山口県防府市 毛利家
Mourike,Hofu City,Yamaguchi
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防府市多々良1-15-1 旧毛利家本邸 本館 重文 近代/住居 大正 大正5(1916) 木造、建築面積1002.80㎡、一部2階建、入母屋造及び寄棟造、西面唐破風造車寄・北面渡廊下附属、桟瓦葺・銅板葺及び鉄板葺湯沸場1棟、雑品物置上屋1棟、小使溜り1棟、小使溜り1棟、作事納屋1棟、供侍1棟、棟札1枚、建築関係資料176点 20111129
防府市多々良1-15-1 旧毛利家本邸 女中部屋 重文 近代/住居 大正 大正5(1916) 木造、建築面積198.45㎡、寄棟造、南面渡廊下附属、桟瓦葺 20111129
防府市多々良1-15-1 旧毛利家本邸 台所 重文 近代/住居 大正 大正5(1916) 木造、建築面積107.79㎡、一部地下1階、入母屋造、南面渡廊下・北面洗濯所附属、桟瓦葺 20111129
防府市多々良1-15-1 旧毛利家本邸 洗濯所 重文 近代/住居 大正 大正5(1916) 木造、建築面積71.35㎡、切妻造、南面及び西面庇付、桟瓦葺 20111129
防府市多々良1-15-1 旧毛利家本邸 奥土蔵 重文 近代/住居 大正 大正5(1916) 土蔵造、建築面積58.21㎡、3階建、切妻造、桟瓦葺 20111129
防府市多々良1-15-1 旧毛利家本邸 台所付倉庫 重文 近代/住居 大正 大正5(1916) 鉄筋コンクリート造、建築面積56.95㎡、2階建、地下1階、切妻造、北面地下冷蔵庫附属、桟瓦葺棟札1枚 20111129
防府市多々良1-15-1 旧毛利家本邸 用達所倉庫 重文 近代/住居 大正 大正5(1916) 鉄筋コンクリート造、建築面積128.07㎡、2階建、地下1階、切妻造、桟瓦葺、南面下屋附属、鉄板葺棟札1枚 20111129
防府市多々良1-15-1 旧毛利家本邸 二階建物置 重文 近代/住居 大正 大正5(1916) 木造、建築面積77.62㎡、2階建、切妻造、桟瓦葺、西面下屋附属、鉄板葺 20111129
防府市多々良1-15-1 旧毛利家本邸 画像堂 重文 近代/住居 大正 大正7(1918) 木造、建築面積139.71㎡、宝形造、4面庇付、向拝1間、桟瓦葺及び鉄板葺 20111129
防府市多々良1-15-1 旧毛利家本邸 石橋 重文 近代/住居 大正 大正5(1916) 鉄筋コンクリート造単アーチ橋、橋長6.4m、石造高欄付 20111129
防府市多々良1-15-1 旧毛利家本邸 門番所 重文 近代/住居 大正 大正5(1916) 木造、建築面積14.61㎡、入母屋造、桟瓦葺 20111129
防府市多々良1-15-1 旧毛利家本邸 本門 重文 近代/住居 大正 大正5(1916) 鉄筋コンクリート造、一間薬医門、左右脇門及び袖塀附属 20111129
Nov.26,2023 瀧山幸伸
庭園内
March 21, 2022 野崎順次 source movie
山口県防府市多々良1-15-1
旧毛利家本邸
旧毛利家本邸は、旧長州藩主の毛利家が大正5年に建設したもので、防府平野に張り出した多々良山の南麓に所在し、南側に庭園、北側に本館ほか複数の棟からなる住宅を配置する。
本館は、客間や居間、詰所など機能ごとに分けた各棟を、中庭を囲んでロの字に並べた構成になる。このうち客間は、檜柾目の木材や飾金具、金粉を用いた壁紙など贅を尽くした意匠で仕上げる。本館の北側には家政空間をになう各建物が機能的に配置される。
