滋賀県草津市 草津宿
Kusatsujuku,Kusatsu City,Shiga
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Dec.6 and 7, 2021 Apr.12,2022 柚原君子
草津宿
概要
「右東海道 いせみち」「ひだり中仙道 みのぢ」と道標にも示されている草津宿は、東海道と中山道の追分で、江戸から中山道を京に上る(江戸時代の言い方)旅人はそのまま東海道に合流しますが、京より江戸に下る(江戸時代の言い方)旅人は草津宿で山の起伏が多いけれどもある程度予定の立てられる中山道か、平坦ではあるが渡し場の多い、川止めもあるやもしれぬ東海道をいくかの選択を迫られます。それは中山道が平安時代に東山道と呼ばれていた頃から変わっていません。
室町時代には将軍足利義時が伊勢神宮に向かう折に草津御所と称するものを建築していますし、戦国時代には織田信長が瀨田橋(瀨田の唐橋)を制するものは天下を制する、という言葉を残しています。
さらに大きく発展したのは関ケ原の戦い以後に徳川の天下となる江戸時代。街道の各宿場から人と馬を出して荷物の運搬を繋いでいく「伝馬定書(でんばさだめがき)」が下されてからで、宿としての機能が一段と整い中山道でも大きな宿に数えられています。
草津宿に残っている本陣は、全国にある既存の本陣の中でも最大級のもので、国の史跡でもあり資料保有の点においてもトップクラスで見応えがあります。
あまり知られていませんが、本陣近くの街道交流館を訪れると中山道完走証明書がもらえます。
草津の「津」の地名字は海岸や湖岸の湊近くに付くことが多いとされていて、中山道の草津宿も次宿となる大津宿も琵琶湖直近です。草津と聞くと群馬県の草津温泉と混同されることもあるそうですが、奇妙なことに滋賀県との地域名の一致が群馬県にも多く見られて、海岸も湖もない山ばかりの群馬県に、なぜ「津」の地名があるのか、古代ロマンを求める人々の間では話題になっています。
滋賀県琵琶湖の周囲には「伊香具」、「草津市」、その市内に「渋川」、「大津市」、市内を流れる「吾妻川」があります。
一方で群馬県にも「伊香保」、「渋川市」、「草津町」、吾妻郡長野原町にある「大津駅」(明治市町村大合併以前は大津村と称されていた)。そして流れる川は「吾妻川」。
群馬県には日本武尊(やまとたけるのみこと)東征の記録があるそうで、さらに琵琶湖北部を仕切っていた豪族が「伊香氏」で、伊香氏が古代の東山道をたどって群馬県に行き、伊香氏を保つことで「伊香保」となり、生地である琵琶湖の近辺と同じような名前を付けていったのではなかろうか、という壮大なロマンがあるようです。
古文書や遺跡がいつの時代かにまた新たに出てきたら、この壮大なロマンの後付けができるのかもしれません。
1843(天保14)年の中山道宿概帳によると本陣2、脇本陣2、旅籠屋72軒、家数586軒となっています。
1,伊砂砂神社(いささじんじゃ)
守山宿を終えて、滋賀県栗東市綣(しがけん りっとうし へそ)の旧中山道を行きます。「綣交差点」、「花園交差点」、琵琶湖線「栗東駅」の近くを通り、八幡神社を過ぎると「笠川交差点」。ここが市境となりこれより先が草津市です。
昨日に守山宿を終えて一泊。今日は草津宿の行かれるところまで行くつもりです。
雨景色の中の中山道を一度も行ったことがなかったので、東京を出るときに二日目は雨との予報でしたが承知で出てきました。貸し自転車に傘をさしています。
いつもよりゆっくり走ります。
りっとうと平仮名で書かれたマンホールの蓋は鳥と花。市が変わるとマンホールの絵柄も変わるのでこれも中山道深訪の楽しみの一つです。
鉄道の下をくぐり、土地を囲った金網にくくりつけてある木札「中山道」の矢印通りに進むと、左側に伊砂砂神社(いささじんじゃ)が見えてきます。本殿は大正11年に重要文化財に指定。神社の前を流れている川は「渋川」です。
平安時代に疫病が流行。その鎮静を願って村人たちが大将軍(勝運の神・病除の神)を祀ったのが始まりとされ、渋川の産土神様です。後に雨乞いにも霊験のある神様も祀られて現在五柱。明治期に祀られている三神様の頭文字をとって「いささ神社」と改めた経緯があります。
主祭神とされる石長比賣命(イワナガヒメノミコト)さまは、山の神さま大山祇命(オオヤマツミノミコト)の長女で健康で長生きをされたそうで、この神様を祀ってある神社は珍しいとのこと。
