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滋賀県野洲市 菅原神社

Yasu Sugawarajinja


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Feb.2010 撮影/文: 中山辰夫

菅原神社

野洲市安原町1041

祭神:菅原道真

火渡り神事(ひわたりしんじ)

2月25日は学問の神様、菅原道真の命日で、全国の天満宮では神事が行なわれる。

梅の名所として知られる京都・北野天満宮では25日、梅花祭が行なわれた。

道真の命日にあたるこの日、約900年前から毎年開かれる伝統行事で、午前10時過ぎから本殿で神事が始められた。

道真の霊を「なだめる」が「菜種」の音に通じるとして、菜の花を冠につけた神職が、蒸し米などを奉納する。

この日は気温も15℃を上回り、境内に植わった約1500本の梅も見頃であったと聞く。

菅原神社においても、毎年2月25日には祈念大祭である「天神まつり」が開催される。

約800年前から続くとされる神事が朝9時より本殿前で厳かに行なわれた。

お祭りが行なわれる日の境内は明るく活気に満ちている。が、その境内もこの神事の時だけは静粛であった。

    

「火渡り神事」は、立春から始まった新しい年の繁栄と無事安全を祈る火の祭典として約40年前から始められた。

護摩木を燃やした炭の上を素足で歩く奇祭である。

    

10:00、本殿での神事が終わると宮司・神職が火渡し神事の祭場に勢揃いする。

拝殿前に白砂を盛って作られた祭場で祝詞、玉串奉献などの祭事が行なわれる。

         

この頃より、境内は県内外から集まった人で溢れる。

この火渡りには約130人限りで一般参加ができる。

毎年、地元の氏子のほか関東方面や京阪神から訪れた老若男女が無病息災などの祈願を込めて「火渡り」を体験して帰る。

最近ではリピーターが増えてきたと聞く。参加料は一人1500円である。

参加希望者は、受付時に渡された足型守(あしがたふ)という紙を手に持ってその時を待つ。

行事の進行を見守るその表情には硬さが感じられる。燃える火や燃え殻を見るとだんだん不安顔に変わってゆく。

        

うず高く詰まれた護摩木の山に沿わせて、宮司が読み上げた特別祈願の大串が立掛けられる。

燃やされる護摩木は約5000本とのこと。

宮司が火付けを行なった後、世話人が水を撒いたりして燃え方を調整する。

火の勢いが激しくなって、いよいよ始まりと緊張が高まる。

護摩木が燃え終わる頃になると、裸の宮司による浄水を全身に浴びる行が寒水行(すごり)斎場で行なわれる。

思わず身震いする。気温がアップして15℃程あるとはいえ厳しい。宮司の気合にのまれる。

                    

いよいよ火渡りが開始される。

宮司が燃え殻の上を浄める。真っ赤に火照る炭火が見える。“大丈夫か”の思いが一瞬よぎる。

宮司が燃え殻の上を堂々と歩かれた。渡り終えて、ケロリとされている。40回近く体験されている“技”かと思う。

宮司の指図で2〜3名の神職が続く。ジ〜と我慢する人、バタバタ慌てる人さまざまだ。かえって不安が増した。

        

いよいよ一般参加者の順番が廻ってきた。内心はドキドキであろう。宮司さんにお尻を叩かれ飛び出してゆく。

様々な表情、動きをしながら渡りが進む。渡り終えた後「足型守」に足型を押して“行”が終わりとなる。天晴れな勇気の持ち主だ。

この足型守を部屋の壁に貼っておくと願いが叶うとされる。

                     

約130人が渡り終わって神事は終了した。宮司の気合と祈りが利いたのか、ケガ人もなく無事済んだ。よかった。

参加者の中には来年も来ると意気込む人もいた。コリゴリという人もいた。

行事は午前中で終わった。

「火渡り」神事は寺では多く行なわれているが神社でおこなわれるのは全国的に珍しく、滋賀県下では奇祭として知られる。

「火渡り」にもコツがあるようだ。

足の爪先で歩くと、燃え殻がついて“やけど”のもと。気合を入れて、足のかかとでゆっくりと進む。そして、前の人が歩いた

位置を歩くのがコツ。

何人かが歩くと燃え殻をならして足跡を消すので要注意とのこと。

 


