MONTHLY WEB MAGAZINE May.2011

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4月の新着情報

New contents in Apr. 2011

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トピックス

Topics

■ 映像作品「がんばれ福島の若夫婦」 末永邦夫

福岡県で生まれ育った、三男)哲治が福島県いわき市の企業に就職して早や五年。

哲治が地元の女性と結婚し、福島の自然を教授していた所に、今回の大地震・大津波そして福島第一原発の事故に遭遇し、その中で若夫婦が力を合わせて、地元再生へ健闘している様子をまとめました。

いわき市での炊き出し活動風景(左:早夏、中央:哲治)

■ 伊那谷の桜 瀧山幸伸

日々重苦しい気持ちの中、日帰りで伊那の桜を訪ねた。伊那地方は桜の名所だ。

高遠城跡 の桜は例年に比べ団体が少ないが、それでも人が多すぎ落ち着かない。

高遠城のすぐ近くに勝間のしだれ桜がある。 小さなお堂からの景色が素晴らしい。

高遠から上流に数キロ、旧長谷村の桑田薬師堂のしだれ桜には誰もいない。

近くの常福寺にも美しいしだれ桜がある。

美和ダム湖畔の桜は、ダムのエメラルドグリーンと調和して美しい。この水の色はシルトのコロイドゆえであろう。

今泉薬師堂羽根薬師堂にも誰もいないので静かに鑑賞できる。羽根薬師堂から見る山なみが美しい。

栖林寺吉瀬の桜は盛りが過ぎていたが静かで良い。栖林寺本堂前庭のマツは見ごたえがある。 

蔵澤寺の桜は、門前からも美しいが、本堂前庭から門と中庭を俯瞰する光景が素晴らしい。

光前寺の桜を訪ねた頃は夕方近く、曇り空で周囲も暗い。

そして最後の箕輪中曽根の桜では雨が降り始めた。今年の桜もこれが最後。濡れて泣いているようだった。

■ 2011年のゴールデンウィーク 大野木康夫

2011年のゴールデンウイークは、3-3-2の飛び石連休でした。

5/2、5/6とも休めませんので、こまめに近場を回りました。

4/29早朝 滋賀県で神社の撮影

大津市大石 春日神社本殿

珍しい二間社入母屋造です。(群馬板倉の雷電宮の末社にもあったと思います。)

草津市野路 新宮神社本殿

草津市渋川 伊砂砂神社本殿

がんばって脚立を使いました。(私は高所恐怖症です。)

栗東市綣 大宝神社境内社追来神社本殿

中山さんの地元の神社です。

早朝からたくさんの人が参拝に来られていました。

栗東市蜂屋 宇和宮神社本殿

瑞垣がすごく高かったので、決死の覚悟で脚立天板に乗りました。

栗東市下戸山 小槻大社本殿

3月末に撮りに行ったとき、雪が降った影響で写真が真っ黒になってしまったので撮り直しに行きましたが、晴れててもやっぱり真っ黒になってしまいました。

野洲市大篠原 大笹原神社本殿

2月に撮りに行ったときに、早朝過ぎて写真がすごく粗くなってしまったので、撮り直しに行きました。

国宝の本殿は素晴らしいですが、向拝の雨樋が残念です。(保存上必要ならばしょうがないですけど。)

池からもうカエルの声が聞こえていました。

4/30-5/1 家族旅行(丹後)

我が家の家族旅行に文化財の撮影はつきものです。(子どもは少し不満らしいですが。)

宮津市河原 旧三上家住宅

公開古民家は子どもも喜んで付き合ってくれます。

宮津市文殊 智恩寺多宝塔

智恵を授かると説明したら、子どもも喜んでお参りしました。

宮津市文殊・江尻 天橋立

強風と雷雨に見舞われましたが、なんとか展望台に上がる頃には止んでくれました。

宮津市大谷 籠神社・真名井神社

元伊勢内宮が籠神社、外宮が真名井神社です。

伊根町日出 伊根の舟屋

伊根湾めぐりの船は強風のため欠航だったので、船着場の近くを歩いただけでした。

京丹後市峰山町橋木 縁城寺

宝篋印塔を撮影しに行ったのですが、丹後地震で傾いたままになっている堂塔が意外に迫力がありました。

文化財指定はされておらず、修復は難しいようです。

京丹後市久美浜町久美浜 本願寺本堂

これで丹後の重要文化財の建造物はすべて廻りました。

ここから但馬の文化財巡りを追加すると、家族の信頼を失いますので、おとなしく城崎マリンワールドに行きました。

連休後半は、家族と過ごす合間を縫って、京都市内でうろちょろしていました。

5/3夜・5/4早朝 千本ゑんま堂狂言と普賢象桜

夜公演に行ったので、速い動きにはカメラの腕が付いて行きません。

5/4 蹴上浄水場、南禅寺(家族連れ)

