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滋賀県東近江市 五個荘

Gokasho,Higashiomi City,Shiga

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 Flower
 
 
 Culture
 
 
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 Food
 


December 3,2022 大野木康夫 source movie


集落南西の駐車場から通称鯉通りへ
   


鯉通りの風景
       


弘誓寺

      

本堂(重要文化財)
                       


弘誓寺の向いが外村家(外村市郎兵衛家)住宅

外村家住宅10棟は、今年10月に文化審議会が重要文化財に指定するよう答申しました。

【答申資料から引用】
外村家住宅は、重要伝統的建造物群保存
地区・東近江市五個荘金堂内、重要文化財・弘誓寺の東向かいに位置する。主屋は明治前期の建築で、堅実なつくりながら、2階に座数を配する等、近代的な展開をみせる。新座敷は昭和9年の建築で、京都の三上吉兵衛の手になる続き間座敷と茶室からなり、良材を使用した上質な接客空間を持つ。近世後期に定型化した近江商人本宅の形式を引き継ぎつつ、昭和前期に洋室や新座敷を増築した質の高い近代和風住宅として評価できる。江戸時代末からの歴史を持つ宅地と附属屋をあわせて保存をはかる。
○指定基準=流派的又は地方的特色において顕著なもの
  


外村市郎兵衛家は天保年間に外村与左衛門家から分かれ、京都や大阪で繊維関係の事業を続けています。(現在は外市株式会社、本店は京都の四条烏丸東南)一方で五個荘金堂の本宅(今回指定されることとなった住宅)は維持し続けており、現在でも住宅として使用されています。

主屋
明治前期頃の建築
建築面積383.06㎡、木造二階建、切妻造、桟瓦葺
(建築年代及び構造形式等は月刊文化財令和4年12月号所収の「新指定の文化財-建造物-(文化庁文化財第二課))による。以下同じ。)
            


前蔵
昭和前期頃の建築
桁行7.7m、梁間3.0m、土蔵造、二階建、妻入、切妻造、桟瓦葺
     

門及び塀一棟(附指定予定)

門 明治前期頃の建築、一間腕木門、桟瓦葺
塀 土塀、桟瓦葺
   


道具蔵、庭蔵、漬物部屋

鯉通り沿いに3棟が並んでいます。
         

漬物部屋
明治前期頃の建築(昭和前期頃改造)
桁行6.9m、梁間4.0m、木造、屋根切妻造、桟瓦葺
             


庭蔵
十九世紀中頃の建築
桁行7.9m、梁間4.9m、土蔵造、二階建、屋根切妻造、桟瓦葺
            


道具蔵
十九世紀中頃の建築
桁行9.8m、梁間4.9m、土蔵造、二階建、屋根切妻造、桟瓦葺
            


新蔵
明治前期頃の建築
桁行7.9m、梁間4.9m、土蔵造、二階建、屋根切妻造、桟瓦葺

鯉通り側
  

自治会館側
     


東側の露地
 


裏門一棟、塀四棟(附指定予定)
裏門 昭和前期頃の建築、一間腕木門
塀 裏門北側、裏門文庫蔵間、文庫蔵新座敷間、新座敷南側、土塀、桟瓦葺

裏門北側の塀
  


裏門
  


裏門文庫蔵間の塀
 


文庫蔵
明治前期頃の建築
桁行5.9m、梁間4.9m、土蔵造、二階建、屋根切妻造、桟瓦葺
                 


洋室
昭和10(1935)年の建築
約5.0m四方、木造、平屋建、陸屋根、布目タイル張り

湯殿
昭和前期頃の建築
桁行4.3m、梁間4.2m、木造、平屋建、入母屋造、桟瓦葺

屋根の一部分しか見えません
 


文庫蔵新座敷間の塀
 


新座敷
昭和10(1935)年の建築
建築面積100.41㎡、木造、平屋建、南面入母屋造、北面切妻造、桟瓦葺、下屋軒先銅板葺
               


新座敷南側の塀
  


帰路
 


February 19, 2022 野崎順次 source movie

滋賀県東近江市
五箇荘金堂地区


重伝建

昨年末にも来たが、積雪多く、またすべての商人屋敷は年末年始休みだった。今回はそのための再訪であるが、金堂まちなみ保存交流館(旧中江富十郎邸)と外村宇兵衛邸(てんびんの里伝統家具博物館)は未だ閉まっていた。ただし、金堂まちなみ保存交流館の庭園は自由に出入りできる。

パンフレットと現地説明板

   

五箇荘金堂の遠景

          

金堂まちなみ保存交流館(旧中江富十郎邸)
「金堂まちなみ保存交流館」は国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている『五個荘金堂』の町並みにある公開近江商人屋敷の一つ。有料施設として公開されている『中江準五郎邸』の中江家4兄弟の三男・中江富十郎の屋敷を整備改修し、町並み巡りの交流施設として2008年にオープンしたもの。他の五個荘の近江商人屋敷と同じく、『鈍穴流』の継承者「花文」の三代目によって作庭された庭園が残ります。
(中略)
建物の周囲に残る池泉回遊式庭園(現在は枯池)は付近の3箇所の近江商人屋敷(中江準五郎、外村繁、外村宇兵衛)の庭園と比べて巨石が複数配されているところが特徴で――池泉自体の規模は弟・準五郎邸の方が大きいのだけど、その石組の豪勢さは兄の邸宅としての位の高さ・主張を感じさせる。
(おにわさんウェブサイトより)

建物外部と庭園

                                       

西出地蔵

   

弘誓寺周辺の町並みなど

              

町文 金堂の馬場五輪塔 鎌倉時代後期 正安二年 1300年 花崗岩 高さ197cm
風・空輪、一石からなり空輪は宝珠の形。火輪、軒口厚く両端で力強く反る。五輪塔は、東に発心門、南に修行門、西に菩提門、北に涅槃門の梵字を夫々刻んでいる。水輪 、最大径がやや上にある壷型。本石塔は、近江の在銘五輪塔で一番古い。
(河合哲雄「石仏と石塔!」ウェブサイトより)

         

外村宇兵衛邸と外村繁邸がある通り

                    

外村繁邸(外村繁文学館)
湖国の生んだ作家外村繁の生家
4代目外村宇兵衛の妹みわに婿養子吉太郎を迎えて分家したのが外村繁家の始まりです。吉太郎は宇兵衛本家の京都店勤めから、明治40年(1907)に独立、東京日本橋と高田馬場に呉服木綿問屋を開き活躍しました。
外村繁は三男として生まれましたが、長兄は本家の養子、二男は病没のため繁が跡取りとなりました。当屋敷も五個荘就任の本宅として、大きな主屋や蔵・広い水屋(台所)、昔のままの風呂場が残っております。また、勝元宗益作の庭も趣があります。
(近江商人屋敷めぐりパンフレットより)

建物外観

                          

水屋(土間)

                     

1階座敷など

                        