Oct. 2009 撮影/文: 中山辰夫

野洲市安原町1041

祭神:菅原道真

野洲駅西口から大津−能登川長浜線【朝鮮人街道】を北へ約2Km行くと永原である。

江部の交差点を西に折れて120mほど行くと左側に竹薮があって、中世永原御殿のあった永原城跡の堀跡が残っている。

この城跡の南端に菅原神社があり、天神社・永原天神ともいわれる。道を挟んで反対側が境外社の土安神社である。

神社の由諸書によると、寿永2年(1183)源頼朝の勧請によって創祀され、江部(江辺)荘三カ村の産土神とされてきた。

延文5年(1360)の修築、永和5年(1379)の屋根葺替えに続いて、応永26年(1419)11月には全面的な造替えが行なわれた。

この時の棟札には神主藤原清重・願人沙弥正光のほか、江部荘内の大工二名の名が記されている。沙弥正光は永原新左衛門入道正光のことで神主藤原清重も永原一族であろう。

明応7年(1498)の修復にも永原氏の名があるように、永原氏との関係が深い。

この神社では長亨〜明応(1487〜1501)のころから「永原千句」とよばれる連歌興行が永原城主を中心に催されてきた。

これは、明治10年 (1877)まで興行されてきた。

毎年2月25日の「火渡り神事」が行われる。

本殿に巡らされた彫刻装飾は見事である。また、左側に立つ境内社の装飾も優れている。

重文に指定の檜皮葺きの神門(四脚門)も永原氏によって建てられたもの。

                                    

神門

国重要文化財、建造物:指定 1982・03・31

四脚門、切妻造、檜皮葺

室町時代

          

拝殿

入母屋造:間口三間、奥行三間

     

本殿

二間社流造、間口二間三尺 奥行二間三尺

彫刻装飾が素晴らしい 永原氏の関係先の神社・仏閣にすべて彫刻が施されている。

                          

境内社

 彫刻装飾が素晴らしい

 

火渡り神事

     

神ノ木

  

土安神社

菅原神社の境内社である。永原城の真向かいに建立されている。彫刻装飾が素晴らしい。

  

永原氏

戦国期に野洲郡を支配した国人領主永原氏、応永16年(1409)の尊経閣文庫所蔵文書(前田家文書)に初めてその名が現れる。

この文書によると、永原氏は15世紀の初頭以前に既に野洲郡一帯の名田畠を領有していたことがわかる。

この文書に記載されている永原新左衛門入道正光は10年後の応永26年(1419)11月に天神社(現在の菅原神社)の造り替えの願人になっている。(菅原神社本殿棟札)

その後、永原家の嫡流(本家)と思われる人物は、正光〜良堂正久禅定門〜吉重〜重泰〜重隆〜重興〜重虎とされている。

永原氏の祖先は関東の出身であったという。永原氏の出目については従来、宇多源氏佐々木氏の支流とされてきた。

がこれは創作されたものとわかった。

永原氏が本姓藤原氏を称していたことは明らかである。また吉重の子重泰(重秀)も明応2年(1493)の「心中小祥忌拈香」などに「藤原重泰」とあることや、明応7年(1498)の「菅原神社本殿棟札」にも「藤原永原越前守重秀」と自署していることで裏付けられる。