南禅寺の参道で、大豊神社(左京区鹿ケ谷)の御輿巡行に出会いました。

子どもは、初めての剣鉾差しを見て喜んでいました。

5/5 藤森祭

子どもはサッカーの試合だったので、一人で行きました。

伏見稲荷参道の神輿繰込と駆馬神事を見ました。

駆馬神事は特別観覧席の券をもらったので、絶好の場所から撮影したのですが、いかんせんせっかちなもので、流しの連写が馬を追い越して被写体が後ろに切れてしまうことを繰り返し、あまりい写真は撮れませんでした。

今月は桂離宮と仙洞御所(5/9)、修学院離宮(5/28)の参観を予約しています。

また、葵祭(5/15)と嵯峨祭(5/22)を見に行く予定です。

写真がちゃんと整理できるかな…

■ 今年のさくら決算 川村由幸

2011年4月もいくつかのさくらを取材しました。

今年は昨年同様に寒い春でさくらの開花がいささか遅れました。

最初に取材に出かけたのが千葉県山武市、長光寺のしだれ桜。

天然記念物に指定されているみごとなしだれ桜でした。千葉県にも見応えのある桜が存在していることを実感できるしだれ桜です。

この長光寺の近くに妙宣寺という小さな寺があり、ここもしだれ桜がきれいでした。

長光寺のそれのように巨木という桜ではありませんが、桜の数が多く咲き競う様はなかなかに見応えがあります。

平日に訪れたのですが、カメラをかまえる人が結構おられ、それなりに知られたさくらのようです。

さくらは春を代表する花木。さくらを見るといくらかでも心が華やぎます。厳しい現実に立ち向かう力がちょっぴりですが湧いてくる気がしました。

次は山梨県のさくらです。4月13日に訪問しました。

取材というよりも観光主体で、家内と友人計4人で観桜小旅行というところです。

まず、山高神代桜です。三春滝桜、、根尾谷淡墨桜と並んで日本三大桜の一つです。

神代桜は樹勢がとても弱くなっています。いつまでいまの姿を保てるか大変に不安な状況です。

それでも神代桜の周辺にはたくさんの桜が咲き誇っており、雪の残る山々との風景はとても美しいものです。

根尾谷淡墨桜もその樹勢の衰えを隠すことはできません。三春滝桜だけが隆々と力強い姿を見せています。

早晩、三大桜のリストに変更が起こることも十分考えられます。

興味のおありの方は、早目の取材をすべきだと考えます。とは言え、来年の春を待たねばなりませんが。

韮崎のわに塚の桜は平日にもかかわらず、カメラマンで一杯でした。孤高のさくらは確かに姿の良い美しい桜です。

ただ、逆から見ると送電線の鉄塔が重なります。

八ヶ岳とわに塚の桜、絵になります。カメラマンが殺到するのも当然と思えます。

日本は美しい国だと改めて実感した瞬間でした。そして東北にもこの美しい日本を取り戻さなければならないと思います。

甲州市ではいと桜を愛でました。いままでいと桜がしだれ桜の別名とは理解していませんでした。

確かに、姿をみればしだれ桜です。いと桜という種類があるものだとばかり思い込んでいました。

そして、慈雲寺のいと桜は勢いのあるみごとなしだれ桜です。

慈雲寺近くの周林禅寺のいと桜も慈雲寺のそれに比べれば小ぶりですが、姿の美しさは上回っています。

地面に届きそうなまでに垂れ下がった桜花、枝の内側に入るとまるで桜花のカーテンです。見物の人もほとんどおらず、静かにさくらを楽しむことができました。