外村繁文学館(内蔵)
明治35年(1902)に外村繁(本名茂)はこの家の三男として生まれ、東京帝国大学経済学部に学び、大正14年(1925)の在学中には梶井基次郎・中谷孝雄らと同人雑誌『青空』を創刊し、文学を志しました。父吉太郎の死後、商人として一時家業を継ぎましたが、昭和8年(1933)弟に家業を託し文学の道に。昭和13年(1938)住まいを東京阿佐ヶ谷に移し井伏鱒二・青柳瑞穂・上林暁・太宰治などの阿佐ヶ谷の文土仲間とともに精力的に作家活動をおこないました。
昭和10年(1935)「草筏」が第一回芥川賞候補となり、昭和14年(1939)池谷賞を受賞、昭和31年(1956)には「筏」が野間文学賞を受賞しました。そのほか多くの作品を残し昭和36年(1961)、59歳で永眠しました。近江商人の根源を赤裸々に探った私小説作家外村繁は近年特に高い評価を受けています。
(近江商人屋敷めぐりパンフレットより)

                   

2階へ

           

外村繁邸庭園
庭園は『鈍穴流』の継承者、「花文」の二代目による作庭。……『鈍穴流』というワードをたぶん初めて書いたのですが、なんだか新しい箱を空けてしまったようで…。『鈍穴流』とは。幕末〜明治時代に掛けて近江地方で数多くの庭園を手掛けた勝元宗益(鈍穴)を祖とする作庭流派。
この勝元鈍穴は茶道「遠州流」の中興の立役者であり徳川将軍家の茶道師範も努めた茶人・辻宗範の弟子。宗範からは遠州流茶道以外にも築庭を学び、その後各地で作庭を手掛けるように。晩年にはこの五個荘金堂に拠点を置き、近江地方を中心に当地の植木商『花文』の初代、2代目とともに様々な庭園を手掛けました。その作庭手法は『花文』へと引き継がれ現代へ至ります――
(おにわさんウェブサイトより)

                                

金堂陣屋跡

   

金堂陣屋の長屋門は西側の勝徳寺に移築されている。

      

川中地蔵あたり

   

中江準五郎邸 
明治38年(1905)に発足した三中井呉服店は、昭和9年(1934)に株式会社三中井百貨店と改称。「実業を以て鮮満支に活躍せんとする青年は来れ、我が三中井へ」を合言葉に、戦前には、朝鮮半島・中国大陸で20余店舗を擁する大百貨店とじζ隆盛を誇りました。しかし、昭和20年(1945)の敗戦と共に衰退。この三中井を経営したのが、金堂に本部を置いた中江勝治郎を中心とする中江家でした。中江準五郎もその一族で、昭和8年(1933)に建築された邸宅は、近代近江商人の本宅の典型とじて整備し公開しています。
(近江商人屋敷めぐりパンフレットより)

     

建物外観

                  

1階座敷などと人形展示

                                     

2階へ

                    

中江準五郎邸庭園 池泉回遊式
この邸宅は昭和初期に建てられた和風家屋で、邸宅を囲むように作庭された池泉回遊式庭園は近江国で活躍した作庭家・勝元宗益の興した『鈍穴流』の継承者、「花文」の三代目による作庭。
(おにわさんウェブサイトより)

                                 

正源寺地蔵

             

外が辻地蔵

          


February 23, 2022 野崎順次 source movie

滋賀県東近江市宮荘町681
五個荘町歴史民俗資料館(旧藤井彦四郎邸)

近江商人の典型とも言われる藤井彦四郎は、明治32年(1899)23歳で分家して、明治40年(1907)に藤井糸店を創業しました。さらに朝鮮半島に出店し、「鳳凰印絹小町糸」や化学繊維「人造絹糸」の発売、スキー毛糸の製造を行うなど、彦四郎は持ち前の進取の気性で一代で成功を収めました。
この屋敷は8,155㎡、建物面積710㎡におよび、特に庭園は彦四郎自身の構想で、珍石・名木を配し、びわ湖を模した池を中心に設け雅趣に富んだ雄大なものです。建物は、豪華な総ヒノキ造りの客殿と彦四郎の生家を移築した生活の場となる本屋は質素であり、その生き様を感じることができます。倹約・勤勉・誠実で全国に雄飛した五個荘商人の歴史的資料や生活文化資料・民俗資料も展示しています。ここでは、数百年の歴史の流れを肌で感じることが出来ます。
(近江商人屋敷めぐりパンフレットより)

アプローチ、五箇荘金堂から宮荘へ

            

パンフレットと現地説明板

     

国登文 石橋 昭和前/1934頃
石造,幅4.8〜5.8m,長さ1.2m
湖東地方に特徴的な集落内の水路に面した屋敷地に架かる石橋。長さ1.2mと短いが,前面幅5.8m,後面幅4.8mとハの字型とし接道部分を広くしている。小規模ながら円形の造形になる高欄親柱付きの小橋として知られている。

    

国登文 外塀 昭和前/1934頃
石造・コンクリート造,延長113.9m,石造門柱・鉄製門扉附属
屋敷地の北面及び東面の一部を囲うコンクリート製の塀で,基底部や隅柱など要所を石製とする。北面に正門である鉄製の門扉付きの石造門を設ける。集落内に板塀や土塀が多いなかで、石造門付きのコンクリート塀は珍しく,時代の様相をよく示している。

             

国登文 内塀 昭和前/1934頃
木造,瓦葺,延長30.3m,棟門附属
主屋を囲う木造の屋根塀で,化粧棟から北土蔵間を矩折れに結ぶ。東面は真壁,桟瓦葺とするが,北面は板塀で棟に瓦を載せた簡素な造りになる。化粧棟の北脇に小型の一間棟門を開く。延長30mあり,屋敷地内の内向き部分を画する塀として知られている。

  

県文 客殿 昭和8年(1933) 
木造、建築面積220.3平方メートル、桟瓦葺、 北面風呂・便所附属、東面渡り廊下・便所附属
客殿は周囲に廊下を廻し、南側の庭(池泉回遊式庭園)に面するよう座敷3室が並ぶ書院建築である。上手の主室は三畳大の床間を構え、付け書院には花頭窓を開き、用材には上質の檜を用い、照明器具も和風として当時のまま使用されている。
(滋賀県ウェブサイトより)

                                          

池泉回遊式庭園と客殿外観

                                              

県文 洋館(山小屋) 昭和9年(1934)
木造、建築面積104.4平方メートル、桟瓦葺、 南面便所附属
洋館は数寄屋造りの便所が附属した渡り廊下で客殿と繋がる。スイスの山荘を模して建築されたもので、内装・照明器具まで山荘風につくり、その風情を再現している。
(滋賀県ウェブサイトより)

                                      

主屋(本屋)へ

       

国登文 主屋 明治/1868-1911/1899座敷増築
木造2階建,瓦葺,建築面積258㎡
近江商人の旧宅を町立歴史民俗資料館としたもの。昭和7年に現在地に移築された主屋は,差鴨居で固めた四間取りの居室部に座敷2室を付加した平面を基本とする質素な造作になる。家具調度品とも保存され,質実剛健な気風の近江商人の生活を知ることができる。

