滋賀県甲賀市 土山宿
Tsuchiyama shuku ,Koka city,,Shiga
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Oct.2010 撮影: 中山辰夫
甲賀市土山町
峠越えの難所として有名な鈴鹿峠の麓に広がる東海道四十九番目の宿場町。
東の箱根と並ぶ西の難所として知られる鈴鹿峠の麓に栄えた。
軒を連ねた家並みや格子戸、海道沿いの松並木など往時の風情が味わえる。
旧東海道沿いに案内板が建てられている。
「室町殿伊勢参宮記」や「宗長日記」などにも「つち山」の記載があり、古くから開けていたことが知れる。
近世には東海道四十九目の宿駅に指定され、西は松尾川(白川)、東は田村川まえの二十二丁五十五間に連なっていた。
天保14年(1843)の「東海道宿村大概帳」によると、家数351軒、人数1505人、本陣2、旅籠屋44の規模であった。
「土山の町並みを愛する会」が結成され、保存に向けた活動が続く。同メンバーが設置した旅籠跡などを示す石柱は55基、屋号が書かれた看板—59基。これらも宿場風情の演出に一役を買っている。
案内(東→西)
「道の駅」をスタートして旧東海道の宿跡を辿る。街道は色付けされている。旅籠の石柱がやたらと目に付く街道筋である。案内・他
「道の駅」あいの土山
国道1号線沿いの田村神社前にある。道行く人の憩いの場として、情報発信の基地として利用されている。観光や道案内は勿論土山の特産品の販売やお茶の接待なども行なっている。レンタサイクルも置いてあり、土山のサイクリングツアーも楽しめる。
旧土山町には鉄道が通っていない。そのため、駅に代わる地域の拠点として、1993年に県下第一号よなる道の駅が生まれた。
幾野—今は生里野 「お六櫛」
現在では人見戸や格子戸などわずかに昔の面影を残すのみとなったが、ここ幾野という所に十数軒、軒を連ねて店を出し、お櫛の看板を掲げて旅人にみやげ物として販売していた。
1669年に上京の途中病にかかった信濃国の櫛職人を大森家の先祖が助けたことから、お礼にと送ってきた「お六櫛」を販売したのがお六櫛の始まりとされている。その櫛作りの製法が「おろく」という人の創意によるものだったことから「おろく櫛」とされた。
扇屋伝承文化舘
江戸時代に土山宿で扇や櫛を販売していた商家「扇屋」。
櫛や扇は、軽くて運び易いことからお土産として親しまれた。
この建物を地元の自治会組織「北東区」が購入し、地域の有志がボランティアで改修。地域文化の伝承と、東海道を散策する人々の憩いの場として活かされている。館内では「扇屋」に残された「お宝」や地元工芸品が展示されている。土山宿の特産品の販売と新
名物「いく野そば」の賞味もできる。
東海道一里塚
徳川家康が諸街道を整備した時に街道一里毎に道の左右に塚を築き、塚の上に榎を植えて遠くからでも望見できるように旅人の便を計って設置された。
塚の規模は、高さ約2.5m、円周12mの大きさであったとされる。
来見橋
白川神社
旅館井筒屋跡・平野屋跡と森鴎外
旅籠井筒屋は、鴎外の祖父で津和野藩亀井家の典医だった森白仙が、文久3年(1863)参勤交代に従って江戸より旅の途中、ここで没した。
白仙の墓碑は、南土山の常明寺にあったが、後に津和野に移され、現在その跡には供養塔が建っている。
旅籠平野屋は、森鴎外が祖父の倒れた土山を訪ねてきた時泊まった旅籠。「小倉日記」には鴎外が土山を訪れた際の記述がある。
民芸・茶房 うかい屋 両替商〜質屋跡
約200年前に建てられた家屋で元は「質店」。内部は幾たびも改装されているが、本体は建築当時のままとのこと。骨組はじめ強固なつくりとなっている。井戸は今も健在で使用に耐えている。コーヒーのオーダーにはこの井戸水が使われるとのこと。
二階では俳句や広重の版画「写真」が見られる。
土山宿(西)案内
本陣跡
街道に合わせて改装された土山公民館が左手にある。
