JAPAN GEOGRAPHIC

滋賀県大津市 葛川

Katsuragawa,Otsu city,Shiga

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Aug.2011 中山辰夫

葛川(かつらがわ)地区とその周辺

大津市葛川

急峻な山々が左右に迫り、合間を縫うように安曇川が流れる。わずかな平地に民家が肩を寄せ合うように立ち並ぶ。

懐かしさと安らぎを感じさせる風景が広がる葛川地区。

大津市最北端に位置し、京都の三条、出町柳から土・日・祝日に一日2本、大津からは車で堅田、途中を経由して北上する。

JR堅田駅からは、一日2本バスが出ている。冬場は積雪が1mを越えることもある厳しい地域である。が、夏は涼風が吹き通る別天地とされる。

比良山系の西、安曇川(あど)の渓谷に沿って南北に広がる山間地。谷沿いの道は江戸時代の若狭街道。

中世史研究上、その貴重な文書群と絵図によって多くの業績があり、独特の世界が展開されていたことが知られる。

現在の葛川内の集落は、元亀2年(1571)当時に、坂下・木戸口・中在地・中村・坊村・待井・榎木・温井(ぬくい)細河といった近世の村につながる集落名が見える。

貞観元年(859)修行の地を求めてわけ入った天台僧の相応が地主神の思古淵大明神よりこの地を譲り受けたのが葛川の始まりと伝える。

相応が明王を拝した三の滝のある明王谷の安曇川への注ぎ口に、中世御堂とよばれた葛川明王院があり、葛川ではこの明王谷を形成する御殿尾滝山(ごてんおたき)を最も神聖な地としている。

葛川は本所・領家を持ちながらも荘園ではなく、その諸役は明王院の修造や掃除のみとした。葛川が定法の外にある存在であることは自らを庄民といわず住人といい、また隣接荘園の人々から住人と呼ばれていた。

葛川は相応が開いて以来、神聖な道場であり、住人はその聖域の中心である息障明応院および思古淵明神を守護する限りにおいて止住を許された。葛川住人はより直接的に自らを神仏に結び付けていた。

葛川の中世の歴史は隣接諸庄園との境目論の歴史であった。なかでも伊香立庄とは、最も激しくかつ長期にわたって堺を争っている。建長8年(1256)頃から始まり、文保7年(1323)頃まで続いて終わった。

葛川絵図

文保元年(1317)・2年の伊香立庄との相論の過程で作成された。もとより訴訟を優位に進めようという作成者の主張もあるが、14世紀初頭の山村の世界が詳細に描かれている。東の比良山を絵図の上にし、南北に大川(安曇川)と大道(若狭街道)を描き、これを基本軸にしている。

坊村

大津市葛川坊村町

中村の北、安曇川上流の葛川谷の村で、若狭街道沿いに集落がある。

東から明王谷川が安曇川に合流し、安曇川東岸の集落内に明王院と地主神社がある。

相応の明王院建立により開発された葛川谷の中心集落である。

延暦寺支配といいながらも、明王院が領内支配にあたっていたようである。

寛文2年(1662)5月1日の高島郡を震源とする大地震で、大被害を受け、明王院では、明王堂・石舞台・大橋や寺の周囲の石垣が倒壊した。

さらに安曇川下流で北に堺を接する「榎村東ノ大峯」が山崩れを起こして安曇川を堰止めたため、川水があふれて「坊村の在家等、残ラズ浮キ流」され、15日頃まで高台にある明王院を除き集落は「大池ニ成ル」状態であったという。


May. 2007 瀧山幸伸 source movie

比良山荘

地主神社

Jishu jinja

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