウエ−に下りて大比叡を見ると納得できる。ガーデンミュージアム比叡が目に入る。
山道に戻り、かたまって自生している滋賀の県花“シャクナゲ”に目を奪われながら"つつじケ丘“を目指す。
つつじケ丘
標高700m程の地点。5月中旬頃より、色とりどりのミツバツツジが燃え出す。
絶景のポイントで、東は琵琶湖、北は丹波の山並みが幾重にも連なる。
蔵に送られて先へすすむ。新緑のトンネルは涼気に溢れている。山王院堂を過ぎると浄土院となる。
浄土院
最澄の御廟。最も神聖な場所とされる。今でも「十二年籠山行」を行う侍真僧が、生身の最澄に仕えるように
食事・掃除・読経・勉学などを修行する。ゴミ一つないまでに徹底的に掃除する厳しさは「掃除地獄」とも言
われ、励んでいる厳しさが伝わってくる。午前2時からの勤行に始まって、夕方の勤行まで厳しい修行が続く。
椿堂を経て、西塔を目指す。
聖徳太子が比叡山に登った時この山の幽玄さに打たれ、小堂を建て如意輪観音を祀ったとされ、そのとき杖に
していた椿の枝をさして帰ったところ見事な大木に育ったとされる。堂の左手の椿は高さ6m余の大木である。
西塔案内
にない堂(国重文)
法華堂・右と常行堂・左という二つの同形のお堂が並び、間を渡り廊下が繋いでいるので「にない堂」と称す。
武蔵坊弁慶がこれを担いで比叡山に登ってきたという俗説もある。
両堂とも厳しい修行の場として使われ、常行堂では不眠不臥で90日間歩き続け、阿弥陀経や名号を念誦する
常行三昧が行われる。法華堂では座ったままで法華経を念ずる常座三昧が行われる。
仏足石、転法輪堂(釈迦堂・国重文)、相輪とう
仏足石には輪宝、卍花、双竜などの瑞祥が7種類あるとされる。普段、釈迦堂までは訪れる人も少なく静かな
環境下にある。
本尊が釈迦如来にちなみ釈迦堂とも呼ばれる。延暦寺に現存する建物では一番古く、園城寺の金堂を秀吉の命
で移建したとされる。
相輪?はもともと最澄発願という由緒のある塔で、深い木立に囲まれポツンと立っている。
ここより京都・西山ルートに戻って横川を目指す。横川中堂までのルート。
奥比叡ドライブウ−のトンネルをくぐる。若山牧水の歌碑、可憐なクリンソウ?に出合う。
青龍寺は、比叡山西塔の別所黒谷にあり、叡空上人が当寺にいた時、法然上人が18歳で叡空上人を
師として隠遁し、25年に亘り修業究学したところである。
比叡ドライブウエ−と並行して続く山道は、回峰行道に入る。千日回峰修行で毎日通われる道である。
二河白道(にがびゃくどう)
浄土教で、阿弥陀仏の救いを説く比喩。火の河と水の河を人の貪欲と怒りにたとえ、この間にある白い
道は極楽に通じる道で往生を願う信心のたとえ。(ニ河白道図)
回峰行道はまだまだ続く。歩きやすい所の方が多い。
玉体杉
杉のたもとは、回峰行者が京都御所に向かって祈祷を行う場で、唯一休憩が出来る場所であった。
ここから見る景色もいい。琵琶湖や京都市街が一望できる。
玉体杉を過ぎると東海自然道を辿って横川中堂を目指す。
横川中堂
西塔から北へ4kmばかり。峯道と呼ばれる山道を歩いて1時間程。鬱蒼とした深い森と谷に囲まれている。
今の建物は、昭和16年(1946)開祖千百五十年遠忌を機に、慶長9年(1604)に竣工したものと原型通りに
再建された。(コンクリート造)
横川中堂を追え、奥比叡ドライブウエ−下のトンネルをくぐると西山ルートと合流する。
横川中堂からは、谷を上ってまた下がる。この道中の8割方は丸太作りの急坂な階段が続く。
この階段の段差が大きく非常に疲れる。
水が流れて階段周りの土砂が洗われ流されて段差が大きくなったようでその連続だ。
小股の70歳代にとっては大変苦痛な連続だった。
なおも続く丸太階段の道。それが終えると峠となる。峠手前300m辺りから緩やかになる。
標高573m
