京都府京都市北区 賀茂別雷神社(上賀茂神社)と周辺
Kamigamojinja,Kitaku,Kyoto City,Kyoto
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General
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賀茂氏ゆかりの聖地 | |
Nature
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Water | 御手洗川の清流 | |
Flower | ||
Culture | 神社神官の社家町 | |
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Food |
京都市北区上賀茂本山339 賀茂別雷神社 権殿 国宝 近世以前/神社 江戸末期 文久3(1863) 三間社流造、檜皮葺 19010802 19530331
京都市北区上賀茂本山339 賀茂別雷神社 本殿権殿取合廊 重文 近世以前/神社 江戸末期 文久3(1863)頃 桁行一間、梁間一間、一重、唐破風造、檜皮葺 19010802
京都市北区上賀茂本山339 賀茂別雷神社 本殿東渡廊取合廊 重文 近世以前/神社 江戸末期 文久3(1863)頃 桁行一間、梁間一間、一重、西端唐破風造、東端切妻造、檜皮葺 19010802
京都市北区上賀茂本山339 賀茂別雷神社 西渡廊 重文 近世以前/神社 江戸前期 寛永5(1628) 桁行三間、梁間一間、一重、東端唐破風造、西端西御供所に接続、檜皮葺 19010802
京都市北区上賀茂本山339 賀茂別雷神社 透廊 重文 近世以前/神社 江戸前期 寛永5(1628)頃 桁行三間、梁間一間、一重、南端唐破風造、北端切妻造、檜皮葺 19010802
京都市北区上賀茂本山339 賀茂別雷神社 渡廊 重文 近世以前/神社 江戸前期 寛永5(1628)頃 桁行折曲り三間、梁間一間、一重、両下造、透廊及び直会所に接続、檜皮葺 19010802
京都市北区上賀茂本山339 賀茂別雷神社 祝詞舎 重文 近世以前/神社 江戸前期 寛永5(1628) 桁行五間、梁間二間、一重、東端唐破風造、西端透廊に接続、檜皮葺 19010802
京都市北区上賀茂本山339 賀茂別雷神社 塀中門 重文 近世以前/神社 江戸前期 寛永5(1628)頃 一間塀中門、板葺 19010802
京都市北区上賀茂本山339 賀茂別雷神社 摂社若宮神社本殿 重文 近世以前/神社 江戸前期 寛永5(1628) 一間社流造、檜皮葺 19670615
京都市北区上賀茂本山339 賀茂別雷神社 東渡廊 重文 近世以前/神社 江戸前期 寛永5(1628)頃 桁行六間、梁間一間、一重、切妻造、東端東御供所に接続、檜皮葺 19010802
京都市北区上賀茂本山339 賀茂別雷神社 四脚中門 重文 近世以前/神社 江戸前期 寛永5(1628) 四脚門、切妻造、檜皮葺 末社棚尾社本殿1棟 19010802
京都市北区上賀茂本山339 賀茂別雷神社 御籍屋 重文 近世以前/神社 江戸前期 寛永5(1628) 桁行八間、梁間二間、前面一間通り庇付、一重、東端入母屋造、西端切妻造、庇葺きおろし、檜皮葺 19010802
京都市北区上賀茂本山339 賀茂別雷神社 神宝庫 重文 近世以前/神社 江戸前期 寛永5(1628) 桁行三間、梁間二間、一重、切妻造、檜皮葺 19010802
京都市北区上賀茂本山339 賀茂別雷神社 唐門 重文 近世以前/神社 江戸前期 寛永5(1628)頃 一間薬医門、唐破風造、檜皮葺 左右袖塀2棟 19010802
京都市北区上賀茂本山339 賀茂別雷神社 東御供所 重文 近世以前/神社 江戸前期 寛永5(1628)頃 桁行五間、梁間二間、一重、切妻造、檜皮葺 19010802
京都市北区上賀茂本山339 賀茂別雷神社 直会所 重文 近世以前/神社 江戸前期 寛永5(1628)頃 桁行八間、梁間二間、前面一間通り庇付、一重、東端切妻造、西端楽所に接続、庇葺きおろし、檜皮葺 19010802
京都市北区上賀茂本山339 賀茂別雷神社 楽所及び西御供所 重文 近世以前/神社 江戸前期 寛永5(1628)頃 桁行八間、梁間二間、一重、北端切妻造、南端直会所屋根をこえて入母屋をつくる、檜皮葺 19010802
京都市北区上賀茂本山339 賀茂別雷神社 幣殿 重文 近世以前/神社 江戸前期 寛永5(1628) 桁行四間、梁間三間、一重、入母屋造、檜皮葺 19010802
京都市北区上賀茂本山339 賀茂別雷神社 忌子殿 重文 近世以前/神社 江戸前期 寛永5(1628)頃 桁行四間、梁間三間、一重、入母屋造、檜皮葺 19010802
京都市北区上賀茂本山339 賀茂別雷神社 幣殿忌子殿取合廊 重文 近世以前/神社 江戸前期 寛永5(1628)頃 桁行二間、梁間一間、一重、切妻造、檜皮葺 19010802
京都市北区上賀茂本山339 賀茂別雷神社 高倉殿 重文 近世以前/神社 江戸前期 寛永5(1628)頃 桁行六間、梁間二間、一重、入母屋造、檜皮葺 19010802
京都市北区上賀茂本山339 賀茂別雷神社 楼門 重文 近世以前/神社 江戸前期 寛永5(1628) 三間一戸楼門、入母屋造、檜皮葺 19010802
京都市北区上賀茂本山339 賀茂別雷神社 廻廊(東) 重文 近世以前/神社 江戸前期 寛永5(1628)頃 桁行九間、梁間一間、一端切妻造、他端楼門に接続、檜皮葺 摂社須波社本殿1棟、玉橋1基、末社杉尾社本殿1棟、末社土師尾社本殿1棟 19010802
京都市北区上賀茂本山339 賀茂別雷神社 廻廊(西) 重文 近世以前/神社 江戸前期 寛永5(1628)頃 桁行九間、梁間一間、一端切妻造、他端楼門に接続、檜皮葺 19010802
京都市北区上賀茂本山339 賀茂別雷神社 摂社新宮神社本殿および拝殿(本殿) 重文 近世以前/神社 江戸前期 寛永5(1628) 一間社流造、檜皮葺 19670615
京都市北区上賀茂本山339 賀茂別雷神社 摂社新宮神社本殿および拝殿(拝殿) 重文 近世以前/神社 江戸前期 寛永5(1628) 桁行一間、梁間一間、一重、切妻造、妻入、檜皮葺 19670615
京都市北区上賀茂本山339 賀茂別雷神社 摂社片岡神社本殿および拝殿(本殿) 重文 近世以前/神社 江戸前期 寛永5(1628) 一間社流造、檜皮葺 19670615
京都市北区上賀茂本山339 賀茂別雷神社 摂社片岡神社本殿および拝殿(拝殿) 重文 近世以前/神社 江戸前期 寛永5(1628) 桁行一間、梁間一間、一重、切妻造、妻入、檜皮葺 19670615
京都市北区上賀茂本山339 賀茂別雷神社 片岡橋 重文 近世以前/神社 昭和 昭和元(1926) 木造廊橋、桁行一間、梁間一間、唐破風造、檜皮葺 19670615
