JAPAN GEOGRAPHIC

島根県大田市 石見大森銀山

Iwami Omori ginzan, Ohda, Shimane

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 General
 
世界遺産にふさわしい世界的な産業遺産
 Nature
 
周囲を山に囲まれ自然豊か。他の鉱山町とは全く異なる
 Water   清冽な小川
 Flower
 
 
 Culture
 
地域全体で伝統を尊重し、現代に活かし未来につなぐ
 Facility
 
 Food
 


Mar.31,2019 瀧山幸伸 source movie

大森から銀山坑道へ

      

    

    

                                                                                     

   

  

    

     

  

                            

    

   

   

大森の街並

 

    

                                                                                                                                                                                        

                                                                            


July 8,,2018 田中康平

島根県大田市大森町

重要伝統的建造物群保存地区 大田市大森銀山

選定年月日:1987.12.05(昭和62.12.05) 追加年月日:2007.12.04(平成19.12.04)

国指定文化財等データベース解説文:島根県の中央にある大田市の山間部に位置し、地区は谷あいを流れる銀山川に沿って細長く形勢されている。石見銀山を背景とした町並みである。武家屋敷と町家が混在し、また江戸時代以降時代ごとに建築年代にばらつきがある特徴を持つ。

   

代官所跡

       

中村ブレイス

  

岡家 とその近傍

    

勝源寺 と奉行代官墓所

            

街並み

       

青山家

   

街並み

       

河島家

     

街並み

        

龍源寺間歩と往復の道沿い

                

石見銀山世界遺産センター

  

浜田港

 


Aug.2010 撮影:瀧山幸伸 source movie

  

                       

旧熊谷家住宅

Kyu Kumagaike residence

羅漢寺

Rakanji

  

               

                               

旧河島家

Kyu Kawashimake

  

                                                                                        


Oct.2008 撮影:高橋久美子

                                                     


Dec.2003 撮影/文:瀧山幸伸 source movie

 

資料:国土地理院 、大田市

 

世界的な影響力

 石見銀山は大永6年(1526)に博多の豪商神谷寿禎によって発見された。その後約400年にわたって採掘されてきた世界有数の鉱山で、16世紀からの約100年は大量の銀が採掘され、大内氏、尼子氏、毛利氏といった戦国大名や秀吉、江戸幕府の貴重な財源として使われた。

 国際的視点で見ると、当時世界の産出銀の約1/3を占めていたといわれる日本銀のほとんどは、石見銀が占めていた。石見銀山のあった佐摩村から「ソーマ銀」と呼ばれ、アジア諸国、ポルトガル、スペインなどのヨーロッパ諸国との貿易を支え、世界経済と歴史を左右するほどの影響力を持っていた。

 フランシスコ・ザビエルは、 「カスチリア人はこの島々をプラタレアス(銀)諸島と呼んでいる。」「このプラタレアス(銀)諸島の外に、銀のある島は発見されていない。」(『1552年4月8日付けゴア発パレード/シマン・ロドリーゲス宛書翰』) と書いている。

 また、「インドのカンパヤの薬品やマラバル・南洋諸島の香料を積んでシナに向かう船は(中略)のちに日本銀を積むのが主要な目的となったため、ナウ・ダス・プラタス(銀船)と呼ばれるにいたった」(『フレデリチ航海記』)という記録もそれを物語っている。

永禄11年(1568)「日本図(部分)」(資料:大田市)

 ポルトガル人の地図製作者フェルナン・ヴァス・ドラードが、インドのゴアで作った。石見の位置にポルトガル語で「R・AS MINAS DA PRATA(銀鉱山王国)」と記載されている。

 

御朱印船(資料:国立歴史民俗博物館)

 主要輸出品は銀だった。

 

良好に保存された産業遺産

 石見銀山は、銀の産出が減ったあと、銅山として稼働し、大正12年(1922)閉山となった。16世紀〜20世紀初頭にかけての数々の遺跡がきわめて良い状態で保存されており、日本を代表する鉱山遺跡として国指定史跡となった。

銀山の繁栄で栄えた大森の街並は、江戸時代末の面影をそのまま伝えており、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。

 中世から近世の鉱山の全容を良好に残している産業遺産として、ユネスコ世界遺産の暫定リストに登録されており、今後正式に世界遺産となる予定だ。吉野熊野のように、正式選定後には混雑と雰囲気の劣化が予想されるので、訪問するならなるべく早いほうが良い。街行く訪問者の服装が街並景観を左右し、その話し声が街の環境を左右するのはやむをえないことだから。

