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滋賀県長浜市 伊香具

Ikagu,Nagahama city,Shiga

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May 7,2016 瀧山幸伸 source movie

大音

                  

                 


Sep. 2012 中山辰夫

伊香具神社と大音集落

伊香具神社

長浜市木之本町大音686

祭神:伊香津臣命

賤ケ岳の東麓、木之本駅から西へ2Kmほどの大音に鎮座。8号線から500mほど北にある道路脇に参道入口の鳥居と社号標が立つ。

賤ケ岳の山麓であり境内に杉、ケヤキの巨木が多くあり、往時を思わせる境内である。

太鼓橋を渡った後の参道は100m近くあるように思える。

伊香式鳥居

両部鳥居のように稚児柱が、通常4本のところが8本である。さらに、鳥居左右に三輪鳥居のように脇鳥居が付いている。

往古、この辺りは湖沼地であったため、水辺の不安定な場所で、安定性を確保するためとされる。

三輪式と厳島式の両方を取り入れた珍しいもの。

神社の正面に両翼を広げたこの鳥居は奈良の三輪式鳥居と安芸の厳島式鳥居が組み合わさった様な形をしている。

その昔、この神社のすぐ前が伊香小江と云う入江であり後方の山が伊香山とよばれた神奈備であったので、これら湖の神様と山の神様にあわせ捧げる意味でこの鳥居が作られたとされる。

境内左側には社務所が建つ。

入母屋造瓦葺 間口六間 奥行四間 

鳥居の正面には拝殿。

入母屋造葦葺 間口三間二尺 奥行二間二尺 

後方に垣に囲まれて本殿があり、左右に境内社がある。

流造?葺 間口一間半 奥行二間半 

独鈷水(どっこすい)

境内の右手には、蓮池と独鈷水と呼ばれる井戸がある。弘法大師が独鈷によって掘り出した清水が独鈷水 独鈷水を用いて製造した生糸は光沢があり、弾力性に富む、当地の産業をになっていたという。

祭神:伊香津臣命

「帝王編年記」に養老7年(723)条に記される余呉湖の羽衣伝説に登場する伊香刀美でのちに伊香地方に栄えた豪族である伊香連(いかのむらじ)の先祖とされる。

「延喜式」神名帳の伊香郡に見える名神大社「伊香具神社 いかごの」に比定される。

社蔵の大音大明神縁起によれば、空海の霊験により創建。寛平7年(895)菅原道真は自ら法華経・金光明経を書写して宝殿に納めた。

建武3年(1336)足利尊氏も祈祷料として200石を寄信進したとある。

賤ケ岳の戦火で社殿を焼失したが、正徳年中(1711〜16)に再建された。

大音集落めぐり

木之本町大音(おおと)は琵琶湖最北部から賤ケ岳を隔てた東側に位置する。賤ケ岳の登山口があり、観光リフトが頂上に通じている。

賤ケ岳は天正11年(1583)豊臣秀吉と柴田勝家との間で行われた合戦の場ともなった所で、七本槍の活躍で知られる所。

稲作主体の農業であったが、大音糸で有名。

賤ケ岳麓の大音、西山地区は古くから養蚕が盛んであった地の利を生かして、繭の糸取りが行われてきた。そのため、「琴糸の里」

「糸引きの里」と呼ばれて来た。

上質の生糸の製造には、熟練した伝統技術とともに、賤ケ岳の麓から湧き出る清浄な水によるところも大きいとされる。

生糸の生産技術にまつわる由緒が伝えられる。

大音では、伊香具神社の祭神伊香津臣命(いかつおみのみこと)の子孫にあたる伊香厚行(いかごのあつゆき)が平安時代の昌泰2年(899)に伊香具神社の境内にある湧水から清水を引き、繭を煮立て生糸を作ったところ、都で大変な評判となり、以後、当地で生糸が生産されるようになった。

余呉から大音集落に入る。

野神・神木(しろかし)

湖北地方では古くから木を野神として祀る風習があった。雷・風雪に耐え、天を覆う大きい樹冠と苔むした表皮から400年の風格を感じる。

一の宮橋

一の宮神社

人里に近づく

主殿(とのも)屋敷

糸取り資料保存館もかねている。 糸つむぎの実演もしてもらえる。

想古亭・源内

主殿屋敷の裏に当る林の中にたたずむ一軒宿。料理の素材は地元産の食材が中心。主殿屋敷が見える。

伊香具神社

大音町並1

いかぐ糸の里

唯一、伝統技術を駆使して生糸を生産されている佃家。6月の春繭の頃は見学が出来る。

周倫屋敷跡

現在居住されています。

清水と蛙

大音の里でも僅かしか残っていない。見かけなくなった蛙

大日如来堂と粉掛け地蔵

賤ケ岳にも近い。リフト乗り場はすぐ近くで約7分で頂上、登 山道は約1500mの距離。

大音の町並2

 