旧毛利家本邸は、旧長州藩主によって近代に建設された、全体に伝統的な和風意匠を用いた住宅建築である。大規模で複雑な構成の建築を、上質な材料や高度な木造技術による贅沢な意匠でまとめるとともに、コンクリート造や鉄骨造、機能的な配置計画など近代的な建築手法を取り入れており、近代における和風住宅の精華を示すものとして重要である。
(文化遺産オンラインより)
以下、国重文建造物の説明は化遺産オンラインより引用した。
現地説明板
国重文 本門 大正/1916
鉄筋コンクリート造、一間薬医門、左右脇門及び袖塀附属
国重文 門番所 大正/1916
木造、建築面積14.61㎡、入母屋造、桟瓦葺
邸宅までの道をたどる。両側は路傍庭園と称される。途中の石橋は国重文である。
国名勝 毛利氏庭園 明治時代 渓流式庭園
中雀門から内庭に入ると、本邸の東南中央に、満々たる水をたたえた面積7,934m2の瓢箪池がある。その北には、自然林の小丘を活かして山林的風致を造り出してある。林丘の周囲には遣水としての小渓谷をめぐらせ、一つは西から池に注ぐ飛瀑となり、一つは東をめぐってせせらぎの音もゆかしく池にそそいでいる。池周辺の広庭は、自然を生かしながらも、石組・植栽・芝生・回遊路・石橋・東屋などを施して、池と林丘を調和させ、重量感のある、しかも幽玄の気分をあらわす遊歩地を構成している。邸宅の内外には、各部屋に調和するよう大小幾多の平庭が配置されている。とりわけ、客殿(大広間)・書院に南面した庭が最も豪華である。地割・植栽・岩組等が雄大で、しかも精致を極め、変化に富んだ路地がこれを縫い、明るく華やいだ貴族的な庭相を示している。
(公益財団法人毛利報公会ウェブサイトより)
この本邸は広大な山地を利用し、約一万六千四百坪を有し、豪壮な明治期流行の和洋折衷式の本館を設け、室内の至るところに杉巨木の銘木を用いてある。そして前庭に砂地の広場をとり、前方に渓谷式流れを作り、これに巨石を多数用いて渓谷風景式の流れや滝を設け、下部に池庭を作ってある.
したがって毛利邸庭圏は、金に糸目をつけないといった豪華な石組本位の渓谷山水としての塵園であり、明治時代において流行した自然式の作庭であるから、江戸時代にほとんど見られなかった渓谷風景としての流水本位の庭園が出現したのであり、作庭家はこの時代の庭師であり、職人的作品であるから、豪華であり、一応自然主義的な技術には傑出しているが、それかといって芸術的に傑出した作品とはいいがたい。しかしそれが明治時代思潮を反映したものとして、明治庭園史を語る資料でもある.
(重森三玲「日本庭園歴覧辞典、昭和49年」より)
本邸の2階から庭園を見る。
国重文 旧毛利家本邸 本館
大正/1916
木造、建築面積1002.80㎡、一部2階建、入母屋造及び寄棟造、西面唐破風造車寄・北面渡廊下附属、桟瓦葺・銅板葺及び鉄板葺
本邸は江戸時代の城郭建築などにみられる書院造の様式を継承した近代建築である。本館主殿に接した正面玄関の車寄は、あたかも大名屋敷の式台もかくやと思わせる重厚な作りであり、両側面の羽目板には木目も美しいケヤキが用いられている。
(公益財団法人毛利報公会ウェブサイトより)
国重文 奥土蔵 大正/1916
土蔵造、建築面積58.21㎡、3階建、切妻造、桟瓦葺
本邸内部1階
2階へ
1階に戻って
帰途、近くにちょっとした枯山水庭園があった。
movie preview(YouTube)
旧毛利家本邸
旧毛利家本邸 一二棟
本館、女中部屋、台所、洗濯所、奥土蔵、台所付倉庫、用達所倉庫、二階建物置、画像堂、 石橋、門番所、本門