京都市北区上賀茂本山339 賀茂別雷神社 拝殿(細殿) 重文 近世以前/神社 江戸前期 寛永5(1628) 桁行五間、梁間二間、一重、入母屋造、檜皮葺 19030415
京都市北区上賀茂本山339 賀茂別雷神社 舞殿(橋殿) 重文 近世以前/神社 江戸末期 文久3(1863) 桁行六間、梁間一間、一重、入母屋造、檜皮葺 19030415
京都市北区上賀茂本山339 賀茂別雷神社 土屋(到着殿) 重文 近世以前/神社 江戸前期 寛永5(1628)頃 桁行五間、梁間二間、一重、入母屋造、檜皮葺 19030415
京都市北区上賀茂本山339 賀茂別雷神社 楽屋 重文 近世以前/神社 江戸前期 寛永5(1628)頃 桁行三間、梁間二間、一重、切妻造、檜皮葺 19030415
京都市北区上賀茂本山339 賀茂別雷神社 外幣殿 重文 近世以前/神社 江戸前期 寛永5(1628)頃 桁行五間、梁間三間、一重、入母屋造、檜皮葺 19030415
京都市北区上賀茂本山339 賀茂別雷神社 北神饌所(庁屋) 重文 近世以前/神社 江戸前期 寛永5(1628)頃 桁行十三間、梁間四間、一重、入母屋造、檜皮葺、奈良神
August 4,2024 大野木康夫 source
movie
賀茂別雷神社
早朝、二の鳥居開門5時30分直後に訪問しました。
その時間から、断続して朝の参拝をされる人、ジョギングをする人が境内を訪れます。
駐車場付近の夏向けの掲示は奈良の小川での水遊びに関するものでした。
二の鳥居
楽屋(重要文化財)
拝殿、舞殿、土屋
拝殿(細殿)(重要文化財)
舞殿(橋殿)(重要文化財)
土屋(到着殿)(重要文化財)
楼門(重要文化財)
楼門の開門時間は8時なのでまだ閉まっています。
須波社(重要文化財の附指定)
玉橋(重要文化財の附指定)
廻廊(西)、高倉殿(重要文化財)
廻廊(東)(重要文化財)
片岡社
片岡橋(重要文化財の附指定)
摂社片岡神社拝殿(重要文化財)
摂社片岡神社本殿(重要文化財)
摂社川尾社
忌子殿(重要文化財)
神宝庫(重要文化財)
幣殿、幣殿忌子殿取合廊、忌子殿(重要文化財)
四脚中門(重要文化財)
幣殿
岩本社
外幣殿(重要文化財)
奈良の小川
北神饌所(庁屋)(重要文化財)
June 4, 2022 野崎順次 source movie
京都府京都市北区上賀茂本山339
上賀茂神社
今回の主目的は中根金作作庭の渉渓園の撮影である。
アプローチ
朱塗りの巨大な一ノ鳥居をくぐると、参道の両側には芝生の広場が広がります。この広場は日頃市民の憩いの場として、また5月5日には京都市登録無形民俗文化財の「競馬会神事」(くらべうまえじんじ)の馬場にも使われます。
(中略)
参道を北側へと進むうちに東側の広場へ立ち寄ると、広場のちょうど北側から東側にかけて、小川が流れていることに気づきます。北側には神事に使う祭器(祭りに使う器具)を洗い清めた「御物忌川」(おものいがわ)と、人を清める役割を果たしている「御手洗川」(みたらしがわ)があり、これらは本殿を東西両側から挟むように流れています。2本の小川は橋殿付近で合流し、「ならの小川」と呼ばれて広場の東側から境内の外へと注ぎ、やがて明神川と名を変えます。
(ローム彩時記サイトより)
賀茂曲水宴開催の地 渉渓園(しょうけいえん)
奈良社の北側には平安時代末期の様式を真似て造られた庭園「渉渓園」(しょうけいえん)があります。この庭園では、平安装束に身を包んだ東西一流の歌人たちが川に杯を流しながら和歌を詠む、「賀茂曲水宴」(かもきょくすいのえん)などの祭事が行われます。
(ローム彩時記サイトより)
願い石
国重文末社岩本神社
帰途
国史跡 御土居(北東隅)
April 9,2022 大野木康夫
source movie
日の出時刻、満開の斎王桜
御所桜はすでに葉桜
Nov.25,2021 瀧山幸伸
May 9,2019 大野木康夫 source movie
大田神社のカキツバタ
早朝の撮影
March 31,2018 大野木康夫 source movie
早朝参拝
目当ては御所桜(シダレザクラ)と斎王桜(ベニシダレザクラ)です。
例年、斎王桜が咲くころには御所桜は散ってしまいますが、今年は急に暖かくなって御所桜が満開の時に斎王桜が開花しました。
参拝駐車場から馬場に入ると、御所桜は満開、斎王桜は5〜7分咲きでした。
帰路
遅めの初詣
神馬
二ノ鳥居、拝殿(細殿)、舞殿(橋殿)、土屋(到着殿)、楽屋、ならの小川
楼門付近
須波社、片岡社、玉橋
楼門内
幣殿、幣殿忌子殿取合廊、末社棚尾社本殿、直会所、四脚中門
本殿東側
土師尾社、東渡廊、本殿東渡廊取合廊(屋根)、本殿(屋根)、権殿(屋根)、透廊、唐門、東御供所、御籍屋
摂社新宮神社本殿及び拝殿
忌子殿、神宝庫
京都府京都市北区上賀茂山本町、上賀茂池殿町、中大路町、南大路町、上賀茂藤ノ木町など
主要区域は、国の「上賀茂重要伝統的建造物群保存地区」、京都市の「上賀茂伝統的建造物群保存地区」に指定されている。
賀茂という地名は古代神話より始まります。神武天皇が紀州熊野から大和に入る際、八咫烏として先導した賀茂建角身命を祖とする賀茂氏一族の居住地を指し、この一族が山城北部に定着してこの地方一帯を開拓した古代豪族だといわれています。
下鴨神社はこの建角身命とその女王依姫命を祀り、上賀茂神社は玉依姫命の子別雷命を祀った氏神社で、この下上社を総称して賀茂神社といいます。両神社は代々賀茂一族が祠官として奉仕してきました。上賀茂神社門前の明神川のほとりには、賀茂氏一族が住んでいる社家町があります。
上賀茂に社家集落が形成されたのは室町時代と言われています。上賀茂神社では、古くから賀茂氏一族の中から社務職を選んでいましたが、鎌倉時代以降は、後鳥羽天皇の血筋を組む一族「賀茂七家」が賀茂一族にかわって社務職を独占しました。
社家町は明神川沿いに土塀を巡らせ、石橋を渡って門を入ります。明神川の水は各家々に引き込まれており、神官たちはその水で「みそぎ」行っていました。
神社の鳥居よりも高い建物はいけないと言うことで、明神川沿いの建物はみな平屋か厨子二階。土塀越しには屋根しか見えませんが、本瓦の質感など堂々とした風格ある佇まいを見せています。
(一期一会「古い町並みと集落・古都ウェブサイト 上賀茂社家町」より)
明神川を挟んで上賀茂池殿町(南)と上賀茂山本町(北)
京都市指定文化財(名勝)上賀茂の社家(西村家庭園)
パンフレットと現地説明板
門から玄関へ
西村家別邸室内
北庭
西庭
東の奥庭(南庭)
上賀茂中大路町、上賀茂南大路町(南)と上賀茂茂山本町(北)
上賀茂藤ノ木町(北)から上賀茂北大路町(北)
藤木社
京都市登録有形文化財 井關家住宅
大田神社へ向かう。梅の花が満開。
北大路魯山人生誕地、福徳神社
天然記念物 大田の沢のカキツバタ群落(見ごろは5月)
大田神社
February 15, 2015 野崎順次 source movie
上賀茂社家町
(Kamigamo-Shakemachi, Kita-ku, Kyoto City, Kyoto Pref.)