本陣は、土山宿の中央に位置し、寛永11年(1634)三代将軍家光上洛の際、初代土山喜左衛門が本陣職に任命され、以降明治3年(1870)に至るまで代々勤めた。また、熊本藩細川家との関係も深く、同家から名字帯刀を許されたとある。
大名などが宿泊した上段の間や庭園などが当時のまま残されており、宿帳や関札・工芸品などの貴重な資料が保存されている。
勝海舟・篤姫・遠山金四郎・・・。その古びた宿帳は歴史の宝庫。誰もが知る人名が並ぶ。
明治3年(1870)に「宿駅制度」が廃止され、本陣も機能を失ったが、当主は現在も世襲されている。今の当主は13代目である。
脇本陣
幕末の頃、休泊者の増加に伴い、中町の二階屋堤氏が脇本陣をつとめた。今は石柱が立ち、宿場町として栄えた時代の様子を伝える。
東海道伝場舘
街道風景
町並みにはかつて宿場町であった風情が多く残っている。昔の佇まいを残す民家が多い。
地元の人たちが調査して、「旅籠石碑」29軒と「屋号看板」90軒が設置された。
明治天皇聖跡
明治元年(1868)9月、明治天皇はこの本陣に一泊された。たまたまその日は天皇となられて初めての誕生日だった。翌日、本陣で祝賀式が行われた。天皇は住民全戸にスルメと酒を下賜された。
大国屋本陣跡
設立年代は不詳。交通量の増加に伴い、豪商大黒屋立岡氏が本陣の補佐宿として相本陣に指定された。現在の巌稲荷神社付近に位置していた。
問屋場跡
中町に設置され、土山氏本陣の東に位置した。
問屋場宅跡
高札場跡
甲賀市土山町北土山
「東海道分間延絵図」によると、吉川町の陣屋の東向に位置したようである。
桁行5m、横幅1.8m、高さ3mのきぼであったとされる。
陣屋跡・他
甲賀市土山南土山
幕府領であった土山宿は代官による支配を受けた。代官や他の役人が在住するための陣屋は、吉川町に設けられ、吉川土橋の東側に位置した。東西25間、南北30間の規模であった。
ここよりスタート地点に戻り、その先を進む。
田村川橋(海道橋)
甲賀市土山町
旧東海道は田村神社の奥の鳥居の前で、南東方向に向かって直角に折れる。道は田村川に向かう。川には板橋が架かっていた。
この橋が土山宿の東端である。この先は、道も細くなり田園の中を通り、緩やかな上り坂となって蟹坂の集落に入る。
板橋は、安永4年(1775)自普請で架けられたもの。この時に東海道の路線が変更となり田村神社の参道を通るようになった。
長さ22間4尺(約37.3m)、幅2間1尺5寸(約4.1m)高さ0.3mの橋で、低い欄干の付いた当時としては画期的な橋だった。
詰の北側に橋番所を設け、旅人一人三文、荷物一駄三文の橋渡り賃銭を徴収していた。
橋の南側には高札が立てられた。
高札場跡
田村神社参道に立つ。
参道から海道橋
高札
広重・東海道五十三次之内 土山 春之雨
坂下から鈴鹿峠を越えて2里半あり。馬子唄に「坂は照る照る鈴鹿は曇る、あいの土山雨が降る」とうたわれ、雨の多い土地柄として知られる。
この「伊勢参宮名所図会」の「土山」は季節は明示せず、かなりの雨の中を旅人が行き通っている。
広重のこの絵の川は田村川、左の木立は田村神社とする解説が一般的である。街道は田村川を渡って右手に田村神社を見ながら左折する。
海道橋風景・他
土山は「伊勢参宮名所図会」にも描かれている。
蟹河坂集落(かにがさか)
甲賀市土山町南土山
集落は東海道に沿って形成される。蟹坂とも記され、昔当地に旅人を悩ませる大蟹がいたが、高僧恵心僧都源信がこれを成仏させたという伝説がある。
天文11年(1542)、伊勢国の北畠具教が国境を越えて山中城に侵攻したが、六角定頼配下の山中秀国らがこれを防いだ戦があった。これを蟹坂合戦という。
かにが坂飴
江戸時代よりこの付近で飴が販売された。甲羅が粉々に裂けて死んだ大蟹に似せた丸い形、ベッコウ色の飴で、坂飴・地黄煎・山中飴と呼ばれていた。竹の皮に包んで縄紐でしばった古風な形で売っている。
田村神社で2月に行なわれる厄除け大祭ではり「厄除けの飴」として大人気である。
普段は田村神社前、道の駅横で販売されている。
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