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滋賀県長浜市 菅浦 須賀神社と式年祭

Sugajinja, Sugaura,Nagahama city,,Shiga

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  Sep.21, 2013 中山辰夫

長浜市西浅井町菅浦439 祭神;淳仁天皇・大山咋命(おおやまくいのみこと)・大山祗命(おおやまつみのみこと) 

 ■氏神須賀神社のある菅浦は、大浦と塩津の中間にある港で、岬の突端を葛籠尾崎(つづらお)という。

竹生島とは目と鼻の間に位置する菅浦は、街道から遠く離れているため、湖北でも全く人の行かない秘境であった。

明治の初めまで、外部の人とも付き合わない極端に排他的な集落であった。それは「菅浦の住人は、淳仁天皇に仕えた人々の子孫と信じており、その誇りと警戒心が、他人を寄せ付けなかった」ことによるもいわれる。(かくれ里)

1971(昭和46年)、大浦を起点とし、菅浦を経由し月出を終点とする葛籠尾崎半島の湖岸線に有料道路(18.9㎞,幅員5.5m)が開通し様変わりした。

■須賀神社は、もと保良神社といったが1910(明治43年)小林神社、赤崎神社を合祀し、当社の旧称菅浦大明神に因んで須賀神社と改称した。

この地には、764(天平宝宇3年)保良宮が営まれ、同5年から6年まで淳仁天皇が隠棲されたという伝承が残り、淳仁天皇を祭神とする。

ご神像は、帝がこの地におわせし時、御自ら榧の木を採ってご彫刻になったものと伝わる。

■毎年4月3日に行われる例祭は、3基の御輿の渡御があり、古例による幣祭も伝統よく守られている。

当地では淳仁天皇薨逝の年より50年毎に法要を営む旧慣がある。最近では、1863(文久3年)に1100年祭、1963(昭和38年)に1200年祭が営まれた。

今年2013(平成25年)は1250年祭が10月13日に行われる。50年振りである。

■■伝承

■758年(天平宝字2年)に即位された淳仁天皇は、ただの虚位に過ぎず、出される政令は孝謙上皇のものばかりであった。

上皇は当初恵美押勝(藤原仲麻呂)を起用したが、後に道鏡を起用し寵愛され、両者の間柄を詰問された天皇と上皇は不和となった。

上皇は怒って奈良の法華寺に籠居し、天皇も近江から平城宮に還御になった。

間もなくして、道鏡に寵を奪われた押勝が反乱を起こしたが高島で敗れ一族全滅した。天皇は淡路に流され「淡路の廃帝」と称されるようになる。

その後は、太平記によると「天皇は僅かの従者と共に、淡路の高島に幽閉されたが、ひそかに謀略を以て配所を抜け出し、従者と逃げたが、追っかけられて捕まり

ここで薨逝された、が実は弑せしなり」とある。

■しかし、菅浦では、淡路は淡海の誤りで高島も、湖北の高島であると信じ、帝が行在中、みずから榧の木で御躬(み)の御肖像と后妃の御肖像を彫刻されて、「何所に寿を終えるも神霊必ずこの肖像の留め置く」と述べられたことから、その場の周囲を石で船型に積み、一社を創立して廃帝を祭ったとされる。

この社を保良神社といったのも、そこが保良の宮跡だからで、また葛籠尾崎の名称も、帝の遺体を奪って、高島からつづらに入れて運んだことから名付けたと伝える。須賀神社本殿の裏には船型御陵と伝わるものが残されている。

