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滋賀県長浜市 西野

Nishino,Nagahama City,Shiga

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Oct.8,2018  中山辰夫

西野水道 

滋賀県長浜市高月町西野

西野水道が所在する西野集落はJR高稚気駅から約4㎞の距離にある。

   

西野集落とその周辺のいわれ

西野山西麓湖岸阿曾津に、往古阿曾津千軒と呼ばれた大集落があった。そこに昔、大きな地震あり、その津波によって一村が全滅、集落は湖底に沈んだという伝承が残る。その時は992(正歴3)年とも1185(文治元)年ともいわれているがはっきりしない。

逃れた村人は、西野・松尾(松野)・熊野・東柳野・柳井中・西柳野・磯野の七村(七野)に分住して新しい集落を構えたとされる。

松尾村に七野宮(現大森人神社)を建立し、毎年四月に七野祭を行ったと伝える。

西野はその内の一集落である。

西野は土豪西野氏の拠点とされ、西野の集落は西野氏の居館の有力な比定地とされ、日枝神社は氏神、西野の野神は古保利丘陵の山裾に位置する。

 

西野−遠景

  

余呉側右岸平地と琵琶湖岸を南北に走る賤ケ岳山系の西野山丘陵に立地。戸数は約110戸程度とされる。

平素は飲水にも困ったが,地勢が低いため余呉川氾濫時は滞水による作物の被害が大きかった。西野水道の歌碑からも分かる。

   

西野水道

滋賀県指定文化座

西野水道は、JR高月駅から距離にして約4km、余呉川を渡ると西野の集落となり、前方の山麓にある。

 

集落の入口に建つ案内‐集落住民の手作り—地元民が集落を護る息が方々で感じられた。

山麓に向かって進むと、第二、第三余呉川放水路が見え出し、水道入口が見える。付近は≪西野ほりぬき公園」になっている、

     

西野水道は、充満寺第11代住職・西野恵荘が氾濫防止のため西野山の掘削を計画、庄屋・村民を説得、彦根藩主井伊直亮の許可を受けて始めた。

充満寺と西野恵荘

   

西野の西山という山の麓に、琵琶湖へ向かって貫かれている高さ約2m、幅約1.5m、長さ約250mの排水用の岩穴。

今から170年前、たびたび洪水に見舞われていた西野地区を、洪水から守るために、充満寺の第11世・恵荘上人の発起により行われた土木事業。

1840(天保11)年着工。能登、伊勢から石工を招き、実に6年の歳月と1275両をかけて1845(弘化2)年に完成した。ノミだけで掘り抜かれた手堀りの岩穴である

以後余呉川の氾濫を防ぐ大きな役割を果たした。「近江の青の洞門」としょうされる。

1950(昭和25)年のすぐ横に新水路、1980年に大型の新放水路(トンネル)が完成し現在に至る。「延長286m・高さ:10.3m・幅10.3m・放水能力毎秒359t」

工事年譜

  

水道内探索

待合所には防護用ヘルメット、長靴、懐中電灯が置いてあり無料で借りられる。水道内は無灯である。

東入口付近(集落側)

 

入口側

   

水路内部

          

粘性土の固い岩盤をくり貫く。長い柄の玄能で岩を割り、細手のノミを岩盤にあてがって進んだ。今も岩肌が黒や茶色に光っている。岩に亀裂の入った所もあり雨水がしたたり落ちる。天井の高さはまちまちである。

  

工事用の明かり置場。(サザエの貝殻にナタネ油を注いで明かりを灯し置いたところ)。ノミ痕が鮮やかに残っている所も多くある。

天井の高さが一番高い所 (4m10cm)

  

               

琵琶湖側より40m程の地点から天井の形が代わっている。長方形から頭部に丸味を持たせた形に代っている。

能登から来た3名の石工は琵琶湖側から堀削を始めた。作業開始から1年9か月後、岩盤の固さで挫折。伊勢の石工3名が引継いだ。

モッコを担いで岩石を担ぎ出す作業はさぞ辛く、村人一丸の工事であったとされる。

石工の賃金は今の価格で3億円ほどとされ、100戸ほどの西野の村人は、費用の捻出に山の木や田畑、家財道具を売り払って捻出したとされる。

琵琶湖側

 

琵琶湖

  

第二放水路 (琵琶湖側から集落側) 非常時に使用される

琵琶湖側〜集落側

      

第三放水路 (琵琶湖側〜集落側)

      

比較

 

参考資料≪パンフレット。滋賀県の地理、近江水の宝、高月町史 他」

充満寺

長浜市高月町西野1791

JR高月駅から西へ約4km、琵琶湖岸に沿う賤ケ岳から山本山まで続く尾根(古保利古墳群がある」の麓、西野集落の中にある。

西野集落−後方が古保利古墳群のある西野山、ほか

   

充満寺 宗派:真宗 元は天台宗に属し「泉明寺」と称した 開基:大友皇子の子孫 宗信法師 1677(延宝5)年充満寺と改称

1573(天正元年)当地の豪族西野秀方が真宗道場と泉明寺を合わし現在地に移建。寺に入って「祐海」と称したのが直接の開基とされる。

観音堂は寛弘年中(1004^12)に阿曾津秀道内室の守護仏を治めて建立。天正年中に西野秀方により現在地に移された。

充満寺の飛地境内にある薬師堂はもと天台宗泉明寺境内にあった。最澄が薬師如来・十一面観音・十二神将の像を刻み安置したと伝える。

山門周辺

     

本堂周辺

          

鐘楼周辺

     

少し離れた飛地にある

西野薬師堂

  

十一面観音立像と木造薬師如来立像—いずれも国重要文化財 (引用:高月町史 仏像集成)

旧堂−正妙寺の十一面千手千足観音を祀っている

充満寺住職第11世西野恵荘(えしょう)は、当地が余呉川氾濫の度に洪水見舞われるのを防ぐために、西方の山麓を琵琶湖まで掘り抜き排水することを計画、彦根藩の誓いを得、住民を説得して着工して完成したのが「西野水道」である。 

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