旧毛利家本邸は、防府平野に張出した多々良山の南麓に所在し、瀬戸内海を望む緩やかな南下がりの高台に敷地を構える。旧長州藩主の毛利宗家が家憲に定めた常住の地として建設したもので、大正元年に着工し、同五年六月に竣工した。設計は原竹三郎により、施工は本邸建設のために設立された臨時建築事務所が監督し、工事種別に各施工業者に発注して行われた。
原竹三郎は、住宅設計も手掛けた海軍技師の北澤虎造(一八五四〜一九一四)のもとで技手を務めた人物で、明治四十年、北澤の推挙により毛利家本邸の臨時建築事務所の技師として赴任し、その後は毛利家属の建築技師として主に山口県内で活躍した。原の設計、監督になる建物としては、毛利家ゆかりの建物のほか、第十八代内閣総理大臣寺内正毅の子、寿一が山口市宮野に建設した私文庫、旧寺内文庫(大正十年)がある。
山麓の南に開けた谷筋を埋め立てて二万五千坪に及ぶ広大な敷地を造成し、南半に庭園、北半に本館ほか主要な建物群を配置する。東北西の三方を山地で限り、平地に面する南面は長大な石垣と外堀(長池)を築いて画する。南面の西端に本門を開き、敷地西辺を緩やかに南流する梛川(なぎがわ)に沿って本館までの導入路を設け、敷地の南東北の境界に周回路をめぐらす。敷地内の本門脇に門番所、導入路を二手に分けた梛川上に石橋、本館前面の前庭に面して供待を建て、敷地東側の山中に祖霊社と画像堂を建てる。
旧毛利家本邸の土地と建物は、昭和四十一年八月に毛利家から防府毛利報公会に寄贈された(土地の一部と祖霊社は毛利家の所有)。旧毛利家本邸は、平成八年三月二十九日付で敷地全体が国指定名勝「毛利氏庭園」となっている。
主たる居住及び接客の場である本館を庭園に南面して建て、貴重品を収める奥土蔵を本館の東側、家政を担う台所と台所付倉庫、女中部屋の三棟を本館の北側に接続する。女中部屋の周辺には洗濯所と湯沸場を独立して建てる。住宅部分の北半は管理部門である用達所にあて、東から西に用達所本屋と用達所倉庫、二階建物置の三棟を建て、雑品物置上屋、小使溜り、作事納屋の三棟を北側の周回路に沿って建てる。各建物の基礎はコンクリート造とし、奥土蔵、台所付倉庫、用達所倉庫の三棟については鉄筋コンクリート造とする。
本館は、客間や居間、詰所などの機能ごとに分けた各棟を連ねて中庭を囲んだ構成になり、建築面積は一〇〇二・八〇平方メートルに及ぶ。前庭に玄関を西面して建て、庭園に面する南面から東面にかけて、客間と三棟の居間(公居間、奥居間、子居間)を雁行して並べる。北面には詰所と食堂を東西に並べ、詰所の西面を玄関、食堂の東面を奥居間と接続する。中庭に沿って各棟を周回する廊下を設けるほか、中央部を南北に貫く渡廊下を設け、客間から食堂と詰所の間を経て、本館の北側に建つ台所と女中部屋に接続する。台所と女中部屋は南面中央からそれぞれ渡廊下を伸ばし、それぞれ本館の詰所と食堂に接続する。居室と家政の動線を明確に分け、居室部分を畳廊下、家政部分を板廊下とする。
客間を二階建とするほかは全て平屋建で、玄関と客間、居間を入母屋造の桟瓦葺、食堂と詰所を寄棟造の桟瓦葺とし、玄関に唐破風造の車寄を突出する。客間は、庭園に面する各階の南面に銅板葺の庇を付した特徴的な外観をもち、一階南面に縁を廻して高欄と階を付し、柱上に舟肘木を用いる。客間の東面に雁行に連なる三棟の居間の外周には鉄板葺の庇を廻し、公居間の南面中央に入母屋破風を付ける。用材は主に、軸部に檜、小屋組に松を用いる。屋根は基本的にトラス構造とし、基礎廻りは徳山産の花崗岩で化粧する。
