滋賀県大津市 満月寺
Mangetsuji,Otsu city,Shiga
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Mar.13,2017 瀧山幸伸 source movie
Aug.2011 中山辰夫
海門山満月寺(かいもんさんまんげつじ)
大津市本堅田1-16-18
禅宗 大徳寺派
近江八景「堅田の落雁」で名高い浮御堂は、寺名を海門山満月寺という。
この寺の歴史は古く、平安時代に比叡山の恵心僧都源信が、湖上交通の安全と衆生済度のために堂を建立、さらに自ら千体の阿弥陀如来を刻んで、「千体閣」「千体仏堂」と称したのが始まりといわれる。
浮御堂からは湖面を通じて三上山・長命寺などの湖東の山々、比良山連峰、比叡山を眺めることが出来る。
境内の見事な老松は、客殿ともうまく調和して趣が深い。
このすぐれた四季折々の景観を求めて、松尾芭蕉・安藤広重・小林一茶など多くの文人墨客が来訪し、多くの作品を残している。
なかでも芭蕉の「鎖(じょう)あけて 月さし入れよ 浮御堂」の句は著名である。
いずれにせよ名勝地の浮御堂には、西近江路からも近く、街道を往来する多くの旅人が訪れた。
現在の建物は昭和9年(1934)の室戸台風で倒壊、昭和12年(1937)に再建された。昭和57年(1982)には修理が行われた。
山門(さんもん)
国登録文化財 建築:宝暦4年(1754)
構造:木造楼門、瓦葺、建築面積3㎡ 基準:国土の歴史的景観に寄与しているもの
境内西北部の入口に西面して建つ楼門で、初層軸部の周囲に漆喰塗りの袴腰を付けたいわゆる竜宮造の形式になる。
上層は桁行二間、梁間一間で四周各間に菱格子窓を構える。高欄や腰組などの細部に特色がある。
扉はなく,東方正面に浮御堂を見通すことができる。
客殿(きゃくでん)
国登録文化財 建築:宝暦4年(1754)
構造:木造平屋建、瓦葺、建築面積121㎡ 基準:造形の規範となっているもの
琵琶湖に向かって東面して建ち,北側面に式台付大玄関を構える。
屋根は入母屋造で、もとはこけら葺。内部は、前列に八畳と十畳の客間、後列に内玄関と仏間を配し正面及び南側面に広縁を廻す。
四間取り形式の客殿の姿を良く伝える。地元大工・吉兵衛の作。
書院
茶室(玉鈎亭)(ぎょくこうてい)
国登録文化財 建築:昭和12年(1937)
構造:木造平屋建、瓦葺、建築面積24㎡ 基準:造形の規範となっているもの
昭和9年の台風で倒壊した前身浮御堂の古材を天井などの一部に用いて建築、昭和63年に客殿南から現在地に移築された。
倒壊まで浮御堂は京都御所桜町天皇の御能舞台の御下賜を仰いで建立されていた。
観音堂(かんのんどう)
国登録文化財 建築:明和3年(1766)
構造:木造平屋建、瓦葺、建築面積22㎡ 基準:国土の歴史的景観に寄与しているもの
琵琶湖畔に営まれた臨済宗寺院満月寺の本堂。
近年の修理で正面の柱間装置を変更し,向拝を増設するなどの変更はあるが、湖上の浮御堂とともに一体の寺観を構成する。
浮御堂(うきみどう)
国登録文化財 建築:昭和12年(1937)
三間四面、向拝一間、水上舞台造、柱脚及び柱台全部鉄筋コンクリート
木造ケヤキ造、屋根は露盤宝珠をいただく宝形(ほうぎょう) 唐破風の向拝付 本瓦葺、
構造:木造平屋建、瓦葺、建築面積37㎡、長さ17m・幅員2.6m石橋附属 基準:国土の歴史的景観に寄与しているもの
代表的な建造物、湖面に25m突き出ている。緑が周囲を取巻き高床式の均整の取れた建造物である。