July 2012 中山辰夫

邦楽器糸の里〜いかぐ糸の里 関連「佃平七工房」「木之本 丸三ハシモト

長浜市木之本町大音・西山

生糸

千数百年にわたる生糸の歴史を継承する木之本伊香具(いかぐ)の大音(おおと)と西山の集落は琵琶湖と余呉湖に挟まれた賤ケ岳の山麓にある自然豊かな山里である。

    

この二つの地域には、それぞれ生糸の生産技術にまつわる由緒が伝わっている。

大音では、伊香具神社の祭神伊香津臣命(いかつおみのみこ)の子孫にあたる伊香厚行が平安時代の昌泰2年(899)に伊香具神社境内にある湧水から清水を引き、繭を煮て生糸をつくり都で大変な評判になったとある。

西山では、平安時代の弘仁8年(817)に製糸業が始まり、当初は衣服や刀、冠の紐などに用いられていたが後に、楽器糸として加工されたとある。

この地区は今も伝統的な生糸をつくり続けている。

    

以上はいずれも伝承であるが、木之本一帯は伝統的に養蚕業や製糸業が盛んで、近世以降は生糸の生産地として栄え、明治以降には大規模な製糸工場も設立された。

邦楽器の原糸は、昭和初期全盛期を迎えたが、第二次大戦後は邦楽器を手にする人の減少もあって、伝統的技術による製造は衰退する。

 

さらに、この糸取り作業に携わる女性労働者が高齢化する一方、手作業、就業時間が限られていることなどから後継者が不足し、この業を営む家は数軒のみとなっている。

邦楽器を用いる雅楽、人形浄瑠璃、文楽、歌舞伎など、日本の伝統芸能にとって不可欠のため、平成3年(1991)

に国の選定技術保存技能に認定され、現在は技術の保存及び伝承者の養成が図られつつある

糸とり資料保存館

    

邦楽器の糸は商品として流通するまでの、大きく分けて養蚕、製糸、加工という三つの作業を経る。

工程ごとにそれぞれ分業で行われている。

工房「佃平七・糸とり工房」

長浜市木之本町木之本

訪れたのは6月。楽器糸用には、最も上質な春繭(はるこ)に限られるとされる多忙な時。

生糸とは繭を解きほぐして数本合わせた糸のこと。作業手順を追う。

    

「繭 まゆ」から「生糸 いかぐ糸」ができるまで

かつては糸繰り農家が養蚕から生糸づくりまで一貫して手掛けていたが、現在は岐阜県美濃加茂市より生繭を買付けして生糸づくりが始まる。

春の新芽を食べたカイコが作った繭からは良質な糸が取れる。6月初めからの「糸取り」は初夏の風物詩とされる。

蚕の生産者宅にトラックを持ち込み引取り帰ってすぐに繭をいぶしてさなぎを殺す。そして繭の表面に潤いが残る間に糸に仕上げる。これによってゴワゴワ、バリバリ、ベタベタした生糸が得られ、和楽器用の粘り・丈夫・腰のある糸のつくりにつながる。たんぱく質である「セリシン」を残しておくことがポイントとされる。

「生挽き」の特徴

織物用は乾繭(かんけん)を使う。従い年中生産が可能となる。セリシンは取除く。従い絹織物はサラサラである。

作業工程

「殺蛹(さつよう)」は繭の重さに対し5割位乾燥させるが、大音と西山では7〜8割程度の乾燥とし繭に含まれるたんぱく質「セリシン」を保っている。

蛹(さなぎ)を完全に殺さない「生挽き」は、繭に水分が多いので、カビない様温度・湿度管理が重要である。

     

生繭に近い状態に留めるのは本来の繭糸がもつ性質をそのまま活かすためである。

「座繰り」の工程 繭から糸を取り出す工程である。

この地区では、座繰(ざぐり)という古くからの技法で「いかぐ糸」という生糸がつくられている

女性たちは「座繰り機」に座り終日、手作業に追われる。

80℃の湯、水、藁の箒、糸緒器(いとくち)を手元に置く。糸繰器の穴は微小で(詰まり)の監視が重要。

    