玄関は、車寄からつながる玄関広間のほかに椅子坐式の二部屋続きの応接室を設ける。車寄の軸部や天井板を欅とするほか、廊下の床に一間幅の欅の一枚板を用いるなど、見掛りに欅の良材を集中して用いる。応接室は、南面に床と床脇を配して床脇に地袋と棚を備え、天井を吹寄せの格天井とし、部屋境には松に鷹の透彫欄間を飾る。
客間は、各階に広間、次ノ間、三ノ間の三部屋からなる座敷を配し、南側に幅一間の畳縁を通す。玄関と接続する西面に表階段、公居間と接続する北面東端に裏階段を、それぞれ突出して設ける。座敷は、内法長押と蟻壁長押を廻し、部屋境には筬欄間を飾る。広間東面の南に床を配し、北の床脇に天袋と違棚を備え、南面に付書院を設ける。二階の広間は、床を二畳敷、付書院を三畳敷として上段風に仕上げ、付書院の西面に花頭窓を開くなどの特徴をもつつくりとする。壁は、一階の座敷と二階の広間を張付壁、二階の次ノ間、三ノ間を砂壁とし、襖と一階の座敷の小壁に金砂子蒔で雲海を描く。天井は、一階の広間を折上小組格天井、一階の次ノ間と三ノ間を小組格天井、二階の広間を格天井、二階の次ノ間と三ノ間を棹縁天井とし、それぞれ意匠を異にする和風シャンデリアを備え、壁の仕上げや錺金具とともに各部屋に明確な序列をつくる。
表階段は、天井を格天井とし、壁上部に明取りの花頭窓を開き、二階廊下境の欄間には三保松原の透彫彫刻をあしらう。階段は檜の角材を用いて各段上角を銅金物打ちとし、擬宝珠高欄の手摺を付けるなど、壮大な座敷にふさわしい重厚な意匠になる。
公居間は、客間と接続する西から公居間と次ノ間、書斎と納戸、寝室の五部屋を並べる。公居間と書斎は、内法長押と蟻壁長押を廻し、格天井とするなど客間の広間に準じた格式をもつ。公居間と次ノ間は二部屋続きの座敷で、南側に縁を通し、部屋境に水草(毛利家の家紋である沢瀉(おもだか))に鷺の透彫欄間を飾る。公居間は北面に床と床脇、書斎は東面に床と床脇を配し、南面に平書院を設ける。
奥居間は、南側に奥居間と次ノ間、北側に写真室と納戸の二列二部屋を配し、南面から東面に板縁を廻す。奥居間は、内法長押と蟻壁長押を廻し、次ノ間との部屋境に板欄間を飾る。天井は格天井を張るが、床脇を省略するなど床構えは公居間と比べて簡素化される。写真室は、先祖の遺影を祀るための部屋で、壁に内法長押と蟻壁長押を廻し、天井を折上格天井とする。
詰所は、玄関と接続する西端に内玄関を北面して開き、内玄関の東側に表詰所、次ノ間、表内客室の三部屋を並べ、その奥には食堂の西端に位置する次ノ間、奥内客室の二部屋が矩折れに連なる。表内客室と奥内客室は、座敷飾りを床と平書院とし、天井を棹縁天井とするなど全体に簡素に仕上げる。食堂は、中庭に面した南側を部屋にあて、奥内客室の東側に女中詰所、次ノ間、食事ノ間の三部屋を並べる。各部屋の北側には廊下を通し、東北隅に付属屋を出して浴室や洗面所などを設ける。食事ノ間は、東面に幅一間半の大床を備え、天井の中央を格天井、周囲を鏡天井とするなど、要所を特色ある意匠で仕上げる。
女中部屋は、木造平屋建、建築面積一九八・四五平方メートル、寄棟造、桟瓦葺である。棟をずらして接続した東西二棟からなる構成で、それぞれ南側に廊下を通し、北側に三部屋を配する。北面中央に角屋で内玄関と便所を設け、東北隅に付属屋を出して風呂と台所を設ける。
台所は、建築面積一○七・七九平方メートル、木造平屋建、一部地下一階、入母屋造、桟瓦葺で、大棟の中央に煙出しと採光を兼ねた越屋根を上げる。北側に、木造平屋建、切妻造、桟瓦葺の洗場が別棟で付属する。
洗濯所は、建築面積七一・三五平方メートル、木造平屋建、切妻造、桟瓦葺で、南面と西面に幅一間の庇を付け、南面を吹放す。四面に硝子窓を開き、外壁や内部を白ペンキ塗とするなど明るく開放的なつくりとする。
