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滋賀県野洲市 兵主神社

Hyozujinja, Yasu city,Shiga

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 2月〜3月 梅・椿、5月〜6月 新緑・コケ・あやめ、10月末〜11月 紅葉
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April 20, 2019 野崎順次 source movie

滋賀県野洲市五条566

兵主大社

式内社(名神大社)で、旧社格は県社。正式名称は兵主神社であるが、普段は「兵主大社」を称している。

八千矛神(やちほこのかみ)(大国主神)を主祭神とし、手名椎神・足名椎神を配祀する。

「兵主」の神を祀る神社は日本全国に約50社あり、延喜式神名帳には19社記載されているが、その中で名神大社は当社と大和国穴師坐兵主神社・壱岐国兵主神社のみである。

(中略)

中世には、「兵主」を「つわものぬし」と読むことより、武士の厚い信仰を得た。中でも源頼朝・足利尊氏による神宝の寄進・社殿造営があり、社宝として残されている。また、江戸時代には、徳川将軍家から社領の寄進を受け、厚い保護を受けた。

(ウィキペディア「兵主大社」より)

パンフレットと現地説明板、本殿(市文)屋根葺き替えと玉垣改修が行われている。

     

石鳥居から赤い鳥居まで

            

県文 楼門

             

乙殿神社

     

拝殿翼楼

拝殿翼楼の建物は中央の拝殿一棟と左右の翼楼二棟とが組み合った大型の建物で、県下ではたいへんめずらしい型のものです。東面して立つ楼門にもやはり左右の翼楼が付き、兵主大社独特の様式として踏襲されてきたものと考えられます。

(現地説明板)

                  

工事中の本殿

  

国名勝 兵主大社庭園 平安後期〜末期 池泉回遊式

すなわち当社の庭園を一覧すると、当社の庭園は最初から神社庭園ではなく、何人かの豪族の池庭であり、しかも本庭が鎌倉中期の庭であることを一考すると、鎌倉中期頃に何人かの居館があったことになる。

(中略)

本庭は面積約四百二十二坪ほどあって、池泉は百七十五坪ほどあるが、池庭は東西に長く、南部に二つの大きな出島があり、北東に中島一島と出島とがあり、それらの出島の関係で池の汀の線が州浜形となっている。

そして南部には野筋を設け、池畔には多くの護岸石組を保存し、二重護岸となって、よく鎌倉中期の手法を見せたり、池中に岩島も数箇あって、すべては鎌倉中期の様式や石組の手法を見せている。

本庭ではさらに南部の野筋を作っていることが一層興味があり、東部の池畔が多少変化しているのみで、大体によく今日まで保存されてきたことはありがたい。

(重森三玲「日本庭園歴覧辞典、昭和49年」兵主大社庭園より)

兵主大社では平成2年の台風19号で、松の木をはじめ、およそ200本もの木々が倒れてしまうという甚大な被害を受けた。その後、国や県、町(旧中主町)の支援を受けた修復整備事業が行われ、庭池の水を抜いて発掘調査も行われた。その際、現在の地表より約1m下から、池の周囲に小さな砂利を敷きつめた、「州浜」と呼ばれる平安時代に特徴的な遺構が発見された。この庭の作庭時期については、昭和28年に国の名勝指定を受けた際には、鎌倉時代中期から末期のものと考えられていた。その昔は「頼朝の庭」とまで呼ばれていたそうだが、この発見により、平安時代後期から末期にかけて作庭されたものとわかったという。

(滋賀文化のススメウェブサイトより)

                                                             

その他境内

      

兵主大社前バス停あたりの景色

      


Nov.25,2014 瀧山幸伸 source movie

A camera

                                                                                                                                                      

B camera

                                                                                                

                                                 


June.30.2014 中山辰夫

野洲市中主五条小森立566

兵主神社は庭園に浮かぶ島に鎮座していた。平安時代の古庭園を骨格に形成されている兵主神社とその境内。

平成に入ってからの調査で事実が分かった。

■■神紋…亀甲紋

 