そして永原氏は、関東における藤原氏の氏神鹿島神宮を勧請して崇敬していたとされる。

14世紀末頃から野洲郡一帯に蟠居していた永原氏は、その初期においては蒲生郡に本居をもつ馬渕氏の被官であった。

馬淵氏は佐々木定綱の子広定を祖とし、鎌倉・南北朝期には近江守護代を務めており、守護佐々木六角氏の有力家臣であった。

野洲郡を支配する永原氏が馬淵氏の被官であったということは軍事的にも馬淵氏に属していたことになる。

15世紀に馬渕氏の被官であった永原氏は、16世紀に入って戦国騒乱の地方への波及に伴い、しだいにその勢力を強めていった。

文亀元年(1501)3月、永原重秀は牛頭天王社(現在の大笹原神社)の屋根葺き替えの願主となっている。

しかし、応永21年(1414)の本殿再建には永原氏の姿は見えなかった。文亀元年の修復時には永原氏の経済的援助で葺き替えがなされた。

ここに永原氏の馬淵氏に対する相対的地位の向上が見られる。

永原氏が野洲郡において経済的に大きい勢力を有していたことは、文亀2年(1502)の「御上神社文書」からもわかる。

牛頭天王社葺き替えが行われた翌年、御上神社では楼門の屋根葺き替えの資金捻出のため、社領の三上山の山林を住人らに売り渡している。

この中で永原氏一族が買取した山林が多量であったことからも経済力の大きさを裏付けている。

このような経済力の強大化で、永原氏は馬淵氏からの政治的支配からも自立してゆく。そして守護六角氏は勿論、幕府「将軍」の永原氏の存在を無視できなくなった。また永原氏の側も中央集権の動きに関心を持つようになった。

明応2年以降、直接・間接的に、しかも時勢に応じて有利に足利家「将軍家」との関係を深めていくことで、政治的・軍事的地位を高めていった。その結果、永世15年(1518)12月29日に重秀には幕府から所領・所職の安堵状が与えられた。

馬渕氏の被官関係から自立した永原氏は、大永・亨禄年間(1520年代)ごろから次第に守護六角氏との直臣関係をもつにいたった。

戦国時代は主語六角氏の重臣として活動した永原氏は、主家六角氏の没落によって一族離散の運命をたどった。

信長が足利義昭を擁して近江に侵攻したのは永禄11年(1568)の8月である。信長からは永原氏にたびたび条書が送られ誘われた。

信長が観音寺城の出城箕作城を攻めたのは、9月12日であった。箕作城を落とされた六角義賢父子は、戦うことなく観音寺城を捨て甲賀郡に奔った。

越前守重虎は永原氏の嫡家として信長から誘降されたが、六角氏への忠誠も信長への帰参もせず、他の永原氏一族とは行動を別にしいずこともなく出奔してしまったとのこと。

経済的側面を伝える内容としては、天文9年(1540)に伊勢神宮内宮の造り替えが行われ、同11年(1542)12月に完成した仮殿に遷宮されたが、この造営費用700貫文は重隆が支出した。

永原氏は天神と春日明神を勧請して崇拝していた。天神は連歌の神菅原道真であり、春日明神は藤原氏の氏神である。文明年間に良堂正久は鹿島明神を祀っていたが、重興の時代には畿内における藤原氏の氏神を崇拝していた。

現在も道真を祀る菅原神社の境内社に春日神社本殿が鎮座しており、これらは重興の時代から継承されているものと考えられる。

永原城跡

中世の豪族永原氏の居城。

県道大津能登川長浜線と県道野洲中主線の交差点から県道中主線を二百m北へ、童子川手前にある城跡である。その向かいが土安神社。

ここ永原は中山道にも近く、その脇街道である朝鮮人街道に沿い、そのうえ兵主上りの旅人も集まる交通の要衝であった。

また、近江の穀倉地帯を支配する上から重要な土地であったので中世ながく永原氏の館城であった。

永原氏の居城は野洲市永原及び大篠原の田中山にあった。

永原氏の出目は藤原氏とも佐々木氏ともいわれる。室町時代には馬渕氏の被官であったが、応仁の乱ののち台頭して六角氏の施策の中心部に位置する奉行人に一人として活躍。

軍事面でも、天文8年(1539)永原重隆が六角軍を率いて摂津国に出陣、また永禄4年(1561)にも六角氏の総大将として永原重澄が軍勢一万余騎を率いて京都に出陣するなど、六角家の中で顕著な働きを見せた。

永原氏の所領は、永正15年(1518)段階で、野洲郡内の名田畠、江辺地頭職、篠原の散在地ならびに山林・浦・寺庵を含むものであった。

六角氏滅亡後は織田信長に仕えた。

織田信長は軍事上からこの地を重視して、配下の佐久間信盛を置いた。そして自分も天正3年(1575)3月3日ここに泊まり、翌日入京しその十月十二日も泊まった。(信長公記)