現在の本殿は、棟札によると1468(応仁2)年に近江守護佐々木六角高頼氏が武運長久を願い勧請奉斎したもので、檜皮葺(ひわだぶき)素木(しらき)の一間社流造(いっけんしゃがれづくり)。室町時代の作風を今によく伝えていることから国の重要文化財に指定されています。蟇股(かえるまた)は、宝相華唐草(ほうそうげからくさ)という文様。正面なのでよく見られました。想像上の植物で吉兆を表わすとのこと。
塀の外側からカメラを門塀の隙間に直近させて撮るしかないのですが、恐れ多いかも知れませんが、ゆっくりと重要文化財本殿を見てみたい気持ちになります。
伊砂砂神社を過ぎて県道2号線の高架をくぐると、駅に近くなる町の形態になり、舗装道路も繁華街のような色です。大きなきれいな洞の中に地蔵大菩薩が祀られています。「大路」交差点を過ぎると中央分離帯の木製標識の「草津一里塚跡」があるそうですが、探せませんでした。十字路を少し左に「覚善寺」がありその門前に大きな石の道標があります。「右東海道、左中山道」。江戸時代の追分は少し先になりますが、明治期になって草津川トンネルが出来ると、ここが追分になったそうです。中山道に戻り直線すると「くさつ川隧道」があります。
草津川は、大津市南東部の鶏冠山(標高491m)西麓を源として途中,美濃郷川や金勝川を合流しながら,草津市北山田地先の琵琶湖に注ぐ全長約 15km
の一級河川。旧名は砂川。
砂の多い川という意味ですが、水源は花崗岩が風化した地帯で雨が多量に降ると土砂が流失し、それがだんだんに川底につもり、川底が上がることによって大雨が降ればたちまちに洪水が起こることが江戸時代から繰り返されています。川底が上がってしまうので掘ってその砂で堤防を積み上げていくのですが、とうとう周辺の住居地域より川が上部になり、川の底の下にトンネルを掘って往来をするまで至ります。このような川を天井川というそうです。ただし旧草津川は普段の水量はあまりなく、砂川とも呼ばれています。
近年になって草津市がベッドタウン化して発展をする中でも洪水は続いていたので、これ以上川底を掘り下げるよりも、防災面コストから新河川への切り替えが有利と判断され、2002年に放水路による下流部の付け替えが行われたています。JRなども草津川の河床の下にトンネルが掘られています。川が上の方にあるので、平地にトンネルが出来ている状態になります。(一部分ウキペディアより引用)
「草津川隧道(別名草津川マンボ)(明治19年完成)」もその体で隧道の上はかっての旧草津川。平成14年に流路の付け替え工事が完成して現在は公園になっています。隧道が出来る前はまだ川がありましたので、小さな木の橋が架かっていて、道行く人は堤防を上り木橋を渡ったそうです。
不思議な感じですが、現在は公園になっている旧草津川に登ってみます。
きれいに緑化された公園。ちょうど隧道のあたりが旧草津川の、中山道の江戸寄りの渡し場があったところで、水がなければ歩いて渡り、渡り賃は三文。水があるときは担がれて渡るわけですが、水かさによって料金が違ったそうです。渡し場標識が残っています。このような高い位置に川が流れていたなんて、本当に天井川だと実感しました。
再び中山道におりて「くさつがわ隧道」をくぐります。右側に高札場。左側が追分の灯籠。中山道を江戸に向かう時はここが起点となります。立派な火袋付石造追分道標で1816(文化13)年のもの。「右 東海道いせみち」「左中山道美のぢ」と書かれています。草津川と書かれた横長の石もあります。
3、本陣
※
本陣以降は、初日訪問は火曜日で休館が多かったので、翌日大津宿に向かう折に再訪したので、休館日とあっても翌日撮影をしています。
追分を過ぎると右手に「本陣」。江戸時代後期から残る建物が修理保存されています。本陣をそのままの姿でとどめているのは全国的にも珍しく、また規模も最大級で1949(昭和24)年に国の史跡指定(記念物の中でも重要とおもわれるもの)を受けています。
1718(享保3)年の火災で焼失しましたが、膳所藩主別邸の瓦の浜御殿を移築したのちの1839(天保10)年に上段向を建て替えて現在に至っています。
建坪4727㎡(459坪)。建物面積1706㎡、部屋数39室という広大な本陣。草津宿には二つの本陣があり、いずれも田中家が拝領。現在残っている本陣は材木商も兼ねていたので別名「木屋本陣」とも言います。