出雲大社系の共通紋である。亀甲は亀の甲羅である。鶴は千年、亀は万年と例えにある通り、長寿の象徴として、神のお使いとして亀を尊重した。

兵主神社の亀甲に鹿角の紋様は、数多い亀甲紋中、全国唯一の紋である。

鹿の角は、大亀の甲に白蛇として乗り、鹿が守護して琵琶湖を渡ってきたと「兵主神社記」にある。

近江湖南の大穀倉平野、豊積荘、北方の守護神として、兵主神社の神紋は玄武の神たる象徴として名誉ある紋章といわれる。

■■祭神と分布

祭神は八千矛神(やちほこのかみ=大国主命・大己貴命)である。中国の史書に見られる八神の日窒で、軍の神=兵主(へぬし)として「菟尤・しゆう」という兵器創造神と同一視されたり、北方を守護する神とされたり、農耕神であるとの見方もある。

 

全国に兵主神社は54社確認できるが、式内社「兵主神社」は8カ国19座あり、このうち名神大社は大和穴師兵主神社(奈良)・壱岐嶋兵主神社(長崎)、近江兵主神社の3社である。

『日本書紀』垂仁天皇3年条の新羅王子「天日槍・あめのひぼこ」の渡来経路<壱岐→播磨→河内・(大和)→近江→若狭→但馬・(丹波)豊喜合うため、何らかの関連があったものと予想されている

 

■楼門

滋賀県指定有形文化財 檜皮葺入母屋造 美しい楼門である。

現在の姿が天文の建立時(1550 天文19年)まで遡ることが出来る貴重な楼門建築。江戸時代の明和期に行われた解体修理の際に、大半の部材が取り替えられたが、主要な寸法は修理前の寸法を踏襲して再建されたもので、近世の修理の手法の一例とされる。

   

軒廻り全景、上層組物廻り、下層紅梁絵様(明和)、下層蟇股

     

■拝殿

拝殿までは、両側に石垣の積まれた参道が100m続く。1842(天保13)年建立。

       

■本殿

拝殿の背後、一段高い位置に、湖面を背にして玉垣に囲まれ鎮座する。

1643(寛永20)年に建立された社殿で、比類のない大型の一間社切妻造の建物である。楼門とともに統一された社頭景観を有する歴史的にも貴重で美しい本殿である。

            

■■兵主神社庭園

国指定名勝

平安時代の作庭とされ、庭園のはしりで貴重とされる。

兵主神社は庭園に浮かぶ島に鎮座していた。

  

■庭園の新発見

1951(昭和26)年、大阪市の佐々木利三・美術館学芸員が当社所蔵の美術工芸品借用に訪れた際に「驚くべし、池には一つの島と向こう岸から左斜めに非平行する二つの出島が突出して二重護岸石組で飾られているではないか。池の地割は明らかに鎌倉風。対岸に高からざる築山が三つあって、京都の苔寺に劣らない美しい苔で覆われている」と記されて通り、偶然の機会に発見された経緯がある。

つくられてから何百年もの時間を経て、地元の人には常に知られていたものであるが、その歴史的価値が新たに発見された瞬間であった。

その後、1953(昭和28)年庭園は「名所的あるいは学術的価値の高い庭園)として国の名勝庭園に指定された。

■台風による被害

昭和29年の台風13号、34年の伊勢湾台風、36年の第二室戸台風、40年の台風23号・24号・41年の台風24号などの大型台風が重なって通過した。このため庭園も境内地の杜が大きな被害を受け、1966(昭和41)年より庭園の修理と整備が行われた。

■発掘調査

現地調査が、平成4〜8年度・平成11・12年度の7カ念度で行われた。これらの調査から、追加指定が行われた。

庭園の名勝指定は、鎌倉時代から室町時代にかけて本殿地区に所在したと推定される豪族の庭園としてであった。

今回の調査で、池庭下層から平安時代の庭園遺構として州浜等が検出され、最初の作庭が平安時代に遡ることが明らかとなった。

また、その時代の池庭への導水路及び排水路が境内内で検出され、庭園の範囲がより広い区域に拡がることが明らかとなった。

かつては境内は琵琶湖内湖・野田沼に接していたとされる

    