                                  

土間、女中部屋、台所

                      

主屋一部の外観と庭

          

国登文 南土蔵 昭和前/1934頃
土蔵造2階建,瓦葺,建築面積28㎡
表門の脇に位置し,切石積の基礎上に建つ2階建ての土蔵。規模は北土蔵より一回り大きい。全体的に簡素な外観になるが,漆喰仕上げの外壁の腰下には妻側は縦板を張り,庭に面する東側面は開口部を挟んで杉皮を縦張するなど意匠に工夫が見られる。

   

国登文 北土蔵 明治/1899頃
土蔵造2階建,瓦葺,建築面積21㎡
切石積の基礎上に建つ2階建ての小規模土蔵で,屋根は置き屋根形式になる。外壁は漆喰仕上げとするが,腰下に和船の舟板を横張りする点は特徴的である。主屋と一連に昭和9年頃現在地に移築されたもので,屋敷構えを構成する一要素となっている。

        

正門横の広場、藤井彦四郎一族の胸像や石製ヒツジなどがある。

       


December 29, 2021 野崎順次 source movie

滋賀県東近江市
五箇荘金堂地区

五個荘金堂地区の歴史は古く、奈良時代に寺院が建てられていることからも、古代神崎郡の中心地の一つであったと思われます。しかし、現在の集落の基礎ができたのは江戸時代に入ってからで、大和郡山藩の金堂陣屋を中心に古代の条里制地割に沿って、弘誓寺や勝徳寺・浄栄寺などが周囲に配置され、集落が形成されました。
五個荘金堂地区の近江商人は、主に江戸時代後期から明治・大正・昭和戦前期にかけて、呉服や綿・絹製品を中心に、革新的商法によって商圏を全国に広げました。
(中略)
商人本宅は、広大な敷地を板塀で囲み、内部に切妻や入母屋造りの主屋を中心に数寄屋風の離れや土蔵・納屋を建て、池や築山を配した日本庭園をもつのが特徴です。農家住宅は、茅葺屋根の主屋と納屋等を持つ伝統的な形式です。いずれも屋敷内にかわとやあらいとなどで水路の水を引き込み、生活用水に利用していました。
(中略)
平成10年(1998)12月25日、五個荘金堂の町並みは国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。選定理由は、五個荘金堂地区の町並みは古代条里制地割を基本とし陣屋と寺院を中心に形成された湖東平野の典型的な農村集落で、近江商人の本宅群と伝統的な農家住宅がともに優れた歴史的景観をよく伝え、我国として価値が高いとされています。
作家の司馬遼太郎氏は、五個荘金堂地区を訪れた時、この町並みの印象を「たがいに他に対してひかえ目で、しかも微妙に瀟洒(しょうしゃ)な建物をたてるというあたり、施主・大工をふくめた近江という地の文化の土壌の深さに感じ入ったのである(出典 「街道をゆく」近江散歩)」と、表現されています。
(東近江市ウェブサイトより)

豪雪の2日後、JR能登川駅からバスで金堂まで
       


現地説明板、日本遺産「琵琶湖とその水辺景観-祈りと暮らしの水遺産」に認定されている。
      


金堂まちなみ保存交流館(旧外村宗兵衛屋敷・旧中江富十郎屋敷)
            


さらに南へ
      


左折して、てんびん通り
                       


弘誓寺



寺前・鯉通り
       


さらに北へ
          


近江商人屋敷・外村繁邸(年末年始定休日)
       


さらに北へ
     


近江商人屋敷・外村宇兵衛邸(改修工事のため一般公開終了)
        


細い路を西に
       


南北のあきんど通りを北へ、ちょっと西に行って、再び北へ
                   


あきんど通りを南へ
        


近江商人屋敷・中江準五郎邸(あいにく年末定休日)
      


さらに南へ
               


金堂まちなみ保存交流館に戻ってきた。雪に覆われた庭園に気づいた。
池泉回遊式庭園は、勝元宗益(鈍穴)の作風を伝える、地元の庭師山村文七郎によって昭和初期に造られた。
                   


バス停に戻る。
    


能登川駅に戻ってきた。
        


June 2,2018 大野木康夫  source movie

東近江市五個荘金堂(重要伝統的建造物群保存地区)

古代条里制の地割の上に、近世初頭に集落が形成され、その中心部には江戸時代後期から明治・大正・昭和戦前期にかけての近江商人の本宅が残っており、周辺には伝統的な農家が建ち並んでいます。

集落内外に分布する社寺や水田とともに、優れた歴史的風致を伝えています。

(国指定文化財等データベースより)

(1)集落の構成

集落の周囲には古代条里制をのこす田畑が広がる。

集落の東南端には大城神社があるが、その北側にあたる集落東北部の微高地には条里制の影響が見られず、不整形な畑地となっている。

集落の内部では、古代条里制を継承する通りが約1町ごとに平行にならぶ。

条里制を継承する通りのうち、大城神社の社頭から西にのびる「馬場」と呼ばれる通り、弘誓寺の西側を走る南北の通り、勝徳寺の西側を走る南北の通りの3本は幅が広く、集落の中で最も重要な通りで、いわば集落の骨格をなしている。

条里制を継承していない通りは、T字型のもの、L字型に屈曲するもの、あるいは、条里制を継承する通りをつなぐもの、行き止まりになっているものなど、形態はさまざまであるが、総じて幅の狭い小道である。

水路も集落の重要な構成要素である。

とくに弘誓寺前と勝徳寺前の南北の通りと、馬場の浄栄寺より西側の部分などにある水路は幅も広く、景観上も重要である。

宅地についてみると、集落の中心部分の弘誓寺を中心とした一帯は、宅地の規模が大きく、庭園をゆったりと取ったものが多い。

そのほとんどが、近江商人の本宅である。

その周辺には、宅地規模が比較的小さい農家が並ぶ。

以上のように、金堂集落は古代条里制を継承した通りを骨格に、中心部分に寺院と近江商人の本宅群が集まり、そのまわりを農家群、さらにはこれも古代条里制を残した田畑が取り巻くという明快な空間構成をもっている。