琵琶湖上に建つ三間仏堂で,湖畔から延びる長さ約17mの石橋が附属する。
平安中期に湖上安全と衆生救済を願って千体の阿弥陀仏を奉る堂を建てたのを始まりと伝える。
近江八景のひとつ「堅田の落雁」で知られる景勝地の重要な構成要素。設計は西崎辰之助。
堂内部と周辺
脚桁コンクリート 湖畔から約17mの石橋である
湖上より見た浮御堂
浮御堂の黒松の歴史と美景 (説明と写真の松は一致してません)
境内には20数本もの松が生えている。うち、6〜7本は推定樹齢200年の老松。
大半が黒松で、浮御堂に渡る橋のたもとにある松は枝ぶりもよく、最高の樹姿をしている。「唐崎の松」と同種とされる。
初代の松の起源はかなり古く諸説あるが、天正9年(1581)大風で倒れ枯死した。天下の松にふさわしく堂々とした樹姿であったという。
明王9年(1500)、近衛政家、尚通父子が中国の洞庭湖を真似て湖畔の八景を歌に詠んだ。いわゆる近江八景にも「唐崎の夜雨」と題して詠われている。《夜の雨に音を譲りて夕風を 外に名立つる唐崎の松》
二代目は天正19年(1591)に、第三代大津城主・新田直頼と弟の直寿によって植えられたとある。二代目は樹高約10m、幹約周9m
枝張りは東西72m・南北86mもの巨松に成長したが、大正10年(1921)樹齢348年で枯死した。
現在の三代目は、その二代目の根元に実生し育ったもので、樹齢190年、幹は2本に分かれ、樹高11m、地上の高さ1mのところから枝が四方に伸び、枝張りは東西40m・南北35mと名松の名に恥じない樹姿をしている。
唐松の松は名高い名松ということで、実生して移し植えされ、見事に成長したものがいくつかある。「新唐崎の松」がそれで、現在は二代目
この地に日吉大社の社家・祝部行麿が居住していた天正年間に植えたもので、昭和40年頃枯れ2代目である。
平安時代から堅田一帯の漁業や船運を取り仕切ってきた居初家(いそめ)の庭園「天然図画亭」にも昭和初期まで「小唐崎」とよばれた樹齢500年以上の老松があった。
北陸・金沢の名勝、兼六園のシンボルである霞が池の池中に広く・見事に枝を張っている「唐崎松」は天保8年(1837)、13代藩主・斉泰が近江八景を模して池を拡大整備したとき、近江の2代目・唐崎の松の実生を移植したもので、特に雪吊りの樹姿は見事である
その他、宮城県岩沼市の、渡辺家庭園にある老松。二代目唐崎の松の実生から育った唐崎松である。
渡辺家は、阿武隈川の水運を取り仕切り、荷物問屋であった。伊達藩のおかかえに庭師・清水道竿の弟子・星野益三郎が文久2年(1862)
近江八景を模して築堤した際に植えたもの。庭園の東南の塀側にあって、枝振りが扇状の樹形をした名松とされる。
句碑
鎖あけて 月さしいれよ 浮御堂
元禄4年(1691)の8月に堅田を訪れた芭蕉は門人と湖上に舟を浮かべてこの名句を詠んだ。湖中に浮かぶ御堂のあきの趣がよく現われているとされる。
病む雁の 夜ざむに落ちて 旅寝かな 芭蕉
小仏を あつめて涼し 浮御堂 乙州
五月雨 雨垂ればかり 浮御堂 青畝
木造聖観音坐像
国重要文化財 平安時代
左手に蓮華を握り、右手は施無畏の印をあらわす。聖観音としては珍しい坐像である。
顔や体躯の肉づきもよく、一種の官能美をみせるのは、平安時代初期密教様の系統に立つことを思わせる。
翻波風の衣文も美しい。
近江八景“堅田落雁”
その他
資料 滋賀県教育委員会発行
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