滋賀県大津市 日吉大社
Hiyoshi Taisha,Otsu city,Shiga
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大津市坂本5-1-1 日吉大社西本宮本殿及び拝殿 拝殿 重文 近世以前/神社 桃山 天正14(1586) 桁行三間、梁間三間、一重、入母屋造、妻入、檜皮葺 19640526
大津市坂本5-1-1 日吉大社西本宮楼門 重文 近世以前/神社 桃山 天正14(1586) 三間一戸楼門、入母屋造、檜皮葺 19170405
大津市坂本5-1-1 日吉大社摂社宇佐宮本殿及び拝殿 本殿 重文 近世以前/神社 桃山 慶長3(1598) 桁行五間、梁間三間、日吉造、檜皮葺 19010802
大津市坂本5-1-1 日吉大社摂社宇佐宮本殿及び拝殿 拝殿 重文 近世以前/神社 桃山 慶長3(1598) 桁行三間、梁間三間、一重、入母屋造、妻入、檜皮葺 19640526
大津市坂本5-1-1 日吉大社摂社牛尾神社本殿及び拝殿 本殿 重文 近世以前/神社 桃山 文禄4(1595) 三間社流造、檜皮葺 19070828
大津市坂本5-1-1 日吉大社摂社牛尾神社本殿及び拝殿 拝殿 重文 近世以前/神社 桃山 文禄4(1595) 懸造、桁行五間、梁間五間、一重、正面入母屋造、背面本殿に接続、側面軒唐破風付、檜皮葺 19830107
大津市坂本5-1-1 日吉大社摂社三宮神社本殿及び拝殿 本殿 重文 近世以前/神社 桃山 慶長4(1599) 三間社流造、檜皮葺 19070828
大津市坂本5-1-1 日吉大社摂社三宮神社本殿及び拝殿 拝殿 重文 近世以前/神社 桃山 慶長4(1599) 懸造、桁行四間、梁間五間、一重、正面入母屋造、背面本殿に接続、側面入口附属、軒唐破風造、檜皮葺 19830107
大津市坂本5-1-1 日吉大社摂社樹下神社本殿及び拝殿 本殿 重文 近世以前/神社 桃山 文禄4(1595) 三間社流造、檜皮葺 19060414
大津市坂本5-1-1 日吉大社摂社樹下神社本殿及び拝殿 拝殿 重文 近世以前/神社 桃山 文禄4(1595) 桁行三間、梁間三間、一重、入母屋造、妻入、檜皮葺 19640526
大津市坂本5-1-1 日吉大社摂社白山姫神社本殿及び拝殿 本殿 重文 近世以前/神社 桃山 慶長3(1598) 三間社流造、檜皮葺 19060414
大津市坂本5-1-1 日吉大社摂社白山姫神社本殿及び拝殿 拝殿 重文 近世以前/神社 桃山 慶長6(1601) 桁行三間、梁間三間、一重、入母屋造、妻入、檜皮葺 19640526
大津市坂本5-1-1 日吉大社東本宮本殿及び拝殿 本殿 国宝 近世以前/神社 桃山 文禄4(1595) 桁行五間、梁間三間、日吉造、檜皮葺 19010802 19610427
大津市坂本5-1-1 日吉大社東本宮本殿及び拝殿 拝殿 重文 近世以前/神社 桃山 文禄5(1596) 桁行三間、梁間三間、一重、入母屋造、妻入、檜皮葺旧天井格縁1本 19640526
大津市坂本5-1-1 日吉大社東本宮楼門 重文 近世以前/神社 桃山 "天正〜文禄2 (1573-1593)" 三間一戸楼門、入母屋造、檜皮葺 19230328
大津市坂本5-1-1 日吉大社日吉三橋 大宮橋 重文 近世以前/その他 桃山 桃山 石造桁橋、橋脚 四基、高欄付 19170813
大津市坂本5-1-1 日吉大社日吉三橋 走井橋 重文 近世以前/その他 桃山 桃山 石造桁橋、橋脚 二基 19170813
大津市坂本5-1-1 日吉大社日吉三橋 二宮橋 重文 近世以前/その他 桃山 桃山 石造桁橋、橋脚 四基、高欄付 19170813
ebruary 13 and 19, 2021 野崎順次 source movie
大津市坂本5-1-1
延暦寺がある比叡山の琵琶湖側に、山塊が突き出るように秀麗な支峰が存在する。八王子山とも牛尾山ともよぼれているが、『古事記』には日枝山(ひえのやま)として登場する。背後の比叡連峰を大比叡(おおびえ)八王子山を小比叡(おびえ)とよんで区別している。標高三七八メートル、神奈備型の山容と美しい林相を見せる神体山だ。
八王子山の山頂近くに「金大巌(こがねのおおいわ)」とよばれる磐座が存在する。全国三3800余の日吉神社の総本社である日吉大社は、この巨石信仰から始まる。
『古事記』に、「大山咋(おおやまくい)神、またの名は山末之大主(やますえのおおぬし)神。この神は、近つ淡海国の日枝山に坐す」と記された土着神だ。
日吉大社は大きくわけて東本宮と西本宮からなる。東本宮の祭神は、オオヤマクイだが、西本宮にはオオナムチ(大己貴命)が祀られている。天智天皇が大津に都を移すとき、国土を開拓し統治する神として、大和の大神神社から勧請された。
ヤマト王権発祥の地といえる三輪山から国家鎮護の役割を担った神で、オオヤマクイより格上の待遇で迎えられた。
以来、神階や社殿の大きさ、呼び名など、すべての点で区別され現在に至っている。差別されたのではなく、役割のちがいといっていい。オオヤマクイはあくまでも八王子山に鎮座する地主神であり、オオナムチは国家鎮護の役割を負った国家神ともいえる存在だからだ。
(池田清隆『磐座百選 - 日本人の「岩石崇拝」再発見の旅』2018.01.25. 出窓社)
パンフレットと現地説明板
下から八王子山を見上げると山頂の少し下に奥宮が見える。
まず奥宮をお詣りするため、東本宮脇の参道を登る。
奥宮直下に巨石がある。これは磐座ではないようだ。
やがて舞台建築の起源といわれる懸け造りの社殿が二棟みえてくる。牛尾宮と三宮宮だ。社殿下から石段を見あげると、正面に金大巌が姿をあらわす。「オオヤマクイが坐す」とされる磐座だ。石段を上がるたびに、オオヤマクイに近づいていくような緊張感を覚える。石段を登りきると、高さが十メートルほどといわれる巨岩がせまり、オオヤマクイと相対しているような感覚になる。
(池田清隆『磐座百選 - 日本人の「岩石崇拝」再発見の旅』2018.01.25. 出窓社)
国重文 摂社牛尾神社本殿 桃山 文禄4(1595)
三間社流造、檜皮葺
国重文 摂社牛尾神社 拝殿 桃山 文禄4(1595)
懸造、桁行五間、梁間五間、一重、正面入母屋造、背面本殿に接続、側面軒唐破風付、檜皮葺
