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奈良県桜井市 纒向遺跡周辺

Makimukuiseki,Sakurai City,Nara

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奈良市、山之辺の道(北)

奈良県奈良市、天理市、桜井市 山之辺の道(南)


July 6, 2024 野崎順次 source movie

 

奈良県桜井市
纒向遺跡

国史跡 纏向遺跡 弥生後期,古墳前期
纒向遺跡は、奈良盆地東南部に所在する、3世紀初頭に突如出現し、4世紀初めに営まれた大規模な集落跡である。周辺には、纒向石塚古墳をはじめとする史跡纒向古墳群や箸墓古墳など出現期の古墳が点在している。
この遺跡については、昭和46年以降、桜井市教育委員会及び奈良県立橿原考古学研究所が176次にわたって発掘調査を実施してきた。その結果、遺跡は東西2キロメートル、南北1.5キロメートルという、当該時期では類をみない規模であることが判明した。今回指定しようとするのは、そのなかの、辻地区と太田地区の一部である。
辻地区においてはすでに多数の掘立柱建物、大規模な水路、祭祀土坑などが検出されている。平成20年からの調査で掘立柱建物は3世紀前半期とみなされるもので、3棟の掘立柱建物が東西に連続して存在している。もっとも大きい建物は、桁行4間、梁行は現状で2間、復元すると4間と考えられ、南北19.2メートル、東西12.4メートルで、その西側には、独立棟持柱建物、さらにその西にも掘立柱建物が検出され、柵で囲まれていた。
さらに、その西側にも多くの柱穴及び井戸が確認されている。これらは、微高地に位置し、軸線と方位を揃え、一連の建物群は強い規格性を有しており、これらは居館を構成するものとみなされる。その範囲は東西150メートル、南北100メートル前後の方形を呈すると考えられている。また、建物廃絶後の庄内式期の長径4.3メートル、短径2.2メートルの土坑からは、線刻のある土器や底部穿孔の土器、ヘラ状木製品や黒漆塗りの弓、剣形木製品などが出土した。このほか、イワシ類・タイ科などの魚類、カエルなどの両生類、ニホンジカ・イノシシなどの哺乳類、そして2000個以上のモモの種などが出土し、当時の祭祀のあり方を知る上できわめて重要である。
一方、辻地区の南方、谷を挟んだ太田地区では、掘立柱建物、祭祀土坑などと、墳長28メートルの前方後方墳(メクリ1号墳)、方形周溝墓、木棺墓、土器棺墓なども検出された。時期は庄内式期であり、史跡纒向古墳群などと同時期である。
このほか、この遺跡で注目される出土遺物としては、東海をはじめ、南関東から北部九州という広範囲にわたる他地域の土器が出土していることである。地点によっては全体の15〜30パーセントを占め、この遺跡の性格を考える上で重要である。このほか、銅鐸片や鳥形・舟形の木製品、木製仮面の出土も注目される。布留式期になると、鞴の羽口や鉄滓なども出土し、鉄器製作を行っていたことも明らかとなっている。 纒向遺跡は、3世紀初頭から4世紀始めにかけて営まれた、きわめて大規模な集落跡である。しかも、本遺跡のような規格性のある建物群は例がなく、当該時期の首長居館の構造を知る上できわめて重要である。また、同時期の居住域や墓域及び祭祀遺構、大溝などが広範囲に広がっていることも明らかとなった。出土遺物も豊富で、東海系の土器をはじめとする他地域の土器が多数出土する点も注目される。この遺跡周辺には、史跡纒向古墳群や箸墓古墳など出現期の古墳が多数存在し、これらの古墳との関わり、すなわち大和政権と関わりのある遺跡とみなされる。このように、纒向遺跡は我が国における古代国家形成期の状況を知る上できわめて重要である。今回、もっとも保存を急ぐ居館域等を史跡指定し、保護を図ろうとするものである。
(文化遺産オンライン)

パンフレットと現地説明板

          

太田地区
掘立柱建物、祭祀土坑などと、墳長28メートルの前方後方墳(メクリ1号墳)、方形周溝墓、木棺墓、土器棺墓なども検出された。時期は庄内式期であり、史跡纒向古墳群などと同時期である。

              

辻地区へ移動

         

辻地区
すでに多数の掘立柱建物、大規模な水路、祭祀土坑などが検出されている。平成20年からの調査で掘立柱建物は3世紀前半期とみなされるもので、3棟の掘立柱建物が東西に連続して存在している。

                           

踏切を渡り、巻向駅に戻る。

                  

電車から見た辻地区

    

 


October 4 and 12, 2015 野崎順次  source movie source movie

奈良県桜井市 纏向遺跡

(Makimuku Site, Sakurai City, Nara Pref.)