 寅さんの映画でも有名な温泉津は、この大森銀山に物資を運び込む重要港湾であり、今でも古い街並と人情が残っている。

 住民はこのような文化資産を強く認識し、遺跡の清掃、学習、地元運営による資科館など、歴史的遺産の保護、活用に努めてきた。

町並み保存条例では、「歴史的な街並の景観は市民共有の財産」という理念から、古い建物は昔の姿に戻すようにし、新しい建物は街並と調和の取れた外観にしている。市も様々な補助制度を設けており、住民と行政が一体となって、大森銀山の街並を保存改善している。

街並を保つことは建築のみでは不可能で、インテリア、エクステリア、看板、張り紙、自動販売機などの一つ一つにこの地区で暮らす人々の細やかな心使いが凝縮している。電柱の撤去と路面の復元は課題として残っていると思われるが。

 無味乾燥で荒れ果てた鉱山町の印象を抱くかもしれないが、周囲の山林、鳥の声、水野音まで含め、洗練された和のテイストに驚かされる。

産業遺産の里はベンチャーの里

 このような環境と歴史的背景に影響を受けているのだろう、「シルバーバレー」とも呼ばれ、マスコミにも取り上げられるベンチャーが大森銀山発で取り上げられている。

例えば群言堂。和を基調にした衣食住のライフスタイルを提案している。古い屋敷を利用し、落ち着いた雰囲気の店内には、木綿感覚の衣料や雑貨が揃う。「群言堂ブランド」を確立し、その素朴さが都会の知的女性に人気だ。

 

群言堂と周辺

 古いものが新鮮に感じる。ここでは古いものがそのまま衣食住のコアとして活きている。

    

大森入口の石灯籠

 

代官所跡

 慶長5年(1600)関が原の合戦後、家康はこの地四万八千石を天領とし、大久保長安を奉行に任命し、直轄運営した。江戸中期からは代官を置いた。表門及び長屋門は文化13年(1815)の建築。

     

岡家と周辺

 大森代官所に勤めていた銀山附地役人鹿野家の遺宅。代々世襲し、銀山の役人として銀山や農村の支配を行った。坂奥の寺に続く曲線の景観が美しい。

  

    

石見銀山御料郷宿 田儀屋遺宅 青山家とその周辺

 郷宿とは公事宿のことで、代官所と村方との間における諸事務の取次ぎを行なった。

    

旅館広田屋と周辺

 古い建物を活かした小さな旅館

  

旧大森区裁判所と周辺

 当時の裁判所法廷を再現している。現在は町並み交流センターになっている。

   

観世音寺、岩盤の祠と周辺

 この通りを行き交う人々を数百年見守ってきた。

    

代官所地役人遺宅 旧川島家

 組頭まで昇進した上級武家の構えを伝えている。

     

柳原家同心遺宅と周辺

 時代劇のように多くの人情ドラマがあったことだろう。

      

    

竹下ブリキ店

 銀山関係のカンテラ、油差し、バケツやタライ、ガス灯などを作っていた技術を活かし、手作りカンテラやブリキのおもちゃ、風鈴などを売っている。カンテラはおしゃれなインテリアとして人気がある。 

 

軒先の演出

 何気ない飾りが街並にアクセントを与え、心温まる。

      

金岡屋と周辺

 コーナーの自動販売機を覆う格子は芸術作品。全国の街並景観と自動販売機が共存する良い見本だ。携帯電話カバーと同様の発想で、「銀山ブランド」として売り出してほしい。

       

五百羅漢

 鉱山で働いていた人々の思い、その生い立ち、日々の生活、将来への夢はどのようであったろうか。物言わぬ五百羅漢が饒舌に語りかけてくるようだ。世界に影響を与えたこの地の偉大さに神秘的な力を感じる。この地で働いていた人たちのおかげで今日の我々が生かされていると思うと感慨もひときわ。

     

観世音寺から俯瞰する街並

 石州瓦の赤屋根の街並。特に朝夕は美しい。このような「いらか」の風景は遠い記憶になってしまった。

    

     

龍源寺間歩(まぶ)

 まぶとは坑道のこと。

      

高橋家

 間歩付近にある。町年寄、山組頭と、町方、山方の役人を勤めた。鉱山経営と同時に酒造業も営む。

    

取材記録

2003年12月の休みを利用した調査旅行、オフシーズンの温泉津に夕方到着。寺の裏山でカラスが輪を描いて歓迎してくれる。寅さんの映画以上に素晴らしい、人情の湯町だ。元湯に入浴して寿命を数年伸ばす。飲んでもおいしい。夕食は仁摩港に近い「かめや」で深海魚「ばばあ」の肝に舌鼓。漁師さんと仲良くなり、いろいろご馳走になる。神話から抜け出したような風貌のIターンおばさん(店のご主人の同級生)も加わり、地元情報で盛り上がる。店の駐車場で一人寂しく車中泊。

 翌朝早く銀山へ。商店街はひっそりとしていたが、野鳥が合唱して歓迎してくれる。世界遺産に登録されないほうがありがたいな、と思ったのは私だけだろうか。


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