京都府京都市北区上賀茂池殿町、中大路町、上賀茂山本町
京都市北部の上賀茂神社の東にあり、室町時代より発展した門前集落である。上賀茂神社から流れ出る明神川沿いに、神官の屋敷である社家が連続し、社家町を形成している。主屋は敷地に奥まって建ち、切妻造・平家建・妻入の特色ある形態を備える。主屋とこれを囲む土塀、庭園、門、明神川にかかる土橋等が、独特の歴史的風致を構成している
(「文化遺産オンライン」より)
夕方に「上賀茂重要伝統的建造物群保存地区」のほぼ西半分だけを撮影した。
境内西側の紅葉と勝負のモミジ
訪問した日、鎧作り体験教室を行っている「鎧廼舎 うさぎ塾」主宰の「鎧着初式」が行われていました。
鎧兜は参加者(保護者)の手作りで、重い鋳鉄部分などは紙製ですが、色鮮やかな組紐で威したもの(都よろい)です。
神様の通り道といわれる玉橋を渡り、本殿に参拝する本格的な行事です。
橋殿付近の紅葉
渉溪園、ならの小川、岩本社
北神饌所付近
ならの小川
勝負のモミジ、境内西側
賀茂別雷神社(上賀茂神社)
撮影 Mar 30,2013
斎王桜(ベニシダレ)と御所桜(シダレ)
斎王桜はまだ蕾でした。
御所桜は満開
外幣殿
北神饌所(庁屋)
神楽
岩本社と奈良の小川
拝殿(細殿)では結婚式が続けざまに挙行されていました。
楽屋
土屋(到着殿)
舞殿(橋殿)
楼門
須波社から本殿方向、修理中。
須波社
片岡社
忌子殿
幣殿
幣殿忌子殿取合廊
神社の北にある「神山」に神が降臨し、天武天皇の頃には神社としての基盤が出来ていたとされる。
正式名称を「賀茂別雷(かもわけいかづち)神社」といい、古来朝野の崇拝を集める賀茂社の上社とされ、賀茂祭(葵祭)の行列が最終に到着するのは当社で、社頭の儀では勅使が奉幣する。幕末の文久3年(1863)には、孝明天皇が徳川家茂・一橋慶喜らと共に行幸した。国宝の本殿権殿はその折に建てられた。
社殿は、中世末の戦乱で荒廃した後、寛永5年(1628)に復興したもの。平安時代以来の姿を極めてよく伝えているとされ、多数が国宝や重要文化財に指定されている。
上賀茂御薗橋から賀茂川を渡ると、上賀茂神社の広い境内となる。
平成6年(1994)「古都京都の文化財」の一つとして世界文化遺産に登録されている。境内は69万㎡と広大である。
現在、上賀茂神社では2年半後の第42回目式年遷宮に向けて準備中であり、平安時代の佇まいを留める境内を、次世代に継ぐべく景観の維持に努力されている。
ところで、百人一首にも詠まれ、古地図にも記されている境内を流れる「ならの小川」に涼を求め、その流れを軸に諸社殿を巡った。
境内を流れる川筋に建つ社殿と景色を写してゆく。
カモガワマップ
雲ケ畑と鞍馬・貴船方面から流れてきた川が交わり「賀茂川」になると、「上賀茂神社」のエリアにさしかかる。
上賀茂神社境内には、賀茂川の支流・御手洗川(みたらしがわ)と神山を源とする御物忌川(おものいがわ)が本殿南西で合流して(ならの小川)となり、合流後南下して境内地を流れ、境内を出ると明神川と称される。
御手洗川
鴨川から分流した流れは、本殿・権堂(国宝)裏の流路から勢いよく境内に流れ込む。御手洗川は人を清めるために用いられる。
葵祭では、舞殿(橋殿)で斎王代と女官達が十二単衣装に身を包み、神前でお祓いを受けた後、御手洗川に手を差し入れて身を清める。
樟橋(長寿橋)の下を流れ、名水“神山湧水”の手水舎の横を過ぎて、御物忌川と合流する。
樟橋は一見石橋にみえるが、実はクスノキの化石である。この橋を渡ると長寿になるといわれる。
手水舎は、神山のくぐり水を汲み上げたもの。名水とされる。
御物忌川
神山から流れ出た御物忌川。神事で用いる祭器類を洗い清めるために使われる。
片山御子神社(国重文)・須波神社(国重文)の傍を流れる。
片山御子神社は、御祭神が玉依比売命で、賀茂県主族の祭祀権を握っていた最高の女性であったため、本宮恒例祭の時は、本宮の祝詞奏上前に
片岡御子神社で祝詞を奏上する。皇室の崇敬篤い。紫式部もお参りした由緒ある神社。絵馬は“葵の葉”に似せて作られている。
片岡橋・玉橋(いずれも国重文)の下をくぐり、直ぐ先で御手洗川と合流する。
片岡橋
木造廊橋、唐破風造
玉橋
御物忌川と御手洗川は楠橋と禰宜橋の間で合流する。
合流後は舞殿(橋殿 国重文)の下を流れ、その後は、「ならの小川」と名を変え、北から南へ向かう。
禰宜橋(左)〜舞殿〜祝橋(右)
舞殿、土殿とならの小川
<夏越の大祓>の歌碑と紫式部の歌碑
神事橋と夜具橋
神事橋は外幣殿近く、夜具橋は奈良鳥居近くにある。それぞれいわれを持つ橋である。
渉渓園
約500坪の広さがある。かつてこの地には、神仏習合期に神宮寺の池があったという。
昭和35年(1960)に現代の作庭家・中根金作(1917- 1995)により平安時代後期の庭園が作庭された。「賀茂曲水の宴」(4月第2日曜日)は、ならの小川からの分水(沢田川)を使い、かつて宮中で行われていた雅が再現される。曲流の周辺に、桜、楓、ツツジ、馬酔木などが植樹されている。
庭園内を巡った水はならの小川にもどる。
みそぎ
川べりには随所に“石段・石積のコーナー”が設けてある。神事前にこの場所で“みそぎ”を行う。夏越の神事では、競馬会(くらべうまえ)の御鞭洗いの儀も行なわれる。
ならの小川周辺の景観
夏の憩いの場である 清流に“涼”を求めるいろんなパターンがあった。
ならの小川の一部は境内を出ると、明神川という名で社家の町並を通り、再び賀茂川の本流へ合流する。
二葉姫稲荷社
見晴らし良好。大文字山や京都タワーが見える。
建造物
当社の社殿は、概ね円柱に舟肘木を用い、木鼻や蟇股などの彫物はほとんど使用しない、古式な和様になっている。
境内図
バス駐車場、売店の先に一の鳥居が建つ。順次、境内入口より主な社殿を見てゆく。競馬神事に使う馬場も近い。
一の鳥居
明神鳥居、杉材、丹塗り、高さ7m。大正7年(1918年)建立。南面向き。表参道は幅6m、長さ160m。葵祭では斎王代らが腰輿を降りてここより徒歩で参進する。
外幣殿(国重要文化財)
法皇・上皇等の御幸、摂関賀茂詣の際の著到殿又競馬会神事・葵祭に使用する。
神馬舎
土・日には白馬がいる。
二の鳥居
昭和26年(1951)建立。明神鳥居、杉材、丹塗り、高さ6.7m 南西向き
二の鳥居をくぐってすぐ右手に建つ。
楽社(がくのや)(国重要文化財)
神仏習合時代に供僧秦が用いていた。
二の鳥居の正面に社殿が並ぶ、左側から順番とする。
細殿(拝殿)(国重要文化財)
天皇・法皇・上皇・斎王のみが昇殿を許された。葵祭では斎王の御著到殿として使われる。祭殿前で、烏相撲や土解祭が行われる。
立砂(たてすな)
白川砂の先端に松葉が3本(陰)と2本(陽)立ててある。斎砂を撒き清める風習はここから始まる。
神が降臨する依代(よりしろ)で、神体山である神山(こうやま)の円錐形をかたどったもの。降臨する場所は形のいいもの(松や山)や清らかな女性とされる。