2011年(平成23年)現在で把握されている纒向遺跡の範囲は、北は烏田川、南は五味原川、東は山辺の道に接する巻野内地区、西は東田地区およびその範囲は約3km²になる。遺跡地図上では遺跡範囲はJR巻向駅を中心に東西約2km・南北約1.5kmにおよび、およそ楕円形の平面形状となって、その面積は3km²(300万m²)に達する。

(中略)

纒向遺跡は弥生時代から古墳時代への転換期の様相を示す重要な遺跡であり、また、現在では邪馬台国畿内説を立証する遺跡ではないかとして注目を浴びている。3世紀前半の遺構は必ずしも多くなく、遺跡の最盛期は3世紀終わり頃から4世紀初めにかけてである。しかし、2011年に、「卑弥呼の居館」とも指摘された大型建物跡(3世紀前半)の約5メートル東側から別の大型建物跡の一部が見つかり、建物跡は造営年代が3世紀後半以降と判明。今後、造営年代が遺跡が存続した4世紀前半までの間に特定されれば、初期大和政権の重要施設だった可能性が高まるという[2]。農業用の大型水路や無数の土坑の中には、三輪山祭祀に関する遺物のセットが多数投げ捨てられており、石塚古墳の周濠からは吉備系の祭祀遺物である弧文円板(こもんえんばん)が出土している。ピークの過ぎた4世紀末には埴輪が出土する。

飛鳥時代から奈良時代にかけては、この地域に市が発達し「大市」と呼ばれた。箸墓古墳のことを、宮内庁治定では「大市墓」というのはこのためである。奈良時代から平安時代にかけては、井戸遺構や土抗、旧河道などが検出されている。「大市」と墨書された土器も検出されている。

遺構は2013年(平成25年)10月17日に「纒向遺跡」として国の史跡に指定された。

(ウィキペディア「纏向遺跡」より)

国史跡 纏向古墳群

初期大和政権が成立した奈良盆地東南部に所在する出現期の古墳群で、纒向石塚古墳・ホケノ山古墳・纒向矢塚古墳・纒向勝山古墳・東田大塚古墳等からなる。墳丘は全長100m前後の前方後円形を呈し、後円部に比べて前方部の高さが低いところに特徴がある。築造時期は、庄内式期から布留式最古期、すなわち弥生時代終末期から古墳時代前期初頭にかけてである。纒向石塚古墳では周溝からは農具・土木具、祭祀具、建築部材などが出土し、ホケノ山古墳では、木材で構築した木槨部分の周囲に石を積み上げるという珍しい構造の埋葬施設をもち、画文帯神獣鏡や鉄製武器などが副葬されていた。

本古墳群は、定型化した前方後円墳より遡る庄内式の段階に築造が始まった。この古墳群の墳丘と相似形のものは九州から関東にあるが、分布の中心で規模も大きく、すでに大和地域の首長を中心とした政治連合ができあがっていたことを示唆する。その一方、纒向石塚古墳の周溝から出土した木製品、ホケノ山古墳の埋葬施設や副葬品の構成等は、定型化した前方後円墳には見られないものであり、弥生時代終末期の墳丘墓とする意見もある。

本古墳群は定型化した前方後円墳の成立過程、さらには我が国における古代国家の形成過程及びその時期の社会の在り方を知るうえで重要である。

(国指定文化財等データベースより)

桜井市参考地図、巻向駅前説明板

      

まず、西へ行き、古墳時代前期初頭の纏向古墳群東田支群を見て回った。

纏向石塚古墳(墳丘墓)、纏向型前方後円墳、全長約96m、3世紀前半〜中頃

            

勝山古墳(墳丘墓)、前方後円墳形、全長約115m、3世紀代

                