国重文 摂社三宮神社本殿 桃山 慶長4(1599)
三間社流造、檜皮葺
国重文 摂社三宮神社拝殿 桃山 慶長4(1599)
懸造、桁行四間、梁間五間、一重、正面入母屋造、背面本殿に接続、側面入口附属、軒唐破風造、檜皮葺
琵琶湖を見下ろす。
三宮社の奥の巨石群
麓に戻り、東本宮にお詣りする。
国重文 東本宮楼門 桃山 "天正?文禄2 (1573-1593)"
三間一戸楼門、入母屋造、檜皮葺
神輿庫、日吉雄梛、内御子社
国重文 摂社樹下神社 拝殿 桃山 文禄4(1595)
桁行三間、梁間三間、一重、入母屋造、妻入、檜皮葺
国重文 摂社樹下神社 本殿 桃山 文禄4(1595)
三間社流造、檜皮葺
国重文 東本宮拝殿 桃山 文禄5(1596)
桁行三間、梁間三間、一重、入母屋造、妻入、檜皮葺旧天井格縁1本
国宝 東本宮本殿 桃山 文禄4(1595)
桁行五間、梁間三間、日吉造、檜皮葺
樹下若宮、新物忌神社、亀井霊水
大物忌神社(修理中の早尾神社のご神体がお遷りされてる)
稲荷社、日吉雌梛、その他
東本宮前の磐座、猿石
巌滝社の辺津磐座
舟形の辺津磐座
西本宮にお詣りするため、入り口に戻る。
県文 求法寺走井元三大師堂
山王鳥居へ
神馬舎と神猿舎
白山社へ、神輿庫
国重文 白山姫神社拝殿 桃山 慶長6(1601)
桁行三間、梁間三間、一重、入母屋造、妻入、檜皮葺
劔宮社、小白山社、八坂社、北野社
国重文 摂社白山姫神社本殿 桃山 慶長3(1598)
三間社流造、檜皮葺
白山社横の磐座
その他、そして宇佐社へ
宇佐若宮、神輿庫、氣比社など
国重文 摂社宇佐宮拝殿 桃山 慶長3(1598)
桁行三間、梁間三間、一重、入母屋造、妻入、檜皮葺
国重文 摂社宇佐宮本殿 桃山 慶長3(1598)
桁行五間、梁間三間、日吉造、檜皮葺
校倉造りの宝蔵、大宮竈殿社
国重文 西本宮楼門 桃山 天正14(1586)
三間一戸楼門、入母屋造、檜皮葺
楼門軒下の神猿像
国重文 西本宮拝殿 桃山 天正14(1586)
桁行三間、梁間三間、一重、入母屋造、妻入、檜皮葺
国宝 西本宮本殿 桃山 天正14(1586)
桁行五間、梁間三間、日吉造、檜皮葺
御神木の桂
西本宮前の磐座、山王霊石 大威徳石
牛頭天王の宿る祇園石
春日岡の九座の霊石
西本宮奥の宝塔(鎌倉)、谷川の巨石群など
国重文 日吉大社日吉三橋大宮橋 桃山 桃山
石造桁橋、橋脚 四基、高欄付
国重文 日吉大社日吉三橋 走井橋 桃山 桃山
石造桁橋、橋脚 二基
走井杉
国重文 日吉大社日吉三橋 二宮橋 桃山 桃山
石造桁橋、橋脚 四基、高欄付
帰途、参道
最澄の伝胞衣塚
参道脇にも磐座がある。
石垣の道を歩き、そばを食べて電車に乗った。
September 5,2020 大野木康夫 source movie
日吉三橋
二宮橋
走井橋
大宮橋
山王鳥居
宇佐宮
西本宮
楼門
拝殿
本殿
宇佐宮
拝殿
本殿
白山姫神社
拝殿
本殿
神輿収蔵庫は公開中止
牛尾宮、三宮神社は割愛
東本宮
楼門
樹下神社拝殿
樹下神社本殿
拝殿
本殿
日吉大社
黄金大磐 (こがねのおおいわ)
坂本
「黄金大磐』は八王子山(牛尾山)頂上近くにある磐座。この神体山から日吉大社は始まったとされる。
標高378mの牛尾山は、八王子山・小比叡とも呼ばれる比叡山系の一つの峰で、円錐形の山容をした山。
その姿は、古くから神奈備山(神体山)として地元の人々から崇敬されてきた。
日吉大社山王祭の際、祭りの1カ月前に神輿を境内から担ぎあげ、4月12日に担いで降ろす行事が行われ、これが山王祭のスタートとなる。
山頂近くに建つ檜皮葺きの二つの社殿の屋根部を遠くから眺めることが出来る。
右が牛尾神社、左に三宮神社が座す。後に牛尾の神が東本宮となり、三宮の神が樹下(じゅげ)神社に発展したとされる。どちらも懸崖造で、拝殿・本殿は国重文である。
登り口は日吉大社の境内にある。
右に牛尾社、左に三宮社の遥拝所がありその間の55段の石段を登る。道幅が広いのは山王祭のとき、神輿が往還するためである。
結構な急坂、七曲がりのつづれ折りになっている。
一曲がり付近
見落としたが、この付近に「神宮禅院旧跡」の石碑がある。伝教大師最澄の父三津首百枝が、最澄の出世を祈願するために建てた草庵の跡といわれる。「叡山大師伝」によると、785年最澄が叡山に入山した785年にこの神宮禅院に参詣し仏舎利を得たとある。
二曲がり付近
三曲がり付近
四曲がり付近
この付近の右側に「御灯道」と書かれた木札を見かける。毎年の日吉山王祭のとき、3月1日に二基の神輿が山頂の奥宮に担ぎ上げられる。
4月12日までの間、神官が毎夕、奥宮に献灯される。そのために通る特別の道である。
視界が開ける
五曲がり付近
六曲がり付近
最後の曲がりの石段を登る−社殿が見え始める
琵琶湖も見える
畳数10畳ほどの大きな岩が露出し、注連縄がめぐらされている。これが八王子山の磐座である。
この磐座を真中にして、右側に牛尾神社本殿と拝殿、左側に三宮神社本殿と拝殿が巨岩に接して建っている。いずれも拝殿は懸造である。
三宮神社本殿と拝殿
牛尾神社本殿と拝殿
牛尾神社側の石灯籠—「山王八王子」と刻まれた1712(正徳2)年造立、三宮神社側−「山王三宮」と刻まれた石灯籠1726(享保11)年造立
黄金大巌
大巌〜社殿からの眺望
樹の間に坂本・下坂本・琵琶湖、さらに対岸の三上山(神体山)とその周辺の湖南・湖東平野が見える。
参考
日吉山王祭
古事記に「大山咋神、亦の名は山末之大主神、此の神は近淡海国の日枝(ひえ)の山に坐し」とある。大山咋神のことを山末之大主神と呼称するのは。この神の鎮座地が牛尾山で、日吉大社の創源はこの山の祭祀にあったことを意味している。
牛尾神社祭神は、産土神・土着神の大山咋神。三宮神社の祭神は鴨玉依姫神。
牛尾山の奥宮に対して、里宮が山麓の東本宮。東本宮の本殿は、日吉造(聖帝造」と呼ばれ、本殿の後背に一段高い高欄を付けるという特異な形式曾した建造物で国宝である。この形式は奥宮との密接な関係を象徴するとされる。
3月1日に山麓の神輿庫から牛尾社と三宮社の神輿2基が、約80人の駕輿丁(かよちょう)たちによって、急坂を担ぎ上げる「神輿上げ」と呼ばれる行事が行われ、長い日吉山王祭が始まる。
4月12日夜、担ぎ上げられた神輿が山麓まで下ろす行事−「午(うま)の神事」が行われる。