仰木と大原を結ぶ古くからの道。牛若丸も吉次に連れられて奥州へ向かった時通ったともいわれる。
大原三千院方面へは東海自然道を歩く。
ボーイスカウトの道
植林の中の急坂が続く。細心の注意が必要。
下り坂を下りる。集落に近づくと水の流れが・・・。ホッとする。
フェンスの扉を開いて集落に入る。大原戸寺町のバス停は近くにある。
戸寺町からはバスで京都駅へ 本日の歩数:28000歩 距離:約14km自然林に囲まれた山道は変化に富み、左右の樹木は四季毎に豊に変化して行く人を魅了する。
木々の陰影を受ける社寺の姿も刻々と変り、いつも新鮮で神々しい輝きを呈している。素晴しい地域である。
2011.1.15撮影 葛川明王院に行った帰りに、雪景色を求めて比叡山に行きました。奥比叡ドライブウェイの展望台からの比良山系、琵琶湖の眺め
先に西塔に行きました。
期待通りの雪景色でした。常行堂及び法華堂(重要文化財)ともに
文禄4(1595)年の建築
桁行五間、梁間五間、一重、宝形造、向拝一間、とち葺
附指定:廊下1棟比叡山の西塔にあり、全く同形の常行堂(向って左)と、法華堂(右)の二棟を廊下でつなぎ、廊下下が通路になっている。
俗に「にない堂」という。
(国指定文化財等データベースより)人もあまりいませんでした。
転法輪堂(重要文化財)貞和3(1347)年の建築
桁行七間、梁間七間、一重、入母屋造、とち葺形銅板葺 釈迦堂ともいい、豊臣秀吉が延暦寺を再建した際、園城寺の金堂を移築したものです。
相輪トウ(「トウ」は木へんに棠、重要文化財)明治28(1895)年の建立
青銅製相輪トウ 転法輪堂(釈迦堂)の左手の山道を少し上ったところにあります。
ここまで行く人はごく稀です。
相輪トウから、ドライブウェイの反対側にある瑠璃堂に向かいました。
雪には鹿などの足跡が付いていました。
瑠璃堂(重要文化財)室町時代後期の建築
桁行三間、梁間三間、一重、入母屋造、檜皮葺織田信長の焼き討ちの際に唯一残った建物です。
伽藍中心部から離れているので、訪れる人は少ないです。
西塔から東塔に向かいました。戒壇院(重要文化財)延宝年間(1673-1680)年の建築
桁行三間、梁間三間、一重もこし付、宝形造、正面軒唐破風付、とち葺 東塔拝観口から奥に入って右手の高台の上に建っています。
大講堂(重要文化財)寛永11(1634)年の建築
桁行七間、梁間六間、一重、入母屋造、向拝三間、銅板葺 もとは坂本の日吉東照宮にあった本地堂を、昭和31(1956)年に移築したものです。
根本中堂(国宝)寛永17(1640)年の建築
桁行十一間、梁間六間、一重、入母屋造、瓦棒銅板葺
附指定:須弥壇及び宮殿3基根本中堂は延暦寺創立と共に建てられたが、現在の建物は寬永十七年に再建されたものである。
堂々たる堂宇で、内部は外陣を礼堂として板敷であるのに対し内陣は土間としている。
これは密教建築の基本的形式を殘すもので文化史上重要な遺構である。
(国指定文化財等データベースより)根本中堂廻廊(重要文化財)寛永17(1640)年の建築
桁行折曲り四十一間、梁間二間、一重、両下造、正面前後軒唐破風付、両側面車寄各唐破風造、とち葺 堂々たる大建築ですが、廻廊内は撮影禁止になっています。
さらに、根本中堂を見下ろすことができる文殊楼に続く石段が積雪のため通行止めとなっており、全体を撮影することはできませんでした。
帰り道、琵琶湖大津方面の眺望
A camera
B camera
東塔 source movie
東塔
大講堂(旧東照宮本地堂)
根本中堂、回廊
文殊楼
戒壇院
阿弥陀堂
西塔
常行堂及び法華堂
転法輪堂
相輪塔
瑠璃堂
横川
横川中堂
泉
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