舞殿(ぶでん 橋殿)(重要文化財)
建物は御手洗川の上を跨いで建てられている。往古より勅使御拝の殿舎。 葵祭の際に勅使の拝殿となり、紅紙(くれないし)の御斎文(ごさいもん)を奏上する。葵祭りでは、勅使がここで御祭文を奏上し、引き続き東遊びが奏される。
土屋(到着殿)(重要文化財)
旧来は、神主以下の社司の到着殿であったが、現在では、祭典奉仕の祓所となっている。
少し戻って、西鳥居のほうに向かう。細殿の左側に御札の授与所、そして西鳥居である。
道路をへだてた正面が社務所
その右側が勅使殿
社務所を背にして道路に立つと、左側に、神体山である“神山(こうやま)が僅か見える。
神山
神代の昔、当社のご祭神:賀茂別雷神が天より降りてこられた山(禁足地)本殿の後方約2kmの処にあって、頂には降臨石を拝し
山麓には御阿札所を設け厳粛な祭祀が斎行されてきた。
再度戻って、御手洗川に懸かる舞殿を渡る。
渡った少し先に、やや盛り上がった岩場がある。「岩山 がんじょう」と呼ばれる。
岩山
賀茂祭(葵祭)の際、ここで宮司が神との仲執り持ちとして宮中からのお使いである勅使に向かい、神意を伝える大事な舞台となる処である。
一見岩場のように見え、古代人のおまつりの形態を古く留めているのがこの「岩山」。神山と共に賀茂信仰の原点として、“氣”の集中する神聖な場所として、パワスポットと呼ばれ、ここで祈願される人が増えているとか。
玉橋と片山橋(いずれも重要文化財)
楼門と左右の回廊(重要文化財)
この朱塗りの楼門が本殿・権殿への入口となる。
回廊内右手に祈祷殿、左手に高倉殿が建つ。(いずれも国重要文化財)
楼門より石段を登って四脚中門にいたる。
中門(重要文化財)
両側に西局、東局を繋いでいる。初詣期間中は祝詞屋の前まで入ることができる。
その右手に御籍屋、左手に直会所(なおらい)・楽所・西御供所がある。中門より透廊が延び、本殿・権殿取合廊に接する。
権殿・本殿(いずれも国宝)
参拝は中門までで、その奥は通常参拝できない。
幕末の文久3年(1863)に、孝明天皇が徳川家茂・一橋慶喜らと共に行幸された。本殿権殿はその折に建てられた。権殿は本殿の代理の神殿で
本殿を修理する時など神が一時的に遷られる。
周辺と配置図
本殿・権殿とも正面の扉両脇の嵌板に狩野派の獅子・狛犬の絵を描く。(引用 世界遺産・日本)
奈良鳥居
少し離れた所にある
北神饌所(庁屋 ちょうのや)(国重要文化財)
往古より神様のお供え物を調理していた御殿。中古政庁として兼用し政庁または庁屋といった。
奈良神社
北神饌所の前に建つ。料理・食物の神様を祀る。
校舎(あぜくら)(国重要文化財)
古来御器御庫という。三手(みて)文書が保管されている。江戸時代の国学者、今井以閑の蔵書による。
≪お勧め処≫
上賀茂御薗橋を渡り、神社一筋手前の道を左に。両店は横並びにある。
神馬餅
その場で食するのが最高に美味い。
今井屋
サバ煮込弁当
二日煮込んで、三日目に食べる。骨まで溶け込んでいる。創業42年。売り切れゴメン。Am11::00〜 味はやや濃い目だが上々。
<参考資料>
上賀茂神社と下鴨神社の比較≪引用 小嶋一郎氏資料≫
上賀茂地区
京都市北区上賀茂藤ノ木町
この地区は、上賀茂神社周辺に広がる同社社家(しゃげ)の住宅及び農家・町家が混在する町並である。
明神川沿いの藤の木通りを中心とした上賀茂の社家町は、室町時代から計画的につくられた人工の町で、上水や排水などの水路が見事に整っている。
川沿いには、賀茂式の切妻屋根をもつ平屋建ての住宅が並び、石橋、土塀、門や妻飾りのある主屋や土塀越の庭の緑など、独特で古雅な景観を造り
出しており、沿線約2.7haは重要伝統的建造物群保存指定地区に指定され、全体の景観が保全されている。
上賀茂神社の境内を流れる清流は神社境内では「ならの小川」、境内を出ると「明神川」と名を変える。
神官たちはこの川の水で、神道の「みそぎ」行っていた。各々、屋敷に引き込んだ明神川の水をかぶって身を清めたのだ。ここに並んだ屋敷にはそれぞれ
庭園があって、水が流れこむ池がある。つまり明神川の分流の水で「みそぎ」を行ったのである。
藤ノ木通に並ぶ社家の屋敷。 その独特な社家の佇まいは家町を象徴する貴重な歴史的遺産である。
社家探訪 殆どが非公開のため外観のみである。
社家の特長を列挙すると以下の通りとなる。
屋敷構え:屋敷の周囲に土塀を巡らせて正面には表門を開き、その奥に主屋を配する。主屋平面:式台付玄関、座敷、供待ち等を備え、
接客空間を重視した平面構成となっている。主屋立面:屋根の妻面を叉首や束・貫で飾る、
等があげられる。
明神川沿いに見られる苔むした土橋、清々しい土塀や門、清楚な妻飾りの棟の低い母屋、土塀越にのぞかせる緑豊かな樹木、さらに
屋敷内の前庭に取水した水は明神川に返すというルール。これらの景観が連続して並んでいる。
津田家住宅
表札は「織紬のつだ」。お店を営まれている。藤の木通から明神川を渡って入る邸宅。薬医門に通ずる稜線それに直交して連なる土塀
の眺めは象徴的な景観である。式台玄関、鳥居の形をした内玄関、ベンガラ塗りの軒裏など全てが整っている。鑓水(やり)を設けた
主庭。“竜の口”という排水施設、南側塀よこの水路など社家住宅の特長を具現化している。
某家住宅
津田家のお隣。柱と梁を表した妻壁をもつ上賀茂社家特有の外観である。明神川の取水、排水口も納得。
某家住宅
落着いた佇まいである。
某家住宅
明神川に接してない住宅。庭園には立派な樹木が育つ。川の水の取り入れも万全であろう。
すぐき店『なり田』
老舗の漬物屋さん。創業文化元年(1804)代11代将軍徳川家斉の頃。実際に付け始めてから300余年経過とか。この年に「すぐきはたとえ一本といえども他村へ持ち出すことを禁ず」と朱書きされた御触書「就御書口上書」が出された。これにより、すぐき菜が門外不出の固有種
として京都・上賀茂で守られるようになった。
御触書と時を同じくして「なり田」は「すぐき漬け」を売る京漬物屋として創業した。実際につくり始めたのは創業からさらに遡り、今から300年ほど前。「なり田」は
その頃からずっと変わらず、「すぐき漬け」をつくり続けてきました。
なお、「なり田」の正式名は「御すぐき處なり田(おんすぐきどころなりた)」です。先代社長が「昔ながらの正統な製法で【すぐき漬け】をつくりあげていることを明確にしたい」との気持ちから名づけたものです。(なり田HP)
土塀に囲まれた社家である
料亭を想わせる佇まい
暖簾や包装紙は「鈴」のマーク。お客さんが「すずなり」となってお店に来てもらえるよう。「なり田」の「成り」と鈴の「なり」をかけた。
某家住宅
落ち着きが感じられる。
某家住宅
重厚感が出ている。
某家住宅
アプローチも長い
京都産業大学
周囲の環境にあわせての設計か。
井関家住宅
京都市有形文化財
主屋は江戸時代中期。3階建ての望楼“石水楼”は明治初期によるもの。薬医門形式の表門や土蔵も残る。土蔵は弘化4年(1847)のもの。