■現状の庭園

              

■■平成25年度 朝日新聞文化財団女性事業完了報告

「室町古神宝中世裂の復元・製作と古神宝(オリジナル)との比較展示と活用

神社伝来の古神宝の裂地(きれじ)を、研究者や技術者の協力をえて復元し、貴重な文化財が500年前の姿によみがえった。

      

■■八ツ崎神事 11月25日

兵主大明神が湖上を渡来したことにちなむ神事で、宮司が八ツ崎の湖中で神を迎える。

718(養老2)年金色の異光に導かれて、八ツ崎浦に至った五条周辺の豪族・五条資頼に、神(不動明王)が兵主明神として降臨を夢告。

湖西穴太の里から、白蛇「兵主明神」が、琵琶湖を大亀に乗って渡たり、八ツ崎に上陸され、鹿にまたがって五条の小森立の地に鎮座されたという兵主神社縁起による。 この神事はオコリカキとも称される。 八千矛の神様は一日だけ、社殿から解放される。

湖上を渡来した神を五条村の井口氏一人、須原村の東氏一人、吉川村の辻・川端氏二十二人、井口村の辻氏二人の二十六人が迎えて当社を創建とある。 このうち、井口氏が宰相の官位を得て五百石を領し、残る二十五人が社家としてそれぞれ十八石の禄を得たという。その後も当社との係わりが続いた。

     

参考

兵主神社の宮司家である井口家は、現在の当主が56代目。景行天皇の御代から脈々と継承されてきた。井口家が兵主神社の宮司家の地位を得たのは、近世初期の400年ぐらい前とされる。

織田信長の近江侵略を最後に中世から近世に代わる大きな動乱期の中で、兵主郷内の在地武士であった井口家の一つが、荒廃していた兵主神社の復旧と共に宮司家に治まったとされる。

参考資料≪名勝 兵主神社庭園保存整備報告書発掘調査編・保存整備編、パンフレット、滋賀県の地理、他≫


Jan.2011 中山辰夫

兵主神社庭園

野洲市中主町五条566

国指定名勝:名勝:指定;1953・03・31 鎌倉時代

回遊式池泉庭園:約22,000㎡手水舎横の小門より庭園に入る。

池畔をめぐる小径はびっしりと青苔に覆われている。作庭年代は観応年間(1350〜52)とされている。

すぐに目に入る心字形の苑池には中島があり、石橋が掛かっている。島には室町時代の石造宝塔がある。

案内に従って歩くと、護岸の石組がじつに巧みで、築山に見られる三尊石組とともに鎌倉時代の様式をとどめている。

広々とした池の対岸に二つの出島を突き出し、その背後に築山がなだらかに起伏している。

多くの石組や池辺の護岸の石組みが、しっかりと苔になじんでいる。ところどころの池におりる段道が設けてある。

園内の樹木越しにみる本殿は、さまざまな方角からも見ることが出来るが、流れの美しさには差がない。

平成2年の台風で大きな被害を受けた庭を整備するため、発掘調査を行ったところ、地表に見える庭は、江戸時代までに荒廃していた古庭を、明治時代に、大きく整備したものであることがわかった。

この前身となる庭は、鎌倉時代より古い、平安時代後期のものとわかった。

調査の結果、庭園の原型は12世紀後半頃に作られたもので、現在の池を一周する形で幅1mの洲浜と、池水の導水溝として、約160mにも及ぶ遣水(やりみず)跡がみつかった。

遣水は途中で分岐し、一つは池に流れ、一つは築山を巡る。

このように、原型庭園は遣水が留まることなく流れる、流れの庭であり、古墳時代の水辺の祭祀に起源を持つ庭と判断されている。

                           