書院造りで表門に御除門が続き敷台付きの玄関があります。長い廊下で繋がれる部屋、そしてお庭と土蔵と厩家、本陣としての姿は完全です。各部屋には詳しい説明もされていて「台子の部屋」……隣室の人の為にお茶を点てるしゃれた部屋などが説明と共に残り丁寧です。
資料も豊富に残されていて、関札や大福帳に歴史が刻まれています。中山道ですから皇女和宮の痕跡はもちろんありますが、その他に近衛、織田、松平、毛利、吉良上野介、浅野内匠頭、シーボルト、新撰組土方歳三などの宿泊記録があります。
本陣の外に出ました。追分から進んでいるので、中山道の文字が消えて東海道になっています。ずっと中山道をたどってきた私としては寂しいのと違和感が有ります。
旅籠や酒屋の名前もこの辺りから東海道草津宿との書き出しです。
脇本陣は二ヶ所。一つは「ベーカリー&カフェ」(仙台屋茂八)。もう一つは「吉川芳樹園」(藤屋与左衛門)。町屋様式で建てられて虫籠窓や漆喰が残る出桁があり、こちらは登録有形文化財に指定されています。
草津宿街道交流館があったので入りました。本陣や旅籠に見られるような展示物があります。中山道の完了の証明書を出しているとのことで頂きました。まだ大津宿が残っているので完了した気持ちには少し遠いのですが、ちょっと感激。
脇本陣を過ぎると「太田酒造」。太田道灌が遠い祖先にあたるそうで銘酒名も「道灌」です。代々問屋の総取り締り役をしていたとのこと。
前方に交差点があり、その先に立木神社です。
※休館であった本陣などを昨日撮影しています※
本日は立木神社からです。今日は雨。大津宿へ。行かれるところまで行くつもりですが、承知とはいえ、矢張り雨と自転車はちょっと面倒です。が、行きます。
信号の先に立木神社。この辺りは矢倉という地名でこの地の産土神。道中安全を祈願する神社。奈良時代創建で1200年の歴史を持つ滋賀県唯一の大きな神社です。白い鹿に乗った旅の途中の命(みこと)が手に持っていた柿の枝の鞭を投げたら地面に刺さり、それが木となり、その木で社殿を建立。立木神社と命名。鹿が狛犬の理由もこれかと。境内にも鹿の彫像がいっぱい。
立木橋を渡り虫籠窓の残る風情ある宿場道を行くと左側に光傳寺。山門は切妻、桟瓦葺き、一間一戸、薬医門形式。本堂は木造平屋建て、入母屋、桟瓦葺き、平入、桁行6間、正面1間向拝付き、外壁は真壁造白漆喰仕上げ。寺宝である木造阿弥陀如来坐像は平安時代末期のもので像高80.1cm。保存状態が良く意匠に優れ貴重な事から明治33年に国指定重要文化財に。
しばらく行くと右側の店舗の前に石の大きな矢橋道標。東海道を行く旅人を矢橋の渡し場への道を示したもので、東海道名所図絵にも描かれています。琵琶湖の矢橋湊から大津への舟運があったのですが「武士(もののふ)のやばせの船は早くともいそがば廻れ瀨田のからはし」とも詠われて、「急がば回れ」はこのうたからとも。
姥ヶ餅跡ですが現在は瓢箪の製造販売の「瓢泉堂」になっています。
姥が餅とは、戦国時代、近江源氏の佐々木義賢は信長に滅ぼされ、一族も各地に散在しますが、3歳になる曾孫の義賢は乳母の”福井との”と生き延び、姥の郷里である草津に身を潜めます。乳母はこの幼児を抱えて住来の旅人に餅をつくって売り、養育したという話が残っています。
真弓の実が雨に濡れてきれいな赤です。同じように赤い鳥居の稲荷神社を過ぎて「矢倉南」の信号から案内文字通りに進むと一里塚跡。雨が激しく降ってきたので昼食を食べる場所がなかったので、この屋根付き東家は有難いです。一里塚は欅が多いのですが、ここの野路の一里塚は松だったそうで、街道筋にも松が多くあったそうです。
教善寺、浄泉寺と続き右側に「遠藤権兵衛家」があり、その庭に平清宗の胴塚があるそうですが、説明看板と写真はありますが、胴塚そのものはよく見えません。原平合戦の折りにこの辺りでとらえられて斬首されたとあります。
願林寺や子守地蔵というかわいいお地蔵さんが集められている洞を過ぎると、萩の玉川跡に出ます。
雨が時折激しく降る中を自転車ですので、だんだんに降りるのが苦労になってきます。
東家があるので再び休憩。この一帯は「野路」。萩が咲き、湧き水が出て、平安、鎌倉時代には宿駅があったそうですが、その宿駅は江戸時代には草津に移り、湧き水も出なくなって一帯は寂れていったそうです。