甲州のさくらは天候にも恵まれて、本当に美しい姿を見せてくれました。全ての桜が満開、美しさに心が洗われました。

今年、最後のさくらが自宅から30kmほど離れた印西市(旧印旛村)にある吉高の大桜です。

開花期の短いヤマサクラで、なかなか満開を見られません。訪問した4/17は運よく満開。平日の早朝でしたが大勢の見物客で賑わっていました。

この桜は畑の真ん中にぽつんと咲く大桜、早朝のため、陽が当らず肉眼の美しさが伝わらない画像しか撮影できませんでしたが、姿も大きさも申し分のない大桜でした。

千葉県人の私としては、是非守り続け、育て続けていただきたい千葉県の桜です。

当初、福島に出かけてさくらを愛でる予定でしたが、今回の震災で断念。今年は千葉県と山梨県のさくらの取材となりました。

来年の春には、是非にも福島のさくらを取材したいと考えています。

 なぜ、日本人はこんなにもさくらの花が好きなのでしょう?

 季節を知らせてくれるからでしょうか?

 さくらの花が人をワクワクさせるからでしょうか?

 パッと咲いて、パッと散る、いさぎよささでしょうか?

ともかく、来年も日本中で美しいさくらが咲くはずです。そしてまた、そのさくらを愛でたいと思います。

■ チューリップとタンポポ 中山辰夫

4月に入って我が家ではチューリップが、野道にはタンポポが咲き誇った。春を告げるものとして好きです。

でも被災地には花が無い。秋に花の種や球根を送り来年は、今年と違った4月を迎えてもらうことが出来ないだろうかと思う。

今年初め旅して、チューリップの原産地がトルコで、国花でもあると知った次第。

チューリップ図柄のタイルが宮殿やモスクで多く使われていたことからも、その誕生や変遷をうかがい知ることが出来た。

その為か、今年は例年になく愛着を持って観察した。

4月10日過ぎから5月連休明けまで日々の変化を楽しませてくれました。

チューリップについての簡単な説明を添付します。

ついで、タンポポですが、タンポポは世界に2000種、日本に約10種があるとか。

日本でもっとも広く繁殖しているのは残念ながら西洋タンポポ。

明治時代に持ち込まれたようですが、その強い生殖能力で瞬く間に九州から北海道まで広がり、在来種は山奥や半島などでかろうじて生き残っていると聞きます。

「日本タンポポと西洋タンポポ」その違いは・・・・。

このタンポポが社殿の「蟇股」の図柄に彫られているとのこと。

滋賀・下坂本の古刹・聖衆来迎寺で出会いました。

描かれているのは日本タンポポ。国内中でもその数は非常に少ない。

京都・滋賀でタンポポが咲いているとされる情報をもとに、他の例を訪ねましたがなかなか判別ができなかった。

察するに、往古にはタンポポが珍重された時期もあったのでしょうか。

聖衆来迎寺 開山堂(大津) : 均整の取れた全景(12ケの内の1ケ)と開山堂の全景

北野天満宮本社(京都) :拝殿左側蟇股9ケの内1ケと拝殿全景 

御香宮拝殿(京都) :拝殿の蟇股18ケの内1ケ、だろうと推定したタンポポ(花の色と葉っぱが違う)と拝殿の1部

二条城二の丸殿舎(京都) :らしきもの2ケ(どう見ても菊?)と唐門

西本願寺唐門(京都)どれなのか全く判別ができない。 唐門全景

「建築の飾りに現れた動植物」は蟇股・木鼻・手狭・破風に見られます。

寺社建築の歴史にも関連し、過剰装飾にも思いが含まれているのでしょう。興味一杯です。

 