繭を湯に30秒ほど漬けた後、箒で繭を撫でるように糸口を探して引っ掛け、糸先を糸緒器に通して引き出す。

80℃の湯はセリシンを溶かすのに必要な温度。漬けた後は早く処理しないと繭が変色する。

小さな繭1個から1000m程の長さの繭糸(けんし)がほどき出される。全くの繊細な手作業である。

一人立ちには7〜8年かかるようで、木枠に一日10個前後の巻き取りを行う。

    

最盛期は初夏から盛夏の時期で、蒸し暑さの中での厳しい作業だ。

湯につけた20個ほどの繭から細い糸を取り出し、束ねて木枠に巻き取る。乾燥しないよう濡らして調整する。

取り出された糸はツヤがでて光っている。

    

蛹(さなぎ)

糸を剥ぎ取られた。

  

座繰機

作業する人の背後にある2つの小枠へ同時に糸を巻き取ることが出来る「後達磨」と呼ばれる昔の座繰機。

江戸時代までは蔵から引出された生糸を手で小枠に巻き取っていたが、足踏み、電動式へ徐々に自動化した。

現在,大音では鍋の下の釜はIHクッキングヒ−ターに替っている。

 

巻き直し工程〜生糸の完成

座繰をして小枠に巻き取った生糸を揃えながら大枠に巻きなおす。揚げ返しの工程である。

巻替えた大枠から一束ずつ生糸を外し、束ねて束装(そくそう)する。

セリシンを逃がさないまま作った生糸は、繊細ながら驚くほどの張りがある。

    

出荷

結束され、目方を計って出荷される。

この生糸が次の加工業者に引き渡され和楽器用の絃糸に仕上げられる。

この先は「丸三ハシモト(株)」に移る。

清水(しょうず)

大音・西山地区で糸取りが今も続けられている理由の一つに"水“があるとされる。

糸や織りに関する諸作業には多くの良質な水が必要で、水の良し悪しが大いに影響する。

この地区は、賎ケ岳に続く背後の峰々を水源とする湧水が豊富である。

大音も西山も昔からこの湧井戸の水を竹樋によって作業場へ誘導し使ってきた。

湧水は鉄分を含まないため、白く仕上がるとされる。水で色の出方が違うとされてきた。

これら地区には“清水”と呼ばれる池が多く点在し利用されてきたが、昨今の道路工事などで湧出が止まり今では数カ所残すのみとなった。

    

繭一個の糸の長さは、1200〜1400m 生糸一本に繭15〜16個必要、琴糸一本に繭250個要すとされる。

「生糸の工程」の今後の課題は、辛抱が必要な仕事のため「後継者の育成で伝統を守ること」と「賎ケ岳から湧き出る清浄な水が絶えない事」が揚げられる。

   

大音と関わりのある伝承が残る伊香具神社は別掲とする。

参考資料≪丸三ハシモトHP、長浜ガイド、糸の世紀・織りの世紀・いかぐ糸の世界、湖の笛、近江伊香郡志、他≫

参考

糸とりの前の作業

蚕の卵を孵化(ふか)させて、桑を与えて飼育する。そして、繭をつくるための足場となる“簇 まぶし”に蚕を移し、繭をつくって“蛹 さなぎ”となると、簇から繭をはずして出荷する。

水上勉「湖の糸」は若狭より出稼ぎに来ていた「卯吉とさく」の悲しい、美しい恋の物語で、小説の中で旅館源八に設定されている「想古亭源内」は現在も料理旅館として営業している。

この作品には“湖北風土記”が引用されている。

“糸繰り”から“独楽より”の過程を含め、詳しい説明が記されている。一部を紹介する。

西山水由来記 湖北風土記

「西山に於ける蚕糸製造の起源は、今を遡る一千百有余年前人皇五十二代嵯峨天皇の御代にして、当時の西山は附近一帯山沼に囲繞せられすこぶる不便の土地たり。故に住民は主として漁獲に従事して渡世せしが、この頃村に与惣太夫といえる者ありて、日夜釣魚を業にしておりしが、弘仁癸巳四年の春の一日、幼少の一子を従いて竜間のあたりに釣なしおりしところ、忽然として大蛇現れ、親子に襲いかかれば、与惣太夫大いに驚き死力を尽くし抗し、かろうじてわが家に逃げ帰れり。然るに其の一子は大蛇のふきかけたる毒気に侵され身心悩乱してあまつさえ怪熱に痛められ種種手をつくせども身命おぼつかなし。この時、東方二十余町へだてつる御本山に東方巡錫の貴僧空海上人御留錫せられ、不思議なる霊徳ありとききしかば、与惣太夫仔細をかたりて只管済度を請う。空海上人不憫におぼしめされ自ら西山に来りて薬師経を誦じ給う。直ちに一子の病いは治癒せり。空海上人、さらに住民の貧しきを見て、伊香具山にこもりて七日間読経し満願の朝ヨノきの枝をもて伊香の湖尻を掘切り給い新しき陸地を開拓せられ、この土地に蚕糸を特産物として永えに栄えしめんと、自ら池を掘り石に腰かけ経巻を誦じて、西山一円の土地と水に不思議な霊徳を与えたまう。之、西山水の起源なり。」