(2)景観の特性

東北側の水田に立って集落を眺めてみると、古代の条里制の区画を継承する農地のむこうに、民家の屋根が連なる。

その中央にひときわ大きな弘誓寺の屋根が、その左側には大城神社の豊かな社叢(鎮守の杜)が見える。

これは、浄土真宗の寺院と鎮守の杜を核とした湖東平野の農村の典型的景観であるといえる。

集落内で一直線に続く通りは少なく、先に述べた馬場通りと弘誓寺前通り、勝徳寺前通りだけである。

その他の通りは、みな緩やかに曲ったり、あるいは屈曲している。

そのため、進行にあわせて道に面した塀や生垣・土蔵などが、つぎつぎと視野に入ってきて変化していく。

また、通りは見通しよく十字型に交差する例は少なく、食い違いや突き当たりとなるものが多い。

そのため、こうした交差部では、通りの進行方向正面に、土蔵や生垣などがアイストップとして現れる。

さらに、宅地の中の庭木や奥まって建つ主屋などが通りから塀や生垣越しに視野に入り、奥行きのある景観となっている。

(3)建物の構造・規模

建物を構造別にみると木造が圧倒的に多く、伝統的なものがよく残り、近年建てられた建物も木造が多い。

しかし、周辺部など一部では鉄筋コンクリート造や鉄骨造、またプレハブの住 宅などが建ちはじめており、集落の景観が変化しつつある。

建物の規模をみてみると、平屋建・二階建がほとんどであり、中二階建は少数である。

近年新築された住宅は二階建にする場合が多く、また増改築により平屋建を二階建にすることもある。

三階建はほとんど見られず、それ以上の高層の建物は見られない。

(4)伝統的建造物群の特性

金堂の伝統的建造物群の特性は、歴史的風致を形成する伝統的な建造物、及びこれと一体をなして価値を形成する環境要素によって説明できる。

伝統的な建造物のうち、建築物には近江商人本宅や農家・社寺等があり、工作物には水路・石垣や塀等がある。

(東近江市五個荘金堂伝統的建造物群保存地区保存計画より)

   

集落入口から通称「てんびん通り」

         

通りから垣間見る弘誓寺の建物

     

通称「寺前・鯉通り」

      

弘誓寺境内各所

     

弘誓寺本堂(重要文化財)

宝暦14(1764)年の建築

桁行五間、梁間五間、一重、入母屋造、向拝三間、後堂附属、本瓦葺

弘誓寺は、覚如上人の高弟愚咄賢空坊の開基により正應3年(1290)に創立されたと伝わる。

現在の本堂は宝暦5年(1755)頃から建替が計画され、同14年頃に主要部が完成、その後造作が若干遅れて竣工した。

18世紀の典型的な大型真宗本堂で、ゆったりとした広縁や天井の高い外陣、丸柱の多用など発達した意匠を示している。

また造営文書により建設の事情が理解できる点も貴重である。

(国指定文化財等データベースより)

             

細部等

                         

近江商人屋敷周辺

     

通称「花筏通り」

  

通称「あきんど通り」

               


Sep.23.2014 中山辰夫

八年庵(はちねんあん)

五個荘町川並630

■始めに

八年庵は、豪商塚本家を守り、晩年は女学校創始者として女子教育に情熱を注いだ塚本さと(1843~1928年)の二男・二代目塚本源三郎(1866~1939年)の築200年以上の邸宅で、敷地面積は約620坪、建物面積は約288坪である。

塚本家の理念を表す「質素倹約と勤勉」通りの落ち着いた佇まいと文人好みの簡素な山水庭が美しい。

この邸宅は、母の影響で、文化人としても知られる源三郎が、書家の雅号・八年(やとせ)から「八年庵(はちねんあん)」と称した。

同庵を訪れた野村文挙、山元春挙、山岡鉄舟らの作品や、塚本家と交流のあった勝海舟、福沢諭吉らの書簡、屏風、掛け軸などが保管・展示されている。近年、塚本家の子孫らが遠方に居住しているため邸宅の維持が難しくなり家屋を砕いて更地にする話が浮上、以前から同邸の管理を任されていた三輪國男氏(五個荘川並町)が、「ぜひ残したい」と私財を投じて買い取り、毎年9月23日に開催される「ぶらりまちかど美術館・博物館」の展示会場として一日だけの公開を続けてきた。

この度、三輪さんの手で約10年かけて行われてきた改修工事が終わり、今後は一般公開されるようになった。

■広い駐車場を設けた大邸宅である。県道202号線沿いに建つためすぐにわかる。

表側と裏側

       

表の駐車場隅の庭先には、ごく簡素な平庭がある。

   

館内には、美術館や喫茶、古美術が並ぶ。訪問日は平成26年度『ぶらりまちかど美術館・博物館』の開催日。屋敷内の「おくどうさん」を使って『てんびんご膳』が地元の婦人会の皆さんで再現されていた

   

奥や表の庭先は素朴な山水庭で、平坦である。

     

■邸宅概略

構造:木造平屋建 一部二階 大壁造、一部芯壁造、色づけ(紅がら塗) 屋根瓦:八幡いぶし瓦、杉皮下地土葺き 建築面積:現在約952㎡

建築年代:文庫蔵:完成時代移築220年以前の建物 本屋・奥座敷:明治10年移築、200年以前の建物 離れ座敷:明治・大正新築、100年以前の建物

別棟・展示館:明治38年、100年の建物を改築 休憩所:平成21年増築と展示館の改築

           

砂雪隠(すなせっちん)

   

大和郡山藩『柳沢保典』よりの書

  

川並は大和郡山領であった。初代塚本定右衛門が甲府に出店したのも藩との縁による。藩とは、代々にわたり深い関係にあった。

こうした縁で、塚本家は甲府(山梨県)からスタートし、代々甲府(山梨県)に尽くした。鈴木大拙の書

 

ワコール塚本会長は甥っ子である

 

塚本家の理念を表す「質素倹約と勤勉」を理念としてきた塚本家の貧富訓

 

■目を惹いた什器

華美を押さえた質素なつくりの印象が残る

            

≪参考≫

■■塚本さと

■誕生〜結婚

1843(天保14)年に初代塚本定右衛門(定悦)の5女として生まれた。二代目塚本定右衛門定次は長兄、初代塚本粂右衛門正之は次兄。

  

幼少期から、厳しい母親のもとで、女として必要な素養を修得させられた。

父親である初代塚本定右衛門の築いた基盤を引継ぎ、家業から企業に転身させた兄弟の働きを身近に見て過ごした。 1863(文久3)年、21才の時、実家塚本の一番頭の源三を婿養子に迎え、二人して本家塚本家を切りまわした。

さとの次男源三郎の代に、分家塚本源三郎家を起こした。

この時代、五個荘の近江商人家のピンチを救ったのは殆どが有力商家の出身の妻であった。源三郎は、母さとの広い文人との付き合いに感化され、和歌や書画に親しみ、多くの文化人との交流を引継いだ。

