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滋賀県近江八幡市 武佐宿

Musa shuku,Omihachiman city,Shiga

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Jan. 2014 中山辰夫 近江八幡市武佐町 1600(慶長5)年、関ヶ原合戦で勝利した徳川家康が、天下統一を図るため最初に手掛けたのが街道整備であった。

慶長6年には東海道を整備し、慶長7年には中山道を整備した。

整備された中山道は、江戸日本橋から終着点である草津宿までの距離が129里10町5間(約507.6km)であった。草津宿で東海道と接した。

中山道の宿駅は最初が板橋宿、最終が守山宿で、武佐宿は江戸から数えて67番目の宿であった。

多賀大社の門前町として賑わう高宮宿を過ぎると犬上川を渡って愛知川宿へ入り、その次が武佐宿である。

武佐宿から西50丁の距離に近江八幡がある。密接な関係があり、中山道の宿場町として賑わったのが武佐で、商業で賑わったのが近江八幡といえる。

武佐宿から守山宿までは距離が長い。そのため、中世に宿駅であった鏡村「竜王町」に間の宿が置かれた。

中山道の宿駅は、東海道と比較して全体的に小規模なところが多い、とりわけ武佐は戸数、人口共に小規模な宿駅であった。

中山道宿勢比較

武佐が宿駅であった記録は、「東関紀行」にも見られ、鎌倉時代には宿の機能を果たしていたとあるが、宿は長光寺辺りであった。

整備された武佐宿は、民家を街道筋に移転させ、町並みは八町四間あまりで、東から地下町、仲町、西町、長光寺町となっていた。

八幡十二神社記録と1806(文化3)年編集された中山道分間絵図

木曽海道六十九次之内武佐(歌川広重画)

川舟を杭で固定し、板を置いただけの橋を行く旅人達。地元民が右端に一人いるのが珍しい。街道散策

川越藩領、宿内の町並みは東西に八町二四間余、1843(天保14)年の宿人数は537人、家数138軒、本陣、脇本陣、旅籠は23軒、問屋場は武佐町、長光寺町にあった。武佐宿は中世において登場するが、中心は長光寺から武佐に移り、現在の宿を形成する。