式台玄関と鳥居の形の玄関を持ち、主屋の上に望楼“石水楼”がそびえる。南面には妻壁がある。社家特有の外観を保つ。石水楼の三階は三方が硝子窓で
古き時代の磨き硝子が使われているようだ。お店を営まれており、鳥居形の玄関より中の土間と式台奥の玄関の間に手鮮やかな手つくりのにおい袋んどの小物
が並べられている。
望楼の内部は、1畳分の空間に廻り階段が配置されている。石水楼の三階は三方が硝子窓で古き時 代の磨き硝子が使われているようだ。
某家住宅
味わいのある意匠が秀逸な雰囲気をかもし出している。
電柱も姿を消していた素晴しい景観の町並と社家はまだ続くが、省いて先に進む。
藤木神社とその周辺
明神川はゆるやかなカーブを描いて藤木神社近辺にくる。
藤木神社
上賀茂神社の境外末社で、瀬織津姫神を祭神とする。明神川沿いに佇む小祠で、樹齢500年といわれるクスノキの下に祀られている。
明神川はこの近辺で町並から外れて流れ、賀茂川へ合流する。
本道から外れ、藤木神社横の南への道を辿る。土塀が続きこの一帯にも社家が建つ。
道の門に建つ土塀に囲まれた大邸宅、以前は社家であったか不明。
さらに少し進むと大邸宅に出合う。『天下一品』の社長さんの邸宅と耳にする。土塀が続き、明らかの元社家の地に建てられたもの。
敷地内に、遺構が説明付きで残されていた。土蔵
中門、土塀
上賀茂小学校校門
上賀茂村役場の門を移築した。風格のある四脚門。社家にも深く関わったと思われる。木鼻やゴリゴリした傷跡
さらに前へ進む。社家を思わせる建屋や土蔵がみられる。
岩佐家住宅 非公開
岩佐家は代々上賀茂神社に仕えていた社家である。
主屋、土蔵、土塀、及び庭園が残る遺構は、京都市指定有形文化財、及び指定名勝に指定されている。
土蔵が最も古く江戸中期宝暦14年(1764)に建築され、その他も天明5年(1785)にほぼ現在の配置が出来上がり、屋根のみ切妻屋根に改修された。
南大路町の南端に位置し、ここが社家町の南端といえる。
表門から見る表情は供待ちを脇に控えた鳥居の形の玄関と、漆喰塗りの妻壁の組合せなど特有なものである。妻壁は貫の本数が多く壮大な意匠である。
座敷は畳を外せば能舞台になるという。
藤木神社近くにある明神川の分水堰から、南大路通に沿って支流が南流する。川沿い以外の社家はこの流れを利用して、生活用水とみそぎ用に使われる。
土塀の下の取水口から入った水は池を潤しまた流れに戻る。当家の先祖は池水で禊をして身を清め出仕した。そのため池の護岸まで水垢離で用いられた
飛石状の石段で結ばれているとされる。
春にはしだれ桜が豪勢で、美しいく大勢の人が詰め掛ける。
梅辻家住宅
京都市北区上賀茂北大路町
京都市指定文化財
明神川沿いに、上賀茂神社の神官の屋敷が建ち並ぶ社家町は「伝統的建造物群保存地区」に指定され、小橋や土塀など今も風情ある町並みを残している。
梅辻家は、代々上賀茂神社に使えており、上賀茂神社社家の中でも、「賀茂7家」の一つに数えられた由緒ある家柄。他の六家の多くが移転
したため、上賀茂に残る唯一の「賀茂七家」の遺構となり、昭和61年(1986)に長屋門、主屋(おもや)と書院などが「京都市指定文化財」になった。屋敷は上賀茂神社の東方、藤木社を過ぎた所にある。
桟瓦葺きの長屋門が開き、その後方に主屋が南面して建つ。多くの門は薬医門であるが、梅辻家の設けてあるのは長屋門で、上賀茂に二つ残
る長屋門の一つである。
長屋門をくぐると正面の式台まで延段が続く。正面に入母屋造の屋根がかかった式台と、白い漆喰壁が社家受託であることを印象図ける。
上賀茂の社家住宅には、高貴な客人を迎える玄関・式台(表玄関)と、普段の出入に使われる内玄関があり、内玄関は社家の特長として枠組み
が鳥居の形になっている。式台横にはお供が待つ供待ちが残されている。
主屋は切妻造で、妻面は立ち上げた束(つか)と水平の貫(ぬき)で妻飾りとし、上賀茂の典型的な社家住宅の様式である。屋根の高さは上賀茂神社の一の鳥居より低くするよう定められていた。鬼瓦には梅辻家の家紋「松皮菱(まつかわびし)」が焼きこまれている。
書院
江戸時代の御所の学問所を移築したとされる。優雅な反りが見られる屋根は、かつて桧皮葺であった。破風の木連格子が他の社家とは違う事を
示している。
御所の中では私的に使われた部分であったことを示す黒書院造で、天井、柱、鴨居、欄間など全てが黒く塗られている。古式で格調高い意匠を
持つ。数奇屋風書院造、書院花頭窓、左端床柱がタケノコの形に注視 「引用 パンフレットより」
右手の中門から座敷部の前に通じる。庭はさほど広くない。
庭から書院を見る。書院には、豊臣秀吉から貰った書状の写しや、徳川将軍家に拝謁する時のための江戸城の絵図などの展示がある。
釘隠の飾り金具や障子取手の金具の意匠も見所である。
明神川に沿っている社家住宅は、直接水を取り入れて、生活用水とみそぎ用に使われている。みそぎ用は神社に出仕する前の清めと
される。山側の社家住宅では、生活用水用とみそぎ用に井戸を二個掘って対応されている、この一帯は元は賀茂川の河川敷であった
ことから、水は豊富に出た。
滝の口(りゅうのくち)
水はけをよくする排水の土木技術。この技術は、古い時代に秦氏との交流によって手に入れたものといわれる。
所々凝った仕様が見られる。
社家住宅で、常時一般公開されている社家「西村家」とはまた違う、上賀茂の社家の姿を見る事が出来る。
西村家住宅と庭園
北区上賀茂中大路町1
庭園:京都市指定名勝
上賀茂神社境内の前を流れる明神川沿いに拡がる(伝統的構造物群保存地区)の一角にあって、世襲神職の家柄である「社家」の遺構を伝える。
社家の中で唯一常時公開しており、現存する社家の中でも古い社家で、昔の面影をとどめる庭園を拝観することができる。
立派な土塀に囲まれ、明神川に沿って建つ。
社家である錦織家の旧宅であったが、西陣の織物商、西村家八代目清三郎が買い取り、明治の中期から後期に建替えられたもの。
部屋は座敷、茶の間、仏間、書院などにわかれる。
西村家は庭園が素晴しい。書院前の庭園は、養和元年(1181)上賀茂神社の神主(現在の宮司)藤木重保が作庭したとされる。
特に書院からの眺めがすこぶるいい。
庭内には明神川の水を取り入れ“曲水の宴”のための小川(曲水川)の水としたあと、もとの明神川へ返す工夫がされている。
庭園の中央には上賀茂神社のご神体山である神山(こうやま)に見立てた降臨石の石組みも見られる。
奥庭は別にある。
約1300㎡の庭園には川や池、古木が見られる。また、奈良時代に流行した浜洲や雪見灯篭、鞍馬石、一枚石の石橋、など奈良から江戸期の
手法が見られ手の込んだ造りになっている。
神事の前の“みそぎ”を行う石積・段の場が多く設けてあって、みそぎが基本の神官の暮らしぶりもわかり、いにしえの社家庭園の趣きが感じ
られる。
取り入れた水はもとの明神川にもどす工夫がされている。
明神川と橋