矢塚古墳(墳丘墓)、纏向型前方後円墳、全長93m以上、3世紀中頃

                           

東田大塚古墳、前方後円墳、全長約120m、3世紀後半頃

                    

箸墓古墳(倭迹迹日百襲姫命大市墓として陵墓指定)、前方後円墳、全長約280m、3世紀中頃〜後半

              

JR線路を東に越えて纏向古墳群箸中支群

ホケノ山古墳、纏向型前方後円墳、全長約80m、葺石あり、3世紀中頃

                  

周辺の古墳、堂ノ後古墳、北口塚古墳、平塚古墳、小川塚西古墳、サシコマ古墳、小川塚東古墳。多くが年代不明であるが、出現期にさかのぼる可能性もある。

        

巻野内石塚古墳、纏向型前方後円墳で全長約60m、葺石ありの可能性から、ホケノ山古墳と相前後する年代か?

        

古墳時代後期の珠城古墳(国史跡)に行った。現地説明板と遠景。

        

珠城1号墳、前方後円墳、全長50〜55m、6世紀中〜後半、後円部に横穴式石室

                 

珠城2号墳、前方後円墳、全長80〜85m、6世紀?、埋葬施設不明

             

珠城3号墳(55から60m、前方後円墳、横穴式石室2基)の痕跡と墳丘からの眺望

      

山の方へ登る。花、三輪山、二上山を眺める。山の辺の道が近くなる。

                              

国登文 堀井家住宅

内部の見学はできないが、建築時期は、主屋・塀・長屋門が昭和7年、米蔵・粉挽小屋・離れが江戸末期である。

             

巻向川沿いに西南に下る。時々振り返って三輪山を見上げる。

           

国津神社

    

国史跡 茅原大墓古墳、古墳時代中期初頭(4世紀末頃)、帆立貝式、全長約86m、後円部3段・前方部2段築成

           

後円部頂とそこからの眺め

       

狐塚、一辺40m以上の方墳らしい、巨大横穴式石室に三つの石棺が置かれていた。

石室全長約17.3m、玄室長約6m、幅約2.6m、高さ約3.2m、羨道長約11.3m、幅約2mと奈良県内でも屈指の大きさ。

               

三輪山

       

参考資料

桜井市纏向学研究センターウェブサイト「纏向遺跡」

橿原考古学研究所友史会7月例会「纏向の古墳を巡る」ウェブサイト


Dec.1 2012 田中康平 source movie

箸墓古墳(箸中山古墳,倭迹迹日百襲姫命大市墓)

Hashihaka old burial mound, Sakurai city ,Nara pref.

奈良県桜井市箸中

宮内庁管理の稜墓(墳丘内立ち入り禁止)に指定。全長約280m、高さ約30mの前方後円墳。

3世紀半ばに建造と推定される。卑弥呼の墓との説もあるが未解明。

前方後円墳だが最初円墳部分が作られ後に前方部が加えられたともみられている。墳丘と濠を渡って外周部と繋がる渡り堤の遺構も発掘されており大型の古墳。

(周辺の発掘調査から 墳丘の周囲をめぐる幅10m程度の周濠と、その外側に広がる大規模な外濠状遺構の存在が明らかになりつつあり前方部南側で確認されたその幅は50m以上と大規模なものとなっている。またその南端部分では人工的な盛り土が確認されており、外濠状遺構が掘られたのちに、外周部分が整えられている可能性が考えられている。----桜井市の資料より)

纒向遺跡の南端部分にあり周辺には古墳が多い。円墳部は住宅地と接しており近くで見ると小山のように感じられる。北側の池は箸中大池としてため池百選(農林水産省選定)のひとつとなっている。

            


Feb.2009 撮影/文:野崎順次 奈良県桜井市 纏向遺跡

Makimuku iseki

奈良盆地のあちらこちらで古道が残っている。南東部の柳本町から桜井方面に上ツ道がまっすぐ伸びており、歩いて行くと、東に三輪山、遥かに西に二上山がよく見え、巻向の地に着く。すぐ南西は大和三山である。

