奈良県奈良市 山之辺の道(北)
Yamanobenomichi North, Nara city, Nara
Yamanobenomichi South
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Apr.2013 中山辰夫
北・山辺の道散策
撮影:Mar.30,2013
山辺の道
古くは『日本書紀』に山辺道「やまのへみち」と記載されている道とされる。
大まかには、三輪山の西南麓から奈良山給料に至る道であり、一般に言われる『山の辺の道』は桜井市〜奈良市間ノハイキングコースであり、
東海道自然道と重なる部分が多い。石上神社を境にした北側が「北コース」、南側が「南コース」と呼ばれる。
北コース
東海自然歩道をほぼ踏襲しており、未舗装の道が多い。
奈良駅−春日大社−新薬師寺−鏡神社−白毫寺−崇道天皇八嶋陵−円照寺−正暦寺−弘仁寺−天理駅を歩く。地味なコースである。
総距離20㎞を軽くオーバーすると思われるため、急ぎ足のハイキングである。
■近鉄奈良駅〜新薬師寺周辺まで
桜が全開であまりに美しいので足が取られがちである。
東向商店街を歩く
商店街の出口に建つ
南都銀行本店−国登録文化財である。
南都銀行 本店(1926(大正15年)建築は、三条通に南面して建つ。設計は長野宇平治で辰野金吾の下で学び多くの銀行を設計した中の一つ。
施工は大林組。地上四階、地下一階建ての鉄筋CR造で、岡山産花岡岩を使用し正面に4本のイオニア式の列柱を並べ細部に装飾を施す外観は
古典様式を簡潔にまとめた好例とされている。1953年(昭和28)年に背後に増築し、その後窓枠や内装の改修を行ったが、外観はよく保存されている。
古都奈良の数少ない様式建築の一つで、建物は、国登録有形文化財に指定されている。
朝9:30過ぎ、お土産屋さんはソロソロ開店準備。
桜は満開、先が楽しみ。
猿沢池
興福寺の境内も満開
一の鳥居へはまっすぐである
一の鳥居をくぐると粕が大社の境内です。幅の広い、ゆったりとした参道の右側には原生林の森である。
仏教美術資料研究センター (国重要文化財)
1902(明治35)年に関野 貞が設計した奈良県物産陳列所の建物で、桟瓦葺で、正面に唐破風の車寄せをつけた明治の木造建築の傑作である。
参道の右手、南側の鹿苑の中に建つ3本の木よりなるクスノキ。樹齢約100年。明治天皇が大演習御観覧の臨席後に植樹されたもの。
二の鳥居の手前の車舎 1棟 (重要文化財)
859(貞観元)年の創建。天皇の行幸や勅使、藤原氏の高官の参詣の際、牛舎を入れた車庫。両面を除いて吹き流し。素木木造の簡素な建物。
二の鳥居周辺
着到殿 1棟 (国重要文化財)
916(延喜16)年創建。 春日祭の折りに勅使が儀式を行うところ。南(参道側)が正面であるが、東側を入母屋の葺き下とし、そこから出入りする。
春日大社を素通りして若宮神社に向かう。春日灯籠が建ち並ぶ参道の景色はみごとである。
1199(治承3)年の創建。 (重要文化財)
南門はかつて藤原氏以外の他姓の者の参入門とされていた。現在は本社の正門とされる。
大きなクスノキ
若宮神社の入り口右手にある。根っこ部分に見惚れる
若宮神社本殿 国重要文化財
拝殿
金龍神社周辺
春日大社が創祀された八世紀頃は御蓋山「三笠山」の麓から飛火野にかけてイチイガシが広がっていたとされる。それを物語る。それを物語る幹周3m
を越える巨木が多く生育している。
上禰宜道(かみねぎみち)
