滋賀県大津市 琵琶湖疏水
Biwako sosui ,Otsu city,Shiga
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April 12,2017 大野木康夫 source movie
桜のライトアップ
動画(54分)船首定点カメラ
琵琶湖疎水
滋賀県大津市〜京都府京都市山科区
琵琶湖から京都市内に水を引き入れ鴨川に流す琵琶湖疎水は東京遷都により衰退した京都の復興の起爆剤として当時の京都府知事北垣国道が計画し、田邉朔郎が技術責任者として明治16年(1883)に工事を開始した。
当時としては異例の純国産での大事業は64か月を費やして第一疎水は明治23年(1890)完成した。
琵琶湖から京都までの船運と日本初の水力発電を行い、その電力を用いて市電が明治28年(1895)に京都市内(京都駅〜伏見間)を走らせた。
一方、水力発電に必要な水路の落差を蹴上に設けたため、船運は絶たれることになったが、蹴上インクラインを設けることで京都までの経路を保った。
第一疎水完成後、飲料水の確保と発電能力の増強のため第一疎水に並行して第二疏水が計画され明治41年(1908)に着工し、明治45年(1912)に完成した。
京都市北部の北白川方面への通水のための疏水分線(有名な南禅寺の『水路閣』もこの一部)や京都市南部への通水(御陵〜新山科浄水場〜宇治川)のための導水トンネル分線が存在している。
昭和45年(1970)の国鉄湖西線建設の折、迂回していたルートを短絡して諸羽トンネルを建設した。そのため各隧道の洞門には扁額が掲げられているが諸羽トンネルには存在しない。
昭和に入り船運が廃れて長く途絶えていたが、近年観光資源として通船の復活が計画されており第一疎水竣工125周年を記念して平成28年(2015)に試行事業として「大津〜蹴上間」の舟運が復活した。
現在、導水トンネル分線の増強のため新しい導水トンネルが計画されており、国の許認可に関する視察もかねて京都市上下水道局の協力を得て試行事業のコースに乗船する機会を得た。
その際、園城寺(三井寺)付近の大津桟橋から京都市山科区蹴上の蹴上桟橋までの琵琶湖第一疎水を船上(船首)から撮影してみた。
パンフレット
大津閘門
北国橋
明治天皇聖蹟碑
大津運河
第一隧道
東口洞門
内部
第一竪坑からの漏水
第二竪坑口
第一隧道西口洞門付近
緊急遮断ゲート
藤尾橋
藤尾橋橋台
煉瓦造、明治時代[明治23年(1890)}
藤尾橋から四宮
四ノ宮舟溜
諸羽トンネル
諸羽トンネルから安朱橋
安朱橋
安朱橋から安祥寺橋
安祥寺橋
安祥寺舟溜
正嫡橋
正嫡橋から第二隧道
第二隧道
東口洞門
扁額(井上馨筆「仁以山悦智為水歓」)
内部
銘板
第二隧道から第十一号橋
第十一号橋
第三隧道
東口洞門
内部
西口洞門
蹴上下船場付近
撮影:Mar/Apr. 2015
桜の時期を主に琵琶湖疏水全域を散策した。琵琶湖疏水が完成してから125年目に当たる平成25年の今年、「琵琶湖疏水」で小型観光船のテスト運航が行われた。
疏水に「船下り」が復活するのは64年振りである。大津市と京都市は反響などを見て本格運行の検討を行うようである。
乗船募集定員1,152人に対し、全国から19,033人の応募があった。
琵琶湖疏水は、明治維新以後、首都の地位を失い停滞していた京都に近代的なインフラを整備し、産業を活性化するために計画された。
琵琶湖の水を運河や水車動力源、灌漑用水、防火用水、飲料水などに利用するため、当時の技術力の粋を集めて建設された多目的水路である;
疏水は、琵琶湖取水地点から伏見区堀詰町で一級河川濠川となる地点までの全延長約20㎞の「第1疏水」、第1疏水取水地点の少し北側から全線トンネルで蹴上付近で第1疎水と合流する「第2疎水」、第2疎水取水口付近に築かれた立坑から全線トンネルで安朱で台疏水に合流させる全長4.5kmの「第2疎水連絡トンネル」及び蹴上付近から分岐して左京区北白川久保田町に至る全長3.3㎞の「疏水分線」から成り立っている。
全域図
●●大津疏水
● 【コース】
浜大津〜三保ケ崎〜小関越え〜藤尾の間のコース
概略図
このコースは、京都築地と呼ばれる西大津の三保ケ崎の取水口から、第1トンネルの入り口まで桜並木の疏水道を通り、長良山をくぐって藤尾の第1トンネル出口に至るコース。直線距離で3km強ある。ここには小関越えとして知られる長良山越えで藤尾に至るコースである。京阪電車浜大津駅からスタートする。