これは春に山から里へ神霊を迎える様相を現わし、農耕儀礼の性格を強く示すものとされる。
二基の神輿は東本宮の拝殿に安置され、「シリツナギの行事」が行われる。即ち二基の神輿の後部の黒棒を重ね合せる形で置かれる。これは神野交合を象徴している。宮司から「御生れ(みあれ)」の祝詞が奏上。大山咋神と鴨玉依姫神が結婚し、若宮「鴨別雷神(かもわけかずら)」誕生となる。
13日昼にはその夜誕生する若宮への献花を意味する華やかな「花渡り式」が日吉参道で繰り広げられる。誕生する若宮に玩具類を備える「未(ひつじ)の御供」もある。
4月13日夕方、山王祭の中で最も勇壮な「宵宮落とし」が行われる。これは日吉大社境内の政所の一段高い所で、神輿を上下激しく何十回もゆする。この行為は若宮誕生の陣痛を表現している。
ここまでが山王祭のうち東本宮系のあらましである。後半は東本宮から西本宮に移る。
牛尾山を中心に行われていた行事が、古式に則って今日まで継承されている。−牛尾山の奥宮から里宮に神を迎え合体で若宮誕生という五穀豊穣と平安を祈願する祭である。
参考資料 ≪近江山の文化史、滋賀県の地名、他≫
ライブパフォーマンス
白山宮拝殿
西本宮拝殿
この日は雪が数cm積り、その後も降ったり止んだりで一日曇天でした。山王祭の神輿神儀が行われる日だったが、最近は3月第一日曜日に変更された。
朱の大鳥居と六角地蔵尊と早尾神社付近
求法寺(ぐほうじ)付近 直ぐ前にある日吉大社西受付より境内に入る。
大宮橋〜山王鳥居(滋賀県指定文化財)
西本宮周辺 楼門〜拝殿〜本殿
京阪電鉄石山坂本線 坂本駅
石鳥居
八王子山の摂社牛尾神社、摂社三宮神社遠望
参拝入口
日吉三橋大宮橋
走井橋
二宮橋
山王鳥居
西本宮楼門
拝殿
受付
本殿
宇佐宮
拝殿
本殿
白山姫神社
拝殿
本殿
東本宮付近
樹下神社拝殿
本殿
東本宮拝殿
本殿
楼門
参道
帰路
晴れた八王子山
比叡山坂本駅へ
2つの本宮と以下の5つの摂社を持つ日吉大社、東西だけでも珍しいと感じるのに、さらに摂社が五つ、初体験の神社です。
残念だったのは、修繕が遅れ痛みの激しい社がいくつか見かけられたことです。
日吉大社山王祭撮影 April 12-13,2013 比叡山東麓に鎮座する日吉大社は全国で4,000社近くある日吉(日枝、山王)神社の総本宮です。
その祭礼が山王祭で、山王七社の神輿を中心に3月から4月にかけて、46日間にわたりさまざまな神事が行われます。
今年はそのうち、4月12日に行われた「午の神事」と、翌13日に行われた「宵宮落し神事」を見に行きました。
4月12日の参道
読み上げ(神輿を担ぐ「駕輿丁」(かよちょう)の点呼)が行われる生源寺(最澄誕生の地)
例年は満開の桜の中ですが、今年は盛りを過ぎていました。
13日の「宵宮落し神事」の舞台となる大政所と、その近くの満開のシダレザクラ
「午の神事」は夜なので、しばらく、文化財指定の社殿を見て回ることにしました。
「午の神事」の舞台、八王子山(標高321m)を望む。
日吉三橋(桃山期の建造、いずれも重要文化財)西本宮参道に架かる大宮橋石造桁橋、橋脚 四基、高欄付
その下流に架かる走井橋石造桁橋、橋脚 二基
そのまた下流に架かる二宮橋石造桁橋、橋脚 四基、高欄付
独特の山王鳥居
西本宮の祭神は大己貴神です。
天智天皇による大津京遷都の際に、大和の三輪山から勧請されたといわれています。楼門(重要文化財)天正14(1586)年の建築
三間一戸楼門、入母屋造、檜皮葺神事の予行演習をする神職の方が入って行かれました。
拝殿(重要文化財)天正14(1586)年の建築
桁行三間、梁間三間、一重、入母屋造、妻入、檜皮葺
本殿(国宝)天正14(1586)年の建築
桁行五間、梁間三間、日吉造、檜皮葺東西両本宮と宇佐宮の本殿は「日吉造」(ひえづくり)と呼ばれる形式です。
通常の造りの内陣の全面と両側面に外陣を付け、全体に入母屋屋根を懸けたもので、全面は寺院建築の入母屋造の風合い、背面は他の神社本殿の様式同様の風合いになっています。
西本宮の塀の内側に、祭礼の為のテントが張られていて、撮影しにくかったですが、神事の予行演習の様子を見ることができて興味深かったです。
西本宮の南側は宇佐宮で、祭神は大己貴神との間に子をもうけたとされる宗像系の田心姫(たごりひめ)神です。
拝殿(重要文化財)慶長3(1598)年の建築
桁行三間、梁間三間、一重、入母屋造、妻入、檜皮葺
本殿(重要文化財)慶長3(1598)年の建築
桁行五間、梁間三間、日吉造、檜皮葺
宇佐宮の南側は白山姫神社(白山宮)、祭神は白山神社系の菊理姫(くくりひめ)神です。拝殿(重要文化財)慶長6(1601)年の建築
桁行三間、梁間三間、一重、入母屋造、妻入、檜皮葺
本殿(重要文化財)慶長6(1601)年の建築
三間社流造、檜皮葺
日吉大社の祭祀の中心である山王七社のうち、ここまでの3社は西本宮(大己貴神)系で、「午の神事」や「宵宮落し神事」には参加しません。白山姫神社から東本宮に向かう途中に、神輿庫があります。
桃山期から江戸期にかけて作られた山王七社の神輿(いずれも重要文化財)が収められています。
現代の神事に使われる神輿は、これらの形をそのまま写して作られたもので、牛尾宮の神輿だけが八角形なのもそのままです。
西本宮の大己貴神が大和から移ってきたのに対し、東本宮は、創建当初の祭神であり、比叡山の山の神様である大山咋神(おおやまくいのかみ)を祀っています。東本宮楼門(重要文化財)天正年間から文禄2(1573-1593)にかけての建築
三間一戸楼門、入母屋造、檜皮葺
東本宮拝殿及び本殿は一段高いところに建っており、その手前に樹下神社(樹下宮)が鎮座しています。祭神は大山咋神の妻神である鴨玉依姫(かものたまよりひめ)神です。拝殿(重要文化財)文禄4(1595)年の建築
桁行三間、梁間三間、一重、入母屋造、妻入、檜皮葺
本殿(重要文化財)
文禄4(1595)年の建築
三間社流造、檜皮葺
東本宮拝殿(重要文化財)文禄5(1596)年の建築
桁行三間、梁間三間、一重、入母屋造、妻入、檜皮葺
東本宮系の4社のうち、東本宮と樹下宮の神輿が東本宮拝殿に安置されています。両神輿は翌日の「宵宮落し神事」に参加します。
他の2社の神輿は3月上旬に八王子山上のそれぞれの社殿内に担ぎ上げられており、この夜の「午の神事」でここまで下りてくることになっています。