■ 修理工事中の日光輪王寺三仏堂 田中康平

栃木 日光市

2011.5.1

平成33年まで修理となる輪王寺三仏堂工事の状況が4月29日から特設通路を歩きながら見学できることになり早速見てきました。

入り口付近には模型や巧妙な木組みも展示されていてつい遊んでしまいます。

上がっていくと屋根の構造が間近に見えてフーンという感じがします。

なんとなくロケットの発射棟の点検風景のような気もしてきます。

大型社寺の建造は建設当時の最高級の技術が発揮された場であったようにも思えます。

この先10年の気の長い修理ですがどう展開していくのか興味深いものがあります。

輪王寺前の金剛桜は葉が大分出ているので遠めには散り始めかと見えましたが寄って見るとまだ7部咲きでした。

連休終わりまでには満開になったようです。

中禅寺湖の桜はまだ全くの蕾で、今年の桜は去年ほどではないものの大分遅れています。

桜は時期が難しいのが一面では楽しみを増しているようにも思われました。

長弓寺にて 野崎順次

ゴールデンウィークの始まり頃に生駒市の長弓寺に行った。

長弓寺は富雄川沿いののんびりした農村のはずれにあり、国宝の本堂がある。

交通機関は1時間に1本のバスだけ。

長弓寺(ちょうきゅうじ)に行くには、蛇喰(じゃはみ)という恐ろしい名前のバス停を過ぎて、次の長弓橋(ながゆみばし)で降りると直ぐに参道である。

地名辞典を見ると、蛇喰は蛇を喰(は)むという意味ではなく、「砂崩」(じゃぐえ)という地形名がジャグイ(蛇喰)の音に変わり、ジャハミに転じたと考えられるとのこと。

1週間くらい前から左ひざが痛く、水がたまるかなと心配していたが、その気配もなく、軽度に使えば使うほど(仕事の鞄を持って歩きまわる程度)良くなるようだ。

この日は頑張って、一眼レフ2台、レンズ3本、三脚(軟弱にもカーボンファイバー)、パソコンを登山用中型ザックに入れて出かけた。

膝に応えるが、適度のトレーニングになると信じていた。

プロスキーヤーにして登山家の三浦雄一郎氏は、中年にさしかかり、膝に痛みを覚えた時、毎日、ザックに石を積み込んで走ったら治ったという。そのエピソードが頭をよぎる。

730年前に建てられた檜皮葺の本堂を撮影して、隣の太子堂の石段に腰掛け、登山靴を脱ぎ、そこらに三脚とカメラを散らかして休んだ。

観光客らしき人は見かけない。

脳梗塞の後遺症の残る老人(私も老人だが)が奥さんとお参りに来た。

突然、鐘の音がしたので、見ると二人で鐘をついていた。 ついてもいいらしい。

そして、帰りかけながら、奥さんの方が「鐘をついて早く帰り過ぎると鐘の音で出てきた(あの世の)人が寂しがるそうよ。」と云っていた。

他に誰もいない境内だからよく聞こえる。

「出てきたら、私が相手しておきますから、大丈夫ですよ。」と声をかけると「やー、聞こえてたん。」と笑っていた。

近くの人のウォーキングのコースらしく、時折、ジャージ姿の中高年の人がお参りに来る。

そのひとり、65歳くらいの男性が声をかけてきた。

天気が良いですね、とか、境内のシャクナゲの花がきれいですね、とか、世間話をして親しくなった。

普通は一眼レフを見て「ええカメラでんな。カメラが趣味ですか。」といわれることが多いが、この人は「ええ登山靴でんな」ときた。

膝が気になる話をすると、彼は10年位前に自分の会社の床にワックスを塗っていて転倒して頭を強打した。

一命をとりとめたものの脳に障害が残った。

その後、リハリビで毎日歩いていて、かなり回復したが、未だに事故時の記憶は全くなく、匂いの感覚がなくなり、味の感覚がうすれてしまったそうだ。

同じ頃に親しい人に裏切られて嫌な経験が重なった。

「でも、あの後は貰った人生や思ってます。」とつぶやいていた。

いろいろな出会いがあるものだ。幸い、我が膝は無理した方が回復が早いようで、今のところ、快調である。

■ 酒井道夫

ボケ老人の日常報告をここでやらせていただこうと思っていたら、3.11のとんでもない天災にともなって、恐るべき人災を誘因。以来、今日まで日常感覚が麻痺してしまい、そのまま5月の到来となりました。

例年になく遅咲きだった桜の並木もすでに新緑に覆われ、ほどなく初夏の緑に衣替えをするでしょう。

この1ヶ月半にわたって、予断を許さぬFUKUSHIMAの状況に気を奪われ、そぞろのんびりと近隣を彷徨う日課を怠りがちにしていると、体重の標準値が確実にオーバー気味になり、仕方なく、万歩計の目盛りを無理してかせぐ日々を復活させつつあります。

でもどこか漫然と弛緩した散歩気分に浸ることができず、困ったことです。

現在の私にとって、安穏な気分というものは他に換え難い状況であったことを、改めて再発見しましたが、この日常は何時になったら回復するのでしょうか? 