陸橋からの浜大津港と大津港前広場
この地にはかって大津城が湖上に突き出て聳えていたとされる、本丸であった地点に石碑が残る。国道一号線が大手道であった。
駅前広場から国道161号線を北上する。右手に湖岸が見えてくる。
1893(明治23)年、三高水上運動部が始めて競技用のボートを進水させ、第一回琵琶湖周航に出発した所である。
現在の京都大学ヨット部の艇庫は旧三高のものである。
「われは湖の子」の歌碑と記念碑
主碑は高さ2m余、幅3m余の伊予石、その横には「われは湖のこさすらいの・・・」で始まる琵琶湖周航の歌が刻まれた御影石の歌碑と記念樹のクスノキがある。
いよいよ疏水関連に入る。近辺地図である。
三保ケ浜周辺
三保ケ浜は琵琶湖疏水掘削の際に埋め立てられた岬で、第1疏水と第2疏水の間に突出した地域を言い、「京都築地」と名付けられた。
第1疏水の用水路に架かる「新三保ケ崎橋」から見た三保ケ崎浜 「航空写真引用『京都水ものがたり』より」
疏水第1取水口周辺(洋館は「第1疏水揚水機場」)
隣接する第2疏水の取水口周辺と用水路に架かる「尾花川橋」
取水口から「第1トンネル」東口(入口)までの距離は約545mで、ほぼ直進している。
疏水の両側は”びわ湖大津”の文字が入った鋳物製の鉄柵で囲われ、柵のボケた感じのダークグリーンの色合いが気分を落ち着かせる。
桜並木は大きく枝を張り、その周辺の桜景色は最高に美しく、三尾神社・園城寺にもつながる。
停水時の水路
毎年桜の開花頃までに水を抜いて清掃する。今年は通船の予定もあり早くから水が抜かれた。普段とは違った光景である(停水期) 「大津絵の道」と大津絵橋周辺
JR湖西線以前に走っていた江若鉄道の軌道跡である。路面に大津絵が見られる。大津絵橋は大津運河で最も新しい橋。比較的古い橋の三保ケ崎橋、京阪・坂本線、三井寺駅、北国橋を過ぎる。 三保ケ橋・北国橋・後に続く鹿関橋は疏水建設時からあった。
閘門(こうもん) 1889(明治22)年完成
この閘門は日本最初の煉瓦造りのもの。当時、わが国には木造の北上運河閘門が一ケ所あったのみである。これが出来て大雨時の心配が無くなった。
石標「明治天皇聖跡」
明治天皇が疎水完工式の際に閘門を見学され、田邊朔朗がその開閉をご説明した記念に建てられた。
観光運行行テストの大津側の乗り場は第1トンネルのすぐ近くである。
「第1トンネル」東口洞門 全長2,436m 1890(明治23)年完成
この年3月には、琵琶湖疏水(第1疏水大津〜鴨川及び疏水分線)が完成した。
両開きの厚い扉は、琵琶湖の増水時に大量の水が京都側に流れ込む住民の不安から設置されたが、瀬田川に洗堰が出来不用となった。
扁額
桜木の競演
三尾神社・園城寺にも近い。この付近には重要文化財に指定された多くの寺社・史跡等が存在しており散策には事欠かない。
三尾神社で、疏水の起工奉告式・竣工奉告式が行われた。琵琶湖疏水は第1トンネルに入り、長良山を越えて山科・藤尾に至る。
藤尾の第1トンネル出口(西口)まで山麓を歩く。(周辺案内 『湖国の「水みち」より引用』
疏水の突き当りの道を左折すると「長等神社」の朱色の楼門と「大津絵美術館」が見える。楼門は1905(明治38)年建立で、室町時代の様式である。
小関越道標
大津市指定文化財
東海道の逢坂越えを大関越えと呼ぶに対し小関越えと呼ばれていて、大津と京都を結ぶ重要な裏道であった。
近くに真言門徒の殉教者『堅田源兵衛』の首を安置している寺として有名な等正寺や 新光寺が並ぶ。 ”南無阿弥陀仏”と刻まれた大きな石塔があって、右手に墓地が続く。段々人家も途絶えて森の中へ入ってゆく。藤尾から大津へ抜ける間道だけに往来は多い。
標高200mと言われる峠まで歩く。
峠の地蔵・喜一堂(地蔵尊)は、道路の拡張工事で見つかった地蔵を祀るため,地元住民が1989(平成元)年に建立した第1竪坑 深さ47m
国史跡 近代化遺産
小関越えの標識のある左側の道を行く。道幅も狭くなり間道らしい雰囲気である。坂道は急勾配である。
「第1堅坑」は赤レンガ造りの円筒形構造物である。これが小関峠の下を通る第一疏水の工事の時の、日本トンネル工事で始めて採用された立坑、即ち第一シャフトと呼ばれているものである。 深さ45m、196日を要した難工事の末に出来上がった。犠牲者も多く出た。
