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滋賀県東近江市 近江商人郷土館

Omishonin kyodokan, Higashiomi city, Shiga
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May 2012 中山辰夫

湖東町小田刈(こだかり)473 近江商人小林吟右衛門の居宅である。現在は財団法人近江商人郷土館となっており、多数の関係資料を展示する。

開館は昭和54年(1979)である。

現在は、保管資料などを目当てとした“専門家”の見学が多いと聞く。県道に接して、船板や焼板を張り巡らした大規模な構えの屋敷が目に入る。

敷地面積約3300㎡、建物延面積1046㎡である。

8ツの蔵を擁する大屋敷は、19世紀中頃までに建てられ、その後主屋が改築され、明治2年に主屋と新座敷を接続し隠居蔵が作られてほぼ現況のようになった。

外観

旧小林家全景

巽蔵(資料館)

木造2階建の土蔵で大きな造りである。

内部はショウケースを設置し、幕末から近代初期の関連品が数多く展示されている。

主屋

主屋の主体部分は、桁裄14間、梁間5間の入母屋造、桟瓦葺。その中央部がつし2階となっている。

ここは桟瓦葺の切妻造、黒漆喰塗り外壁である。

内部はゆったりとして広い。主屋のほうを生活館と称し、同店で用いていた商用具、家具、古文書などの資料が系統的に展示されている。

一見して貴重品と思われる磁器や什器類などが並ぶ。(ごく一例である)

箱階段も使われている。

表庭

隠居蔵

隠居後の当主統括の場となっていた。 ここから従業員、その他を管理していた。

大蔵

滑車付きの戸、校倉造、盗難防止の装置などが設けられている。

川戸(川戸蔵)

台所周辺

特に生活館のほうは実際に生活が営まれていた家屋がそっくりそのまま公開されており、豪商の生活ぶりがじかに触れることが出来る。

屋敷内の所々で散見した意匠

≪参考資料≫

小林家の履歴近江盆地の中に広がる湖東平野は、渡来人の伝えた文化が色濃く残り、鈴鹿山麓には西明寺・金剛輪寺・百済寺の名刹がある。

江戸時代後期から明治にかけて登場した湖東地方の近江商人は、近代企業に転進して今も老舗企業群として存続している。『丁吟』の屋号で知られる小林吟右衛門家の家屋と土蔵を改修して、昭和54年(1979)に公開、近年まで当主が住まいしていたこともあり、館蔵品や建物の保存状態に優れ、近江商人の商業活動や生活様式を克明に伝える小林家は代々丁子屋吟右衛門を襲名し、「丁吟」と略称されていた。

寛政(1789〜1801)頃から天保(1830〜44)頃にかけて当村の庄屋を勤めていたが、寛政10年(1798)に商いを志し麻布の行商からスタート。やがて織物卸業・金融業を江戸・京・大阪で手広く営み、彦根藩の御元方の用達金や為替の御用達をつとめ、苗字帯刀を許されていた。

明治には、横浜正金銀行・東京株式取引所の設立発起人となり東京銀行(後の近江銀行)小名木川綿布工場

(後の富士紡績)治田鉱山(三重)近江鉄道の創設経営に参画した。大正10年(1921)チョーギン株式会社と改め現在に至る。

幕末から明治にかけて活躍した小林家は、豊郷の藤野家と同様に彦根藩井伊家とのつながりが密接で、幕末の動乱期の情報資料や、明治の殖産興業政策に関与してきた経緯を知る資料が多く保管・天智されている。万延元年(1860)桜田門外で惨殺された井伊直弼の、その時の状況を伝える文書が残っている。井伊家の江戸屋敷から彦根城に事件の真相が伝わる以前に、丁吟から情報が届き、状況の変化に対処できたとされる。全国に張りめぐらせた情報網の確実さ、迅速さを物語る一例である。

近江商人の近代社会への適合として、対応することに適合し成長を達成した事例が『伊藤忠』、必ずしも適合的な対応を維持できなかった事例が『中井源左衛門家』、両者の中間的な存在の事例が『丁吟』といえる。

参考資料≪近江商人の経営遺産、近江商人のふるさとを歩く、他≫

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