■■神社参道前広場付近

■かつての西の舟溜り場が広場になっている。

■社務所、神饌所、神輿庫の屋根が葺替えられ、改修されている。

■白洲正子さんが来られた時は、社務所・神饌所は茅葺であった。

■■参道

■一直線に延びる石畳の参道、250m。心が洗われる気がする。

脇はコンクリートで囲まれた小川で、そのまま琵琶湖に流れ込む。参道ももとは谷であったように思える。

■参道から見る遠景

■■神殿につながる石段

■『神社の石段の下で、私たちは靴をぬがされた。跣(はだし)でお詣りするのがしきたりだそうで、ただでさえ冷たい石の触感は、折しも降りだした時雨にぬれて、身のひきしまる思いがする。それはそのまま村人たちの信仰の強さとして、私の肌にじかに伝わった。』 白州正子 「かくれ里」より

■スリッパが置いてある。しかし裸足になって、気を引き締めて上る。足の感触はほどよい冷たさである。自然石の石段は凹凸があり歩きづらい。

境内は広くなく、社殿で埋まっている。

■■拝殿

入母屋造 間口二間 奥行二間

■■神明殿

■■本殿

東本殿 間口三尺六寸 奥行四尺六寸 西殿:間口四尺一寸 奥行四尺六寸 覇屋あり

本殿内部意匠 (式典終了後の僅かな時間に写す)

境内からの遠景

集落の中で一番高い所にある神社境内からの眺望である。

船型御陵

淳仁天皇の御陵と伝えられる石積で出来ており、氏子の崇拝の念が強い。

御陵の周囲は約60間、葺石で固められ、船型になっていて、高貴な人の墓であることを示している。

菅浦集落住民から愛され、崇敬されてることが伝わってくる神社である。


須賀神社 式年祭

Oct.13 , 2013 中山辰夫

菅浦須賀神社で行われた式年祭の報告です。 世帯数約85、在住者200人余りの菅浦で行われる式年祭、奈良時代から数えて1250年になるという。どんな内容か非常に興味があった。

「かくれ里」・須賀神社の例祭については書物にも見る機会が少なく、まして式年祭など集落外の人で知っている人はまずいないと思われる。

祭を見て驚いた。集落全体が一体となって仕上げた祭だった。NHKが取材に来ていた。 辞書によると「式年」とは、歴代の天皇・皇后の式年祭を行う年とあり、「式年祭」は歴代の天皇・皇后の式年にあたる年の忌日に、宮中の皇霊殿で行われる祭祀と出ている。

ここ須賀神社の式年祭は、淳仁天皇薨逝の年より50年毎に法要を営む旧慣に沿って行われる式典で、最近では、1863(文久3年)に1100年祭、1963(昭和38年)に1200年祭が営まれた。