この辺一帯が纏向遺跡で、発生期前方後円墳が集中し、邪馬台国の中心であった可能性が非常に高いと云われる。

西暦180年後半に邪馬台国における政情不安と戦乱を治めるために、女王卑弥呼が共立され、権力者の大きな古墳を築造し始めた。

248年頃に卑弥呼が亡くなり巨大円墳が築造され、266頃には後継者の壹與もその巫女としての役割を終えた(亡くなった)。この後、邪馬台国は急速に衰えていく。纏向遺跡はこれらの推移をよく裏付けているようだ。

纏向遺跡は、西暦180年代に三輪山麓に突如として現れた大集落で、その範囲は東西2.5km、南北1.5kmに及ぶ。奈良盆地の代表的な弥生集落、唐古・鍵遺跡の約10倍で、当時の日本ではずば抜けた規模である。

幅6m、深さ2〜3m、長さ1300mの運搬用運河が2本あり、この運河は、初瀬川 (大和川) につながる。

他の地域では竪穴式住居が普通だが、纏向では平地式や高床式がほとんどで、王都というべき先進都市だった。

出土土器は東海、山陰、北陸、吉備など各地から搬入されたものが非常に多い。

石塚、矢塚、勝山、東田大塚、ホケノ山など発生期の前方後円墳 (纏向型) が数基集中し、築造年代は西暦210〜250年といわれる。

また、巨大前方後円墳の箸墓は、規模や推定築造年代から、後円部が卑弥呼の墓 (方形壇付き円墳) として造られ、10数年後に壹與の墓として前方部が加えられたと考えられる。

纏向遺跡は3世紀後半あるいは4世紀前半に急速に衰退してしまった。

(参考:苅谷俊介氏講演)

現在の纏向遺跡ガイドマップ(桜井市立埋蔵文化センターのパンフレット「纏向に行こう!」 2008年3月改定第2版)

 

28年前の纏向付近遺跡分布図(奈良教育委員会、昭和46年3月)、遺跡数が少ない。オレンジ色の範囲線は現在の纏向遺跡。

 

古代の街道、上ツ道が南北にまっすぐ残っている。柳本より南へ向かう。

 

柳本の民家

 

発生期古墳が集中する纏向小学校付近。運動場で運河とみられる纏向大溝が検出された。

 

北西からの空撮

 

南東から見る。左から矢塚、石塚、勝山古墳。

 

纏向石塚古墳、前方後円墳、全長約96m、3世紀初頭、日本最古の古墳とされる。葺石無し。

 

勝山古墳、前方後円墳、全長約115m、3世紀初頭〜中頃?葺石無し。

 

矢塚古墳、3世紀初頭〜中頃。葺石無し。

  

東田大塚古墳、前方後円墳、全長約120m、3世紀前半、葺石無し。

 

日本最古の木製仮面、約26cm x 約21.5cm、3世紀前半、広鍬を転用。

 

纏向遺跡からの出土品 (桜井市立埋蔵文化財センター)

 

三輪山と箸墓古墳

 

箸墓古墳、前方後円墳、全長約280m、3世紀中頃、葺石あり。南から見る。

 

箸墓古墳

 

箸墓古墳、北側を東から見る。

 

にゅうめんと柿の葉寿司、このあたりは三輪そうめんが名物。

 

ホケノ山古墳、前方後円墳、全長約80m、3世紀中頃、葺石あり。

 

ホケノ山古墳、埋葬施設の説明。

 

ホケノ山古墳、埋葬施設の復元。

 

東から見た纏向遺跡、真中左がホケノ山古墳、右奥に纏向小学校。

 

三輪山の裾から奈良盆地を見る。右手前に箸墓古墳、左奥は二上山。

 

南西方向に、大和三山 (左より、天香久山、畝傍山、耳成山)。

 

東には三輪山。昔はもう少し高く、より端正であった。

 

梅にメジロ、花札のよう。

   


Nov.2008 瀧山幸伸

                  

 


Nov.2008 瀧山幸伸 source movie

巻向、纏向遺跡

Makimuku

 

景行天皇陵

Keikou Tennou ryo

 

兵主神社

Hyouzu jinja

                             

相撲神社

Sumo jinja

       

邪馬台国推定地

Yamataikoku suiteichi

           

箸墓古墳

Hashibaka kohun

    


 

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