御間道(おあいみち)は、春日大社の本宮と若宮神社の間を結ぶ道。850年以上も神官や崇敬者が往復した道で、本宮と若宮の間を百度千度万度と
往還する祈祷も盛んに行われていた。御間道沿いには、古い石灯籠が立ち並び、1380年(康暦2年)の灯籠を始め室町時代から江戸時代初期の灯籠
が多くある。
上の禰宜道(かみのねぎみち)は、かつて高畑の社家町から春日の禰宜(ねぎ=神官)たちが春日大社へ通った道で、高畑丹坂町から摂社若宮神社へ
通じている。
春日大社周辺とも別れて、いよいよ新薬師寺方面へ向かう。
■近鉄奈良駅をスタートして、約3kmほどである。
■新薬師寺〜円照寺まで
境内の杜を抜けて広い車道をわたり、狭い路地を少しのぼると、そのまま新薬師寺へ向かう道と柳生街道とが交差する辻にでる。
奈良町からこの辻までの柳生街道沿いは、奈良町都市景観形成地区に指定されている。
高畑町
奈良市高畑町は旧東山街道(柳生街道)の入口である。奈良町の東南に位置し、興福寺の南に接していた。村から次第に町場化してきた。
村内は東部の上高畠、西部の下高畠に大別され、上高畠は春日神社の禰宜町で神官や禰宜が多く住み、下高畠は奈良町に接し商家など
の町屋の町となっていた。明治4年官社制度および神官の世襲廃止の布告に伴い、春日神社社家・禰宜は神職を免じられ、次第に多く
が離散していったが、今でも奈良町の福智院町から続く旧東山街道に沿って荒格子を備えた奈良の伝統的様式の町屋が連なる。
多くは切り妻造りの平入りで虫籠窓を備えた中2階建てで、本瓦葺きを残した家屋や煙り出し・袖壁の備わった家も多く残っている。
町家(引用)
路地に沿って歩く。不空院の前を通り先に進むと新薬師寺の土塀と山門があらわれる。
奈良市高畑福井町1352
747(天平19)年、光明皇后が聖武天皇の病気平癒を願って建立。 本堂は1994(平成6)年に大修理を行った。国宝の十二神将立像が有名。
鐘楼には元興寺にあった釣鐘(国重要文化財)がある。鎌倉時代に『元興寺』の鐘楼が焼けてしまい、こちらに移されたのだが、鬼の爪痕といわれる
無数の傷がそのまま残っている。
本堂西の香薬師堂には「おたま地蔵尊」が安置されている。「影清地蔵尊」の体内から近年発見された、珍しい裸形のお地蔵さんがある。
鏡神社
奈良市高畑町468
新薬師寺に隣接する。(祭神:天照大神・藤原広嗣)の本殿は、1746(延享3)年に春日大社本殿の1つを移築したもの。本殿の大きさがわかる。
少し歩いて後方を振り返ると、若草山が見える。花盛りの菜種がまぶしい。
山の辺の道や白毫寺への道標が立つ。高砂橋付近の石垣・土塀や奈良市消防団白毫寺分断前の辻をすぎる。
宅春日神社
奈良市白毫町116
この神社は80号線から東に入った白毫寺と新薬師寺を結ぶ「歴史の道」の中間あたり。
768(神護景雲2)年に春日大社が創祀された直後に最初に末社として創建されたと伝わる。隣は西勝寺である。
一直線の道、なだらかな坂道をたどり白毫寺を目指す。両脇には本瓦葺の民家が目立つ。
いよいよ白毫寺の石段に到着。古びた医師の並び、そして今にも壊れそうな土塀。満開の桜がひときわ目立った。シ−ズンオフの景色である。
境内は人も少なく落ち着いた雰囲気、盛りを過ぎた五色椿(県天然)も一休みの感じ。
収蔵庫の閻魔座王像は必見
高円山を左に見やりながら歩く。山道が続く。自然美豊かな地域である。
この付近の地図
地図にある大和青垣国定公園
奈良、天理、桜井各市にまたがる南北に細長い公園で、大和盆地に望む山の辺の道の東部丘陵地帯と、柳生街道周辺の2つの地区に分けられる。