大正電気の角まで来ると東海道は左に。右側に弁天池。鴨もいる大きな池です。傘をさして自転車。風も除けながら10分ばかり漕ぐと「旧月輪村」に入ります。月輪殿九条兼実の荘園であったことが地名の由来。荒野でしたが開拓されて新田となった経緯があります。月輪寺には「新田開発発祥の地」の石碑があります。その先の立場跡碑を過ぎて道は下りで細くなります。抜けて信号の脇に月輪池の一里塚跡。塚の木は矢張り松。明治期に取り壊されたとあります。信号の向かい側に平成に建てられて道標があります。京まで五里。およそ20㎞。
大江という一帯に入ります。平安時代前期の歌人(六歌仙の一人)(古今和歌集に10首)で大江千里(おおえちさと)がこの地を開発して旧居跡は野上社になっていますが社は今はなく碑のみが残っています。
大江三丁目の交差点まで来ましたが、雨が激しくまた、昼食をきちんと摂っていないのでどこかで休憩をして、ここまでにして東京に戻ります。続きはまた後日。
前回より三ヶ月後の4月です。コロナが少し収まっているので出掛けられました。
前回は雨の中を走りましたが今日は快晴。東京→米原→石山下車で自転車を借りて今日も走行。前回撮影が終了した大江三丁目の交差点まで戻ります。
1600年代開基の「浄光寺」より。ご本尊の木像阿弥陀如来立像は国の重要文化財。地蔵の洞が多い一帯で大きな道路の信号脇に狸の像も。旧東海道とあるので山村石材店を左に入りますが、右に行っても同じ道。「たにし飴」の店の前に出ます。あちらこちらに洞がいっぱいでカラフルな涎掛けでかわいいです。日本武尊を祀る「建部神社」がこの奥にあります。源頼朝が伊豆に流される途中、ここで再興祈願をしています。その願いが叶ったところから武運の神としての信仰が厚かった神社。少し遠い気がしたので寄りません。前方に見えてきたのは瀨田の唐橋。
瀨田の唐橋の瀨田は古くは勢多川とも書かれた川で琵琶湖の南端から南下する排水河川で、瀬田川、宇治川、淀川と名前を変えて大阪湾に至る川。ここの瀨田と石山が東海道では渡河点となります。
近江八景に数えられるだけあって、夕景も素晴らしいそうで、現在の橋もとても美しいです。江戸時代の頃の素朴な木の橋の写真は、橋の東詰の信号の脇の地蔵堂の近くに額縁に入れてあります。5の姥ヶ餅跡のところで書きましたが、中山道時代に京都へ向かうには、矢橋から琵琶湖を横断する方が、瀬田の唐橋経由の陸路よりも近くて速いのですが、海路は比叡山から吹いてくる突風(比叡おろし)によって船が出ないことも多く、近いけれども予定の立たない危険な航路より、少し遠くなるけど安全な瀨田の唐橋を渡った方が良い、と歌にも詠まれ、「急がば廻れの」の語源になっている瀨田の唐橋です。
ここまでを草津宿として終了します。
January 12, 2019 野崎順次 source movie
草津宿本陣
滋賀県草津市草津一丁目2-8
東海道と中山道の合流点であり、多くの旅籠が軒を並べた草津宿。
そのシンボルであり大名などが休泊したのが国指定史跡 草津宿本陣です。 日本に現存する最大級の本陣が平成の大修理を終え、当時の姿そのままに甦りました。
多数の関札と浅野内匠頭や吉良上野介が名を連ねる大福帳などにふれれば、 気分は江戸時代へとタイムスリップできそうです。
また、隣接する楽座館では月1回の落語会が開催されています。 開催日等詳しくは草津宿本陣HPをご覧ください。
(草津市公式ウェブサイトより)
草津宿本陣周辺散策マップ、中山道案内板、山田良定作「そよ風に待つ」
旧草津川(天井川)のトンネルを抜けると、右手に高札場
左手に道標
市文 道標、中山道と東海道の分岐点
草津まちづくりセンターあたり
国史跡 草津宿本陣、パンフレット、東海道側の外観
表門から玄関広間
東広間、西広間
台所土間など
奥へ、上段の間、湯殿
枯山水庭園
手水回り
東海道を西へ、交差する南北の道がまっすぐで格子状の町並みのよう。
阿弥陀如両脇士像(国重文)で有名な常善寺、拝観には予約必要
帰途、東海道、中山道を経て、JR草津駅へ
January 11, 2020
滋賀県草津市草津3丁目10-4
草津宿街道交流館
(Kusatsu-juku Museum of Historic Highway
Exchange, Kusatsu City, Shiga Pref.)
