京都府京都市東山区 知恩院
(Chion-in Temple, Higashiyamaku, Kyoto City, Kyoto Pref.)
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除夜の鐘の試し突き
知恩院では毎年12月27日に、除夜の鐘の試し撞きが行われる。この行事は京都の冬の風物詩とされ、一足早く厳かな鐘の音が冬空に響く。
宗祖の御忌法要と除夜の鐘以外には撞かないとされる鐘は、日本三大梵鐘の一つで、江戸時代前期鋳造された。
高さ約3.3m、口径約2.8m、重さ約70kg、撞木の長さは約4m 鐘を釣る大鐘楼は国重要文化財である。
事前に、鐘はストーブで温めておかれ、親綱・子綱がおろされる。12時ごろには、例年足を運ぶカメラマン多数ががっちりベストポイントを押さえる。
2時ごろ、大勢の人が見守る中、僧侶17人が登場し、鐘の周りに円陣を組み念仏を唱えた後に始まる。僧侶は知恩院研修生を含めた若い僧侶が中心である。
僧侶16人が撞木につながれた縄を握り、親綱を握る僧侶が中央にスタンバイする。やや緊張感が漂う。早いテンポで一瞬の僧の動きを追う。
「え—い、ひと—つ」「そ—れ」のけ掛け声にあわせて、16人の僧侶が子綱を引いて撞木を揺らし、その反動を利用して親綱を持つ僧侶がのけ反るようにして、鐘に撞木を打ち付ける。
17人の僧侶が交代に行う。
高僧や進行役が見守る中、約1分間の鐘撞きが進行する。一回撞くたびに清めの箒がはいる。撞き終わった僧には安どの表情が・・。
多くの見物人の殆どが撮影に熱中
帰路に着く僧侶
いとも簡単に見える瞬間の動きである。とても初めてとは思えない。
大晦日にはもっと良い音を出したいとか、煩悩を消して良い年を迎えもらうよう願って撞きたい、など各僧侶の思いが感じられた。
参考
特定の日にしか撞かれない鐘であるが、1962(昭和37)年の夏休みに東山区民の手でつき鳴らされた。
東山区には歓楽街が多い上、(特に円山公園から知恩院にかけての一帯は露骨なアベック風景の名所だった)悪い遊びも夜十時以後に多いと東山青少年対策協議会が、夜十時に”愛の鐘“をついて地区内の少年少女に「早く家にかえりましょう」と呼びかけた。
資料によると、東大寺・方広寺・知恩院・誕生寺(玉名市)などの超大型梵鐘の基音の周波数は40ヘルツから60ヘルツで、第二部分音が100数ヘルツあるため、荘厳さや重厚さを強く感じさせるとある。基音の周波数は梵鐘の口径にほぼ比例する。
宗派:浄土宗総本山
知恩院は法然ゆかりの念仏の寺としての顔と徳川将軍家の権威と天皇家の格式の両方を兼ね備えた寺の顔を持つといわれる。
東山華頂山の三十六峰の一つである華頂山の麓にあって、7万3千坪の広域な寺域を有し、そこには100以上の堂宇が軒を並べる。
境内図
新門周辺〜女坂
整備が完了している。女坂は緩やかな石段道
三門 国宝 正面約50m 高さ24m 徳川秀忠が寄進
浄土宗大本山の東京の増上寺にも大きな三門があり、東西の浄土宗大寺院の共通点である。大きさ、圧倒的な量感、威容に吸い込まれる。
現存する木造の三門としては東福寺の三門と並んで日本最大である。京都の町を見下ろしている。
唐様、屋根瓦の曲線の優美さ、軒下組物の何層もの重なり、意匠が多く見られる。内部は極彩色に彩られている。
「男坂」
古くは、映画「ラストサムライ」にも使われた。急角度な石段 人を誘い込む魅力がある
多宝塔
宝佛殿
阿弥陀堂
1910(明治43)年に再建 本尊は身丈2.7mの阿弥陀如来坐像。組物・意匠も凝らしてある。
鶯張り廊下
阿弥陀堂から御影堂・法然上人御堂(集会場)につながる
御影堂(本堂) 国宝 正面約45m、奥行き35m、入母屋造、本瓦葺。平面積では日本で5番目の寺院建築。徳川家光の寄進による。
現在は改修中で平成31年竣工予定
大きさは知恩院の中で最大、1200人が一度に参拝できる。幅約3mの広い外縁をめぐらせている。
破風の牡丹唐草、大扉の釘隠し、など江戸初期の建築の粋が凝らされている。内部は勢至堂を拡大したもの。
泰平亭(休憩所)
宝佛殿
納骨堂周辺
経蔵 国重要文化財 御影堂の東側にあって、経典を納める。徳川秀忠の寄進 非公開
「宗版大慶蔵」約6000巻を納める。裳階が付いた二重屋根の中国風で建築美を誇る。裳階の屋根を支える柱が建物の周りに建ち並ぶ。
大鐘楼 国重要文化財 1636(寛永13)年鋳造 高さ3.3m 口径2.8m 重さ約70トン 巨大な鐘である
