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滋賀県東近江市 蒲生町
Gamo,Higashiomi,Shiga


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Sep. 2010 撮影: 中山辰夫
蒲生町

額田王と大海人皇子が詠んだ有名な相聞歌の舞台になった蒲生野はこの辺りから八日市にかけての東近江の平野部と考えられる。
蒲生野の南部に当たるこの辺りはのどかな田園地域である。
万葉ロマンから、平安、鎌倉の荘園文化、さらには明治の偉大な発明品まで、その時代、時代の面影に触れる散策が出来る地域でもある。
山部赤人を祀る赤人寺を皮切りに、日本最古の石造三重塔のある石塔寺などの名勝・史跡から、今なお使われるガリバンの伝承館まで幅広い時間を見て・感じることができる。東は日野町、南は水口町、西は竜王町、北は八日市に接する。日野川が北西に、佐久良川が西方に流れ、町の北西部で合流する。
集落は日野川、佐久良川がつくる沖積平野に点在する。町の東寄りを南北に近江鉄道が通じ、町域には三つの駅がある。日野川・佐久良川の合流点付近の平野には木村古墳群が造営されている。これらの古墳は、弥生時代以降日野川水系に発展した集落の中で、巨大な勢力を持つに至った首長層の墓と考えられ、のちに彼らの連合体から狭狭城山君(佐々貴山公)の母体となるものが台頭
すると考えられる。5世紀中葉の築造である雨乞山古墳は県下最大級の方墳で、当地に有力者が所在したことをうかがわせる。 7世紀後半には有力氏族により宮井廃寺・綺田(かばた)廃寺・石塔寺などが創建される。石塔寺は都にも知られるようになる。
中世になる石塔寺の住僧による周辺集落への宗教活動も盛んになって、町域には多くの石塔・石塔籠などの中世石造物が残る。
麻生庄の領主であった花山院家は元弘の乱により所領を没収され、のち同庄は京都祇園社に寄進された。
南北朝時代は支配権が錯綜し、観応3年(1352)には庄内で一村あげての飛散が起こっている。
石塔を拠点とした石塔商人は伊勢国との交易を行って活躍したが15世紀後半、保内商人との争論に負けて力を失ってゆく。
石塔には室町時代の刀鍛治が来住するなど。石塔寺僧の居住と相まって周辺の農家と違った村落となった。戦国期には六角氏の被官の小領主が成長し、各所に城館を構えた。
永禄11年(1568)織田信長の近江侵攻により六角氏が滅ぶと、当地の南半分は蒲生氏の勢力下となった。
江戸幕府成立後は各藩の藩領となった村が多い。
17世紀に入って、北西ー南東に走る御代参街道が整備され、参拝客は勿論、行商人の往来でも賑わった。岡本村には宿がおかれたが、近世後期以降、同宿ほか水口宿や坂下宿の助郷を命じられる村も多かった。
明治22年(1889)町村制発足で、朝日野村・桜川村が誕生
明治33年(1900)近江鉄道開通 桜川駅設置
昭和30年(1955)同上が合併して蒲生町となる
平成18年(2006)能登川町とともに東近江市に編入蒲生町の文化財一覧

麻生庄について下麻生の山部神社に残された資料によれば、麻生庄の庄域はほぼ現在の蒲生町岡本・上麻生・下麻生・大森・田井の一帯に比定される。
この周辺は、平安時代以降、「麻生庄」という荘園として開けた、神社には荘園の所領を巡る文書が保管されている。
麻生庄の領主であった花山院家は元弘の乱により所領を没収され、のち同庄は京都祇園社に寄進された。
南北朝時代になっても支配権が錯綜し、観応3年(1353)には庄内で一村あげての飛散も起こっている。戦国時代になると六角氏の被官である在地小領主が各所に城館を構えた。寛政5年(1464)幕府の奉行であった伊庭貞隆の知行料地が庄内に存在していた記録が残っている。
永禄11年(1568)織田信長の近江侵攻により六角氏が滅ぶ。
元和4年(1618)旗本関領となり、同領で幕末を迎える。
江戸時代になると、東海道・土山宿(甲賀郡土山町)と中山道・愛知川宿(愛知川町)を結ぶ「御代参(ごだいさん)街道」が整備され岡本村に宿が置かれ、宿場として繁栄する。伊勢神宮の参拝などに利用された街道で、本陣、問屋などが軒をならべていた。
近江鉄道の開通により、道路の利用者が減り、宿場の関連施設も次々と姿を消していった。岡本では、ここ数年、地元の住民グループが「本陣跡」などの石柱を街道筋に並べ、街おこしを図っている。
街道筋の高木神社やガリバン伝承館付近には石柱が沢山立っている。これからの訪問先は以下の通りである。
今回訪問できなかった重要文化財は以下の通りである。 石塔寺(いしどうじ)既に報告あり
蒲生町石塔
本尊:聖観音石造三重塔の他に正安4年(1302)銘の宝塔、嘉元2年(1304)銘・貞和5年(1349)銘の五輪塔も国重要文化財である。
   誓安寺
蒲生町合戸(ごうど)
浄土宗 本尊は阿弥陀如来(国重要文化財)
長徳年間(995〜999)退位後の花山法皇による創設と伝える。

渡来人の蒲生野古代の近江は、朝鮮半島から渡ってきた渡来人と大きな関わりをもっていた。
古代史の通説では、6世紀の渡来人は若狭湾のうち敦賀・小浜両港を経由して近江にはいり、7世紀の後半には新羅に滅ぼされた百済系の人たちが近江へ入ってきたとされている。
その中に新羅の皇子天日槍(あめのひほこ)や、百済の英雄とされた福信の子鬼室集斯(きしつしゅし)もいた。
渡来人が多く住み着いた近江の中でも、特に野洲郡・蒲生郡・神崎郡・愛知郡が多かった。
天智天皇の4年(665)には、400人が神崎郡に移り、8年には(669)、故国を追われた百済の貴族たち、鬼室集斯(きしつしゅし)を頭に700人もが蒲生郡に住み着いた。
この地域は、今でいう蒲生野周辺とみられる。移住した人の中には故国では大臣級の人も多く含まれた。当時の朝廷は、これら渡来人の才能と博識を高く評価し利用した。
蒲生郡一帯の地域には、渡来人に関係深い神社や寺が点在している。地名の由来からも渡来人のもたらした革新的な技術の足跡がわかる。
渡来人といえば「石塔寺(いしどうじ)既報」につながる。日本最古の石塔が建つ(国重文)。
このあたりがおそらく帰化人の里の中心となっていたと思われる。
 《 かれ野山 父は恋し いしの塔 》 鐘堂前に建つ虚白の句碑が建つ。故郷を想う渡来人の気持ちがひしひしと伝わる。
よみがえる額田王と渡り来た人びと(東近江市パンフレトより転載)
参考資料《蒲生町の文化、近江蒲生郡志、蒲生町の文化財、滋賀県の地名、パンフレット、他》

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