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滋賀県大津市 御霊神社

Goryojinja,Otsu city,Shiga

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Apr.2011 中山辰夫

大津市内には三カ所の御霊神社がある。いずれも壬申の乱で敗北した大友皇子(弘文天皇)を祭神として祀っている。

大津宮に遷都して5年、天智天皇が崩御し、その直後の672年に天智天皇の弟、大海人皇子(おおあまのおうじ)と天智天皇の長子である大友皇子との間で次期の皇位をめぐる争いが起こった。

戦いは近江と大和を中心に展開するが瀬田唐橋の最後の決戦で、大友皇子が敗北して自殺し、翌年大海人皇子は即位して天武天皇となった。

都は再び飛鳥の地に戻った。

大友皇子は明治になって弘文天皇と追謚された。

御霊神社(ごりょうじんじゃ)

大津市北大路一丁目6−26

晴嵐市民センターの北、県道醍醐・大津線に沿って鎮座している。

祭神:弘文天皇

地名は国分寺門前の北にあった大路に由来するという。江戸期を通じて膳所藩より崇敬を受け、神田領を代々寄進されていた。

西の庄の石坐神社とは同体であって、大友皇子の死去の地に近いことから、大友皇子を祀り始めたと伝えられている。

以前は相当な大社だったらしく、近隣の国分・寺辺・平津・寺内(位置不明)の鎮守で、北大路を含め五領(霊)明神と称していた。

本殿は一間社流造、元禄6年(1693)に再建されたもの

御霊神社 

大津市鳥居川町14−13

祭神:弘文天皇

瀬田唐橋西詰め、京阪電車の踏切を越え、少し南に下がると、晴嵐保育園の向かいに鎮座している。

壬申の乱に敗れた大友皇子が命を絶った「隠れ山」が御霊神社の一戸言われている。白鳳4年皇子の子の大友与多王が父の霊を祭祀するために創建したと伝えられる。

この伝承から、弘文天皇陵を選定する祭の候補地にあげられた膳所藩の崇敬を受け神領田を寄進されている。

近くの瀬田橋は度々戦乱の激戦地となり、御霊神社もその戦禍を受け、多くの資料を失った。

境内には、拝殿・本殿の他に、祝詞殿 神門 神輿庫 手水舎 神饌所 千灯舎 絵馬堂 社務所 がある。

本殿は、江戸時代のもので、一間社流造である。

境内社奥神社前の門は、膳所城本丸黒門を移築したもの。

境内に鎮座する稲荷神社の鳥居が延々と並ぶ。

保護樹林寺辺の森(大津市指定)

裏山が昭和52年8月1日大津市の保護樹林に指定された。

御霊神社 

大津市大江六丁目13−28

祭神:大友皇子

近江国庁跡が立地する三大寺丘稜の一角にあり、国庁跡の北東隅付近に鎮座。

境内は、近年整備され、真新しい石玉垣に囲まれている。

冶田連の子孫が祖霊を祀ったのが始まりといわれ、もと御霊ヶ原の荘山という場所(位置不明)にあったが天命2年(1782)の暴風雨のため倒壊し、字七ノ社の地(位置不明)を経て明和5年(1768)、現在地に遷ったと伝えられている。

境内には、拝殿・本殿の他に、 神門 手水舎 社務所がある。

本殿は、一間社流造 覆屋あり

弘文天皇御稜

大津市御陵町3

右手が新羅善神社の森で、左手が御稜である。

弘文天皇は天智天皇の皇子大友皇子(648〜672)で、母は伊賀采女宅子(いがのうねめやかこ)の娘で室は天武天皇と額田王の間に生まれた十市皇女(といちのひめみこ)である。

「日本書紀」によると、天智天皇が大津宮で亡くなると、大和を中心とした旧勢力が大海人皇子(おおあまのおうじ)のもとに集まり、大津の大友皇子の軍に対抗して、壬申の乱を起こした。

大友皇子は敗れて、山崎(現御稜地)で戦死し、25歳で生涯を終えた。

自殺の説もあるが、明治天皇は弘文天皇の追謚(ついし)をされ、御稜をこの地に定めた。

大友皇子は容貌風采ともに立派で、博学多芸であり、文武の才に秀れており、漢詩集「懐風藻」を著した。

御霊神社(ごりょうじんじゃ)という名前の神社は日本各地に存在する。

その祭神・性格は様々で、御霊信仰に基づきある人物の御霊・怨霊をしずめるために創建されたものや、5柱の神「五霊」を祀る(祀っていた)もの、祖神・先祖の霊を「御霊」として祀るものなどがある。

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