御影堂の南東、石段を上がったところにある。毎年12月27日に「ためし撞」の行事は京都の冬の風物詩である。
この鐘が撞かれるのは、4月18〜25日の法然の忌日法要である御忌大会と大晦日のみ。京の人々は「知恩さん」の除夜の鐘を耳にして、新年を迎える。
試し撞き
毎年12月27日に行われる行事で、京都の冬の風物詩とされる。17人の僧侶によって、1分刻みで撞かれる。本番の大晦日午後10時40分頃からに備える。
法垂窟(ほうたるのいわや)(ほうすいくつ) 青蓮院飛び地境内に建つ
知恩院の鐘楼から山道を約100m上ったところにある。入口は狭いが、内部は意外と広い。法然−親鸞—蓮如に関わりの深い場所である。
法然が、夢の中で中国浄土教の大成者・善導大師から念仏の教えを受け、また、初めて専修念仏の教えを説いた場所とされ上部の岩に、法然が善導と対面するレリーフがはめ込まれている。親鸞が法然の念仏の教えを聞きに通い、その門に入る決心をしたと伝わる吉水の草庵跡である。湧き水は今も絶えない。
法然上人御堂(集会場) 1635(寛永12)年再建
僧侶が集合し講学する場として名づけられた。御影堂完成まで本尊に法然上人の御尊像をお祀りし、法然上人御堂と名を改めて、本堂としての役割を果たす。
方丈と庭園
集会上の奥から入る 唐門〜大方丈〜小方丈と続く
大方丈(おおほうじょう)・小方丈共に国重要文化財 1641(寛永16)年の建築 洛中随一の名書院として知られている
家康・秀忠・家光と三代にわたり知恩院の建造を支え、徳川家の菩提寺とした。その徳川家の、大方丈は将軍の公式の場、小方丈は居室である。
唐門 国重要文化財 1641(寛永18)年造営
牡丹唐草、鯉魚に乗る老人、巻物を持ち鶴に乗る老人および松を配した細かな彫刻がなされている。
大方丈
小方丈
庭園
庭園は大方丈の南側と東側、小方丈の南側に面してある。瓢箪形をした池を中心にした書院建築に相応しい庭園で池泉回遊式庭園
慈鎮石は、和尚石・坐禅石ともいわれ、往古は三門近くにあり、慈鎮和尚がこの上で座禅したと言われる巨石。慈鎮和尚は「愚管抄」の著者
1642(寛永19)年徳川家光の命により玉淵(玉苑)と量阿弥が作庭を行った。
権現堂
小方丈庭園と門が繋がっている。
大庫裏・小庫裏
北門〜黒門周辺
「二条城の出城」ともいわれる知恩院、城郭を感じさせられる一帯である。徳川将軍家による寺域拡大と共に組まれた石垣、桃山城から移設した黒門とが一帯の雰囲気を盛り上げている。
瓜生石
黒門への登り口にある大きな石。知恩院が建立される前から有るとされ、周囲を石柵で囲む。種々のいわれが残る。先に見える門は古門
塔頭・良成院
表門と本堂が国重要文化財。道路を挟んで黒門の斜めに建つ。
これから訪れる勢至堂と御廟周辺は、街の喧騒から隔離された、厳粛な気配に満ちた、知恩院の根幹をなす聖地である。石段道から始まる。
石段道
勢至堂(せいしどう) 国重要文化財 1530(享禄3)年建立 正面21m 奥行20m 知恩院最古の仏堂
知恩院の旧御影堂である。法然の幼名「勢至丸」に因み、知恵の力で衆生の迷いを除くという勢至菩薩を祀る。
法然は1207(建永2)年75歳で讃岐へ流され、4年後許され戻って房を構えたのが大谷禅坊で、現在の勢至堂の地であった。法然は翌年80歳で亡くなった。
境内から見る崖上の御廟
千姫のお墓と遺髪大明神
勢至堂墓地内にある。
御廟
御廟への石段 知恩院で一番奥まった静寂な場所へと続く
御廟拝殿 京都府指定文化財 1710(宝永7)年建立 檜皮葺
御廟の手前に建つ。
檜皮葺の堂内には木魚が置かれ、自由に念仏が唱えられる。
遠望
御廟 京都府指定重要文化財 1613(慶長18)年改築 三間四方 宝形造 本瓦葺 唐破風門 松平伊豆守信一が寄進
大谷禅房で入滅後に建てられた廟堂は、比叡山の僧兵に破却されたため、1234(文歴元)年に復興された。賜蓮堂とも呼ばれる。
死後、弟子たちは毎月25日に「知恩講」とよばれる報恩のための追善供養を行った。知恩院の寺名はこれに由来する。
欄間に精巧な彫刻が施され、小建築ながら禅宗風と和様が加わった建築である。
友禅苑
友禅染の祖、宮崎友禅斎ゆかりの庭園。池泉式庭園と枯山水で構成され、高村光雲作の聖観音菩薩立像が補陀落池に立つ。
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