東本宮本殿(国宝)文禄4(1595)年の建築
桁行五間、梁間三間、日吉造、檜皮葺檜皮葺きの入母屋屋根の葺き替えが終わったばかりです。
東本宮を出て、「午の神事」が行われる八王子山上に向け、急坂を上っていきました。
普通に登ってもきつい坂ですが、神輿が上り下りします。登り口の石段
九十九折りの山道
上にも石段があり、最後の曲がり角には神輿を担ぐ四地区(下阪本、中部、至誠、広芝)の駕輿丁が使う松明が置かれていました。
八王子山頂の社殿(いずれも重要文化財)向かって左が牛尾神社で、祭神は大山咋神の荒魂、向かって右が三宮神社で、祭神は鴨玉依姫神の荒魂です。牛尾神社本殿および拝殿文禄4(1595)年の建築拝殿
懸造、桁行五間、梁間五間、一重、正面入母屋造、背面本殿に接続、側面軒唐破風付、檜皮葺本殿
三間社流造、檜皮葺三宮神社本殿および拝殿慶長4(1599)年の建築拝殿
懸造、桁行四間、梁間五間、一重、正面入母屋造、背面本殿に接続、側面入口附属、軒唐破風造、檜皮葺本殿
三間社流造、檜皮葺
いずれも本殿と拝殿が接続しており、ほぼ屋根しか見えません。
両神社の間にある大きな御神体の磐座は、金大巌(こがねのおおいわ)で、日吉大社の根源の地とされます。
内部には神輿が収められています。
一番撮影しやすい両神社の間の石段正面は、報道カメラ用の足場が組まれ、一般は立ち入り禁止となっていました。
このままここでの午の神事が始まるのを待ちました。
3月上旬の神輿上げ神事で牛尾宮と三宮の神輿を山頂の両社殿まで担ぎ上げ、この日の夜の「午の神事」で、急坂を一挙に担ぎ下ろして東本宮に向かいます。
東本宮の拝殿で両社の神輿の後ろ同士をつなぎ合わせる「尻繋ぎの神事」を行います。
これらの神事は、大山咋神と鴨玉依姫神の婚礼を表しているそうです。
途中、神職の方が両社殿の扉をあけられたので、神輿と本殿を撮影しました。
生源寺での読み上げが終わった駕輿丁は、八王子山頂まで走って登ってきますが、元気な若い駕輿丁は、早く登ってきて両社殿のところまで来ていました。
4地区の駕輿丁は最後の曲がり角のところで人数が揃うのを待ちます。
この間、両社殿の内部では二柱の神が神輿に移られるています。
神輿は牛尾宮、三宮の順に下りていくので、先に牛尾宮を担当する下阪本と中部の駕輿丁が松明とともに社殿めがけて駆けていきます。
次いで三宮を担当する至誠と広芝の駕輿丁が駆けていきます。
紅白の綱を体に巻いている二人の駕輿丁は、「鼻」と呼ばれ、神輿の先頭で担がれ、この紅白のひもを引きます。
最後に、甲冑をまとった実行委員会の役員の方が松明とともに社殿に向かい、「鈴振り」の方の鈴の合図で牛尾宮の神輿が出発、急な石段を下りていきます。
次いで三宮の神輿も出発します。
両社の神輿の間で下りようと思っていましたが、出遅れて三宮の神輿の後ろから下りることになりました。
神輿は暗い山道を松明を頼りに転がり落ちるように下りていきます。
山を下りてから、東本宮に向かい、尻繋ぎの神事などを見ました。
翌13日に宵宮落し神事を見に行きました。
宵宮落し神事は、午の神事で婚礼を行った鴨玉依姫神が鴨別雷神を産み落とすのを表すとされています。
参加するのは東本宮系の4社の神輿です。途中の里坊の桜
宵宮落し神事が行われるのは境内の南にある大政所です。ちょうど参道から大宮川観光駐車場や西教寺がある広芝方面に向かう道の起点のところです。
すでに4基の神輿が東本宮拝殿から移されていました。
向かって右から、樹下宮、東本宮、牛尾宮、三宮の各神輿です。
大政所正面の産屋神社(祭神は鴨別雷神)の周囲が少し高くなっているので、そこ(正面は畏れ多いので端のところ)から撮影することにしました。
暗くなると、多くの観客が集まってきます。
大政所に篝火がたかれました。
生源寺で読み上げが終わった東本宮担当の下阪本の駕輿丁が松明とともに駆けてきます。
「神輿振り」の始まりです。
神輿の正面に、二人の「鼻」を含めて5〜6人の駕輿丁が肌脱ぎになって立ちはだかります。
他の駕輿丁が奥に安置された神輿の前後に大きく振り、台に叩きつけます。
神輿を叩きつける音は鴨玉依姫神の陣痛に例えられており、立ちはだかる駕輿丁は出産の過程を観客から隠しているということです。
次は牛尾宮担当の中部の駕輿丁です。
次は樹下宮担当の至誠の駕輿丁です。
最後に三宮担当の広芝の駕輿丁が駆けつけます。
この後しばらくの間、神輿振りは続きます。
甲冑姿の実行員会の役員の方が入場されるのを合図に、前に立ちはだかっていた駕輿丁が一斉に飛び降り、4基の神輿はいったん大政所から前に落されます。
次に神輿が大きく振り上げられると、「とび」と呼ばれる甲冑姿の駕輿丁2名が神輿の神輿の担ぎ棒に乗って現れます。
これからが宵宮落し神事です。
「小満(しょうまん)」の儀式、獅子舞、綾織によるびんささらを使ったお祓いなどが続きます。
駕輿丁の人波でよく見えませんが、地元テレビ局が中継する映像がスクリーンに映ります。
最後に実行委員長が祝詞をあげ、祝詞が終わるのを合図に、一斉に「とび」が飛び降ります。
4基の神輿は前に振り落とされますが、これは、鴨別雷神の誕生の瞬間を表しているそうです。
それをスタートの合図として、境内に向かって神輿の競争が始まります。
競争は数百メートルで決着がつきます。
この年は、有利といわれる樹下宮と東本宮の神輿が絡まってしまい、それを抜こうとした牛尾宮の神輿が大きく傾いたすきに、一番内側を通って一番不利といわれる三宮の神輿が一番になりました。
競争が終わると、各神輿は、その順番でにぎやかに西本宮に向かいます。
祭はこの後、翌14日の船渡御などを経て、15日まで続きます。
二宮橋(国重要文化財)付近の紅葉 西教寺からブラブラ歩いて日吉大社へ向かう。
途中で見かけたお花(名前は不明)
二宮橋
朱の大鳥居付近の紅葉
この鳥居を過ぎると日吉大社の境内となる。今年は時間の都合で、入り口付近(無料区域)のみ観て廻った。
日吉大社
6月 新緑豊かな日吉大社周辺と境内
≪参考資料≫
境内全体が国指定の史跡となっている日吉大社。
約13万坪の敷地内に17棟の重要文化財が存在し、西本宮本殿と東本宮本殿の2棟は国宝に指定されている。
最盛期には社内108社、社外108社も存在したとされる日吉大社だが、特に重要な西本宮、東本宮、宇佐宮