奥土蔵は、子居間の東北隅に接続する。土蔵造三階建、建築面積五八・二一平方メートル、切妻造、桟瓦葺で、外壁を腰壁石張の漆喰仕上げとする。
台所付倉庫は台所の西隣に建ち、東面に出入口を開く。建築面積五六・九五平方メートル、鉄筋コンクリート造二階建、地下一階、切妻造桟瓦葺で、小屋組を鉄骨造とし、外壁を漆喰塗仕上げの腰壁石張とする。北側の地下に、鉄筋コンクリート造、建築面積五・七六平方メートルの冷蔵庫を別に備える。
用達所倉庫は用達所の東隣に建ち、内部を東西に二分し、南面にそれぞれの出入口を開く。鉄筋コンクリート造二階建、建築面積一二八・〇七平方メートル、地下一階、切妻造、桟瓦葺で、小屋組を鉄骨造、外壁を漆喰塗仕上げの腰壁石張とする。
二階建物置は、用達所倉庫の東側に建ち、西面に出入口を開く。木造二階建、建築面積七七・六二平方メートル、切妻造、桟瓦葺で、内部を縦板張、外壁を下見板張とする。
画像堂は毛利家歴代の当主の肖像などを収める建物で、他の本邸の建物から二年程遅れ、大正七年六月の竣工である。木造一重裳階付、建築面積一三九・七一平方メートル、宝形造、桟瓦葺で、南面に切妻造の向拝を設ける。外壁は漆喰塗仕上げで、内部は身舎の北面中央に毛利元就木像を安置し、四周の小壁に歴代当主の肖像を掲げる。
石橋はアーチ形状の鉄筋コンクリート橋で、橋長六・四メートル、幅員五・三メートルである。両橋詰をそれぞれハの字に広げた平面とし、橋詰を含めて側表面を花崗岩切石で仕上げ、路面上に石造高欄を付す。
門番所は本門内側の西隅に、導入路に東面して建つ。木造平屋建、建築面積一四・六一平方メートル、入母屋造、桟瓦葺である。正面南端を角屋で突出させ、主体部と突出部にそれぞれ三畳の番所を設ける。
本門は薬医門形式の鉄筋コンクリート造及び木造の単層門で、本柱間五・六メートル、切妻造、桟瓦葺である。本柱と控柱を鉄筋コンクリート造とし、欅板で箱形に囲って木造風に仕上げる。梁より上は木造で、主に欅を用いる。両側面から石垣と鉄筋コンクリート塀からなる袖塀を鉤の手に延ばし、本門の両脇に潜門を開く。
湯沸場は、煉瓦造平屋建、建築面積九・二七平方メートル、モルタル塗仕上げ、陸屋根である。
雑品物置上屋は、鉄筋コンクリート塀の南側に延長二七・二メートルの鉄骨造の庇を差掛け、鉄板葺とする。
小使溜りは、木造平屋建、建築面積一九・四〇平方メートル、東面寄棟造、西面入母屋造、桟瓦葺である。
作事納屋は、木造平屋建、建築面積六二・九四平方メートル、東面切妻造、西面入母屋造、桟瓦葺である。
供待は、鉄筋コンクリート造、建築面積三六・四八平方メートル、モルタル塗仕上げ、陸屋根の上を盛土張芝とする。
旧毛利家本邸は、旧長州藩主によって近代に建設された、全体に伝統的な和風意匠を用いた住宅建築である。大規模かつ複雑な構成になる建築を、上質な材料や高度な木造建築技術を多用した贅沢な意匠を駆使してまとめるとともに、鉄筋コンクリート造や鉄骨造、機能的な配置計画、施工と設計監理を分離した工事方式など近代的な建築手法を巧みに取入れており、近代における和風住宅の精華を示すものとして重要である。
【参考文献】『山口県近代和風建築』(山口県教育委員会 二〇一一年)
(文化財データベース)
毛利氏庭園
名勝
毛利氏庭園は、山口県防府市中心市街地の東に接する史跡周防国衙跡や周防国分寺境内の北方、多々良山山麓に位置する。
この地には、もと水田の上流部としての溜池や小さな集落があったが、明治25年頃から旧長州藩主毛利家の新しい本邸の場として選ばれ、建設準備が始まった。しかし、折からの日清・日露の役のために遅延し、大正元年になってやっと着工をみ、同5年に本邸と庭園の完成をみたのである。