昔から奈良盆地を囲む山地は、青垣山といわれ、名前もそれにちなんでいる。地区内には天神山、三輪山、石上神宮近くの森などのほか、崇神天皇
景行天皇陵、箸墓古墳
の高い、古代大和を訪ねる空間となっている。
鹿野園(ろくやおん)
鹿野園という名は、日本の朝廷の懇請により来日したインド僧菩提僊那(ボダイセンナ)によって名付けられた。菩提僊那は751(天平勝宝3)年に
僧正に任じられ、翌年に行われた東大寺盧舎那仏開眼供養の導師を務めた人。鹿野(苑)園とはサルナート(Sarnath)の漢訳。
インドの地名で、仏教の四大聖地の一つ。遺跡の周辺には今も昔も鹿が多く住んでいたところから鹿野苑(ろくやおん)と表されており、この場所は
悟りを開いたブッダが初めて説法した、仏教の聖地を意味し、ブッダはこの地で自分の悟った真理を始めて語ったのであるが、この説法をはじめて
聴いたのが、修行僧5人と、ここに住む鹿だったとされる。鹿野園は、ブッダが最初に説法した(鹿野苑)に似ていたために名づけられたとされる。(引用)
八阪神社
奈良市鹿野園町225
祭神は素戔嗚尊、尊は天照大神の弟で、乱暴して出雲に追放されたが、そこでヤマタノオロチを退治して、助けた櫛稲田姫を妻とした。縁結びの神。
万葉集歌碑
農道の山辺の道を歩く。奈良市内周辺には万葉集の歌碑が多く立つ。佐保の近辺に多く見かける歌碑
のどかな田園風景の土の道が続く、そのうち手の加わった、青々した竹林に入る。早くもイノシシの掘り返した跡が続く。
竹林の合間に小さな「身の立山・不動明王」の祠がある。
鹿野園集落の南部の竹林に立つ小さな祠。不動明王は悪魔を降伏させるために恐ろしい形相をし、すべての障害を討ち砕き仏道に縁のないものを
導き、救済する大日如来の使者である。
付近の概略図
道標を頼りに歩く。集落に近づく。
白山比咩神社(しろやまひめじんじゃ)
奈良市藤原町
藤原氏の氏神で、全国に流布している白山信仰の社。
点在する集落の民家は比較的大きな家並みである。その中を数百m進む。
嶋田神社
奈良市八嶋町320
神武天皇の皇子である神八井耳命(かむやいみみのみこと)と崇道天皇(早良親王)が祭られている。本殿は、春日大社本社本殿と
同規模・同形式の春日造の建物。史料から、宝永6年(1709)に春日大社本社本殿として建てられ、その後当地に移されたとある。
春日大社の本殿は、幕末までほぼ20年ごとに建て替えられてきた。これを式年造替という。建て替えの際、旧本殿は近畿一帯の
神社に払い下げられた。当社本殿もそのひとつ。部材に「三之御殿」と記した墨書があるので、4棟ある本社本殿のうちの第三殿
であったことが確認できる。
この建物は、享保12年(1727)頃、崇道天皇社本殿として現在の八嶋陵(崇道天皇陵・八島町所在)の地に移築された。さらに
明治19年(1886)、八嶋陵の整備にあたって同社は嶋田神社に合祀され、本殿は、嶋田神社本殿として現在地に移築された。
嶋田神社本殿は、春日大社の式年造替に伴い各地に譲渡された旧本社本殿の一つで、建立や移築の経緯が明らかな、当初形式をよく
残す貴重な建物とされる。
この付近の概略図
崇道天皇八嶋陵
嶋田神社から数百m先にある。嶋田神社はこの陵の上にあった。
光仁天皇の皇子で、桓武天皇の皇太子であった早良親王の墓。その地位を奪われ、平安京遷都の前に淡路島へ流される途中
断食して没した悲劇の皇子として知られる。白壁に囲まれ中の様子はわからない。
前池と古墳石室の天井石とされる組石(八つ石)、道路の真ん中にある。「祟り」があるとして他へ移せない?