牛尾宮、白山宮、樹下宮、三宮宮を「山王七社」又は「上七社」という。これに「中七社」と「下七社」の
摂社・末社を加え「山王二十一社」と称する。
中七社は大物忌神社、牛御子社、新物忌神社、八柱社、早尾神社、産屋神社、宇佐若宮。下七社は樹下若宮
竈殿社、竈殿社、氏神神社、巌滝社、剣宮社、気比社である。
これらは織田信長の比叡山焼き討ちによってすべて焼失してしまい、現在の社殿は桃山時代および江戸時代
初期に復興されたものである。
山王二十一社一覧表
立地
大津市坂本に鎮座する。
日吉大社の鎮座する坂本は湖西にあり、比叡山の東麓である。比叡山は多数の峯と谷からなる連山で
その一つにさほど高くはない、秀麗な八王子山(牛尾山)があり、日吉大社の境内はその東麓に展開する。
交通路は、JR比叡山坂本駅から1.3km、京阪電鉄坂本駅から0.6kmである。
日吉大社の構成
日吉大社は、多数の社からなる巨大な神社で、他に類を見ない複雑な構成をしている。
構成する多数の社は明治の神仏分離以後、社名を変更した。現在も旧称が使われる場合がある。
神社の中心は現在の西本宮(旧称大宮)、ついで重要な社が東大宮(旧称二宮)この二社を両所という。
三番目は宇佐宮(旧称聖真子)といい、先の二社と合わせて山王三社と呼ばれる。四番目牛尾神社(旧称八王子)、五番目白山姫神社(旧称客人)、六番目樹下神社(旧称十禅師)
七番目三宮神社(旧称鴨玉依姫神)以上の七社を山王七社ないし上七社という。この下には中七社、下七社があり、合計二十一社が日吉大社の主要な社である。
多い時には境内百八社、境外百八社があったとされる。
史跡構成建造物配置略図
歴史
日吉大社の境内地には六十八基をこえる古墳群がある。比較的小さい古墳で、6〜8世紀の築造とされる。
日吉大社の社殿と境内は明らかに古墳を破壊して作られていることから、古墳建設がなくなり、古墳信仰が
消滅した8世紀以後とされる。
日吉大社の早創に関する奈良時代以前の確実な史実はなく、実態は不明とされる。
しかし平安時代から中世にかけて比叡山延暦寺と一体となって巨大な神社に発展した。
二宮(東本宮)、大宮(西本宮)の成立は最澄が延暦寺を開く以前とされている。宇佐宮の勧請は10世紀末
残り四社が加わって山王七社の体制が出来たのは早くて万寿5年(1028)から永久3年(1115)、12世紀の
前期までとされる。
文献に明らかな歴史上の出来事としては
元慶四年(880)大比叡神に正一位、小比叡神に従四位上の神階が授けられた。「延喜式」巻十神名には
近江国滋賀郡の八座の内「日吉神社 名神大」とある。名神大社は延喜式の中で格の高い神社である。
無動寺を開いた相応和尚は仁和三年(887)に東本宮本殿、寛平2年(890)に西本宮本殿を改造している。
この頃に現状のような日吉造本殿が成立したと推定される。
長暦三年(1039)には二十二社中の最後に列している。二十二社とは、奈良時代以後の律令制神祇祭祀
が衰退する中で朝廷が折に触れて奉幣を行い、特別の祈祷を行う神社を九世紀中頃から定めたもの。
二十一社までは筆頭の伊勢神宮以外すべて畿内の神社ばかりであった。畿外である日吉神社が選ばれて
二十二社になった。延暦寺の影響の大きいことがその理由であろう。
以後、室町時代まで二十二社奉幣は継続して行われ、朝廷にとって最高の社格とされた。
延久三年(1071)後三条天皇が初めて行幸された。歴史的なことで、以後、行啓、摂関大臣や将軍の参詣
が盛んに行われた。
堀河天皇の嘉保二年(1095)には、訴訟のため日吉大社神輿を根本中堂に振上げることがあり、長治二年
(1105)には神輿を奉じて大内裏陽明門に至った。以後、山門強訴毎に都への日吉神輿の動座が頻発した。
元亀二年(1571)織田信長による比叡山焼討ちが行われた。
比叡山ともども日吉社も一切の建物を焼き払われ、神職、僧侶もいったん日吉社を離れた。
これまでの中世的な権威を完全に否定する象徴的な出来事であった。
その後、豊臣秀吉の治世下天正十三年(1585)に至り再建に着手された。現在、国重要文化財に指定を
受けた構造物はこの時再建されたものが多い。
寛永十一年(1634)には東照宮が建立され正遷宮が行われた。江戸時代は幕府の手厚い庇護を受けた。
慶応四年(1868)四月一日、日吉社では神仏分離が行われ、神社内にあった多くの仏具、経典類が破却
焼却された。神仏分離の経過の中で、延暦寺との実質的な関係を絶ち、神社として独立した体制をとった。
明治四年(1871)には官幣大社日吉神社(ひえじんじゃ)となった。
戦後に宗教法人日吉大社(ひよしたいしゃ)となった。
社頭を構成する主要な建造物
建造物は桃山時代から江戸時代にかけて再建されたものが多く、小規模な境内社の中にも江戸時代に
建立されたものが多く残っている。
明治の神仏分離において若干の仏教的施設が破却されたが、社頭の建造物は江戸時代以来の形態を
大きく損ねていない。
近代から戦後のかけて加わった建物、門、塀も歴史的な意義を認められる段階にある。
現在の社頭は、平安時代から中世にかけて形成された社頭の骨格をよく残していると評価されている。
建造物の概要
日吉大社は多数の神社の集合体であり、広くは境内百八社、境外百八社といわれる。
百八社に関しては同定が困難である。
安定した信仰対象としては上七社、中七社、下七社からなる山王二十一社がある。
☆ 上七社
上七社は山王七社とも呼ばれ、中心となる社は主神が大宮(現西本宮)、地主神が二宮(現東本宮)である。
二宮が重視されているのは、本地仏が延暦寺根本中堂本尊と同じ薬師仏であるためとされる。
この二社に加えて宇佐から八幡神を勧請した聖真子(現宇佐神)をくわえて山王三聖と称する。
この三社は本殿形態を日吉造とする。
山王三聖に、八王子(現牛尾神社)、客人(現白山姫神社)、十禅師(現十下神社)、三宮
(現三宮神社)の四社を加えて上七社となる。
十禅師、客人は庇を前室として床を作り、建具で囲う流造である。この形態を庇前室流造又は
(前室付流造)といわれる。
八王子、三宮は八王子山頂の殆ど平地の無い所に位置し、本殿はやや小ぶりの庇前室流造
であるが、八王子は向かって右側面の縁を作らず、三宮は縁を持たない。総じていうと、日吉大社の中心社殿である上七社の本殿形式は山王三聖が日吉造で、他四社
は庇前室流造である。日吉大社の神社本殿の大きな特徴は下殿の施設にある。
