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滋賀県竜王町 鏡山 

Kagamiyama,Ryuo town,Shiga

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June 13.2014 中山辰夫

鏡山と周辺の文化財

滋賀県野洲郡竜王町

鏡山は竜王町に存在する

竜王

山容の美しさから、古来歌枕として知られ、近江名山の一つに数えられる「鏡山」にのぼり、頂上を極めて?から、星ケ崎城址を経て、鏡神社を訪れる。

■■鏡山

竜王町と野洲町の境界に位置し、主峰は雨乞山(384.6m)、竜王山などと呼ばれ、山頂には巨大な磐座が残り、現在貴船神を祀る小祠がたつ。

雪野山と対面する山塊。鏡氏をはじめとする古代氏族の活躍の場であった。

北方の支峰は星ケ峰と称される。山麓には数多くの古墳が分布し、竜王町鏡から薬師(くずし)にかけての間だけでも50基以上を確認する。

山名は山麓の古墳から鏡が出土したことからとも、壬申の乱で大友皇子と戦った大海人皇子の武将鏡大君が当地で討死し、葬られたことによるとも伝える。

鏡神社を中心に文化財が多い地域である。

■コース案内

■登山開始

大谷池の周辺には古墳が存在する。この鏡山周辺地域は山麓の至る所に古墳が見られる。6世紀末〜7世紀初めの頃のものである。

「あえんぼ」は町の花 4月〜5月に咲く。「コバノミツバツツジ」が別名

「こんめ岩」巨岩が斬られたように二つに割れていた。「こんめ」の意味は不明

■貴船神社 (龍王宮)

降雨をつかさどる神として霊験あらたかであるとされる。往古より旱が続きため池の水も枯れるような年は村人こぞって登山して雨乞い祭をおこない太鼓や鉦を打ち鳴らし雨乞い踊りをしながら乞雨祈願をした。(鏡の里保存会では雨乞い踊りの伝承を進めている)

■鏡山(竜王山)頂上

竜王山山頂から約100m先に二等三角点(標高:384.6m)と涼み岩がある。

眺望よし

■■下山

頂上から、星ケ崎城址まで延々と続く尾根沿いに歩く。道幅も狭く、砂利道が多いので滑り易く、注意を要した。およそ一時間で城址に到着した。

星ケ崎峰と下山道

■■星ヶ崎城址

滋賀県野洲郡竜王町鏡・野洲市大篠原(境界上にある)

星ヶ崎城址は、鏡山丘陵から北に延びる尾根上に位置する。標高247m、比高130m、今は昔をしのぶ石垣と礎石らしいものが残る。

この城は、元鏡氏の居城とされ、後に佐々木六角氏の観音正寺城の出城とも砦ともいわれる。

城跡には、長さ35m、高さ1〜2mで、3〜5段の石垣と、反対側にも少しの石垣が尾根の南西上部に残っている。

周囲の地形状況から、この石垣が残っているところは、城の「主郭」部分にあたる。

■説明資料

■城址と残る石垣

石は鏡山で採れる花崗岩で、方状節理によって割れた横長の石を用いた野面積みである。

■鏡山と御幸山の間を東西に通る東山道と鏡宿駅を眼下に抑える軍事上重要な位置に築城されている。

街道交通の見張りや軍事的緊張の高まった際に立てこもる砦であったと考えられる。眼下の景色からも城があったことがうなずける。

全域が見渡せる。観音寺城や水茎岡山城も見える。

■■星ケ崎古墳

星ケ崎城址の西方尾根上に築造された前方後円墳。眼下にR8号線(旧東山道」や湖東平野の水田地帯が見渡せる。古墳の築造は地山削りと盛土による。

山を下りる

■西光寺跡に文化財が集められている。

■石灯籠

国重要文化財

この石灯籠は、西光寺の鎮守八柱神社の社宝で高さ2.8m。裏面に「応永8年8月8日願主敬白」の刻銘があり、室町時代初期の作とされる。

当時の様式の多くは、丸柱の中央に周帯を有するものであった。八角形は珍しく笠を持ち火袋には四仏が彫られていて優美な意匠を凝らしてあり、特に珍重される背の高い灯籠である。

