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滋賀県東近江市 梵釈寺

Bonshakuji,Higashiomi,Shiga

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February 11, 2022 野崎順次 source movie

滋賀県東近江市蒲生岡本町185
黄檗宗
天龍山 梵釈寺

創建時期は、未詳ながら一説に延暦五年 (786) 桓武天皇の御代大津・滋賀の里の山中に建立され栄えていた梵釈寺の面影を映さんと在地の豪族が天文年間 (1532~55) に鋳物師村に建立されたと伝え、戦国時代以降は衰退していた当寺を天和年間 (1681~83) に日野・正明寺 (黄榮宗) の住持晦翁 (かいおう) 禅師が梵釈寺復興を志していたところ、時の領主奥田三良衛門がこれを聴き、寺一切を寄進したので、現在の地に堂宇伽藍を移して、その師・黄榮宗四世濁湛和尚を招いて開山とし山号を天龍山としたと伝える。享保十三年 (1728) 、翠峰 (すいほう) 禅師の時、京都宇治・万福寺の末寺となり現在に至る。また、近江商人で謄写版 (ガリ版) の発明者堀井家の菩提寺でもあります。
(本寺パンフレットより)

パンフレットと現地説明板

    

山門から本堂へ

                  

国重文 木造宝冠阿弥陀如来坐像 
像高百二十センチメートルで、高い宝髻 (ほうけい) を結び、胸に瓔珞 (ようらく) を付けており、長く観世音菩薩像として信仰されていました。像は、両肩にかかる納衣は襟を首につめずU字形通肩 (つうけん) に胸を開け納衣の衣摺 (いしゅう) は鎬 (しのぎ) だった襞 (ひだ) 彫りだし、手は阿弥陀定印を結んで結跏趺坐をし、面相は鋭く厳しい表情ではあるが衆生の心を受け容れてくれる像様は、円仁 (慈覚大師) (794~864) の招来による金剛界八十一尊曼茶羅に基づく比叡山常行三昧堂の本尊にならった阿弥陀如来像といわれ、檜一材からなり内刳りは施されていない。膝前は、横木一材で両手の前腕中程から先の部分を共に彫りだし大部に矧ぎ付けられています。九世紀末~十世紀前半の作風とされ、漆箔作りで宝冠阿弥陀如来像として最古・最大の仏像です。
(本寺パンフレットより)

                      

その他仏像

              

国重美 石造宝篋印塔 鎌倉時代後期 嘉暦三年 1328年 花崗岩 高さ 226cm
門内、右手南側の境内に立つ。相輪を完備した姿は美しい。塔身、金剛界四仏の種子を刻む。
段型は、下二段、上五段、隅飾りは二弧輪郭付で内に無地の小円相を陽刻する。段型の上五段(通常 六段)は、この地方に多い。近江文様の三茎蓮・散蓮華・孔雀の彫刻を基礎側面に刻む。基礎は壇上積式で、上端は単弁の反花、側面は格狭間内に中央が半開の宝瓶三茎蓮を刻む。相輪は、下から伏鉢・単弁覆輪付請花・九輪・単弁請花・宝珠で、平成十五年に発見された当初のものを載せ、美しい姿を見せている。隅飾は、二弧輪郭付きで、内に無地の小円相を陽刻する。
(河合哲雄「石仏と石塔!」ウェブサイトより)

                                        

周辺
                  

蒲生野と近江鉄道

                          


Sep. 2010 撮影: 中山辰夫

東近江市蒲生町岡本黄檗宗 「天龍山」

本尊:観世音菩薩坐像(国重文)岡本集落の南方にあり。近江鉄道を越えた山裾にある。

寺域は約4500㎡、竹林や雑木林に囲まれて鐘楼門・庫裏・二階建て民家風の本堂などが建つ。回廊もある。

県内では少ない黄檗宗の寺院である。

境内に、嘉暦3年(1328)の銘をもつ石造宝篋印塔があり、国の重要美術品に指定されている。

鐘楼門からの境内の景観がよい。

現在の住職は19年目とのこと。それまでは長く無住であったと聞く。

堀井家の菩提寺として長く務めてきた。

300年間行方不明だった国重文の石造宝篋印塔の相輪が最近偶然に見つかった。完全な姿に戻った。

山門

          

回廊

        

本堂

        

延暦5年(786)に桓武天皇の勅命で創建されたと伝えるが不明。

のち、戦国以来衰退して江戸時代には一小庵に古仏を安置し、尼僧が香華を捧げていたのを、正徳2年(1712)正明寺(現日野町 既報)住持晦翁が復興を企て、岡本村の領主であった旗本奥田八郎右衛門の後援を得て本堂以下の堂舎を整備したと伝える。

享保13年(1728)僧翠峰の時黄檗宗の末寺に列した。

安永5年(1776)には鐘楼が再建され(棟札)、江戸時代中期にはほぼ現在の寺観が整ったとされる。木造観音菩薩坐像

国重要文化財

ほぼ等身大の坐像で、平安時代中期の作とされる。一木造・内刳無しの堂々たる像で文化財指定名称では観音像であるが、手の組み方は阿弥陀定印であり、阿弥陀如来像と考えられる。頭部と体部はかやの一木から彫り出し、両膝は一材を矧ぎつけ、全身は漆箔で仕上げら

れている。現存する宝冠阿弥陀像としては最も古く、10世紀末頃の作とされる。

        

石造宝篋印塔

国指定重要文化財

嘉暦3年(1328)9月5日銘で、「大願主沙弥建立 藤原俊□」と刻されてある。他にも石塔がある。

宝篋印塔は基礎・塔身・笠・相輪からなるが、相隣がつい最近偶然に見つかったとのこと。300年間行方不明であった。

基礎から笠までの高さは1.6mもある大型の塔である。

基礎は反花式で、格狭間内に三茎蓮・散蓮・孔雀を刻出している。塔身の各面に梵字が陰刻されている。南面には造立年の刻銘がある。欠損時の印塔

        

最近の石造宝篋印塔

        

他の石造宝篋印塔

    

南東鋳物師(いもじ)の湧泉寺(ゆうせんじ)の梵鐘銘(寛永2年1625)には、桓武天皇の代に寺院が設立されたとの伝えが刻され、また同所付近には梵釈寺・塔の堂などの小字名が残っている。これらのことから桓武天皇の代はともかくとして。平安時代前期当地付近に大寺院

が建立されたことは十分可能性としてあることで、当本尊はあるいはこの古代寺院の本尊であったとも考えられる。参考資料《近江蒲生郡誌、神崎郡誌、滋賀県の近世社寺建築、滋賀県の歴史、滋賀県の地名、他》

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