北大路魯山人生誕地の碑
大田神社前に建つ。社家の出身であった。
北大路魯山人は、上賀茂神社の社家に、父北大路清操、母とめの次男として生まれる。 6歳の時に竹屋町の木版師 福田武造の養子となる。
北大路魯山人は篆刻家・画家・陶芸家・書道家・漆芸家・料理家様々な肩書きを持つ明治期の芸術家。
May,2012 大野木康夫 source movie
大田神社
大田神社は賀茂別雷神社(上賀茂神社)の摂社の一つです。
大田ノ沢のカキツバタ群落(天然記念物)
小池ノ中ニ在リ
かきつばたハ濃紫花ナルヲ普通トスルモ稀ニ白色ヲ着クルモノアリ
舊時此ノ地方ノ沼澤ニ存在セルかきつばた群落ノ一部ノ今日ニ遺レルモノナリ
(国指定文化財等データベースより)
May 2012 大野木康夫 source movie
賀茂競馬
Kamokurabeuma
競馬は、宮中武徳殿で行われていましたが、寛治7(1093)年から賀茂別雷神社で行われることになりました。
その際に競馬料所として20箇所の荘園が寄進され、出場する馬は各荘園から1頭ずつ寄進されていたということです。
本殿で行われる奉幣の儀に向かう所役
旧社家の方々が奉仕されています。
先払いに続く衣冠束帯の二人は念人(ねんじん。黒が左方(さかた)で四位相当、赤が右方(うかた)で五位相当)、つき従う童子は扶持、騎手は乗尻(のりじり。赤が左方、黒が右方)です。
馬が芝生の西側に設けられた埒(らち)と呼ばれる馬場に向かいます。
本殿の修理が終わり、臨時結婚式場となっていた細殿が元に戻っていました。
埒の北端に集まる馬
馬が埒を何回か往復します。
警護役の子どもが埒内を往復します。
昔は鉄の鎧で転ぶと起き上がれなかったようですが、今はプラスチックの軽い鎧になっているそうです。
奉幣の儀を終えた左方の乗尻が馬場を左右に蛇行しながら南の控え場所に向かいます。(九折南下)
神主が頓宮脇に着座します。
右方の九折南下
高い台に乗っているのは左方の念人の後見です。
第一の番
左方は美作国倭文庄、右方は加賀国金津庄です。
埒の中ほどまでを何回も往復して馬を馴らします。(三遅、巴、小振)
倭文庄は江戸時代に馬を出したのが京都所司代なので、毎年必ず勝つことになっており、朱房で飾られた馬具、紅白の手綱はこの馬だけです。
第二の番
左方は出雲国出雲庄、右方は備前国竹原庄です。
勝った方は褒美の絹布を肩に懸け、頓宮に参拝します。
第三の番
左方は美濃国脛長庄、右方は三河国小野田庄です。
三番が終わると、警護役の子どもたちが帰ります。
頓宮前に立ててあった鉾が倒されます。(鉾を収める)
神様はここで本殿にお帰りになるそうです。
第四の番
左方は近江国舟木庄、右方は淡路国淡路庄です。
第五の番
左方は能登国土田庄、右方は阿波国福田庄です。
第六の番
左方は播磨国安志庄、右方は若狭国宮川庄です。
2012.3.13撮影
上賀茂神社も江戸時代までは20年に一度式年遷宮を行っていました。
現在は社殿のほとんどが国宝、重要文化財に指定されており、取り壊して新しく建て直すことはできないので、
式年遷宮として大規模な修理を行っています。
撮影に行った日は、本殿、権殿、直会所などの葺き替え修理中でした。
また、夏からは新宮神社本殿及び拝殿の葺き替えも始まるのと、辰年にちなんで、高(雨かんむりに龍)神(たかおかみのかみ)すなわち龍神を御祭神とする新宮神社の特別公開が行われていました。
賀茂別雷大神が御降臨になったとされる神山(禁足地)
普段の結婚式場は御籍屋(重要文化財)なのですが、本殿等が工事中の期間は、拝殿(細殿)(重要文化財)に仮の囲いを設け、結婚式場として使用されます。
楼門(重要文化財)周辺
普段、正月以外は閉じられている新宮門が開けられています。
摂社新宮神社拝殿(重要文化財)
寛永5(1628)年の建築
桁行一間、梁間一間、一重、切妻造、妻入、檜皮葺
普段は塀の隙間から正面だけ見えています。
葺き替え前なので、屋根に草木が生えていました。
摂社新宮神社本殿(重要文化財)
寛永5(1628)年の建築
一間社流造、檜皮葺
拝殿の奥にあるので普段は見えません。
唐門(重要文化財)
寛永5(1628)年頃の建築
一間薬医門、唐破風造、檜皮葺、左右袖塀附属
普段は横からしか見えません。
東御供所(重要文化財)
寛永5(1628)年頃の建築
桁行五間、梁間二間、一重、切妻造、檜皮葺
唐門の北側にあり、普段は近づけないので撮影できる角度が限られています。
神宝庫(重要文化財)
寛永5(1628)年の建築
桁行三間、梁間二間、一重、切妻造、檜皮葺
北東側から撮影できました。
本殿が少しでも見えていれば撮影はできないと思いますが、唐門の右袖塀の上に東渡廊(手前)と本殿東渡廊取合廊(奥)(ともに重要文化財)の屋根が覗いていました。
奥の覆いは本殿です。
他の社殿もついでに撮影しました。
忌子殿
摂社片岡神社
舞殿(橋殿)
土屋(到着殿)
楽屋
外幣殿
拝殿周辺
所在地 京都府京都市北区上賀茂本山339
2011.8.27撮影
賀茂別雷神社の国指定文化財の建物は数多くあり、撮影ができないものも多いのですが、撮影が許される範囲で紹介したいと思います。
なお、文中に出てくる建物のうち、本殿、権殿は国宝、他は重要文化財に指定されています。
境内風景
撮影当日は雨が降っていました。
奈良の小川とその周辺
いつ来ても結構早く流れています。
外幣殿(御所舎)
寛永5(1628)年の建築
桁行五間、梁間三間、一重、入母屋造、檜皮葺
二の鳥居手前の参道東側にあります。
周りには芝生が広がっています。
北神饌所(庁屋)
寛永5(1628)年頃の建築
桁行十三間、梁間四間、一重、入母屋造、檜皮葺、奈良神社拝殿附属する
二の鳥居手前で奈良の小川の東側にある指定文化財はこれだけです。
十三間の長大な建物なので、斜めからしか全景を写すことはできません。
舞殿(橋殿)
文久3(1863)年の建築
桁行六間、梁間一間、一重、入母屋造、檜皮葺
細殿の東側にあり、奈良の小川に架かっています。
土屋(到着殿、土舎)
寛永5(1628)年の建築
桁行五間、梁間二間、一重、入母屋造、檜皮葺
橋殿の東側、奈良の小川のほとりにあります。
少し黒く見える社殿です。
楽屋(楽舎)
寛永5(1628)年の建築
桁行三間、梁間二間、一重、切妻造、檜皮葺
二の鳥居を入ってすぐ右手にあります。
他の社殿と少し離れています。
去年、檜皮の葺き替えが終わりました。
拝殿(細殿)
寛永5(1628)年の建築
桁行五間、梁間二間、一重、入母屋造、檜皮葺
二の鳥居の正面にあります。
正面二箇所に立砂が盛ってあり、よく写真で見る社殿です。
楼門
寛永5(1628)年の建築
三間一戸楼門、入母屋造、檜皮葺
廻廊(西)
寛永5(1628)年頃の建築
桁行九間、梁間一間、一端切妻造、他端楼門に接続、檜皮葺
廻廊(東)
寛永5(1628)年頃の建築
桁行九間、梁間一間、一端切妻造、他端楼門に接続、檜皮葺