■社会貢献

兄弟定次・正之の社会還元に対する積極的な取組にも大いに刺激を受けていた。二人の治水事業はじめその他多方面への援助や寄付活動を肌で見知っていた。

その結果が77才の時、自費で「淡海女子実務学校」を創立する動きとして現れた。近江商人発祥の地に相応しい商業知識を持った女性の育成が創立の趣旨であった。

さとは創立に当たって、当時女子教育の第一人者であった下田歌子に意見を求め、さと引退後、1925(大正14)年から1930(昭和5)年までは校長に迎えている。

商売で得た利益を徹底して社会に還元した塚本兄妹であった。

 ■寺子屋

さとは、典型的な近江商人の家庭で育ち、8才から15才まで地元の寺子屋で読書・習字・算術を学んだ後に、家庭で裁縫・生花・茶道など女子手芸一般の修行をし、結婚した。

若い頃から周りにいる近江商人の妻女の影響を受けて育ち、また周りに影響を与えての一生であった。

寺子屋教育を受けた、塚本市右衛門の「のゑ子」、竹中利右衛門の「なか子」、外村六兵衛の「やす子」、高田善右衛門の「つね子」、須田彦太郎の「すみ子」、塚本定右衛門の「つね子」、川島宗兵衛の「たつ子」、外村宇兵衛の「なみ子」、松居久左衛門の「てつ子」、高瀬政太郎の「ふさ子」などは賢女とされ、近江商人の妻女の手本として著名であった。勿論さともその一人だった。

『機は横から、男は女から、差した刀は下緒から』近江商人成功の裏面に「主婦の内助の功ある」を忘れてはならない。その根源は「教育」にあった。五個荘の正鵠下豪商は、地域の子孫の教育に投資を惜しまなかった。

 

聚心庵(塚本定右衛門邸)

五個荘川並毎年9月23日は年一回の公開日である。Am10:00のオープンを前に多くの人が列をつくっていた。邸宅内の撮影は遠慮した。

書物で見る情報の『現本』が屋敷中に展示されており、塚本家一統の偉業に圧倒される時間であった。聚心庵は、1991(平成3)年に塚本商事株式会社(現・ツカモト株式会社)創立180周年記念事業として、旧塚本定右衛門家の本宅を改修整備したもので、現在は同家に伝わる資料や美術工芸品・絵画などの保管展示及び研修施設として利用されている。(現在社名=株式会社ツカモトコーポレーション)

「聚心庵」の名称は、初代塚本定右衛門定悦の号「定聚」に因み、「塚本家に集う多くの人々が心を聚め、商道の原点に返り、さらなる飛躍を」との願いを込めて,命名されたものである。

外観

    

外観は簡素な表門とめぐらされた塀からなる。観音寺山の山容が家中から間近に見られる。

主屋:木造平屋建 入母屋造 桟瓦葺 敷地面積:2395㎡ 建築:1826(文政9)年現存する主屋は、1823(文政6)年に川並で大火があり、文政9年に現在の地に移転して新築された。当初は八間間取りであったがその後増築を繰り返した。

全体的に飾り気のない質素な商家風住宅の典型であるが、内部の土壁の一部が紅色に塗られており、これは創業当初の「小町紅」を商ったことに由来すると言われている。

     

奥座敷から中庭を飛石伝いに渡ると、1896(明治29)年に建築された「霊洞」があり、内部には仏壇を中心に初代夫妻の座像や位牌が安置されている。

 

初代塚本定右衛門定悦は、創業200年を越えた繊維商社「ツカモトコーポレーション」の祖である。

塚本本家は外村与左衛門本家と共に、五個荘地区を代表する近江商人であり、あらゆる面で近江商人のリーダー的な存在で、明治以降現在までその家系が続いている。初代定右衛門定悦は、1789(寛政元)年神崎郡川並村(現五個荘町川並)に生まれ、1807(文化4)年19才で、金五両を元手に奥州へ市場調査に出向き、小町紅の行商を始めた。

  

祖翁紅売の図は、創業時の克己心を忘れないため、本画像を正月三日間、本宅の床の間に掛けて奢心を戒めたとされる。 1812(文化9)年に24才で甲府に店を構え商号「紅屋」を開業し、京都・大阪で仕入れた小物を商いした。

旧甲府店(時代は後年のもの)

 

小町紅看板

 

塚本定右衛門家にとって、紅は切っても切り離せない商品であった。小町紅は、当時流行していた化粧品で、高価でかさばらず、又小町紅が良く売れる場所は経済的にも豊かな証拠となった。この看板は、甲府の店に掲げられていたものである。その後も事業を拡大し、1839(天保10)年に京都店を開業した。繊維を扱う近江の商家で、京都に店を構えたのは定右衛門が最初であった。

これが、「ツカモト」の創業である。

 

一代口上書

   

初代塚本定右衛門定悦が1849(嘉永2)年61才になり、還暦を迎えた事を機に、自らの人生を振り返り、略歴と教訓を書き残したもの。何度も加筆されている。

「信心厚ク、家内和合成事」が家の長く続く秘訣であり、「家福申茂切無、不足申せば切茂なし」と何事も八割ぐらいで留めておくのがよいと締めくくっている。

定悦の妻は同郷の女性で、賢女として誉高く、糸や縄の短い切れ端も取り置き、糸は機織りにかけ、縄は荷造りに用いた。糸の切れ端も無駄にしない倹約の精神から、塚本家では「一寸糸、五寸縄」という諺が口にされるようになったという。初代定右衛門は1860(万延元)年に亡くなった。二代目塚本定右衛門定次は、1826(文政9)年に長男として生まれ、14才から京都店で見習いを始め、16才の時関東に初下りして以降、商業に励んだ。

父の死後、二代目を継ぎ、弟正之(後の初代塚本粂右衛門)と協力して家業の発展に尽くした。初代定右衛門の時代は、交通事情の悪さもあって、文化や流行の進んだ京都・大坂の商品を仕入れ、甲府始め関東各地で販売しても結構高値で売れた。

しかし、二代目定右衛門定次の時代になると、交通の発達や同業者との競争激化で特定相手先だけとの多利僅商では限界があるとし、営業方針を「薄利広商」へ大転換を図った。

二代目塚本定次の眞蹟

 

定次と正之は激動の明治時代を乗り越え、今日のツカモトの基礎を確立した「二代目は家業から企業へ飛躍させ、時流に応じた改革者としての役割を果たした」と評価が高い。二代目定次は、家業の発展とは別に、学校建設や公共施設・道路改修等に毎年多額の献金をして社会奉仕に力を注ぎ、1879(明治12)年に初の県議会議員選挙で議員に選出された。1886(明治19)年に隠居して家督を譲った後は、勝海舟や福沢諭吉らと交遊を結んでいる。

没年1905(明治38)年までの間の活動は展示品より克明にうかがえる。初代塚本粂右衛門正之は、1832(天保3)年、初代定右衛門の次男として生まれた。15才で関東へ下り商業に従事し、20才で甲州方支配人に就任、1854(安政元)年には関東一円の売り場を統括した。初代定右衛門が亡くなると分家し、初代塚本粂右衛門を名乗り、兄二代目が京都店で仕入れを担当し、初代粂右衛門が関東の販売を担当し両者相呼応して家業発展に尽くした。1918(大正7)年に87才で没した。

 ■聚心庵の各部屋は展示品で一杯である。200年にわたる期間の社暦の内容が一目でわかる。その中の数点を並べる。「引用」 ※業祖の父浅右衛門の褞袍(どてら)

 

