栃木県小山市 小山城跡
Oyamajo ato,Oyama City,Tochigi
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June 4,2025 瀧山幸伸 source movie
中久喜城跡
中久喜城(なかくきじょう)は、栃木県小山市中久喜(下野国寒川郡)にあった平安時代末期から戦国時代にかけての日本の城。別名:亀城、栃井城、中岫城、岩壺城。城跡は祇園城(小山城)跡・鷲城跡とともに「小山氏城跡(鷲城跡・祇園城跡・中久喜城跡)」として、国の史跡に指定されている。
歴史・沿革
中久喜城は、1155年(久寿2年)に小山政光が築いたものとされる。小山氏は武蔵国に本領を有し藤原秀郷の後裔と称した太田氏の出自で、政光がはじめて下野国小山に移住して小山氏を名乗った。
中久喜城は江川と西仁連川に挟まれた舌状台地の南端に位置している。両河川は中久喜城の南で合流しており、西仁連川がもたらす氾濫原が南方に広がる要害の地であった。
小山氏にとっては下総国結城方面への備えの城であり、鎌倉時代には下野国守護を務めた小山氏の拠点のひとつとなった。しかし室町時代に入ると下野守護の座は高氏や下野宇都宮氏、関東管領上杉氏に移り、こうした流れに抵抗した小山義政は1380年(康暦2年)から1383年(永徳2年)にかけて小山で反乱を起こし、この時に小山方の拠点として文献資料に記された鷲城、岩壺城、新々城、祇園城、宿城の5城のうち、岩壺城に相当するのが中久喜城と考えられている。
小山氏は義政の乱で鎌倉府の追討を受けて断絶するが、同族の結城家から養子を迎えることで再興している。そののち安土桃山時代の1590年(天正18年)に小山高朝の子で、結城政勝の養子となった結城城主結城晴朝がこの城に隠居したという記録がある。
また、中久喜城がある舌状台地を古くは「北山」と称したが、天正年間に小山氏と同族の結城氏の和解の際、「中久喜」と改めたという伝承が残る(付近には和談坂と呼ばれる坂があり、この和解にちなむものであるという)。
以上のように、中久喜城は祇園城、鷲城と並んで小山氏の主要な居城であったと考えられている。
1601年(慶長6年)に結城氏が越前国へ転封となったとともに、廃城になったと考えられている。
構造
台地先端の通称「城の内」に、長辺120メートル、短辺100メートル前後の主郭を構え土塁をめぐらし、さらにその北西の台地先端部分にも土塁を構えている。その東に万年寺跡があり、「万年寺曲輪」と呼称される。
現状
現在の中久喜城は、水戸線によって分断されてしまっている。城内に踏み切りがあるため分断された城を行き来することはできるが、中久喜城の位置がわかりづらくなってしまっている。
1991年(平成3年)3月12日、鷲城跡と祇園城跡が国の史跡に指定された(指定名称は「小山氏城跡 鷲城跡
祇園城跡」)。その時点では祇園城跡の南久保曲輪の土塁の一部、また、鷲城跡の本丸の一部が未指定であった。2001年(平成13年)8月7日、両城跡の未指定部分を追加するとともに、あらたに中久喜城跡を追加指定して、史跡指定名称を「小山氏城跡
鷲城跡 祇園城跡 中久喜城跡」に改めた。
(wikipedia)
小山氏は鎌倉期以来の下野守護であり、中世における下野最大の豪族である。〓(*1)園城跡、鷲城跡はこの小山氏の主要な居城跡として、また康暦2年(1380)から永徳2年(1383)にかけての小山義政の乱における合戦の場として、平成3年に史跡指定がなされている。
中久喜城は江川の右岸台地上にあり、小山氏の結城方面への備えの城である。小山義政の乱において小山方の拠点となったとして史料にみえる鷲城、岩壺城、新々城、〓(*1)園城、宿城の5つの城のうち、岩壺城に該当すると考えられる。岩壺の地名そのものは残らないが本丸にその上で飛べば響くという岩もある。城跡はJR水戸線で分断されてはいるが、台地先端、城の内とよばれる地におよそ100メートル×120メートルの主郭を構え土塁をめぐらし、さらにその北方西城にも台地先端に土塁を構えている。その東に万年寺の跡があり、万年寺くるわとよばれている。〓(*1)園城にも同じ名の万年寺があり、小山高朝の菩提寺である。万年寺はある時期に中久喜城から〓(*1)園城に移動したと考えられる。
なお、「結城御代記」(嘉永5年(1852)の成立)によれば、天正18年(1590)、小山高朝の子で、結城政勝の養子となった晴朝が「中茎栃井城」に移ったと記されている。
このように中久喜城は小山氏の城として重要な城であり、〓(*1)園城とも鷲城とも密接な関連をもつ城である。
また平成3年に指定された2つの城のうち〓(*1)園城跡の上段藪の東、南久保ぐるわの土塁の一部、また、鷲城跡の本丸の一部が未指定であった。
よって〓(*1)園城跡、鷲城跡の一部を追加指定するとともに、小山氏城跡に中久喜城跡を追加指定して、その保存を図るとともに、史跡指定名称を変更する。
(文化遺産オンライン)
北側
東側
南側から本丸へ
本丸
西側から
東南側国道から
Mar.2015 瀧山幸伸 source movie