下殿は本殿床下に作られた仏教的色彩の場であり、これがあるのは上七社に限られる。
上七社は拝殿を持つ。山下の五社は方三間の舞殿系の拝殿、山上の二社は懸崖造の拝殿で
平面形は不整形となり周囲を壁と建具で囲う。
方三間桧皮葺の拝殿は中世においても山上七社(山下五社)に限られた。 ☆ 中七社、下七社
中七社においては、大行事(現大物忌神社)は中七社の第一であるが、早尾が庇前室の三間社
流造で、山上三聖を除く上七社と同じ形態であるが、規模は少し小さい。
他の現存社殿は一間社流造で、殆どが見世棚造である。見世棚造を含めて、一間社流造社殿
の規模、形態は一様でなく、多彩な変化がある。
二十一社の本殿、拝殿の形態
☆ 神輿庫
上七社には山王祭で出御する神輿があり、それぞれに神輿庫がある。
すべて同形式、規模も同じである。
形式は桁裄三間、梁間二間で妻を正面とし、屋根は切妻造、正面側では扉を設けるため中央の
柱は省略する。
東本宮神輿庫(昭和戦後)、宇和宮神輿庫(昭和20年1945)が近年のものと見られる。
西本宮神輿庫以下五棟には、享保元年(1716)に改造した記録があるが、様々な修理を受けている。
☆ 石造物
境内にある代表的なものは、国重要文化財の日吉三橋がある。
日吉三橋は大宮橋、二宮橋、走井橋で、寛文九年(1669)のそれまでの木造橋を石造に作り変えた。
中世のものに、西本宮の西の山林に石造宝塔がある。鎌倉時代のものとされる。
近世のものは種類が豊富である。
西本宮の左右にある竹台など柵に類するもの、東本宮の亀井、西本宮左前にある手水舎と水盤など
がある。西本宮前手水舎、水盤は他所から移築されたものである。
年代の分かるものは、享保三年(1718)の「山王社御修復年分覚」に石柵6箇所が新造で、現存の
ものに該当するものとして雪丈石(ゆきたけいし)、亀井水がある。他は江戸時代に作られたものとされる。
日吉会館
江戸時代後期の建物で三井寺の政所であった。明治になって、三井寺に県庁が置かれた時に知事
官舎として使用された。昭和二十九年(1954)に参集施設として日吉大社に移築され、現在に至る。
求法寺
神仏分離で別法人となった。
境内の入口にあって、比叡山延暦寺の里坊の一つで、東塔南谷所属の支院である。
本堂である走井元三大師堂、庫裏、門があり、早尾神社下の六角、二重や名の地蔵堂も管理している。
もと安恵の住房で、良源が初登山の時ここで比叡山への入山修行の決意を固めたことから求法寺となり
良源が元三大師として信仰を集めて以後元三大師を祀るようになった。
求法寺のあるこの周辺は、江戸時代の神仏習合の景観を残している。
建造物の詳細説明日吉造本殿
西本宮本殿 桁裄五間 梁間三間 日吉造 桧皮葺 天正十四年(1586)
東本宮本殿 桁裄五間 梁間三間 日吉造 桧皮葺 文禄四年 (1595)
宇佐宮本殿 桁裄五間 梁間三間 日吉造 桧皮葺 慶長三年 (1598)
日吉造は、桁裄三間、梁間二間の身舎(もや 内陣)の正面と両側面に庇(外陣)を付けた三面庇の形態。
背面には庇が付かず、それが屋根形態に直接表されるので、入母屋造屋根の後方を切取ったような形になる
のが日吉造の大きな特徴である。
日吉造本殿は日吉大社に現存するこの3棟と、若干形は異なるが、石清水八幡宮の若宮社本殿が知られる
に過ぎない希少な形式である。
規模
殆ど同じであるが、西本宮が少しだけ大きい。
柱間装置
内陣の正面中央間に扉があるだけで他は板壁で閉ざされ、極めて閉鎖的である。
外陣は正面全体が蔀戸で両側面の前から第一間に扉がつく点で共通している。窓の付き方は三棟とも異なる。縁
四方に回るが、東本宮では背面側で中央の三間分すなわち内陣に相当する部分が一段高く作られている。組物
舟肘木で簡素である。外部に面する舟肘木は、西本宮ではすべて柱上にあり、東本宮、宇佐宮では四隅と
背面の内外陣境のみである。舟肘木のない柱は直接桁を受ける。向拝
三棟とも正面中央には一間の向拝がつく。九社「山王七社及び大物忌、早尾」の本殿比較
西本宮本殿正面 背面
東本宮本殿正面 背面
宇佐宮本殿正面 背面
牛尾神社本殿 三間社流造 桧皮葺 寛文九年(1669)
白山姫神社本殿 三間社流造 桧皮葺 慶長三年(1598)
樹下神社本殿 三間社流造 桧皮葺 文禄四年(1595)
三宮神社本殿 三間社流造 桧皮葺 慶長四年(1599)
上七社の残る4社は三間社流造で、庇を前室とする形態が基本である。庇の部分に床を貼り、建具で囲って
室内とする形態で、滋賀県に多い。樹下神社、白山姫神社本殿は庇を前室とする整った形態である。
平面形態
桁裄三間、梁間三間の身舎の正面側だけに庇を付す形で、三間一面庇と表現できる。
内陣すなわち身舎は円柱とし、正面中央に扉を設ける以外は板壁である。外陣すなわち庇は、柱を円柱又は
角柱とし、正面三間は蔀戸、両側面には扉ないし引違戸を入れる。
縁
四方に回るのが原則であるが、山上の牛尾神社では縁は正面と左前方のみであり、三宮神社では縁が省略
され、正面の階は直接に外陣に上がることになる。
縁には内陣(身舎)と外陣(庇)で段差を付けるのは、下位の神社に多いように見えるが、東本宮の縁に段差を
付けているのでそうともいえない。
組物
舟肘木で、正面側、背面側の柱上にはすべてある。
向拝
牛尾神社、三宮神社には造られていない。これは正面が拝殿内部なので必要ないことによる。その他は正面に
向拝一間が付く。
牛尾神社本殿正面 背面
白山姫神社正面 背面
樹下神社正面 背面
三宮神社本殿 背面
拝殿
西本宮拝殿 桁裄三間 梁間三間 入母屋造 妻入 桧皮葺 天正十四年(1586)
東本宮拝殿 桁裄三間 梁間三間 入母屋造 妻入 桧皮葺 文禄五年(1596)
宇佐宮拝殿 桁裄三間 梁間三間 入母屋造 妻入 桧皮葺 慶長三年(1598)
牛尾神社拝殿 懸造 桁裄三間 梁間三間 正面入母屋造 背面本殿に接続 寛文九年(1669)
白山姫神社拝殿 桁裄三間 梁間三間 入母屋造 妻入 桧皮葺 慶長六年(1601)
樹下神社拝殿 桁裄三間 梁間三間 入母屋造 妻入 桧皮葺 文禄四年(1595)
三宮神社拝殿 懸造 桁裄三間 梁間三間 正面入母屋造 背面本殿に接続 慶長四年(1599)
八王子山頂の牛尾神社と三宮神社の拝殿は懸崖で本殿と合体した特異な形態である。