今年2013(平成25年)は1250年にあたり、式年祭が10月12〜13日に執り行われた。勿論50年振りである。

■華やぐ神社周辺

■地蔵さんの前掛けも真新しい

■三つの社殿も改装され輝いている。

■神饌所

■社務所

■神輿堂

三基の神輿は数千万円かけて「洗い」にかけられた。眩しい輝きである。重量は1トン、800kg、600kgである。

■■式次第

掲示板一つない誠にシンプルな式典です。

■■御練出発 公民館から神社鳥居前迄

■Am9:00に公民館前を出発して集落内をゆっくり巡って鳥居前にやってくる。

電車・バスの都合で少し遅れて到着した。式典はスタートしていた。

何と、総数100人程の大行列である。付き添いを加えるともっと多くなる。思いもつかなかった。集落の人全員が参加しているように思えた。

普段は200人程である在住者が、今日は倍の約400人にふくらんでいる。多くの人が集落に帰って来ているためで、この人たちが祭に加わっている。

稚児行列が目を惹く。約30名。集落の中には対象者が一人もいない。親族を頼りにかき集めたようだ。男児の稚児さんは次の式年祭では主役であろう。

■鳥居前に到着

そのまま全員が神殿に向かう

■■鳥居から石段まで

■参道

稚児は勿論、見物人も一緒に神殿まで行く。

■■手水の儀

忠魂碑の前で行われる。

■■石段

石段に差しかかる。普段は土足禁止で、スリッパに履き替えするか裸足になるが、今日ばかりは、砂利の上で靴をぬぐって上る。

全員が無事のぼり終えた。ひとまず一安心したところ。

■■本殿前式典開始

狭い境内は、関係者、見物者で満杯。式典は約1時間、静寂の中で執り行われた。

宮司さんの祝詞をしっかり聞きたかったが、無理だった。祝詞の中には千年余の歴史が語られていたかもと残念に思う。

■拝殿の様子

■■本殿での式典

■宮司から「オー」という掛け声が3回あって、神殿の扉が開かれ式典が始まる。以後も「オー」の掛声で進行する。

■祝詞奏上、神饌・玉串奏上など一連の儀式が粛々と執り行われる

■本殿への巫女の神楽奉納 

■参拝風景

皆さんとても真面目にお参りされているように感じた。

■着衣からも時代を感じる。

■お稚児さん、ご苦労様でした。稚児の行列と社殿までの参拝は式年祭のときだけである。

■■式典終了

Am11:00に式典終了し、めいめい神殿前からを去る。ケヤキの大木近くでお神酒の接待が行われる。

午前中の行事は終了で、次はPM13:00より行われる。

■■例祭・式年祭について

■由緒

■祭事について

菅浦の戸数は、古来より多いといえない。現在は世帯数80強、200人余りの小さな集落で、かつ若い人が飛び出し、残る人は高齢化の傾向にある。

そんな小集落で行うに相応の内容と思い込んでいたが来て見てビックリである。それだけに「裏」には大変な事情があると思えた。

■集落には「神事会」という組織があるようで、年迎えや4月3日の春祭などの年中行事を企画・実行する。

例祭は毎年4月12(宵宮)・13(本祭)・14日(後宴)に行われる。宵宮には氏神の神霊を神輿に移して里の御供所前で、百灯・稚児舞・釜湯・供膳などで持て成し、本祭には若衆や年番による神輿の村中渡し及び還幸、後宴にはボンタタキと称する年番の会食がある(今は簡略化されていると思われる)

■この集落には、地縁別年齢順の宮座組織が存在する。村を東組・中組・西組の分け、各組1年交代で年番となる。年番は持神主と呼ばれ、年齢別に9人決められその内最長年の者から3人は本社の保良社、次の3人は末社の八王子社、最後の3人は末社の赤崎社の年番となり神事を行う。

今年の式年祭の準備は、年祭委員3人、神社委員8人、総代3人を中心に、3年も前から進めてきたとされるが、今も組織が生きているようだ。

■人の問題も大きい。稚児さんは今の集落には居ない。若者もいない。呼び寄せて帰ってきてもらってはじめて可能となる。50年後も傾向は同じであろう。

■お金の問題、これが重要だ。スポンサーとなってくれる大企業も商店もない。大口の寄付も見込めない。そうした中で、立派な石畳の参道や、社殿の改修・神輿三基の手直し、そして1250年式年祭の開催費用、数えればきりがない。1200年祭のときは所有する山の木を売ってあてがわれたとか。今は買い手がない。

住民の負担が大きいと思われる。 こうした点が頭をよぎる。すべての問題を解決する「業」は、中世から自分たちで自治をつくり、必死になって集落を守ってきた血縁・地縁のパワーがなせる「業」としか思いつかない。

■■午前中の行事内容が「式年祭」の時に限って行われる行事であり、午後の行事が「例祭」に行われる内容である。

須賀神社祭 午後からの行事は、春の例祭と同様の神事で、神輿巡行から始まりまる。烏帽子をかぶったツカイサンが、東西の御供所を行き来して、定められた口上を述べる。ツカイサンの合図で、東西から神輿のカッコ(担ぎ手)が勢いよく飛び出し、神輿を担ぎ集落内を巡行する。各御旅所で祝詞を奏上し、チマキと酒が振舞われる。

