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滋賀県長浜市 洞寿院

Tojuin ,Nagahama city,Shiga

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Dec.2011 中山辰夫

長浜市余呉町菅並492

宗派:曹洞宗

本尊:釈迦三尊

国指定文化財:木造観音立像

訪れる洞寿院は滋賀の最北端にある。

   

高時川(丹生川)沿いに遡った菅並集落から、さらに、その支流・妙理川に沿って少し上がったところ。まさに湖北のドンつきである。

その奥にひっそりと佇む曹洞宗の寺院 湖北の寺では最北端に位置する。

この地域は厳寒・豪雪の地域として有名 

       

建ち並ぶ屋根の形が冬場の豪雪を思わせ、他にもそれらしい佇まいが随所に見られる。

       

平成23年1月の降雪 (洞寿院および付近)

             

高時川(丹生川)の支流・妙理川の橋を渡り、山裾の道を少し辿るとお寺にいたる。

     

応永10年(1403)信濃上田城(現長野上田市)城主海野氏次男の如仲天闇禅師(にょちゅうてんぎんぜんし)が開山となり

祝山(ほりやま 現西浅井町)の洞春庵(とうしゅんあん)を創建。応永13年(1406)に当地が中国の五台山に似た勝地として移建。

白山妙理権現より塩泉を施され塩谷山洞寿院と号したと、洞寿という名の由来は、遷洞長寿「幽仙に移って長生きする」からと伝える。

安土桃山時代には朱印寺となるなど格式の高い禅寺で、慶長10年(1605)、徳川秀忠からご朱印地として30石の領地と葵の紋章

を寺紋とすることが許された。また、天明8年(1788)、住職が京都霊鑑寺の戒師を勤めて以来、宮家の尊崇を受け、菊のご紋賞を

本堂につけることが許された。

其の後、寛永・寛文と火災を被りその都度再建を重ねてきた。さらに嘉永3年(1850)にも、山門・鐘楼・鎮座堂を除くすべてを

焼失し、現在の伽藍はほとんどそれ以降に建てられたもの。

早創以来の近江における曹洞宗の中心としての位置はゆるぎなく、今に続いている。

樹齢数百年の杉の巨木の間に建つ山門が神秘的であり、また紅葉で彩られた境内や、雪で覆われた境内も見事な情景といわれる。

今は、信仰の場としては勿論、子どもたちの研修の場として地域住民に親しまれ、大切にされている。

延喜式神名帳「波弥神社」に比定される六所神社本殿及び東林寺に隣接している。

山門

境内の入口に建ち、桁裄4m近くあって、四脚門としてやや大型に属す。

四脚門 切妻造 銅板葺 左右袖塀(潜戸付) 18世紀中期

     

親柱は円、控柱を角として冠木・桁裄大梁・棟木と重ねる棟通の処理も規格通りで、すべて正統的に造られている。

       

本堂

文久3年(1863)の再建 

大屋根の本堂でずっしりと構えている。実に均整の取れた大きく優美な造りはまさに禅宗にふさわしく、「湖北の大屋根」とも言われる。

右側に一列通りを加えて八室構成し、桁裄寸法23mにも及ぶ。

       

本堂内は撮影禁止。大型の彫刻が縦横に掘り込まれている。

本堂内部

本尊の釈迦三尊をはじめ、大日如来、開山の如仲天闇禅師などが祀られている。

内部は撮影禁止。建具には大型の彫刻が縦横に掘り込まれている。

 

研修道場 座禅道場

本堂と渡廊でつなぐ衆寮は、軒を出梁・出桁で指し出す特異な構造を持ち嘉永6年(1853)の建造になる。

但し現在は立て直されている。

       

庫裏

   

鐘楼

   

大木

 

洞寿院図

年代不明 山深い仙境の地、昔からの禅寺の香りが、今も清らかに漂っている。

 

木造観音菩薩立像

国重要文化財

建保4年(12169銘がある。開山如仲天闇禅師が持ってこられたと伝わる。穏やかな表情ながらも凛と立つ観音さま

   

徳川家との関わり

今からさかのぼること約400年。慶長10年(1605年)、洞寿院13世松巌梵梁禅師に、徳川二代将軍秀忠より、

御朱印地として三十石の領地と徳川家の葵の紋章を寺紋とすることを許された。

その経緯は

洞寿院を開山した如仲天誾禅師(にょちゅうてんぎんぜんし)が静岡県袋井市久能に東陽庵を開いた。

東陽庵十一世のとき、徳川家康が敵に追われてこの寺に逃げ込んだ。

かくまわれるうちに、敵が在ることも忘れてぐっすり睡ってしまったが、それにより難を逃れることができた。

家康が、その後岡崎城主になると、この寺を命の恩人寺とし、寺名を可睡寺と改め、十万石の扶助を与え、

三・遠・駿・東海三地方曹洞宗三千余箇寺の元締めとした。

またこの寺の開山が近江洞寿院の出であることを知ると、洞寿院にも三十石の寺領と葵の紋章をゆるされたのである。

以来洞寿院は徳川家代々の尊牌を奉拝している。(余呉町教育委員会発行の「余呉三山」より抜粋(※一部表現を変えています)

余呉町にあるお寺洞寿院、菅山寺全長寺を総称して「余呉三山」と呼ばれ、どのお寺も余呉の歩みとともに欠かせなかったお寺。

豪雪地帯ではあるが、北国街道ができるまでは、古い道(県道285線)は越前(現、福井県中・北部)・近江・美濃を繋ぐ重要ルートで

あったとされ、物流の要地であった。そのため早くから北陸や畿内の文化が流入していた。

洞寿院などの曹洞宗の名刹や、華麗な茶わん祭りで知られる丹生(にう)神社などの存在や茶碗祭の曳山の高価な水引幕や見送り幕

舞楽の衣装などは、当地域の往古の繁栄を物語っている。

茶わん祭

余呉町上丹生 丹生神社の大祭 「上丹生の曳山茶碗祭」として滋賀県無形民俗文化財に指定

丹生神社近くで陶土が採れ、その地の末遠氏(すえとお)が陶器を焼いて神社に奉納したのが始まりとされる。

陶磁器などの飾りをつけた3基の山車を丹生神社まで曳行する。

曳山は山にある藤蔓でつくった縄を使った組立て式で、上部後部には神の依代(よりしろ)であるマツの木を立て、その前に人形や陶器

を用いて、高さ5〜6mの飾りつけを行い、山車を入れると10mのも及ぶ。

3基それぞれの工匠が工夫を凝らし、支えを外した瞬間に、曳山の上で微妙のバランスで山飾りが揺れる様が最高の見せ場とされる。

中世の様式をそのまま残した貴重な形態の祭礼とされ、県内最古の奇祭といわれる。

祭りの様子は「茶わん祭館」で常時展示されており、「茶わん館」は洞寿院へ行く途中にある。

 

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