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滋賀県甲賀市 甲南町

Kounan, Koka city,Shiga

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Sep.27,2014 中山辰夫

甲南散策

甲賀市甲南町滋賀県教育委員会主催の、探訪【近江水の宝】 杣の里を行く—矢川神社・矢川津—に参加した。JR甲南駅からスタートである。

■JR甲南駅

JR草津線の沿線にある。開業以来120年強経過している。

1890(明治23)年 関西鉄道の柘植駅〜三雲駅間延長時に「深川駅」として開業。1907(明治40)年に国有鉄道の駅になる。

貴生川駅開駅までは当駅が、甲南〜水口地域の主要ターミナルとして機能していた。

■深川

駅前広場を右に向かい前方の道を進む。右角に旧深川駐在所跡の石柱が見える。

この辺りが深川で、古代に深川宿祢が開き、中世には甲賀五十三家に数えられる鵜飼氏が支配していた。

■杣川大橋

甲南町付近の杣川。杣川は油日岳を源とする一級河川で延長は24㎞。野洲川の最大の支流である。この近辺は「甲賀杣」と呼ばれる良質の山林が広がり、奈良・京都の宮や寺院の建築用材として、杣川−野洲川−琵琶湖を経て石山寺へと運ばれた。 川越えの高い山が飯道山である。

■伊賀街道 「大神宮」常夜燈

伊勢神宮を信仰する「伊勢講」により1821(文政4)年に参宮常夜燈して建立された。伊勢街道を通る村人や旅人の道標となった。

街道筋からここに移された。この辺りは現在深川市場と呼ばれる。深川市場は、早くから交通の要地となり、杣谷一帯の物資の集散地であった。1880(明治13)年の記録では、戸数48戸のうち、農業は2軒で、商家が40軒、呉服・太物商・酒屋・醤油屋・旅籠屋などを業とした。茶商として神戸・横浜に行商する者もいた。新治の集落に入る。

■甲賀郡中惣遺跡群

国指定史跡

戦国時代の甲賀武士の自治組織は「甲賀中惣」といわれる。

甲賀中惣とは、戦国時代の甲賀武士の自治組織のことで、惣領(家名を継ぐべき子、またその家)と庶子(嫡子以外の実子、又はその家)といった一族と、同名入りした地域の非血縁の他民によって構成される擬制的な一族組織とされる。

後に訪れる矢川神社の境内入口に石碑が立つ

甲賀市から湖南市にかけての丘陵部に拠点となる城の、高い土塁や堀、曲輪などが中世そのままの姿が残っている。

中でも、六角氏が一時潜伏したためか、杉谷から新治にかけての地域は、特に城の密度が高く、城館の構造もより発達したものが見られる。

新治地域の5箇所の(寺前城、村雨城、新宮城、新宮支城、竹中城)が平成20年7月28日付け(文部科学省告示第122号)で国史跡に指定された。

甲賀郡一帯に郡中惣が形成されたのは、織田信長の近江侵攻という軍事的緊張を背景に、概ね永禄年間(1558〜1570)頃とされ、矢川・油日等の郷鎮守社を結束の拠点として発展していった。

甲賀武士は近江守護六角氏の軍事的主力として活躍したが、元亀元年(1570)野洲川の戦いで敗北、信長の配下に入った。

その後、羽柴秀吉の兵農分離政策(甲賀では1585・天正13年まで)により改易され、郡中惣は終焉を迎え大半が帰農した。

しかし江戸時代に入っても17世紀の前半は、地域紛争の仲裁を行ったり祭礼行事に痕跡が残った。18世紀になると、子孫の一部は「甲賀古士」と称して、幕府への仕官運動を行うとともに、地域社会内での社会的身分の維持・上昇に努めた。即ち由緒に基ずく特権や立場の継承に努めた。

 ■新宮城

新宮城と新宮支城はこの地を治めていた土豪の城である。甲賀特有の二城近接型の城館で、両城とも尾根を空堀で断ち切り、この前面に土塁を方形にめぐらせた典型的な甲賀型の城館である。

丘陵の山林中に城跡を留める。築城は室町時代とされる。草木が繁茂し現地の状況は掴みにくいが、空堀、土塁、郭、虎口、本丸跡などが見られる。

麓に向けて段上に小郭が重ねられている。枡形虎口を設けて侵入者の進路を屈折させている等の様子がつかめる。

■新宮神社 

甲南町新治

別途≪新宮神社参照≫

■出土木材—古代の埋もれ木

2005(平成17)年6月、新名神高速道路工事現場で加工痕のある巨大な杉の埋もれ木が多数発見された。

復元すれば1m40cmにもなる巨木、根元には鉄斧による伐採痕が鮮やかに残っていた。他にも製材途中の原木が含まれており、この付近で伐採・製材作業が行われていたことが分かった。クサビや斧による加工痕が付いている。