旧山陽道から北へ、両側に松並木を配した長い進入路を行くと城門風の表門に至る。門の東は土塀、続いて石垣が南の境として巡らされ、さらに外側に濠を設けて城郭風の趣を呈している。濠周囲には桜並木を配して景趣を盛り上げている。
表門を入りゆるやかな通路を進むと、右側に梛川[なぎがわ]渓流が流れ、楓を主体とした植栽が渓谷庭園ともいうべき景観を造り上げている。通路の左側の山裾には、土手と数千株のつつじを配植して渓流側とは対照的な趣を展開している。渓流の中間に架けられた石橋を渡り、ゆるやかに登ると、庭門(中雀門)を右に見て本邸表玄関に至る。また、通路をそのまま進めば、旧明治天皇行在所である梛邸前を迂回して本邸表玄関に至る。
本邸は、3,300平方メートル余の規模をもち、江戸時代の御殿造りの様式を取り入れた近代和風建築である。木曽檜などの良材をふんだんに用いながらも外観としては華美を避け、落ち着いた意匠を示している。また、書院に茶の湯の機能を備えるなど風雅を感じさせる工夫も凝らされているが、この時代にありがちな洋風を極力避け、旧大名家の格式・格調を守る姿勢が感じられる建築である。また、中心の書院だけでなく、家族室、浴室、食堂、諸事務室、土蔵、ボイラー棟、洗濯棟、発電機棟など生活の場がそのまま残されているのは他所に例がなく、貴重な文化財である。本邸の実質的な設計・監督は、東京で多くの実績をもつ原竹三郎が担当し、詳細な史料を残している。また、作庭は、東京仙花園出身の佐久間金太郎が全権を依頼されて指揮にあたったものである。
庭園は、本邸の2階建書院の南正面に広がる大池泉廻遊式である。面積は約55,000平方メートルであり、その内池泉は約5,500平方メートルを占める。書院の前に大振りの庭石と松樹等を配しながら、その前方で大きく一段下がったところで、東からの渓谷で導かれた水を、高さ3・5メートルの巨石の滝石組で落とし、段落ちで小さな北池に注いでいる。この滝石組の両側の護岸は大きな立石を堅固に組み上げており豪華さを誇っている。北池と南に拡がる大きな南池は東西、特に東側に、高く急峻な岬を廻り込むように大きく拡がり、西側の池尻を含めて伸びやかに展開している。屋敷地の東北部で山から取り込んだ流れは、一方が西へ向かい、先の滝組に導かれ、一方は、林間に曲折する渓流やせせらぎとなって南池の東部に入る。2ヶ所から入った水は池泉のなかを循環して南西隅の池尻へと集水されていく。池尻近くの池畔には石浜を造り、汀に庭趣を添えている。ここより再び流れを形成し土塀の外の濠へ流れでる。
池泉周辺には、自然地形を活かしながら、石組、植栽、芝生、東屋、燈籠などを適所に配し、廻遊式庭園の典型を具現している。
庭園の西北部には、この時代の庭園の特徴である、園遊会を主目的にした大芝生広場を設けている。
また、本邸の各部屋に付随して、それぞれ平庭が造られている。いずれも石組、植栽ともに雄大な造りである。
庭園植栽は、松を主体に250種類以上を数え、庭石は、当地産出の花崗岩類の山石、川石が中心である。
この庭園は、選地の優秀性もさることながら、江戸時代を経て伝統ある旧大名家本邸の庭園としての風格を伝えることを第一義とし、加えて近代の活力を屋敷地、建築、庭園全体に導入し見事に表現したことに最大の価値をもつものとして高く評価される。
さらに、設計・施工にかかわる史料を極めて豊富に伝えており、学術的な価値も高く評価される。
よって、名勝に指定しその保存を図るものである。
(文化財データベース)
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