武佐宿屋根伏図(木曽六十九次中山道宿場図)より

当時の宿場は「大門」から始まった。大門は木戸と同じで、入口に設けられ、人々の出入りを監視した。

大門跡の案内 武佐神宮の手前にある。 

街道案内

牟佐神社

宿の東入口に鎮座する。武佐は昔、牟佐村主がおり、牟佐上社、牟佐下社があった。同社は下社である。

神社の入口左手に見られる「高札場跡」で、街道には武佐小学校の卒業生が製作した手造りの標識が随所に置かれている。

武佐小学校は瓦葺で色調・デザインともに宿場建物の雰囲気を供え、昔の武佐宿の面影を残すことに成功した珍しい校舎である。

この辺りから古民家が現れる。その一つが「平尾家役人宅」と標識がある。

主屋は切妻造り桟瓦葺きのツシ二階町家である。正面は大壁造りで軒裏まで塗りこめてある。 軒先には幕板が取り付けられ、虫籠窓は二階左寄りに一つ。

明治天皇御聖蹟碑と広済寺

平尾家の向かいにある。ここは明治天皇北陸御巡幸の時、明治天皇行在所になっていた。参道奥が広済寺。浄土真宗の古刹で、昔は武佐寺と称していた。

脇本陣跡

脇本陣奥村三郎右衛門家跡。建坪64坪余り、玄関付門構えの屋敷であった。現在は武佐町会館が建つ。玄関前に馬頭観世音碑が建つ。

旧八幡警察署武佐分署庁舎(魚友楼洋館)と周辺

会館前に建つ古い建物は1886(明治19)年に建てられた。国登録有形文化財である。魚友楼は明治初期創業の割烹料理屋。

国道421号線の交差点。

その角に宿場案内看板と常夜灯が設けてある。

立板には、1729(享保14)年、将軍吉宗に献上された象二頭(内一頭は長崎で病死した)が江戸への途中、武佐で一泊した時の様子が描かれている。

長崎から江戸まで陸路354里を2カ月余り擁して移動した。想像上の動物に沿道は湧いた。武佐宿問屋から江戸方面の村に指示が出された。

案内と像通行の覚書

伝統的町並みが最も残っているのがこの交差点から東西約300mにわたる地域で宿場の中心部であった。

建築年代が江戸期にさかのぼると思われる町家が多く、伝統的な格子や虫籠窓を残す町家も多く、景観の連続性が保たれている。

一際目立つ岡田家 高二階建町家

向かい側の井上家と谷川家

井上家の主屋は切妻造,桟瓦葺の虫籠家である。正面は大壁造理で軒裏や妻面の母屋桁まで塗り込められている。

大橋家

大橋家は戦国時代に能登川町種村から移住してきたとあり、酒屋を営んだり、武佐宿の役人を務めたりした。古い家は400年以上の歴史を持つとされる。

主屋は切妻造、桟瓦葺、ツシ二階町家である。入り口部分は改造されているが、細格子や土戸の痕跡があり、虫籠窓や幕板といった町家の伝統的意匠を残している。15代金右衛門は皇女和宮の御降嫁の際、武佐宿伝馬取締役として勤務していた。

本陣(下川家)跡の郵便局

本陣跡は郵便局に替わった。伝場所跡の標識がある

郵便局は宿場の景観に合わせたつくりになっており、明治時代のポストにあたる「書状集箱」がステンレス製で再現されており現在も使用されている。

本陣門塀

今も残る門と塀。土蔵も残る。建坪は二百六十二坪。今も隣一帯は下川姓の家が並ぶ。建坪は二百六十二坪でした。

旅館(元旅籠屋)中村屋隣の町家

中村屋は現役として料理旅館を営業していたが、平成23年1月漏電で全焼した。町家の隣、空き地となっている。

道標「いせ みな□ ひの 八日市道」 道標は1821(文政4)年建立 東海道を経て、鈴鹿山系の八風峠を越えて伊勢に通ずる。

安土浄厳院道 いわゆる安土路である。

案内

福本家

松本周防守陣屋跡 武佐宿は川越藩領であった。 隣接して愛宕山常夜灯が建つ。

町並み

愛宕山 

武佐には愛宕神社の石碑や常夜灯が多く残っている。地元の信仰の篤さがわかる。 社の隣に高札場があった。先に進むと枡形となる。

近江鉄道武佐駅周辺 

桝形内の左手が近江鉄道八日市線武佐駅 「中山道 武佐駅」の表示がいい。その向いが武佐宿西見付跡、武佐宿の西口である。

桝形を曲がり、近江鉄道八日市線を武佐踏切で横断すると旧西宿村に入る。

武佐宿を出て西宿村の方へ歩をすすめる。大きな町家がならぶ

若宮神社

右手の若宮神社は1011(寛弘8)年の創建。隣が広大な空き地になっている。ここが伊庭貞剛邸跡である。

伊庭貞綱生誕地

伊庭家は近江守護佐々木家の流れをくむ名家。

屋敷は中山道沿いに長屋門を構え、広大な屋敷であったが、近年解体され、街道に面して楠(くすのき)の巨木を残すのみである。

貞剛は1847(弘化4)年ここで出生した。尊王攘夷に奔走し、維新後は裁判所判事を経て、住友財閥に入社。

1894(明治27)年四国の別子銅山精錬所に於ける、亜硫酸ガスによる煙害問題の解決に尽力し、住友家中興の祖と云われた。

貞剛は58歳になると事業の進歩発展に最も害をするものは、「青年の過失ではなくて、老人の跋扈だ」と云って、サッサと引退したとされる。

引退後は石山の「活機園 国重要文化財」で終生を過ごした。近江八幡安土にも「旧伊庭家住宅 安土郷土館」がある。

≪参考≫

東海道を旅する象

「日本年歴一覧」には、

大坂に付いた象は、2〜3日逗留後大坂を発ち大津に入った。そして草津から中山道に入り、武佐宿で泊まっている。

この通行に際して武佐宿問屋から沿線の村々の庄屋に指示が出ている。

① 道筋一町に一カ所ずつ手桶を設置し水を準備すること

②象の通行前日から犬や猫を遠い所へ移すこと

③像が到着する前から鐘や拍子木など音の高いものを差し止める、などであった。象の通行の際には次の指示が出された。

① 人が騒がないようすること

② 象の飼料は、竹の葉・青草・藁であるが、道筋では青草を食べるので準備すること

③ 青草は一日30斤(約180kg)食べるので準備しておくこと

④ 象の飲み水は清水を準備すること

⑤ 水の流れのはやい川では、人が大勢出て差し添えば不都合なく渡れるので、歩行渡しの川ではそのように心がける事

⑥ 渡船の川では、馬が3〜4頭乗れる船を準備すること

⑦ 象が宿泊する厩は、大ぶりで丈夫な厩であること

⑧ 象の大きさは、丈が七尺、頭から先までが一丈一尺、横幅が四尺あるので万事こころがけておくこと

等とある。参考資料≪近江八幡の歴史、中山道、他≫

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