土の中から掘り出された巨木は、丸太から板材や角材を割り取る製材の過程が分かる貴重なものであった。又年輪測定法で1400年程前のものだと分かった。

出土の埋もれ木は、後ほどの説明にある矢川津から南方約3kmの山間部から出てきたもので「正倉院文書」に記された「甲賀杣」より約100年さかのぼる時代に伐られた巨木である。

■杣の六地蔵「地蔵堂」

杣川流域では、「杣の六地蔵」と呼ばれる6カ寺の地蔵尊を家族や親族が巡拝する風習が江戸時代から続いている。その由緒は、六地蔵は伝教大師最澄が用材を求めて杣谷に入った際に、一本の木から彫り出したものと語られていて、第一番手の寺庄六角堂から川下に向かって巡拝するのがふつうである。

六地蔵参りは、毎年8月下旬の地蔵盆の時期に行われ、その年に初盆を迎える家の者が巡拝するとよい供養になると言われる。

第二番善願寺(新治)と第三番深川地蔵堂(深川) 残りは、第四番牛飼地蔵堂(水口牛飼)、第五番円光寺(水口三大寺)、第六番法泉寺(水口貴生川)

第一番六角堂

寺正の街並みに建つ。1788(天明8)年に池田村の大工・中村喜惣治が棟梁となって建立した。堂内には、最澄が一本の大木から作り出したと伝える彩色地蔵菩薩が祀られている。六角堂の二重屋根の軒先には十二支の意匠を持つ棟瓦が飾られている。

 山裾の望月城跡や竹中城跡(竹藪)を見やりながら杣川堤に来る。

■矢川津

矢川神社をのぞむ杣川のこの近辺に矢川津が所在したとされる。

律令国家や寺社が、宮や寺社の造営・修理用材を確保する目的で指定した山林を「杣」という。甲賀は良質な木材を産出する地域で、公の杣である「甲賀杣」が存在していた。672(天平宝字」6年の石山寺増改築に際し、紫香楽にあった「三大板殿一宇」が解体され、矢川神社付近とされる「矢川津」から搬出したという記録が残る。

■天保義民の碑

江戸時代の三大飢餓の一つ「天保飢餓」が全国的に頻発し、幕府は財政再建のため、近江でも実際の長さより短い検地竿を用いて検地のやり直しを行った。

この不正検地に対し、農民は決死の覚悟で強訴に立ちあがった。指導者となった庄屋の中に、市原村の田島治兵衛、深川村の田中安右衛門、杉谷村の西浦九平衛がいた。

1842(天明13)年10月14日未明、矢川寺の鐘を合図に集まった数千人の農民は検地奉行の居る三上村(現・野洲市)をめざした。これが天保一揆で、一説には4万人の規模に膨れ上がったといわれる。結果「検地十万日の日延べ」を勝ち取った。

その後、指導者達は捕えられ獄死したが、このように勝利を得た一揆は全国探してもない。

維新後の1869(明治2)年罪人の汚名を解かれ、義民たちは顕彰された。1991(平成)3年、義民150年を記念した天保義民メモリアルパークが矢川橋北詰に建てられた。

毎年10月15日には、義民供養が執り行われる。

メモリアルパークにある天保義民碑 条幅時にある太田中安右衛門の石碑 伝芳山にそびえる天保義民の碑

矢川神社

甲賀市江南町森川

別途≪矢川神社≫参照

■甲南ふれあいの館−鋸製造用具展示

建物は、甲南第三小学校の講堂を移築して建てられ、住民から寄贈された昔の農具や生活用品などの民具資料を保存、展示している。

展示の中で目を惹いたのは、甲賀の前挽き鋸製造用具類である。甲賀は古くから森林資源に恵まれ、奈良時代には建築用材を供給の「杣」がおかれ、東大寺や石山寺の造営に利用された。杣は水口・甲南・信楽に広がった。

こうした地域性を背景に、木材伐採の杣師、建築資材に加工する木挽(こびき)、組立の大工等の諸職が発達した。

近世には幕府京都大工頭であった中井家の配下に所属し、禁裏造営などの公役のほか各地で活躍した。木挽職の道具である前挽鋸もこうした環境下で、江戸時代後期に成立し発達し、明治中期から昭和初期までは甲賀はわが国の前挽鋸の一大生産地を形成した。