附指定:摂社須波神社本殿1棟、玉橋1基、末社杉尾社本殿1棟、末社土師尾社本殿1棟
拝殿から奥に見えます。
細殿から行くと、片岡橋を渡って行くことになります。
廻廊の附指定、玉橋は楼門の正面、須波神社は片岡神社の脇の高い所にあります。
杉尾社と土師尾社は四脚中門の中にあり、特別参拝で見ることはできますが撮影できません。
(杉尾社はよく見えますが、土師尾社は東の端の方にあり、見えないかもしれません。)
片岡橋
昭和元(1926)年の建築
木造廊橋、桁行一間、梁間一間、唐破風造、檜皮葺
楼門外の東側、玉橋の上流に架かっています。
摂社片岡神社拝殿
寛永5(1628)年の建築
桁行一間、梁間一間、一重、切妻造、妻入、檜皮葺
楼門から片岡橋を渡ったところにあります。
橋殿のところからも行けます。
摂社片岡神社本殿
寛永5(1628)年の建築
一間社流造、檜皮葺
拝殿との間が狭く、全体を撮影するのが難しいです。
摂社新宮神社拝殿
寛永5(1628)年の建築
桁行一間、梁間一間、一重、切妻造、妻入、檜皮葺
摂社新宮神社本殿
寛永5(1628)年の建築
一間社流造、檜皮葺
楼門前を過ぎて廻廊沿いに行き、一番奥の新宮門の中にあります。
門は閉じられており、柵の間の金網越しに見ることになります。
本殿は拝殿の奥に覗いているだけで、全景は見えません。
東御供所
寛永5(1628)年頃の建築
桁行五間、梁間二間、一重、切妻造、檜皮葺
新宮門から見て西側の一番の奥にあります。
柵の間から見えます。
唐門
寛永5(1628)年頃の建築
一間薬医門、唐破風造、檜皮葺
附指定:左右袖塀
新宮門の中、西側にわずかにのぞいています。
全体を撮影することは困難です。
神宝庫
寛永5(1628)年の建築
桁行三間、梁間二間、一重、切妻造、檜皮葺
唐門の手前にあります。
塀越しに屋根と壁の一部だけ見えています。
高倉殿
寛永5(1628)年頃の建築
桁行六間、梁間二間、一重、入母屋造、檜皮葺
楼門を入って左手にあります。
内部で特別拝観用の展示をしていることが多いです。
直会所
寛永5(1628)年頃の建築
桁行八間、梁間二間、前面一間通り庇付、一重、東端切妻造、西端楽所に接続、庇葺きおろし、檜皮葺
楽所及び西御供所
寛永5(1628)年頃の建築
桁行八間、梁間二間、一重、北端切妻造、南端直会所屋根を越えて入母屋をつくる、檜皮葺
直会所は四脚中門の西側(向かって右側の細長い建物です。
本殿特別参拝の入口兼待合になっています。
直会所の西側の入母屋屋根は楽所及び西御供所です。
建物の西側は立入禁止になっていますので、屋根しか見えません。
御籍屋
寛永5(1628)年の建築
桁行八間、梁間二間、前面一間通り庇付、一重、東端入母屋造、西端切妻造、庇葺きおろし、檜皮葺
四脚中門を挟んで直会所と対になっている長い建物です。
真下に建っている幣殿のそばから見上げるように見るしかありません。
幣殿(御祈祷控室)
寛永5(1628)年の建築
桁行四間、梁間三間、一重、入母屋造、檜皮葺
楼門を入った右手にあります。
御祈祷を受ける方の控え所になっています。
幣殿忌子殿取合廊
寛永5(1628)年頃の建築
桁行二間、梁間一間、一重、切妻造、檜皮葺
幣殿の奥に一部だけ覗いています。
御祈祷を受ける人はもっとよく見えると思います。
忌子殿
寛永5(1628)年頃の建築
桁行四間、梁間三間、一重、入母屋造、檜皮葺
忌子殿は幣殿からの並びの最も奥に位置するので、むしろ廻廊外側、新宮門手前から見た方が見える部分が多いと思います。
四脚中門
寛永5(1628)年の建築
四脚門、切妻造、檜皮葺
附指定:末社棚尾社本殿1棟
楼門の正面、直会所と御籍屋に挟まれた門です。
ここから本殿に参拝します。
門内の撮影はできません。
棚尾社は門の向かって右手にある小さな社です。
四脚中門の中は、本殿の特別参拝をすれば見ることはできますが、神域なので撮影はできません。
特別参拝は、直会所で申し込み、ある程度の時間単位で区切って、神職の方から御祓いを受けた後、神職の方の案内で参拝します。
最初に直会所の中でビデオで神社の縁起の説明があり、御祓いの後、直会所の奥側の縁に腰かけて並び建つ社殿の説明を伺うようになっていました。
説明の後、1人ずつ本殿の前で参拝します。
特別参拝で見られる指定文化財の社殿
本殿
文久3(1863)年の建築
三間社流造、檜皮葺
権殿
文久3(1863)年の建築
三間社流造、檜皮葺
通常御祭神は本殿に御まつりされており、本殿に何かあった際にお移りいただくために隣に権殿が建てられています。
だから本殿と権殿はまったく同じ造りになっています。
(賀茂御祖神社の御祭神は賀茂別雷神社の御祭神の御両親なので、同じ並びでも東本殿、西本殿となっています。)
江戸時代まで伊勢神宮と同様に式年遷宮が行われたため、本殿、権殿及びその周囲の社殿は江戸末期の建築となっています。
参考ですが、今の本殿の前の本殿が滋賀県湖南市の吉御子神社の本殿として移築されており、こちらは幣殿越しに撮影することができます。
本殿権殿取合廊
文久3(1863)年頃の建築
桁行一間、梁間一間、一重、唐破風造、檜皮葺
本殿東渡廊取合廊
文久3(1863)年頃の建築
桁行一間、梁間一間、一重、西端唐破風造、東端切妻造、檜皮葺
西渡廊
寛永5(1628)年の建築
桁行三間、梁間一間、一重、東端唐破風造、西端西御供所に接続、檜皮葺
透廊
寛永5(1628)年頃の建築
桁行三間、梁間一間、一重、南端唐破風造、北端切妻造、檜皮葺
渡廊
寛永5(1628)年頃の建築
桁行折曲り三間、梁間一間、一重、両下造、透廊及び直会所に接続、檜皮葺
祝詞舎
寛永5(1628)年の建築
桁行五間、梁間二間、一重、東端唐破風造、西端透廊に接続、檜皮葺
塀中門
寛永5(1628)年頃の建築
一間塀中門、板葺
摂社若宮神社本殿
寛永5(1628)年の建築
一間社流造、檜皮葺
東渡廊
寛永5(1628)年頃の建築
桁行六間、梁間一間、一重、切妻造、東端東供御所に接続、檜皮葺
説明は西側の直会所付近(透廊かもしれません。)で伺うので、中央の祝詞舎から東にある塀中門、若宮神社本殿及び東渡廊はあまりよく見えません。
Kamigamo Yasurai
2011.5.15 撮影:大野木康夫 source movie
葵祭が行われる5月15日、上賀茂では重要無形文化財「やすらい花」の一つ、上賀茂やすらいが行われます。
京都御所前で葵祭の行列を見た後、地下鉄で北山駅に向かい、上賀茂神社に行きました。
上賀茂やすらいが上賀茂神社に到着するのは11時30分ごろです。
上賀茂神社境内各所
新緑がきれいです。
上賀茂地区の子ども神輿が、上賀茂神社に担ぎ込まれます。順番に中門前で御祓いを受けます。
11時30分過ぎ、上賀茂やすらいが神社に到着しました。
葵祭到着の準備で、観覧席が設けられている中を、本殿を目指します。
鬼は6人で、シャグマは今宮やすらいの赤と黒とは違い、茶色で顔を隠しています。