初代定右衛門の父浅右衛門は58才で病死した。定右衛門は12才だった。浅右衛門は臨終の枕元に子供たちを集めて、「貧も富もみな自分の心中にある。悪心をおこすと家は保つことが出来ない。お前たちは修正信心慈悲を忘れず、非をなしてはならない。大きくなったら一生懸命仕事に出精し、家を興してくれ。これが孝行の第一である。」と教え諭した。

初代定右衛門は、この遺言を忘れないために、父の仕事着であった紺染めの木綿の褞袍を貰い受け、父の遺徳を偲んだ。

塚本家にとってこの褞袍は家宝以上の国宝に値する重要なもの。糸を縫い込んで手当てした部分も多くあった。得難い重厚さを感じた。

■塚本家をめぐる人々

 

※塚本さと

父初代定右衛門定悦の五女として1843(天保14)年に生まれた。長兄定次、次兄正之と一致協力して父の事業を受け継ぎ、現在のツカモトの基礎を築いた。

典型的な近江商人の家庭で育ち、8才から15才まで地元の寺子屋で読書・習字・算術を学んだ後に、家庭で裁縫・生花・茶道など女子手芸一般の修行をし、結婚した。

塚本さとは、「近江商人発祥の地に相応しい商業的知識を有する女性の養成」をめざし、77才の時、自費で「淡海女子実務学校」を創立した。 ※勝海舟

定次は1888(明治21)年に旧彦根藩家老でもあった岡本黄石の紹介で、氷川の勝邸を訪問し、以降明治25年まで度々訪れている。この時の様子は『氷川清和』の中で勝が述懐している。中でも「土木事業のくだり」は特記である。勝を引き付ける何かを定次はもっていたと思われる。塚本家の家宝【勝海舟書屏風】

  

百年余の年数を感じさせないほど美しい金屏風。

勝海舟が定次の古稀を祝し贈った頌徳文

 

※福沢諭吉

定次は諭吉の「西洋事情」を読んで以来非常に感銘を受けた。定次が始めて諭吉と面識出来たのは、東京出店を果たした5年後の1877(明治10)年であった。福沢諭吉先生書翰には、9通の書翰と3枚の福沢諭吉の肖像写真が納めてある。明治25年「貧富論」を定次が写本し2巻を携え諭吉を訪れ、奥書を乞うた。

 

因みに定次・正之は慶應義塾大学設立時や運営に多額の寄付を行っている。また、早稲田大学の維持発展にも寄付を行っている。

※その他の交流関係

諸家貼交屏風

  

広瀬宰平・伊東祐亨・北垣国道・赤松連城・下田歌子・谷鉄臣らから贈られた書や歌が納められている。

※感謝状各種

塚本定右衛門家は、代々社会奉仕を使命とし、献金することを重要な責務としていた。

「経・塚本家心得」の中に次の一文がある。

「一、毎年二三千円巳上の金ハ喜捨之心を以て出たすへし 但 救恤 教育 勧案 道路 待遇恵贈」

代々の当主はこの心得通り、学校や各種公共施設、謝辞仏閣、道路建設や治山治水工事、教育などに多額の献金をしている。

聚心庵にはこれを物語る感謝状・礼状・表彰状の類が多くある。

「三方よし」の「世間よし」の精神を実践したものである。記念碑

塚本右衛門定次の社会奉仕の特徴に治山治水事業への献金が多い。

中でも山梨県甲府市との関係が知られる。塚本家と山梨県(甲府市)との交流は今も続いている。注』

神崎郡川並村(現・五個荘町川並」は、1724(享保9)年に側用人政治で知られた柳沢吉保が甲斐国甲府から大和郡山藩に転封されて以降、明治維新まで大和郡山藩領であった。その縁故もあってか初代定右衛門(幼名久蔵」は、柳沢氏旧領甲府市柳町に最初の小間物屋を開業している。また、柳沢氏は、代々名君を輩出し、当時の藩主柳沢保泰も賢主の名声高く、久蔵もひそかに私淑していたともいわれる。 1907(明治40)年、塚本創業の地・甲府地方を台風に伴う大洪水が襲い、山崩れや河川決壊で建国以来の大災害が起こった。これに対し塚本合名会社は県に二百円を寄付した。続く明治43年にも大洪水が起こった。このたび重なる水害を防止するために河川の改修と植林が必要となった。塚本創業百周年を迎えていた三代目塚本定右衛門は(完治)は県に一万円の寄付を行った。県はこの寄付金で笛吹川上流の県有恩賜林の植林事業にあて、その一帯を「塚本山」と命名し記念碑を建立した。

 

平成23年には、天皇皇后ご臨席のもとに、「恩賜林御下賜百周年記念大会」が開催され、株式会社ツカモトコーポレーションも招待された。

 

その他、記念碑は地元の滋賀県を始め各地に点在している。

紅葉公園

塚本一族の寄贈になる。観音寺山山麓に広がる。

    

参考資料≪近江商人群像 塚本定右衛門と聚心庵展≫より大半を引用しました≫    


June 2010 中山辰夫 

藤井彦四郎邸

Hujii Hikoshiro residence

東近江市五個荘宮荘町631

        

スキー毛糸の創始者である藤井彦四郎の旧宅は、迎賓館として建築され、内部装飾の細やかな配慮ある丁寧な仕事が目を引く。

庭内の琵琶湖をかたどった池の周囲は四季折々の風情を見せ、藤井家の財力が感じられる豪華さである。

兄善助は17歳で同文書院大学に学び、その後江商合資会社、大阪紡績株式会社など数十社を経営すると共に、国政に参加して犬養毅の薫陶を受けて東洋文明の保護を志した。

東洋文化の誇るべき名品の多くが欧米へ流出していることを憂い、蒐集に努め、京都岡崎に有隣舘を開設して公開した。弟の彦四郎は、政界に出た兄の事業を継続し、日露戦争直後の不況下にはフランスから輸入した人造毛糸を商い、恐慌や関東大震災での東京店全焼などの困難を乗り切り、数々の会社を設立した。

戦時下で企業活動が制約されると海外に活動の場を求め、時局の難局を乗り切ってきた。

                               

雛祭り

大雛壇に飾られた三対のお雛様は見ごたえがある。

     

庭園

琵琶湖を模した池や築山を配した池泉回遊式の大庭園である。散策可能である。

             

藤井彦四郎邸

  

国登録有形文化財に指定されている。主屋

登録文化財:基準 国土の歴史的景観に寄与しているもの H10.01.16

構造:木造2階建、瓦葺 建築面積258㎡

建築:明治初期、明治32年(1899)座敷増築

近江商人の旧宅を市立歴史民俗博物館にしたもの。昭和7年(1932)に現在地に移築された主屋は、差鴨居で固めた四間間取りの 居室部に座敷2室を付加した平面を基本とする質素な造作になる、家具調度品とも保存され、質実剛健菜気風の近江商人の生活を知ることが出来る。

