Japan Geographic

看板考 柚原君子


 「明治水」 

 

所在地:岐阜県各務原市新加納駅近くの旧中山道沿い

いろりを切って炭火をたいて五徳をおいてその上に大鍋を置いて煮炊きをする。火との距離の調整ができるように、天井からは自在鉤が吊されています。自在鉤には木の魚がぶら下がっています。おまじないと験担ぎです。魚はまぶたがないから眠らない、居眠りして火を絶やさないという戒め。魚が水に住むことから火事除けのおまじないでもあります。

煮炊きの煙は家屋の天井に抜けて行きますが、時には居間全体が煙ります。そんないろり端で暮らした昔の人々には眼病が多かったそうです。

看板は中山道の加納宿(美濃13宿の一つ。現在の岐阜駅の辺り)にあったもの。唐破風の屋根付き。看板の種類としては庇の上に置く屋根看板でしょうか。

「明治水」と大きく書いてあります。掲げられている家屋は店じまいをしていますので、どのような職種であったかわからず、はじめはコカコーラのようの清涼飲料水かと想像しましたが、その場で携帯のネットで調べたら明治水とは「目薬」とのこと。江戸時代の目薬はまぶたの縁に塗る軟膏か、薬効成分の入った水で目を洗うかのどちらで、液体としての目薬は明治以降の事ということも解りました。

実業家の岸田吟香(キシダギンコウ)氏がアメリカ人医師のヘボンより硫酸亜鉛を主成分とする液体目薬の処方を教わり、「精錡水(セイキスイ)という名前で販売したのが、日本初の液体目薬だそうです。当該看板も明治水とあるので液体目薬なのでしょうね。

看板を読むと、登録商標の右下、よく見ないと解りませんが、ほそばた印 くすりと読めるようです。加納宿にはこの先に細畑の一里塚がありますから、ほそばた印とは近辺の土地の名前をとったことになりますから、地域の薬剤師の資格がある人が、目を洗い流す液体を作って、ゴク狭い範囲で販売された目薬だったのでしょうか。明治水は時代の「明治」ではなく、目を明るく治す薬、という意味であったかもしれません。

看板は明治の頃の物としたら看板歴100年。もしかして江戸時代の頃のものであれば看板歴は130年くらいになるでしょうか。そうだとしたら中山道は皇女和宮の行列や参勤交代など、この看板はいろいろな事を見聞きしたのでしょうね。

……とはいっても不確かな情報や想像ばかりですっきりせず、東京に帰ってきて、ちょっと意地になって「明治水」のことを、ネットサーフィンしてみたら半日掛かりましたがやっと真実が解りました。

明治水の写真はすぐにありました。上下がゴムになっていて目にさしやすい(洗いやすい)形状のガラス瓶で提供されていたようです(今でもこの頃のガラス瓶を収集するマニアの方がいらっしゃるようで、海岸に行って拾った、あるいは拾うために海岸を散策しているという方もいらっしゃるほどです)。

ネットで見つけた写真には箱も付いていますが、字が不鮮明で発売元がわかりません。素敵なビンが記録として残されているくらいですから、きっとどこかに販売元があると想像してさらにネットを2時間。いろいろな単語を入れて検索角度を少しずつ変えていって、ついに見つけました。

リサーチ・ナビというHP。下に国立国会図書館と書かれています。

『明治から昭和戦前期までの新聞広告を、5分野に分け、年月順に収録したもの。本巻は、明治期の医薬・化粧品の新聞広告を収録』、という箇所の京橋区の下の日本橋区という分類の中に出ていたのです。

「明治水 発売元 円城半右衞門」。

知りたかった発売元が堂々と書いてありました。その他には宝丹 本舗・守田治兵衛/精奇水(目薬) 岸田吟香/瘡毒、脚気療治所 外科板倉一龍/晴光水(目薬) 問屋・金沢六兵衛/黒薬(ぬり薬) 本舗・守田治兵衛/小野の防臭散 製造販売・小野又七/英明膏(ぬり薬)他 本舗・松本伊兵衛/神薬他 資生堂〔ほか〕 などが記載されていて、やはり目薬はいろいろな名前でいろいろなところから発売されていたようです。

明治の頃の新聞広告の箇所に出ていた「明治水」ですから、看板歴は100年くらいと判明。明るく治る水という意味でなかったことも、和宮様行列や殿様の参勤交代を見ていない事も確定してすっきりしました。

それにしても屋根付きの立派な看板。ああ、もし倉庫を借りられる財力が私にあったら、ぜひ譲りうけて手元に置きたい看板!と久々に思いました。

 


 All rights reserved 無断転用禁止 登録ユーザ募集中