風流傘は2本で、観光客にも中に入るよう勧めながら進んでいきます。
楼門前の玉橋(重要文化財)は、普段は渡ることができませんが、やすらいの一行は渡って行きます。
一行は楼門から中に入り、中門前で御祓いを受けます。
御払いの後、踊りを披露して、楼門から出ていきます。
二ノ鳥居から一ノ鳥居へ向かいます。
囃子言葉は、「いん やすらいや 花や 今年の花は よう咲いた 花や」です。
一ノ鳥居前で休憩です。
休憩後、鳥居前の土産物屋を一軒一軒回って踊ります。
上賀茂やすらいは、今宮神社の上野やすらいのように跳ねたりせず、6人の踊り手が横一列(場所によって並び方は変わります。)に並んで体を左右に振って鉦と太鼓を鳴らします。
これから、上賀茂地区を踊って廻ります。
神馬堂のやき餅屋前
御薗橋通を渡って南側、千代鶴酒店前
細い道を南に入っていきます。
各家を回って踊ります。
地域に溶け込んだ行事となっています。
時には家の敷地に入って踊ります。
この後、社家町へ向かうようでしたが、用事があったので12時30分前に帰ることにしました。
上賀茂神社
Kamigamojinja
大田神社
Ota jinja
天然記念物 カキツバタ
北王路魯山人 生誕地
京都市内にある四つの重要伝統的建造物群保存地区の一つ、上賀茂の街並を分析する。
京都が都に遷都される以前からこの地域一帯の豪族だった加茂氏は、氏神を祭る上賀茂神社(賀茂別雷神社:かもわけいかづちじんじゃ)をこの地に建立した。神社を中心に村が発達し、周囲には惣田が広がっていた。
平安遷都と同時に上賀茂神社は都を鎮護する神として下鴨神社と共に従二位が授けられ、以降急速に皇室の神として祀られるようになった。
その後の加茂氏と村の氏人は、神社を守る神官として門前に住居を構え、社家(しゃけ)町を形成した。
このような歴史的背景から、自然豊かだが農村とは違う、清楚で洗練された街並が特徴だ。
街並だけではなく、年中行事など社家町独特のコミュニティが形成されており、この地が特別な場所であることが実感される。
上賀茂神社
賀茂氏の氏神。下鴨神社と共に山城国一ノ宮となっている。
弘仁元年(810)、嵯峨天皇の皇女有智子内親王を斎王とし祭に奉仕させた。
これが賀茂祭(葵祭)の起源である。
境内は国の史跡。建造物では、本殿と権殿の2点が国宝。重要文化財が34点と見所が多い。
神社から流れ出る御手洗川(みたらしがわ)
神社境内では、手水として利用することから御手洗川と呼ばれ、神社を出ると明神川と名前を変える。
賀茂の人々はこの明神川の水を大切に扱っている。
社家の街並
明神川に沿って上流から下流に行くに従い街並の変化が楽しめる。
下流は旧農村であり、すぐきの産地として有名。
神社から流れ出す地点には上級神官の屋敷が並ぶ。
屋敷は川に隣接している。屋敷への入り口には平板の石橋が架けられている。
舟が往来しないのでアーチにする必要は無かった。
複数の石橋が鍵盤のように形成するシーケンス景観が美しい。
川は一種の結界となっており、対岸に建つ社家門を潜って屋敷に入る。
門の両側は土塀で囲まれており、外部からは容易にアクセスできない。
萩の藍場川地区と良く似ており、両者を比較すると興味深い。
このようなセキュリティとプライバシーの確保策は現代の街づくりの参考となろう。
社家の屋敷内には明神川の水を引き込んだ池が造られている。
水のある街並とタウンマネジメント
門前町も城下町も農村も、概して清らかな水が流れる土地は住民の環境意識も高く、家も庭も植栽も道路も美しい。
なぜ美しいのか、目ばかりではなく、五感に訴求するからだ。
視覚においては、水の透明さは当然として、流れる水の動きと光の反射は、新鮮さ、躍動感、新たな生命の力を感じさせる。
聴覚においては、水音のホワイトノイズ成分が心地良い。
心理学実験によれば、このホワイトノイズを人工的に(ラジオやテレビの雑音と同様に)生成し、被験者に体験してもらうと、ストレス削減効果が現れる。
さらに、皮膚感覚効果については、人間の記憶の中にある、冷たい水に手をさらした感覚が蘇る。
このような体験記憶が蘇る効果が大きい。
味覚、嗅覚に関しても、渇いた喉に清水をふくんだ時の感覚が想起される。
澱んだ水を持つ地では、上記の五感効果は期待できない。
この地は神聖な神社の神官が居住する街並なので、宗教的文化的な連想として崇高な美しさも実感できる。
しかしながら、神聖な神社や寺の門前町だからといって、この上賀茂の街並のように清浄ではない。
参詣者相手の雑多なみやげ物屋が形成する門前の街並が通常であるし、祇園のように神社よりも花街のほうが有名なエンタテインメント型の門前町もある。
それは寺社の格に従うものではなく、寺社の門前町運営ポリシーに従うと言ってよかろう。
伊勢神宮の門前が清浄かというと、そうではなく、「おはらいまち」と呼ばれる、「伊勢うかれ」に通じるエンタテインメントの街並である。
城下町の運営においても同様だ。
花街をつくるかどうか、城下直近をどのような街にするか。
それぞれの城下町、すなわち城主の都市計画、マネジメントポリシーに個性があり興味深い。
水戸藩主は、その点進歩的であり、自分の庭園を偕楽園と名づけ庶民に開放し、庶民の長寿者を園内邸宅に呼び長寿を祝うなど、都内の公園でさえ入園料を取る現代に比べ、進歩的なタウンマネジメントポリシーを実践していた。
街並の性格、いわば街並の人格を左右するのはタウンマネジメントのポリシーであるからこそ、過去の街並運営ポリシーを知り、将来の街並の人格を形成する手法を学ぶことは重要である。
ホスピタリティあふれる街、癒される街、賑やかで元気が出る街、危険な無法者がたむろする街、等々、どのような街を作るかは、タウンマネジメントのポリシーと街の住民との共同作業であり、ポリシーメイキングと実践に成功した街、例えば山形の金山などは、住む人にとって良い街、訪れる人を癒してくれ、住みたくなる街となっている。
岩手の金ヶ崎では、重要伝統的建造物群保存地区に指定されたが、かたくなに「観光地化しない」ポリシーを守っており、静かな街並が温存されている。
山形県 金山 水を活かした街並、看板撤去運動と、伝統的な意匠の「金山型住宅」を推進する林業の街
岩手県 金ヶ崎 生垣が美しい出城の街並
現代都市においては、用途規制さえクリアすれば何をやっても良いという風潮が跋扈している。
このような風土では美しい街並は育たない。
自治体、町内会単位で自分たちのタウンマネジメントポリシーを議論し、自主条例を策定するなど、街並とマネジメントについて考える時期に来ている。
例えばハワイでは、ホテルなど大きな建築のみならず、ガソリンスタンドの看板に至るまで、市民から選出された委員(コミッティー)が景観的な是非を審議している。
景観の評価については、大きなテーマなので、別途記述する。
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