山下の五社拝殿は、整った形式となっている。
床は板敷、角柱 舟肘木 二軒疎垂木で妻飾は木連格子、四方に縁と組高欄を廻らす。
中七社以下の社には基本的に拝殿はない。
西本宮の垂木は半繁垂木に近く、外より丁寧な作りといえる。天井は5社とも小組格天井で、西本宮
のみ中央部を折上げ小組天井として、格の高い作りとしてある。
拝殿に上がる石階は、四方につくのが西本宮、東本宮、樹下神社で、宇佐宮、白山姫神社では正面
とその反対側の本殿側の二方向につく。
七社拝殿の比較
西本宮拝殿 東本宮拝殿
宇佐宮拝殿 牛尾神社拝殿
白山姫神社拝殿 樹下神社拝殿
三宮神社拝殿 昭和5年(1930)頃 東本殿拝殿
楼門
西本宮楼門 三間一戸楼門 入母屋造 桧皮葺 天正14年 (1586)
東本宮楼門 三間一戸楼門 入母屋造 桧皮葺 天正~文禄2年(1593)
楼門は西本宮と東本宮にあり、ほとんど同形同大である。形式は三間一戸楼門で、入母屋造、桧皮葺である。
下層の平面は桁裄三間、梁間二間で、桁裄中央間を出入口とする。柱は円形で、上層の縁を支える腰組は
二手先の上に出る出三斗を置く三手先である。中備は桁裄中央間が蟇股である以外は間斗束とする。
上層も三間に二間で正面背面とも中央間が扉で両脇は連子窓、その他は壁である。
組物は正規の三手先、中備は下層に同じ。軒は二間繁垂木で妻飾は豕扠首、四方に縁と組高欄を廻らす。
全体に朱塗りである。西本宮と東本宮の相違は、西本宮が上下層ともに桁裄中央間の中備を蟇股とするのに
東本宮では上層には蟇股は飾らず、関斗束としている。また隅木と隅尾垂木間に西本宮では猿の彫刻を入れ
ているのに対して、東本宮は単なる束であり、総じて西本宮楼門がやや装飾が多い。
楼門の比較
西本宮楼門 東本宮楼門
日吉三橋
大宮橋 石造桁橋 橋脚四基 高覧付 寛文9年(1669)
二宮橋 石造桁橋 橋脚四基 高覧付 寛文9年(1669)
走井橋 石造桁橋 橋脚二基 高覧付 寛文9年(1669)日吉三橋は大宮川に架かる近接した石橋で、西本宮参道にかかる大宮橋、東本宮参道にかかる二宮橋、走井
元三大師堂の横から対岸の走井祓殿社の前にかかる走井橋の三つの端である。記録で寛文9年に木造から石造
に改められた。
橋の規模は大きな差はない。幅は大宮、二宮、走井の順、石材は花崗岩である。構造説明では、橋を渡る方向を
桁裄、その直角方向つまり川の流れの方向を梁間方向とする。大宮橋の構造は、梁間方向に並ぶ3本の円柱4組を桁方向に並べて橋脚とする。桁裄中央間を除く両端間では
柱を桁裄、梁間方向とも貫で繋ぐ。この柱の上に三通りの桁を置き、その上に柱位置には太い角材の根太石を置
き、その上に踏石を並べる。踏石は、両側の欄干が乗る石2枚を覗いて桁裄3枚、梁間が7枚で、1枚の大きさは
桁裄4.5m、梁間75cmの石である。踏み石同士は短辺が出会う位置で鉄製のチキリで繋いでいる。これは大宮
だけの技法である。大宮橋の欄干には、格狭間が彫られているおり、その形は西本宮前にある竹台と類似している
二宮橋の構造も柱から根太石までは大宮橋とほぼ同じだが、柱を繋ぐ貫が省略されている。踏石の並べ方異なり
梁間中央に桁裄桁裄方向に長い長方形の石7枚を桁裄に並べ、その両脇は梁間方向に長い石を並べている。
走井橋の構造は単純、簡明で、梁間方向に並ぶ角柱3本が2組配され、柱上に根太石を梁間方向に置き、その
上に直接踏石を並べる。踏石は桁裄方向に長いもので、桁裄方向に3枚、梁間方向に5枚並ぶ。
走井橋は「近江名所図会」では「橋殿中の橋」と呼ばれていて、山王祭の駕籠丁がここで悉く祓いをすると書かれて
いる。
竹台
西本宮 石造竹台 二基 寛文8年(1668)造立
西本宮本殿の左右にある。竹台は、本殿の左右に植わっている竹の基台および柵である。
延暦寺根本中堂の回廊内にも同じような竹が植わっており、伝教大師が中国から持ち帰ったもので、東に住吉、西
に八幡神が影向するという。
西本宮の竹台は、中世から存在し、柵は江戸時代に木から石造になったとされる。花崗岩製である。
求法寺
滋賀県指定文化財
走井元三大師堂
滋賀県指定文化財 正堂と札堂からなる1棟 正徳四年(1714)建立
正堂
桁裄三間 梁間三間 入母屋造 ?葺 正面札に礼堂附属
円柱 腰長押 内法長押 頭貫鼻付 台輪木鼻付 出三斗肘木 中備なし 二軒繁垂木 妻飾紅梁大瓶束札堂
桁裄五間 梁間三間 入母屋造 ?葺 正面軒唐破風付 西側面庇附属 桟瓦葺
角柱 切目長押 内法長押 飛貫 舟肘木 二軒繁垂木 妻飾紅梁大瓶束 正面軒唐破風妻飾 紅梁蟇股正堂と札堂が一体となった凸形の平面で、内部は内陣と外陣にからなる。
正堂は粽(ちまき)付円柱で台輪、出組の禅宗風の建物。札堂は角柱で舟肘木の和様の建物である。
外陣は畳敷きである。正面の柱上から奥行き方向に四通りの紅梁をかけ、正面、両側面の三方を化粧屋根裏、
中央内陣よりの部分を組入天井とする。
内陣は板敷である。奥行き三間を格天井とし、その奥一間通を仏壇とする。内陣両脇の奥の柱間は連子窓で
向かって左腰板は内外両面に唐獅子、右腰板は内側に唐獅子を描く。右腰板外部は漆喰塗りとする。
落着いた外観であるが、内部は見飽きない建築構成の面白さを持った建築とされ、日吉大社内の簡明な構成
の神社建築と好対照をなす優れた建築物である。資料
山王宮曼荼羅上部(奈良国立博物館蔵)
同 下部
秘密山王曼荼羅(日吉大社蔵)
近江名所図会(大津歴史博物館蔵)
史跡内建造物一覧「一部省略」
参考資料≪国指定史跡日吉大社境内 保存管理・環境保全計画書≫
日吉大社
山王鳥居
滋賀県指定文化財日吉大社は別名を山王さんと呼ばれ、山王さんの鳥居だから「山王鳥居」と呼ばれて有名である。
明神造りの鳥居の上に山型の破風がとりつけられ、調和のとれた美しい形で「総合鳥居」とも呼ばれる。
これは全国で唯一のもので、山王とは縦横三本の線を縦横一本の線で結んだ字が、山王であるという深い神
の教えが含まれているとされる。すなわち山王の教えと字を鳥居に形象したものが、この日吉大社独特の鳥居。
山王宮曼荼羅(奈良博蔵)に同位置、同形式出描かれており、少なくとも室町時代から変化がない。
現代のものは、昭和15年(1940)に再建されたものである。西本宮位置図
祭神は「大己貴神(おおなむちのかみ)」別名を大物主神(おおものぬしのかみ)という。