まだまだ当分、守銭奴とマッドサイエンチスト達の夜合が続き、彼らは利権回復にヤッキになるでしょう。

でもこの間に、もう一発やられたら事態は根本からデングリ返ってしまう。

にもかかわらず、マスコミは本質を覆い隠すようにお涙頂戴と政争を煽り立てる報道ばかりを繰り出していますが、彼らは日本をどうしたいというのでしょうか。

等々、あれ思いこれ思いしながらの万歩計量消化の日々も味気ないものです。

まあ、それはともかくとして、私の住区近隣には思いがけなくも、零細に商っている八百屋、魚屋、豆腐屋、パン屋が気息奄々ながらもどっこい生き延びている姿を目撃して、まるで路傍に踏みつけられつつ生き延びている野の花を発見する思いに駆られたりします。

決して明日を保証された商いではあり得ず、一体どうなることだろうという、緊迫した気分に襲われるのですが、当の店番の小母さんは「ウチのトーフは固くって落としても壊れないよ、ガハハ」などと陽気に応対してくれます。

■ 看板考 銀座三原橋近く 「調理師紹介所 大京会」 柚原君子

町歩きに古いものを探す楽しみを持っている。

老いぼれた猫(古い!)。

袋戸のある昭和の建物、トイレであろうと思しき場所に下窓のある古い家。

大正モダン建築風の古い洋館……

そのほかにどういうわけか私は古い看板が好きで、当時の人々がその看板の奥からヒョコヒョコと出てきそうで、立ち止まって眺めてしまう。

銀座はメイン通りばかり話題に上るが、裏通りが下町っぽくって私は好きである。

私の父は大衆食堂を営んでいたので、飲食店の調理場の出口が裏路地にあったりすると、飲食店特有の換気扇の匂いと共に、なんだか父が出てきそうで嬉しくなる。

だから徘徊する。建設中の歌舞伎座を右に見て、三原橋の交差点を渡って左奥の方角に行くと、右手に丸いビルが見える。

一見ガード下の飲み屋街……旧三原橋をそのまま残して晴海通りをまたいでいるとのこと。

それを過ぎて左前方を見ると<三原小路>がある。

戦前の建物か、とにかく古い。レトロ。室外機も窓枠も配線もごたごたと乱雑であるが、なぜか血が通った庶民の宅たくましさの香りがする。

正面の中華三原は行列ができるお店。

ラーメンは400円。味は素朴。

見上げると看板がいっぱい。バー<ビルゴ>の看板も見える。

アニメ「新機動戦記ガンダム」に出てくる架空の人型機動兵器だから、中はアニメチックなのかしら、と想像する。

その中の一つの看板は<調理師紹介所 大京会>とある。

昭和2年に関西出身の料理人達により設立した東京における関西調理師組合の草分けで、日本料理の調理師さんを紹介するところだそうである。

事務所のある二階への階段を見上げると、80代とおぼしきご老人がきちんとネクタイをして、革の鞄を斜め掛けにして、ごっつい手で階段の手すりにつかまりながら、ゆっくり降りてこられるところだった。

私の父が墨田区業平橋で食堂を始めたのは昭和35年。

調理師の免許がないので調理師紹介所からコックさんを派遣してもらっていた。

真っ白な白衣と真っ白なコック帽をかぶって、派遣されてきたM調理師さんに、鯖の味噌煮やてんぷらの挙げ方を教わっている父の後姿を覚えている。

私は小学校5年生。当時は子供と言えども立派な労働力で私はコックさんの横でてんぷら鍋に小麦粉を足したり、菜ばしを洗いに走ったりした。

当時は住み込みが主で業平橋の食堂にも三階の小部屋があって、下働きのちょっと智恵遅れのお兄ちゃんとM調理師さんは同じ部屋で寝ていた。

クーラーもなく今にして思えば劣悪な環境であったのに、派遣されてきたM調理師さんはおとなしい人で、そして少し病弱で、住み込みの部屋で時々風邪で寝込んでいた。

40代後半の色の白い、線の細い独身の調理師さんだった。

野菜の煮物が得意だった。年老いた母が郷里にいるということで10年ばかり勤めたところで退職して田舎に帰られた。

その後に母が亡くなり、後を追うように自死したらしいということだった。

父が「死なんでもいいのになぁ」と香典袋に名前を書いていた記憶がある。

町を歩く、いろいろな看板に出会う。忘れていたような懐かしい人にも出会うこともある。

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Japan Geographic Web Magazine

編集 瀧山幸伸

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