パンフレットと建物正面、内部の展示は撮影禁止。
Mar.14,2017 瀧山幸伸 source movie
東海道方面から追分へ
追分
草津宿本陣
国史跡
旧東海道草津宿の本陣であつて、木造瓦葺平家建、街道に面して建てられている。主要部は享保3年膳所藩瓦の浜御殿を移築したもので、天保10年その上段向を建替えた。
向って左に表門、玄関、上段の間、家臣用の部屋等の客用施設を右に居間を設けてその間に土間をとり、台所口を開いている。その他土蔵、御除門等も存し、表間を店舗に改造しているような模様換も行われているが、よく旧規模をとどめ、交通史の遺跡として極めて貴重である。
草津宿は、近世、東海道五十三次のうち52番目の宿駅で、五街道のなかでも重要な街道と位置づけられた東海道と中山道の合流・分岐点に当たり、我が国近世交通の要衝であった。天保14年(1843)の記録によれば、家数586軒、本陣2、脇本陣2、旅籠屋72軒を数え、江戸と京を往来する旅人や物資で宿場は賑わいを極めた。草津宿の本陣としては、江戸時代を通じて田中七左衛門本陣と田中九蔵本陣の二つが設けられ、公家・大名をはじめ貴人の休息・宿泊施設として機能した。このうち七左衛門本陣は、草津川に隣接する宿場・一町目西側に位置し、幕末の絵図等によれば、表間口14間半(約26.1m)、奥行き62間(約111.6m)、屋敷地1,305坪、建坪468坪で、建物は街道から向かって左側に休泊者のための座敷棟、右側に田中家の住居棟、敷地奥には厩、土蔵が配され、周囲は西側は高塀、北側及び東側には堀・藪を配するものであった。
明治3年(1870)に宿駅制度が廃止され本陣として機能は失い、郡役所や公民館として利用され、建物の改変が行われたが、江戸時代の敷地敷と多くの本陣建物が良好に残っており、我が国近世の交通を知る上で重要なことから、昭和24年に史跡に指定された。その後、平成元から同8年にかけて座敷棟等の保存修理工事が行われ、一般公開されている。
(文化財データベース)
本陣周辺
旧草津川
草津市の概況
草津市は、滋賀県の南東部、日本最大の湖「琵琶湖」に面した人口11万を越える滋賀の中核都市として発展を続けている。
面積48k㎡の市域には、JR琵琶湖線(東海道本線)、JR東海道新幹線、国道1号、京滋バイパス、名神高速道路など主要幹線が通過する交通の拠点でもある。
交通の利便さ、住みやすさは草津市を京阪神地域のベッドタウンと化し、人口増が続き新旧住民が混在して市域を構成している。
古代においても、草津は東山道、東海道の2大官道が通過し、矢倉、山田、志那の港を介した交通の要衝で、江戸時代には、東海道、中山道が出会う宿場町として大きな発展を遂げた。
このため、今なお、市域には古くからの街道が認められ、その沿道には多くの文化財が残されている。
(くさつ歴史発見地図より抜粋)
草津宿街道交流館
Kusatusshuku kaido kouryukan
絵巻
うばがもち
Ubagamochi
道灌酒造
Doukan Shuzo
Honjin
May 2009 撮影: 中山辰夫
草津本陣
街道草津の歴史的な基軸は草津宿である。
草津宿は江戸時代の五街道のうち最も重視されていた旧東海道の宿場町で、江戸・京をはじめ諸国に向かう人と物資が行き交うメインストリートだった。
江戸幕府は正徳2年(1712)に草津と品川だけに通行する荷物の貫目改所を設置した。
これは宿場町としての草津の重要性を物語っている。
本陣がそのままの姿をいまに留めているのは、草津に災害が無かった証拠でもある。
本陣としての役割・その他は、公開中の本陣跡の参観で詳しく知ることが出来る。
旧東海道と旧中山道の合流・分岐地点としての隆盛さが読み取れる。
草津宿街道交流館にも沢山の資料が公開されている。
草津宿本陣に残っている宿泊帳も展示されている。
皇女和宮、シーボルトや高名な大名の名前も見かける。
忠臣蔵の上野介や内匠頭が同年に泊まっていたことも分かって面白い。
街道案内
本陣、高札案内
玄関・白州
広間
本陣 大福帳
関札、大福帳説明
廊下
上段の間
向上段の間
膳場
さる戸 大戸
倉庫・庭園 他
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