天智天皇が大津京を開いたときに、奈良の三輪山・大神(おおみわ)神社から勧請した神。
西本宮系(西本宮、宇佐宮、白山宮の3社)はあとから祀られた国家を守るための神である。楼門
国重要文化財 天正14年(1586)建立
三間一戸楼門 入母屋造 桧皮葺
楼門は同じ造りの「東本宮楼門」に比べ、一回り大きく堂々としている。
全体は朱塗りで、上下層ともに桁裄中央間の中備を蟇股にしている。
隅木と隅尾垂木間に猿の彫刻を入れる。東本宮の楼門より、総じて装飾がやや多い。
拝殿
国重要文化財 天正14年(1586)建立
桁裄三間 梁間三間 一重 入母屋造 妻入 桧皮葺
楼門をくぐると正面に建つ。
吹きさらしの舞殿形式で、お祓い、祈祷などの神事がここで行われる他、山王祭では山王七社の神輿が全てここに安置される。
本殿
国宝 天正14年(1586)建立
桁裄五間 梁間三間 日吉造 桧皮葺
正面と両側面に庇がついた「日吉造(ひえづくり)」という建築形式で建てられている。
日吉造は聖帝造(しょうたいづくり)ともいい、ほかではほとんど見ることのできない珍しい形式である。
本殿の正面には1間の向拝(礼拝のために使用される部分)と浜床(向拝の下に用いられる低い床)があり
縁高欄がまわりをめぐっている。
大宮、大比叡(おおびえ)とも呼ばれ、平安時代の初め、延暦寺の僧・相応によって今のような形に造り替
えられたとされる。
現在の建物は天正14年(1586年)に復興され、慶長2年(1597年)に改造されている。
本殿の豪華で、輝く飾り金具と釘隠し
東本宮
本殿屋根の檜皮葺き替え工事が来年3月末完了予定で年内に着手される。そのため、急遽撮影を行った。
現在の檜皮屋根は50年余を経過している。
位置図
東本宮のグループは東本宮と樹下宮、牛尾宮、三宮宮の4社。
祭神、大山咋神(おおやまくいのかみ)は古事記上巻に「この神は近つ淡海国の日枝山に坐し」と
記載されており、古代から比叡山に鎮座する地主神である。
樹下宮は大山咋神の后神である鴨玉依姫神(かもたまよりひめのかみ)を祭神とし、牛尾宮と三宮宮には
それぞれ大山咋神と鴨玉依姫神の「荒魂(あらたま)※」が祀られている。楼門
国重要文化財 天正〜文禄(1573〜1593)年頃に建立
三間一戸楼門、入母屋造、檜皮葺、縁付の建物で、斗?は上下層とも三手先となっている。
三間一戸とは、柱間三つのうち中央の一つが出入口となっているもので、楼門とは二階造りの門で
屋根が二階の部分だけにしかなく、一階の上に縁がある形式をいう。
西本宮楼門とは、やや違った比例を持っていて、強いて言えば一階部分が高く、二階部分が低いので
すらりとした均斉のとれた建物。西本宮のような猿の彫刻や蟇股はない。
拝殿
国重要文化財 文禄5年(1596)建立
桁裄三間 梁間三間 一重 入母屋 妻入 桧皮葺 附 天井格縁
外壁はなく4方吹き放しで天井は格天井で床外側には高欄が廻っている。
桃山時代に建てられた神社拝殿建築の遺構として大変貴重な存在とされる。
本殿
国宝
桁裄五間 梁間三間 日吉造 桧皮葺
東本宮本殿は西本宮本殿とほぼ同様の造りだが、背面の3間の床が一段高く造られている点が西本宮本殿異なる。
二宮、小比叡(おびえ)ともいわれ、現在の建物が復興されたのは文禄4年(1595年)と、西本宮本殿のあとである。
輝きを失った飾り金具
樹下神社
樹下宮は大山咋神の后神である鴨玉依姫神(かもたまよりひめのかみ)を祭神とし、牛尾宮と三宮宮には
それぞれ大山咋神と鴨玉依姫神の「荒魂(あらたま)※」が祀られている。拝殿
国重要文化財
桁裄三間 梁間三間 一重 入母屋造 妻入 桧皮葺
現存の七基の「山王神輿」は全て重要文化財に指定されている。
樹下神社本殿
国重要文化財 文禄4年(1595)の建立
三間社流造 桧皮葺
床下の造りが日吉造と同じであること、向拝階段前に吹寄格子の障壁が立てられていることが特徴とされる。
社殿には豪華な飾り金具などがふんだんに使われており、装飾性が極めて豊かで派手な感じのする神社である。
大物忌神社
大津市指定文化財 元和5年(1619)建立
三間社流造 庇前室 向拝一間 桧皮葺
Jan.2009 瀧山幸伸
Mar.2006 瀧山幸伸
No.1 Mar. 2006 source movie
東本宮楼門
Higashi hongu roumon
Jan.2009
Mar.2006
摂社樹下神社本殿
Sessha Jugejinja Honden
Jan.2009
Mar.2006
摂社樹下神社拝殿
Sessha Jugejinja Haiden
Jan.2009
Mar.2006
東本宮拝殿
higashi Hongu Haiden
Jan.2009
Mar.2006
東本宮本殿
Higashi Hongu Honden
Jan.2009
Mar.2006
摂社牛尾神社、三宮神社 遥拝所
Sessha Ushio jinja Sannomiya jinja youhaijo
摂社牛尾神社、三宮神社 参道
Sessha Ushio jinja Sannomiya jinja sando
摂社牛尾神社、三宮神社
Sessha Ushio jinja Sannomiya jinja
山王神輿
Sanno MIkoshi
Jan.2009
Mar.2006
摂社白山姫神社本殿
Sessha Hakusanhime jinja Honden
Jan.2009
Mar.2006
摂社白山姫神社拝殿
Sessha Hakusanhime jinja Haiden
Jan.2009
Mar.2006
摂社宇佐宮拝殿
Sessha Usagu Haiden
Jan.2009
Mar.2006
摂社宇佐宮本殿
Sessha Usagu Honden
Jan.2009
Mar.2006
西本宮楼門
Nishihongu roumon
Jan.2009
西本宮拝殿
Nishihongu Haiden
Jan.2009
Mar.2006
西本宮本殿
Nishihongu Honden
Jan.2009
Mar.2006
日吉三橋 大宮橋 走井橋 二宮橋
Hiyoshi sankyo
Jan.2009
Mar.2006
境内
Jan.2009
周辺
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