兵主蕪・兵主菜栽培へ

兵主大社は平成30年(2018)には近江国野州郡五条の小森立(こもだち)の地に、御祭神八千矛の大神が鎮座されて壱千三百年という節目を迎える。

この大祭のソフト面の事業の一環として今年から、室町時代から明治の初め頃まで当兵主郷で栽培されていたブランド野菜の”兵主蕪“を復元して大祭の神饌とする計画にとりかかった。

往古の日記・その他にも多く記述されているが、明治24年(1891)刊の「近江名跡案内記」に「朝鮮人街道、兵主蕪といふ名産なり」の記録を最後に資料がなくなっている。

       

資料「滋賀県教育委員会発行資料」

    


Nov. 2009 撮影/文: 中山辰夫

野洲市中主町五条566

主祭神:国作大己貴神 例祭:五月五日

錦織寺からさらに湖岸の方へ3kmほど行くと、中主町の五条に着く。

この兵主神社の近郊地域に中主の寺院が集中してある。

町のほぼ中央にある。この地はもともと野洲川下流の沖積層に当たり、湖岸にも近く、当神社文書には湖岸の漁業権を手中に納めていたとある。

兵主神社の名前は[延喜式]の中で最も多く17社を数える。この兵主神社もその内の1つである。

兵主神はもともと武神で古くから中国で信仰されていた神様。日本に渡来した天日槍系の人々が祀った神社ともいわれる。

影行天皇は、都を高穴穂宮(たかあのほのみや)(大津市坂本穴太を中心とする一帯)へ移された際、穴太に社地を設けた。

そして欽明天皇の時代(539~571)に現在の地に遷座された。社殿は養老元年(717)に造立された。

源頼朝が東国に下った際、当社神前に武運を祈り、鎌倉幕府を開創後に社殿を建立し、神領三千余石を寄進した。

足利尊氏も社殿を再建、神領を寄進し、祭礼を復興したという。中世には戦勝神として多くの武将の崇敬を受けた。

鎌倉時代の寺宝が多く残っていることでこの時代の隆昌を物語る。

織田信長は佐々木氏攻略の際に社殿をすべて没収した。

江戸時代に入り徳川家光の時代に復興し現在に至る。

境内地は3万4,000㎡。うっそうと茂るカエデ・杉の老樹におおわれる。 ともかく広い。

大鳥居をくぐると300mの長い参道となる。両側には黒松100本が端整に並び立つ。

松と松の間には末社名入りの御輿と太鼓の石塔が建つ。

五月五日の兵主祭(例大祭)には30数基の御輿、太鼓がここに集うようだ。

流れる水が本殿、拝殿などを取り囲み聖域を形作っている。

両翼を堂々とひろげて建つ朱色の楼門翼廊、シャッターが独走を開始する。

羽ばたく大鳥を思わせるスケールの大きさにビックリするばかりだ。

この楼門を見ただけでも、神社の貫禄が伝わってくる。

      

楼門をくぐると玉砂利の馬場が100mほど続きその奥に拝殿があり、中庭を隔てて本殿、境内社がある。

境内に続く庭園は名勝指定を受けただけあって、いずこからの眺めもすばらしい。

特に庭園からみる本殿屋根のシルエットがたまらない。

神社には多くの神事が残る。その内の一つ[オコリカキ]は(八つ橋神事)ともいい、兵主大明神が亀の背に乗って琵琶湖を渡り、ここより大鹿に乗って五条まで来られたという言い伝えがあり、この神様の降臨の様子を伝える神事である。

神社の北側に鹿塚や、野田沼の田に亀塚が残っている。兵主神社の紋が亀甲に鹿角なのもこの降臨の伝説に因るといえる。

[湖国百選 社寺 滋賀県より抜粋

拝殿、本殿以外の主な建物:楼門(県文)、斉館、参集殿、宝物館、神輿庫、手水舎、社務所 境内社:7社 境外社:13社

                       