 ■■神輿堂前

■神輿の出陣

PM13:00になると神輿を担ぐ若衆?が集まり始める。神輿堂及び見物の我々にもお祓いが行われる。

いよいよ神輿の出御。威勢よく三基が飛び出し集落内を廻る。見物客も後を追いかける。

■公民館前(御旅所) 休憩所である。

■狭い道を駆ける

ゾウリは小さく、足がはみ出している。お互いに踏みあいしないためである。

■東の四足門付近(御旅所)

神輿が入ると景色も変わる。湖面も輝いている。

■神輿と湖岸

■東の舟留跡(御旅所)

■神輿と石垣

■西の舟留跡(御旅所) 最後の休憩場所

神輿も無事でした。昔は神輿と神輿をぶっつけ合った様ですが、修理費が大変で止めになりました。男児は1300年式年祭のリーダーです。

■■神輿御帰還

■■祭典

■約2時間かけて全集落内を渡御した後、神輿堂前で式典が行われる。

■巡行を終えた神輿がお堂に戻ると、神輿に神饌を供える。そのとき、息がかからないように榊の葉をくわえて順にお供えを運ぶ。

■神饌の数はとても多い。集落全戸からお供えが出ている感じである。その間、見物人や参列している若者からヤジの掛け合いがあって退屈させない。

見物人にはお神酒が配られた。

■終わると巫女による神楽奉納。玉串奉納が行われる。

■■幣走(ヘバシリ)

大きな御幣を神主が神輿の前で三回まわす。

■その後、幣倒し(ヘタオシ)と言われる公平に倒された幣走をカッコが奪い合い、けがれを払うために地面に叩きつける。

■■神送り〜神輿納め

■坂道を上がり神霊を本殿に返す。

神輿同志がつばぜり合いをして神輿が傷つかないよう役員が止めに入る。

最後の行事として、神輿を担いで急な参道を駆けのぼり、神霊を本殿に戻す。神輿は一度では上がらず、祭の最後の余韻を楽しむように途中まで上ったり下ったりを何度も繰り返す。それが夜更けまで繰り返され祭りは終了する。

■■前日の神迎えの様子

■■無事50年に一度の祭りが終了した。これほど規模の大きな祭とは想像できなかった。

50年前の昭和38年に神輿を担いだ70〜80歳代の年輩の方が、懐かしく思い出しながら祭を見、語っておられる姿、担いでいる息子や父・兄弟に精一杯声をかけている家族の姿、神輿を担ぎながら幼子に託す若い父親のまなざし、そしてこの50年間を振り返り、明日を見つめておられる集落の人々の姿、等人々の表情は豊かだった。

この50年間は、菅浦にとって大きな変革をもたらした。それを乗り越え式年祭を迎えた自信と、今日から次の50年に立ち向かう意気込みが、集まった人々から感じられた。今回は50年前の式典の記録が残されていて、それを頼りに組立てられたと聞く。今年の様子は克明に撮影されていた。1300式年祭の参考となろう。

だが小さな集落で、これだけの伝統ある行事を継承することは、年々難しくなっていく。

祭を見ている間、集落の皆さんがこの祭りを尊び、祈り、穏やかに見守り、「おらが村の財産」だという意識を共有しておられること。祭を維持することの苦労を乗り越えて後世へ引き繋ごうとする集落の人たち、そして故郷を想う集落出身の人たちの熱意が随所で感じ取れた。

次は、1300年祭は2063年に行われるが、このお祭りが続けられるよう願うのみである。長浜市は菅浦地区が、国の重要文化的景観地区に選定されるよう目指しておられる。この祭りも重要な構成要素である。

菅浦のこの素晴らしい伝統が、景観同様に損なわれることなく、いつまでも維持されるよう市にも切望しておきたい。

『お断り』

このページに掲示した写真のうち、時間の都合で撮影出来なかった場面については、「長浜市ほっとにゅーす」掲載の写真を引用させて頂きました。参考資料≪東浅井郡史、伊香郡史、長浜市発行パンフレット、長浜市ほっとにゅーす、かくれ里、他≫

   

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