前挽き鋸とは板や柱を製材する縦挽きの鋸の事で、甲賀ではマイビキあるいはマイビキノコと呼ばれる。製材用の鋸は中世にはオガ(大鋸)という二人挽きの鋸が広く用いられたが、16世紀末になると一人挽きの前挽鋸にかわった。

1889(明治28)年には今井庄九郎商店が洋鋼用前挽を始めたことで従来の和鋼製から洋鋼製に移り生産量が増大するなどで、明治末期の最盛期には、北海道をはじめ日本全国から大陸までに販売され、その手法には通信販売も使われた。

その後、機械製材に押され、昭和28年頃には製造が途絶えてしまい、今や歴史の中に埋もれてしまった。

八里平右衛門家を中心とした製造用具1596点と出荷帳や台帳等の販売関係資料515点が県指定の有形民俗文化財である。 甲賀の前挽鋸は各地でみられる。

1−越中五箇山の相倉「五箇山民族館」

2−北海道開拓記念館

3−岐阜県イビガワ町「徳山民族収蔵庫」

4−新潟県糸魚川「木地屋民俗資料館」

などで見ることが出来、全国への広がりが体感できる。

■浄福寺

宗派:天台宗 

甲南駅の裏手の山の中腹にあり、正面の石段、約60段を登りつめた所の本堂前からの眺めは最高で、甲南町の中心部や杣街道が一望できる。

その昔、伝教大師が比叡山に延暦寺の根本中堂を建てるとき、用材を求めて甲賀の杣谷に来られた。その時、山の上に金色の光を出すところがあり、そこを霊地として寺院を開かれたのが、ここ浄福寺とされる。杣川筋の天台系寺院に共通する開基伝承である

境内

本尊:十一面観音坐像 国重要文化財:秘仏 三十三年毎に開帳 十一面観音の座像は少ない。

像高は102.3cm、2材からなる寄木造、内刳りを施し、彫眼漆箔の座像。鎌倉初期の造像

天保一揆の指導者の一人で深川の庄屋 田中安右衛門の碑が建つ。

参考資料≪配布パンフレット、甲賀市史、甲賀を繙く、滋賀地理、その他≫  


Aug.2010 撮影: 中山辰夫

甲賀市甲南町自然豊かな甲賀谷の中、修験道場として知られる飯道山の裾野にあり、甲賀町と並ぶ甲賀忍者発祥の地で、元禄のころ建てられたとされる「忍者屋敷」が現存している。

旧東海道の道筋にあたる交通の要衝として栄え、街道沿いの家並みに往時の面影が残り、矢川さんの名で親しまれる矢川神社や新宮 神社表門など名所旧跡が多い。

杣川の作る豊かな平地と、背後に広がるなだらかな丘陵。甲南町は穏やかな自然に恵まれた豊かな町である。

この丘陵を作っているのは、大昔の琵琶湖や、そのまわりに堆積した地層である。即ち大昔は琵琶湖の湖底であった。

町の西の玄関口、矢川橋付近は、最も早く開けたところで、聖武天皇が紫香楽宮を造営された頃、隣接する甲南地方の開発も一気に進んだ。

奈良の都に東大寺を建立する時には「造東大寺司」という役所の下に用材を調達する「甲賀杣」が開かれ、伐り出した材木を「矢川津」に集め、杣川の水運を利用して運んだことが、正倉院文書に残る。

甲賀杣には「甲賀山作所」という東大寺司の出先機関が置かれ、矢川津は、それに附属する川津=材木の集積地で、現在の矢川橋付近とされる。

甲賀杣の開発に当たっては、中央から多くの山林土木、建築関係技術者集団の流入があった。彼らは東大寺建立あとも、この地に土着して開発を進め、今日の甲南文化の基礎を築いたといえる。後に甲賀杣大工と呼ばれる優秀な工匠集団が現れる素地もここに

求めることが出来る。

杣川の流域一帯の地は、平安時代から中世にかけて、京都や奈良の貴族や有力社寺の荘園となった。

村内は、矢川寺。新宮社。三大寺社(現・日吉神社)に所属し祭祀を行なってきた。

南北朝の内乱を経て荘園領主の統制力が弱まると、在地の有力者は自らの権益を守るため、武装化を進め村落に砦を構えて一族の団結を図った。一族の血縁的な結合「同名中惣」(どうみょうちゅうそ)を結び地域共同体を強化した。