楼門

県重要文化財:建造物:指定 1966・07・04

一間一戸楼門、入母屋造、檜皮葺 附:翼廊 2棟

美しい朱塗りの楼門である。門楼の左右には祭礼の時に各郷の神輿をつらねる翼廊をもつ。

この楼門を見ただけでも多くの古文化財を所有している神社の貫禄を感じる。復元で新しいが美しい建築である。

                     

拝殿

入母屋造(脇拝殿付)、間口十七間三尺、奥行四間三尺、翼廊付

拝殿の左側には庭園が広がっている。

                  

本殿

一間社流造、間口三間、奥行三間三尺、寛永20年(1643)棟札

大型の切妻造一間社で正面に向拝をつける。

向拝柱間は身舎柱間より一尺短い。向拝屋根が身舎より左右各々五支づつ落としている。

身舎は舟肘木で中備に蛙股、妻飾紅梁豕扠首ときわめて簡素で向拝にのみ組物をおく。

正面柱間は吹寄格子戸四枚引違いとして、上下に透かし彫刻欄間をおくところだけが派手になっている。

本殿は棟札や板札により寛永20年(1643)の建立。大工は吉地村の谷川孫左衛門で、時代は異なるものの虫生神社と同姓の大工である。

その後、寛文9年(1669 板札)に屋根葺替、明和8年(1771 棟札)に修理がある。明和の修理も吉地村の谷川安重である。

                      

護摩堂

寛政6年(1794)上棟された。江戸初期絵によると、宝形造、二間四方、廻り縁付きで兵主神の本地仏「不動明王」を祀る護摩堂とされたものである。

内部には、氏子崇拝者三十一社の神々を祀り、江戸時代にはその御神徳は、守山市、中主町、近江八幡市、野州町にまたがる信仰圏を形づくっていた。

      

手水舎

       

この神社には、鎌倉時代や室町時代の秀作である国重要文化財としての工芸品や国認定重要美術品が多数所蔵されている。

毎年、3月と9月の指定日に限り宝仏殿の公開がある。それ以外の日には閲覧できない。

 

参考資料:【野洲町史通史編】【歴史と文化 近江】【滋賀県神社誌】【野洲市教育委員会】【野洲町物語】【中主の文化財】より抜粋

兵主神社庭園

野洲市中主町五条

国指定名勝:名勝:指定;1953・03・31 鎌倉時代

回遊式池泉庭園:約22,000㎡

  

手水舎横の小門より庭園に入る。

池畔をめぐる小径はびっしりと青苔に覆われている。作庭年代は観応年間(1350~52)とされている。

すぐに目に入る心字形の苑池には中島があり、石橋が掛かっている。島には室町時代の石造宝塔がある。

案内に従って歩くと、護岸の石組がじつに巧みで、築山に見られる三尊石組とともに鎌倉時代の様式をとどめている。

広々とした池の対岸に二つの出島を突き出し、その背後に築山がなだらかに起伏している。

多くの石組や池辺の護岸の石組みが、しっかりと苔になじんでいる。ところどころの池におりる段道が設けてある。

園内の樹木越しにみる本殿は、さまざまな方角からも見ることが出来るが、流れの美しさには差がない。

平成2年の台風で大きな被害を受けた庭を整備するため、発掘調査を行ったところ、地表に見える庭は、江戸時代までに荒廃していた古庭を、明治時代に、大きく整備したものであることがわかった。

この前進となる庭は、鎌倉時代より古い、平安時代後期のものとわかった。

調査の結果、庭園の原型は12世紀後半頃に作られたもので、現在の池を一周する形で幅1mの洲浜と、池水の導水溝として、約160mにも及ぶ遣水(やりみず)跡がみつかった。

遣水は途中で分岐し、一つは池に流れ、一つは築山を巡る。

このように、原型庭園は遣水が留まることなく流れる、流れの庭であり、古墳時代の水辺の祭祀に起源を持つ庭と判断されている。

                      

参考資料:【野洲町史通史編】【歴史と文化 近江】【滋賀県神社誌】【野洲市教育委員会】【野洲町物語】【中主の文化財】より抜粋

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