北土蔵

登録文化財:基準 国土の歴史的景観に寄与しているもの H10.01.16

構造:土蔵造2階建、瓦葺 建築面積21㎡

建築:明治32年(1899)頃

切石積の基礎の上に建つ2階建の小規模土蔵で、屋根は置き屋根形式になる。外壁は漆喰仕上げとするが、腰下に和船の舟板を横張りする点は特徴的である。主屋と一緒に昭和9年頃現在地に移築されたもので、屋根構えを構成する一要素になっている。

南土蔵

登録文化財:基準 国土の歴史的景観に寄与しているもの H10.01.16

構造:土蔵造2階建、瓦葺 建築面積28㎡

建築:明治9年(1934)頃

表門の脇に位置し、切石橋の基礎上に建つ2階建の土蔵。規模は北土蔵より一回り大きい。全体的に質素な外観になるが、漆喰仕上げの外壁の腰下には妻側は縦板を張り、庭に面する東側面は開口部を挟んで杉皮を縦張するなど意匠に工夫がみられる。

石橋

登録文化財:基準 国土の歴史的景観に寄与しているもの H10.01.16

構造:石造、幅4.8m〜5.8m、長さ1.2m

建築:明治9年(1934)頃

湖東地方に特徴的な集落内の水路に面した屋敷地に架かる石橋。長さ1.2mと短いが、前面幅5.8m、後面幅4.8mとハの字型とし接道部分を広くしている。小規模ながら円形の造形になる高欄親柱付の子橋として知られている。

外塀

登録文化財:基準 国土の歴史的景観に寄与しているもの H10.01.16

構造:石造、コンクリート造、延長113.9m、石造門柱・鉄製門扉附属

建築:明治9年(1934)頃

屋敷内の北面及び東面の一部を囲うコンクリート製の塀で、基礎部や隅柱など要所を石製とする。北面に正門である鉄製の門扉付の石造門を設ける。集落内に板塀や土塀が多い中で、石造門付きのコンクリート塀は珍しく、時代の様相をよく掴んでいる。

内塀

登録文化財:基準 国土の歴史的景観に寄与しているもの H10.01.16

構造:木造、瓦葺、延長30.3m、棟門附属

建築:明治9年(1934)頃

主屋を囲う木造の屋根塀で、化粧棟から北土間を短折れに結ぶ。東面は真壁、桟瓦葺とするが、北面は板塀で棟に瓦を載せた簡素な造りになる。化粧棟の北脇に小型の一間棟門を開く。延長30mあり。屋敷地内の内向き部分を画する塀として知られる。

渡廊下

登録文化財:基準 国土の歴史的景観に寄与しているもの H10.01.16

構造:木造平屋建、瓦葺、建築面積10㎡

建築:明治8年(1933)頃

五個荘町のほぼ中心に位置する近江商人の旧邸宅内の主屋と客殿をつなぐ渡廊下。幅約4尺、長さ4間、屋根桟瓦葺で、内部は子丸太の垂木、長粉板を用いた化粧屋根裏天井、壁は色土壁とする。附属施設だが瀟洒な意匠をもち、屋敷の構えに欠くことのできない建物である。参考資料《国指定文化財等データーバンク》

 

外村 繁 邸

Tonomura Shigeru residence

東近江市五個荘金堂町631 門は奥まって建っている土蔵の右側にあって、屋敷内は見通せない。

屋敷の中央よりやや奥に東面して建つ主屋は切妻、瓦葺の本二階建てで、明治初期の建築とされる。

平面は田字型を基本として妻側に仏間と小座敷をつけ、背面には畳縁と8畳の蔵前をつけている。

座敷は書院造りで四畳半の小座敷は数奇屋風になっている。座敷の南は庭園になっており、屋内から四季の風景が楽しめるよう開放型である。

    

純文学作家の外村繁は」、いったん家業を継いだが文学への志を貫き「鵜の物語」を発表。

純文学作家の外村繁は」、いったん家業を継いだが文学への志を貫き「鵜の物語」を発表。その後、「商店もの」と言われる独自の商業小説を執筆。

自分の体験から生まれた近江商人の生活を描いた「筏」「草筏」「花筏」三部作は代表作品。

晩年は親鸞の浄土思想に傾倒し、名作「澪標 みおつくし」「落日の光景」を発表。「濡れにぞ濡れし」執筆中に59歳で逝去。

生家には、小説にも登場した庭や、幼少の頃に使った部屋が残る。

                              

雛祭り

外村家に伝わるお雛様や上品なお顔の御殿雛などが並ぶ。

       

当時の生活事情の推定材料「白い花の散る思ひ出」(昭和14〜15年に連載されたもの)・・・・外村家の描写

父は商人で、東京都京都に店を持ち、始終留守であったし、母は分家ながら家付娘で、所謂近江商人の算盤づくで因習的な家憲家風の厳格な信奉者だった。「それ、勿体ない」

封筒を裏返して二度使い、「鼻紙まで引き伸ばされて二度も三度も」使う母からのいましめ。「それ、それ、鋸引き、鋸引き。」

昔近江商人が、京と江戸の上り下りに、それぞれの産物を商ったように、行き帰りに用事をせよという意味。「それ今のは渡り箸」

おかずの次にご飯を食べないで、また別のおかずに手を出すような勿体ないこと」

こうした質素倹約の家風が描かれている。外村 繁 邸

 

司馬遼太郎 「街道をゆく 近江・奈良散歩」より

この「金堂」の集落を歩くうち、「外村(とのむら)」という家を見た。やはり明治の建築かと思えるが、ぬきんでて軽快で、清らかな色気さえ感じさせた。ふと、女人高野といわれる大和の室生寺をおもいだした。

外村家の塀は世間の塀概念に比べてひどくひくく、石垣もたおやかで、優しさが匂い立っていたが、さらにいえば匂うことさえ遠慮しているというふうだった。

ひょっとすると、近代的感覚の代表的な民家ではないかとおもったりしたが、建てられた年代をきこうにも、錠がおりなかは無人のようだった。

このとき不意に、この家は当時すでに故人だった作家の外村繁(1902〜61)の生家ではあるまいかと思い、たまたま通りかかった老婦人にきくと「そうどす」と、語尾をとくにはげあげた近江ふうの京ことばで答えてくれた。

外村繁はこの家の三男に生まれた。長兄が江戸期以来の本家の外村家を継ぎ、次兄が早世したため、心ならずも相続人になってしまったといわれている。・・・・・かれはその母親から商人になるべく期待されたが、・・・

文学を志すようになった。しかし母親の望みで、大学は経済学部に入った。・・卒業後、東京日本橋の外村商店を相続せざるをえなくなり、五カ年、店の運営に悪戦苦闘したあげく、家業を弟に譲り、創作生活に入った。

「続きは本を参照されたい」

 

外村宇兵衛邸

Tonomura Uhei residence 東近江市五個荘金堂町645

     