前池の堤沿いに南へ、山道を越え竹林を行く。
八嶋地蔵尊と石仏群
竹林の中にひっそりと立つ。無縁仏や墓石が取囲む。
八嶋陵から約500m歩いて円照寺の参道に出る。
奈良市山町132
参道を登って行くと黒木の門があらわれ、もう少し行くと山門がある。
山門から先は砂利がきれいに掃き清められ、その向こうに唐破風の玄関が見える。非公開で中には入れない。
本堂は奈良県指定文化財。茅葺で数奇屋風の草庵の趣が感じられる。宮内庁管理の墓地がある。
中宮寺・法華寺と並ぶ大和三門跡尼寺の一つ。後水尾天皇の皇女が建立した寺。住持は7代まで皇族に継がれたので、山村御所と呼ばれた。
現在、華道の山村御流の家元としても知られる。
■近鉄奈良駅前をスタートして、円照寺まで9㎞強の距離である。時間との関係もあって先に進む。そのため見落としも多い。
■円照寺〜天理駅まで 約11kmの行程である。
地図
円照寺山門横の階段を登る。
大師堂
弘法大師の石碑である。堂の屋根には菊の御紋が見える。
竹林を抜けると龍王池 ここから弘仁寺までは2km。
奈良交通バスが走る舗装道路で出る。納戸原バス停〜上土バス停所辺りの沿線には本瓦葺の超大型邸宅が並ぶ。場違いの感である。
正暦寺との分岐道に着く。 今回は弘仁寺へ向かう。
付近の概略図
奈良市虚空蔵町46
814(弘仁5)年に弘法大師によって創建されたと伝える。「高樋の虚空蔵さん」と呼ばれる。毎年4月13日は、「十三参り」で賑わう。
まずは虚空蔵坂の石段をのぼる。標高183mの虚空蔵山の中腹に建つ。
奥の院
参道の途中に奥ノ院不動尊が御在されている。
山門
入口で志納金200円支払う。
伽藍は左右に分かれ、向って右側に明星堂、鐘堂、本堂が並ぶ。本堂は奈良県指定文化財である。
国指定の重要文化財である本尊・虚空蔵菩薩立像は奈良国立博物館に寄託されている。
本堂は重層寄棟造・本瓦葺で、堂々とした建物であり、杉木立に囲まれている。
石段道を下りた先は田園が広がる。山裾の緩い上り、下りの道をたどり、大きなグランドの横を進むと先にダムがあらわれる。
白川ダム
天理市 和爾町
高瀬川と楢川から流れる水を満々とたたえ、貯水池を挟んで雄大に連なる青垣の山々が見渡せる。ヘラブナやワカサギ釣りが盛ん。
石上大塚古墳、ウナベ古墳
周囲を竹林に囲まれた中にある。ハイキングルートは古墳の外堤になる。
時間の都合と春先は蛇や危険な動物が出るとの情報で立寄らずにすすむ。
この近辺の地図
カキ・ブドウのビニールハウスと畑
大和地方は富有柿に代表される柿の産地。秋には大きく実り、紅葉に負けないほどの美しさに輝く。手入れがいい。
特にハウス栽培が盛んで、生産量は全国の約70%を占める。品種は「刀根早生」という渋柿。7月上旬から9月中旬にかけて出荷される。
天理高校農事部 みかん、かき栽培と山中のハナショウブ
天理教施設が見えだしてホット一息つく。
市内から外れて山際の道をゆく。右側には家並みが続く。まもなく豊日神社前に出る。時間の都合で立寄りはできなかった。
豊日神社から石上神社までは約500mの距離。でも長く感じる。
天理市布留町
山の辺の道あるきの起点とされる、天理教本部にも近い。
境内は神聖な空気と木々の香りに酔う感じである。
起源ははっきりしないが、桜井市の大神神社と並ぶ日本最古の神社であり古代国家の信仰の中心的存在であったとされる。
江戸時代までは宸殿を持たず、背後にそびえる布留山をご神体とした。
ヤマト政権の武器庫としての役割を持ち、政権の軍事面を統括した物部氏の氏神となり、その一族の信仰を得た。
桜が満開の市内と教会本部の一部。
商店街アーケード
17時が過ぎると閉店準備が進む。商店街は天理教と一体である。
近鉄天理駅
■奈良駅から天理駅まで20㎞を越える行程でした。 見落とした箇所、ラフに終えた個所については今後の課題として残す。
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