西山水由来記 湖北風土記 続き

「さて、この頃、西山に左近という者あり。豪家なりし故に、人よびて左近長者という。この人仁慈の情に厚く、自ら資を投じて所有の山林を伐採して跡地を開墾し更に沼地を埋めそこに桑の実を植え蚕を飼い弘仁丁酉八年はじめて手繰り糸を製造せり。製品を眺めるに不思議や、品質すこぶる優良艶美なり。他に比類なしと思えたり。住民大いに喜び、初製の一束を空海上人に報贈せんとて探し廻りぬ。時に空海上人は真言宗を唱えて高野山に在わすときき与惣太夫ら一行は自ら申し出て之を所持しはるばる金剛峰寺に詣りて、上人に贈呈せり。空海上人之を皇室に献上せられる。天皇は工女に命じて、織らせ給い、御衣に召されしに天然至妙なる性質をもち、柔和且湿気を防ぎ、塵埃は更に、染みこまず、よって叡慮にかない、その後年々之を貢献せり。斯の如くにして西山糸の名声漸く四方に喧伝せられ、之に刺激されて近隣の部落にも養蚕はじまり漸次盛大に赴き、土地の繭のもにては不足を来し、他所の繭をも買入れて手繰りするに至れり。生産品はすべて城国の商人が購い、皇室をはじめ公卿の御用品に供せられたり。この商人を江戸組と称し、西山糸の用途は、主として衣服、刀の提緒、冠りの紐等にもっとも適材とされ、その後楽器糸に利用せしは天暦年間、京都に於て加工せしにはじまりぬ。絃楽に愛せられる霊妙なる音色は言辞につくし得ず、一躍楽器糸界に君臨することとなれり。かくの如く盛況を重ねるうち、住民増加し、応和康保の頃には二十九戸を数うるに至れり。したがって水の使用量も増加せしため村民はかりて七カ所に池を掘り之を西山の七清水と称し、生糸の製造に務めりと。

「余呉に大音、西山の二村あり。古くから繭をとり、糸をつむぎて、之を絃糸となす。国じゅうの琴糸、琵琶糸、三味線糸の大半を生産せり。大音糸、西山糸と名ずくるは之なり。和楽絃糸としいぇ、琴二十二種、琵琶五十種、三味線百十種、その他あわせて百八十種に及ぶ」

どうして、ここの糸だけが絃糸に適したのか。理由をたずねてみると、村人は「水が向く」「糸のセリシンがちがう」と説明するだけで、素人の私(作者)にはさっぱり呑み込めなかった。

大音も西山も山奥の湧井戸の水を竹樋によって作業場へ誘導していた。垢ぬきにも、糸染めにもすべて、この水を使うらしく、山の傾斜からひっぱった竹樋が幾本も村の道に沿うて透明な水を運んでいた。わずか二部落併せて百戸にみたない孤村だが、藁葺き入母屋づくりの母屋のわきに細長い作業小舎を持っている。作業小舎の長いものは二十間もあった。すべてねり糸を屋内で陰干しするための小舎である。

糸取りというのは、繭から糸をとることをいう。西山あたりの糸とりは、すこし変っていた。

大きな七輪とでもいうべき火桶に炭火をおこして、その上に平べったい鍋をかけ、湯をたぎらせ七十度近い温度を持続させながら繭を似るのであった。この鍋の高さよりはわずかに低い椅子を前において、糸取り人は巧妙に手箒の端で煮えた繭の肌を撫でた。すると、自然と糸はしが箒の先にくっついて出ている。この糸はしを指先にとり、七本よりの糸は七本、十本よりの糸は十本といったふうに、繭の太細に応じて、本数を決めて、鍋の上に仕組まれた針金製の鉤棒にひっかける。と、うしろで空回りしている糸枠にその端をゆわえつければ、自然と鍋の繭がくるくると踊りはじめて、またたくまに糸がよれて枠にまかれた。繭がうすいくなりはじめる頃に、新しい繭をまた箒で撫でて糸はしをとり、鉤棒につけ足してやる。糸は自然によれて、つながれてゆく。

≪水上 勉 湖の琴より抜粋≫

糸取り歌 ≪近江伊香郡の昔話より≫

 

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