初代は金堂の比較的裕福な旧家に生まれたが、農業に依存していては一家の繁栄がないと自覚し、元禄13年(1700)に近江麻布(まふ)の行商を始め半農半商の辛苦の末、商人としての基礎を築いた。

2代目は麻布を持ち上り、上州の芋麻を持ち下って名古屋などに出店。代々その商才を発揮したが、5代与左衛門は、初めての江戸の商いでは17両の損失を被ったものの、荷物の運搬に馬や飛脚を利用する大形行商に励み、やがて京店、大坂店を設けた。 6代目外村与左衛門の末っ子に生まれた初代宇兵衛は、安永6年(1777)兄を助けて京都店を支配。絹布・繰綿などを売買して事業を拡大した。

文化10年(1813)に分家独立し本家の商圏と重ならない京都や上野(こうずけ 群馬県)から呉服類を仕入れ、大坂和歌山・堺・で販売した。

東京・横浜・京都・福井などに支店を出し、全国長者番付に名を連ねた近江を代表する豪商である。屋敷は家業の隆盛とともに数次にわたる新増築が重ねられ、主屋・書院・大蔵・米蔵・雑蔵・納屋・大工小屋など十数棟におよぶ建物が建てられていた。

屋敷の表に建つ白壁の「かわと」と、水路に沿って長く続く白壁の塀は景観として見ごたえがある。

主屋は江戸末期の萬延元年(1860)の建築で、片入母屋の二階建である。与左衛門家を本家として多くの分家が存在する。

現在も繊維卸商「外村」は時代に対応しつつ、繊維業界で活躍されている。

                          

庭園

当時神崎郡一と評されるほど趣向を凝らしたもので、飛び石を配し、石塔籠や池泉が静寂ながらも力強い空間を形成している。

屋内から眺めるより園内を回遊して楽しむ庭として造られている。

しかし残念ながら建物や庭の半分ほどが取壊され、往時の姿を損じてしまったとのこと。

そこで、茶屋「亭」・四阿の復元、主屋・庭の改修や整備を行い、明治期の姿に修復された。

         

お雛様

宮中を模した大きな御殿雛が展示され、雛の宴で大忙しの官女や滑稽な表情の仕丁などが目を楽しませてくれる。

       

外村宇兵衛邸

 

参考資料《近江文化財教室、近江商人の道、パンフレット、他》

 

観峰舘

Kanpokan

五個荘町竜田町136 観峰舘は平成7年(1995)に開館され、「書道文化と世界を学ぶ博物館」をテーマにしている。

日本習字教育財団が40年の歳月をかけて収集した中国著名の書家や画家の作品をはじめ、図書や民具など書道文化に関する資料をそろえる博物館である。

特に漢字については、その誕生から完成するまでの歴史と文物(甲骨文、拓本など)と解説によって分かり易く紹介している。

主な収蔵品は、19世紀以降の中国の書画家の作品を中心としたコレクションである。その他に中国の硯や墨といった文房具や家具調度も収蔵している。

館内では中国の雰囲気を感じながら、ゆっくりと作品を鑑賞できる。

また、収蔵品は中国だけでなく、日本を含めてアジアのものから、アフリカ、オセアニア、アメリカ、ヨーロッパのものまで大変多彩である。

舘峰舘にはシンボル的な6階建ての本館のほか、3つの建物がある。

書道の関係者が一度は訪れるところであろうか。

         

創設者「原田観峰」本名・孝太郎 観峰と号した。

昭和26年(1953)、西日本書道通信学会(財団法人日本習字教育財団の前身)創立を機に、「正しい文字美しい文字」の普及活動を展開し、その半生を書道に尽くした。

一方、海外においても、書道を中心とした文化交流を積極的に行い、日本の書道を紹介した。

言語学・通俗学関係の資料を収集し、その膨大な資料は観峰舘に展示されている。

     

本館 1階には、中国清時代の皇帝の別荘「避暑荘」の一部を再現した広間がある。各階には、中国の書の歴史に関する常設展示のほか江戸時代の和装や明治以降の教科書を通した日本の書に関する展示も行なっている。

6階の展望台から見る360度のパノラマもみものである。

                 

拓本

    

九成宮醴泉銘(きゅうせいきゅうれいせんめい) 唐 欧陽詢

唐楷の代表作として、古来“楷法の極則”と喧伝される名品である。

九成宮とは唐代帝室の離宮のこと。もとは隋の文帝の造営した仁寿宮であったが、唐の太宗がこれを修復して名を九清宮と改め、太宗、高宗らがここに避暑した。

貞観6年(632)、太宗は皇后を伴い離宮内を散歩中、偶然にも西方一隅に潤いのあるところを発見した。杖でつつくと甘醴な水が沸き出てくる。

九成宮は高所にあったのでもともと水源に乏しいという欠点があったのだが、この醴泉の出現は唐朝の徳に応ずる一大祥瑞であると感じ、帝はすぐさま記念碑の建立を命じた。

撰文には検校侍中の魏徴が、書丹には唐三家の一人、欧陽詢が共に勅を奉じ、その任にあたった。

魏徴53才、欧陽詢76才の時である。

碑全高:314cm、碑文:50字 24行、文字数:1108

   

展望台

     

お雛様 2月初めから3月末まで開催の“ひな人形めぐり”に展示が行なわれる。

大15回商家に伝わる「ひな人形めぐり」に協賛した展示が館内でおこなわれた。

箱雛や壇飾りとともに人形師・東之湖氏の若菜雛と新作を紹介している。

この期間内は中国文化や常設展示も閲覧できる。

昭和30年代御殿ひな飾り、昭和40年代、40年代、50年代、平成ひな飾り、木目込み雛、黒紫雛  

                              

 

中江準五郎邸

Nakae Jungoro residence 東近江市五個荘金堂町643

    

呉服小間物商の中井屋に生まれた中江勝治郎は、明治38年(1905)に朝鮮に呉服店を開設したのを皮切りに、第二次世界大戦前に朝鮮・中国に20余店の三中井百貨店を経営し、百貨店王と称された。

中江家は海外に進出した希有な商人だったが、昭和20年(1945)の終戦と同時に在外資産が消滅、幻の近江商人となった。

その屋敷が「中江準五郎邸」として公開されている。

庭園

池にはネットが張られている。池の鯉の稚魚保護のためである。景色がよい。

二階から見える、重なる屋根瓦の並びが素晴らしい。繖山(きぬがさやま 観音寺山)と久誓寺はどこからでも見える。

               

雛人形

近江の情景をイメージさせる近江上布「麻布」の衣装をまとった「清湖雛」をはじめ、全国の土人形のお雛様や現存する県内唯一の土人形「小幡人形」が展示されている。

          

清湖雛

     

雛人形歴史

  

日本玩具絵図

       

小幡人形

                    

ひな祭りの歴史 《京都島津 有職ひな人形 配布パンフレットより抜粋》

             

 

中江準五郎邸

     


Nov.2009 瀧山幸伸 source movie

   

1st camera

        

                                                               

2nd camera

                                                                          



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