■赤宮八柱神社跡

石灯籠はこの神社にあったもの

■宝篋印塔

国重要文化財

西光寺唯一の遺物である宝塔。塔の高さ210cmの堂々としたもので笠石の下の塔身の周囲は180cm。2段の基壇を築き、その上に孔雀が向い合う格狭間を彫った基礎を置き塔身、笠、相輪を積み重ねる。考古学者が垂涎するのは、塔身の梟の彫刻で、わが国では例のない塔といわれている。鎌倉後期1300年頃の作。

■西光寺跡

818(弘仁9)年最澄による中興と伝え、かつては僧坊300余坊を有する大寺であったが、1059(康平2)年兵火にかかり、1089(寛治3)年に再建されたが、1571(元亀2)年再び織田信長に焼かれ廃亡した。その寺跡である。

■仁王堂

西光寺跡地のお堂に祀られている石の仁王堂で、その内の一体は、昔山崩れの際に地下に埋没されたといわれる。

仁王堂には室町時代初期の金剛力士像(花崗岩製)が安置されている。

毎年7月1日の千日会には、足の病を治して下さるという伝承があり、この日には草ぞうりをお供えする風習があって平癒を願う参拝者が今もおられる。

山を下りて鏡神社境内へ進む

■■鏡山古窯址群

竜王町鏡・山面・山中・野洲市大篠原

境内に足を踏み入れた左側に案内がある。

鏡山北東麓から北西麓にかけて分布する県下最大の須恵器窯跡群。古墳時代後期(約1500 年前)から飛鳥・奈良時代(約1300 年前)にわたって焼かれた窯跡。現在50ケ所以上の窯跡が確認されている。須恵器窯跡の分布状況(鏡山古窯址群)から、かつてはこの鏡山の麓が須恵器の一大生産地(推定100 基以上存在)であったといわれている。

飛鳥時代から奈良時代にかけて編纂された『日本書紀』には、「近江国の鏡村の谷の陶人は、天日槍(あめのひほこ)の従人なり」という天日槍の伝承として書かれている。

ここでいう「陶すえ」は「須恵」と同意味を表すものであり、鏡山山麓で発見されている須恵器の窯跡や、山麓から1kmほど東方の竜王町須恵は須恵器工人が住いした集落と伝えられる。一説に同集落はかつて鏡山山麓にあったが、土砂の流出で埋没、現在地へ移ったともいわれる。

■■鏡神社

■■御幸山(みゆきやま)

鏡神社の東側より細道を登ると古松がたくさん生えている所へ出る。さらに坂道を登る途中、「御野立(のだち)所」・「御幸山」と書かれた石碑が目につく丘の上に出る。そこが御幸山で、以前は宮山(みややま)と呼ばれていた。1917(大正6)年に近江湖東の地で陸軍の特別大演習が行われた時、大正天皇がこの宮山から大演習を統監された。その後、当時の滋賀県知事が、この宮山を「御幸山」と命名し今日に至る。

奥州に下る源義経が当地で元服し、当社に武運長久を祈願したと伝え、この時鎧を掛けたとされる鎧掛松が境内にある。

■■鎧掛松

■■元服池

■■鏡宿跡

野洲市出町から竜王町鏡にかけての街道(国道8 号線)沿いは、かつて東山道の宿駅として平安時代末期から室町時代にかけてにぎわいましたが、江戸代に入り守山宿と武佐宿が中山道の宿駅として定められたために、鏡宿は間の宿となり衰退しました。しかし、本陣と脇本陣が置かれていたことから、江戸や京都へ向かう多くの皇族や武家(藩)の関係者がここで休まれたことが記録に残っています。また、現在の鏡神社には、京から奥州平泉へと向かう源義経(牛若丸)が、道中この鏡宿にて元服したと伝えられており、ゆかりの品々が伝承されています。