湧水の処理が工事の成功を左右した。田辺朔朗は「工事は難航を極め、一時は絶望のあまり疏水工事全体の断念を考えざるを得ない所まで追い込まれた時がある。また、大胆で新規なこの工法は疏水工事の神髄であり私の命を懸けたもの」と述懐されたとある。第1シャフトが完成した時、朔朗は即興の漢詩を詠んだ。普門寺
大津市藤尾奥町7−6 宗派:浄土真宗大谷派 本尊:阿弥陀如来
竪坑を後にして下りの道を進むと、西大津バイパスの大きな橋脚が見え、普門寺が目に入る。もう藤尾の集落に入ったことになる。
普門寺は、873年三井寺の支院・藤尾寺として開創されたのが始まりと伝えられ、1471年蓮如上人に帰依した天台僧・了然によって普門寺として再興された。
小関越えの藤尾地区の入口に当たるのが普門寺である。「第2竪坑」 深さ20m
国史跡 近代化遺産
藤尾奥町からの道に沿って南下し少し行くと、二軒の住宅の間の庭先に、赤レンガ造りの「第2竪坑」の頭部が見える。見落としやすい所にある。
藤尾の磨崖仏 (寂光寺)
第2竪坑を後にして進む。寂光寺「宗派:日蓮宗 本尊:大曼荼羅」にある。
磨崖仏は本堂の奥にとりこまれた高さ約3m、幅約6mの大きな花崗岩に、大小合わせて石仏十五体と梵字が刻まれている。
岩面に刻まれた文字から鎌倉時代の1240(延応2)年の作と推定される。荘厳な雰囲気をもつ磨崖仏で市指定文化財。拝観は事前連絡が必要。
撮影禁止である。『近江文化財全集・石仏讃歌』より引用次は第2トンネル出口(西口)からである
現在の地点
大津市
●第2琵琶湖疏水
1912(明治45)年3月竣工
飲料水への配慮から全路をトンネルとし、第1疎水の北側に建設された。
全長7400mの第2疏水の工事着工は1908(明治41)年10月、1912(明治45)年3月に完成した。工事着工は第1疏水完成の18年後である。
従い、掘削に関する技術も大幅に改善されていたようである。
第1疏水時代には使えなかったセメントが使える時代となっており、煉瓦から鉄筋コンクリートにかわった。
1891(明治24)年には蹴上発電所が運転開始しており、照明や排水ポンプに電気が使え、あらゆる面で効率が上がった。た。
取水口
扁額
第2疎水大津管理棟
第2疏水連絡トンネル
琵琶湖の水位が下がることで、現在の第2疎水では必要な水量を取水することが出来なくなった。
その対策として、琵琶湖の水位が基準水位より1.5m下がったときでも必要な水量を確保できるように、第2疎水連絡トンネルが建設された。
kノトンネルは、琵琶湖の第2疎水の取水口付近かに深さ約25mの立杭を築き、そこから京都市山科区まで内径3.4m、延長約4.5kmのトンネルを新しく堀り、再び第2疏水に合流させたものである。
連絡トンネルの完成で、将来にわたって京都市民に安定した水道水を供給できるようになった。
園城寺〜琵琶湖疏水のライトアップ
大津三保ケ崎から京都蹴上までの約9kmに水路を掘削するもので、途中には3本の隧道も造られた。
工事は明治18年(1885)着工、23年(1890)に完成した。工事責任者は若き技術者田邉朔郎だった。
平成18年(2006)疎水に関連する12カ所が国史跡に指定され、大津市側の指定は、第一随道の東西の出入口、第一・第二竪坑の4ケ所である。
第1疎水 三保ガ崎の取水口付近と第1随道入口
往年の琵琶湖疏水の曳船
第1竪坑 小関越えの山道を登りかけたところにある。疎水掘削時の資材や土石の搬出入口
琵琶湖疏水は、洛北農村の灌漑用として、蹴上から、南禅寺境内に残る水路閣(ローマーの水道を模したもの)の上を通り、京都の散策の名所。哲学の道を流れ、さらに西北に続居ている。
「気象萬千」伊藤博文 筆
「廓其有容」山県有朋 筆
資料 琵琶湖疏水 滋賀県教育委員会発行
疎水の桜
疎水沿いには桜の名所が多く、桜の時期になると疎水沿いの散歩路は沢山の人で賑わう。
幼児も元気一杯
昼間、イノシシもつられて観桜!
一方、蹴上から岡崎公園内を通り、鴨川沿いに加茂川運河が伏見までひかれるや、淀川によって大阪と結ぶ物資輸送が実現、また疎水を利用した蹴上発電所の水力発電は、日本最初の市街電車(京電)を生み出すなど、琵琶湖疏水が近代日本の発展に果たした役割は非常に大きなものがあった。尚電力需要の増大などから、明治45年(1912)には第二疎水(全体が暗渠)も造られた。
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