豊臣秀吉が近江八幡に新しい城下町をつくると、ここは一層大切な城となった。

    

永原茶屋御殿

野洲市永原。

永原御殿とも称され、現在も堀、石垣、礎石などの遺構が残されている。

水口御殿、伊庭御殿とともに、徳川将軍家の休泊所であった。

織豊時代よりたびたび陣所に利用された。家康が最初に泊まったのは、関ケ原戦(1600)の翌年十月十二日で、それから六回、二代秀忠が二回、三代家光が寛永11年(1634)に泊まったのが、将軍最後の宿泊となった。

家光が泊まったときには、御殿の整備と新築が幕府の直営で行われ大工の延べ人数四万四千百八十八人という大工事であった。

規模は、周囲二町四方に堀土塀がまわされ、本丸・二の丸・三の丸からなる城郭構えであった。

のち、寛文元(1661)に解修されたが、将軍の上洛が行われなくなり、貞享2年(1685)ころ堀・石垣・土手を残して解体されるに及んだ。

芦浦観音寺「草津市」の書院(国重要文化財)は、このときに移転された建物の一つである。

永原千句

連歌は中世の代表的文芸であった。中世で最も盛行した文芸でもある。

連歌は十人前後の地下人の連衆(連中)が一座して合作や競詠する唱和の文芸である。

初期の連歌は笑い、洒落、謎解きといった機知を基調とした滑稽、諧謔など人間味豊かなものであったが、後に、円滑に運営するために、式目・法度という規約ができ、指導者の宗匠や一座の準備、世話をする頭役(頭人)を中心として一座で張行(興行)する形式に整備された。

このように連歌が発達すると北野天満宮を連歌の守護神とするようになった。

源頼朝が建久元年(1190)守山で連歌した伝承が当地域の初見である。

有名な連歌師宗祇、宋長、肖柏などが湖東・湖南の地を訪れ、近江守護六角氏被官の国人衆と連歌を興行している。

永原千句の成立は長亨から明応の間(1487〜1500)といわれているが、交通の要衝で、かつ有力国人衆の永原氏らがいたこの永原が連歌興行の中心となった。

永原天神では、先の頼朝が連歌を奉納したのが始まりと伝え、今川義元も永禄元年(1558)千句回を興行したと伝えるが、その盛行であったことが伺える。

当社は永原千句と呼ばれる連歌興行の場でもあった。興行の中心は永原氏で、興行の日は菅原道真の命日25日とも記されている。

明応5年(1496)に催されたいわゆる永原千句では、永原重泰が興行主になって宗祇・兼載・紹載・紹永・などの連歌師を招いている。

永原氏が永禄11年(1568)以降没落すると、永原連歌は同氏家臣であった北村氏へ継承された。

連歌興行は明治中期まで行なわれた。今も境内の左右に三十六歌仙の画像を掲げた連歌殿がある。

北村季吟句碑(きたむらきぎん)

野洲町北

北村季吟は、寛永元年(1624)に生まれ、近江国野州郡北村(野州市北)を故郷とし、俳人、歌人、国文学者として活躍した。

松尾芭蕉らの俳人を育て、「源氏物語湖月抄」をはじめ数多くの古典文学の注釈書を著している。晩年には幕府歌学方をつとめるなど、その業績は郷土の人々によって顕彰されてきました。

「永原千句」は永原氏没後は家臣の北村氏が継承、北村季吟の祖父宗龍(北中の隣の北村)もここの連歌宗匠であった。

さらに江戸中期には、北村氏の姻戚木村家に受け継がれ、明治10年(1877)まで当神社で永原連歌が興行されていた。

句碑は自治会館前に、また、晩年の姿をうつした等身大の銅像は、野州町立中央公民館前にある。

 『 祇王井に とけてや民も やすごおり 』

 我が野洲の平安は、祇王の郷土愛の賜物であるとして、その功績をたたえている。

    

 

参考資料:【野洲町史通史編】【歴史と文化 近江】【滋賀県神社誌】【野洲市教育委員会】【野洲町物語】【仏像集成】より抜粋

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