■■■≪補 足≫

鏡山頂上付近にあって、上記から省かれた二点について県教育委員会の資料で補足する。

場所については以下の通り

■■三ツ山古墳群

鏡山から北側に延びる丘陵上に造られた6 世紀中頃〜7世紀前半頃の古墳群。

須恵器の生産地に古墳群が造られていることから、埋葬された人々は、須恵器の生産に関与した人たちだったかも。

この中の代表的な古墳である老々塚古墳は、本来埋まっているはずの石室の大部分が地表に露出しており、まるで飛鳥の石舞台古墳のようになっている。

ここからは竜をデザインした金銅製の太刀飾りが出土した。

■■雲冠寺跡 

鏡山(標高384.6m)の南東中腹(標高290 〜 330m)に建立された山岳寺院跡です。

『東大寺三鋼紀行』によると、 養老2年( 718)に開かれたとあり、また、竜王町山面仏厳寺所蔵『箱石山雲冠寺御縁起略抄』には、推古天皇の勅願所として聖徳太子が創建し、最澄により再興され、平安時代末に牟礼山法満寺との争いで焼失、その後僧正円上人によって再建され、1571( 元亀2)年織田信長の兵火により再び焼失し廃寺となったという記録が残っています。 

現在、寺跡は雛壇状に造成された平坦地や石垣、磨崖仏、井戸跡などがわずかに残るだけとなっています。磨崖仏には、高さ約4.5m、幅約2m の岩に彫られた三尊菩薩像や、通称「稚児谷の地蔵」と呼ばれる地蔵菩薩像があります。この地蔵菩薩像は法満寺との争いの際に犠牲となった罪のない稚児(子供)の霊をとむらうため里人たちが、稚児の遺体をおいたこの谷間の巨岩に地蔵菩薩を彫ったものと伝えられる。

野洲市に架かるが鏡神社との関連で記す。

■■平家終焉の地・・・宗盛胴塚

国道8 号の大篠原北信号より竜王方面に約300m 行き、右側のうっそうとした木の茂みの中の小道を100 mほど入ったところに、「平宗盛卿終焉之地」と刻まれた石碑と石仏がひっそりと立っています。

父・平清盛亡きあと、平家の総大将である宗盛は一門を引き連れ都落ちし、壇ノ浦の合戦で1185(文治元)年に敗れました。幼い安徳天皇をはじめ平家一門の人々は、入水や戦死をしました。しかし、安徳天皇の母で宗盛の妹・徳子(建礼門院)、平宗盛、清宗、清盛の妻の弟・平時忠は生きて捕らえられたのです。

徳子は出家して京都の寂光院に入り、時忠は能登に流されました。

平宗盛・清宗父子は源義経に連れられて鎌倉に下りました。源頼朝と対面したあと、再び義経に連れられ京に上ります。途中、義経の元服の地・鏡を過ぎ、大篠原で宗盛・清宗は斬首されました。その首は検非違使が京で受け取りました。胴は大篠原の地で一つの穴に葬られたと伝えられています。

かつてはこの胴塚のすぐ前に「首あらいの池」があり、その前の「蛙かわず鳴なかずの池」には宗盛の無念が蛙に通じたのかこの池では蛙はけっして鳴かなかったといわれています。

宗盛父子にとって、ここ野洲の地はどこよりも心安らぐ安楽浄土ではなかったのでは。それは父・平清盛が全盛のころ、この地のために掘った祇王井川が800 年以上たった今も、広い田畑をうるおし、感謝する人々のいるなかで永遠の眠りについているからです。

蛙鳴かずの池は、昔のおもかげはなくなっていますが、宗盛胴塚の前に立つと「平家物語」のもののあわれを感じられると思います。「市広報」

  

 

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