これらがのち甲賀五三家・杣五家といわれる甲賀武士団につながった。

長享元年(1487)の足利義尚を夜襲で敗走させた功績で認められ、織田信長を千種峠で狙ったことや、秀吉に所領を没収されたり本能寺の変で徳川家康を助け、三河への道案内をしたなどの史実が残る。甲南町の文化財

下記一覧の見方 ・名称〔所有者〕/ 所在地 / 時代

建造物

国指定(重要文化財)

三間一戸八脚門 新宮神社表門 〔新宮神社〕 / 甲南町新治 / 室町 県指定

矢川神社楼門 〔矢川神社〕 / 甲南町森尻 / 室町

檜尾神社本殿 〔檜尾神社〕 / 甲南町池田 / 江戸 市指定

六角堂 〔慈音院〕 / 甲南町寺庄 / 江戸

石造宝篋印塔 〔正福寺〕 / 甲南町杉谷 / 南北朝

石造宝篋印塔 〔勢田寺〕 / 甲南町杉谷 / 鎌倉

石造宝篋印塔 〔勢田寺〕 / 甲南町杉谷 / 鎌倉

矢川神社太鼓橋 〔矢川神社〕 / 甲南町森尻 / 江戸

石造宝篋印塔 〔金竜院〕 / 甲南町竜法師 / 鎌倉

矢川神社本殿 〔矢川神社〕 / 甲南町森尻 / 江戸

絵画

県指定

棋書仙人図・山水図 〔矢川神社〕 / 甲南町森尻 / 江戸 彫刻国指定(重要文化財)

木造十一面千手観音坐像 〔浄福寺〕 / 甲南町深川 / 鎌倉

木造千手観音立像 〔桧尾寺〕 / 甲南町池田 / 鎌倉

木造地蔵菩薩坐像 〔嶺南寺〕 / 甲南町竜法師 / 鎌倉

木造十一面観音立像 〔正福寺〕 / 甲南町杉谷 / 平安

木造釈迦如来坐像 〔正福寺〕 / 甲南町杉谷 / 平安

木造十一面観音及両脇侍立像 〔伊勢廻寺〕 / 甲南町野川 / 平安〜南北朝

木造十一面観音立像 〔福竜寺〕 / 甲南町下馬杉 / 平安

木造薬師如来坐像 〔誓蓮寺〕 / 甲南町上馬杉 / 平安 県指定

木造大日如来坐像 〔八田組大日堂〕 / 甲南町池田 / 南北朝

市指定

木造釈迦如来立像 〔檜尾寺〕 / 甲南町池田 / 鎌倉

木造地蔵菩薩坐像 〔正福寺〕 / 甲南町杉谷 / 平安

木造阿弥陀如来坐像 〔誓蓮寺〕 / 甲南町上馬杉 / 鎌倉

木造阿弥陀如来坐像 〔池田八田組〕 / 甲南町池田 / 平安

木造阿弥陀如来坐像 〔金竜院〕 / 甲南町竜法師 / 平安

磨崖地蔵菩薩坐像 〔息障寺〕 / 甲南町杉谷 / 南北朝

磨崖不動明王立像 〔息障寺〕 / 甲南町杉谷 / 室町

木造神像 〔矢川神社〕 / 甲南町森尻 / 平安〜南北朝

木造阿弥陀如来坐像 〔圓福寺〕 / 甲南町野尻 / 鎌倉

木造薬師如来坐像 〔圓福寺〕 / 甲南町野尻 / 鎌倉

木造金剛力士像 〔正福寺〕 / 甲南町杉谷 / 平安 市指定

鰐口 〔慈音院〕 / 甲南町寺庄 / 室町

鉄湯釜 〔慈音院〕 / 甲南町寺庄 / 江戸

大般若経 〔誓蓮寺〕 / 甲南町上馬杉 / 平安〜江戸

有形民俗文化財

県指定

甲賀の前挽き鋸製造用具(附販売資料等) 〔甲賀市〕 / 甲南町葛木 / 江戸〜昭和

無形民俗文化財

市指定

池田のお田植え祭り 〔檜尾神社氏子〕 / 甲南町池田 / −

史跡

国指定

甲賀郡中惣遺跡群 〔−〕 / 甲南町、甲賀町 / 室町 ・

選択無形民俗文化財

国選択

甲賀の祇園花行事[14箇所各保存会]/水口・土山・甲南・信楽

登録有形文化財(建造物)

国登録

仁木家住宅洋館 〔個人〕 / 甲南町深川市場 / 大正12年 参考資料《市HP》

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