奈良県大和郡山市 市街(箱本十三町)
Downtown (Hakomoto Jusancho),Yamatokoriyama city,Nara
Category |
Rating |
Comment |
General |
||
Nature |
||
Water | ||
Flower | ||
Culture | ||
Facility | ||
Food |
October 16,2021 大野木康夫
source movie
郡山市街
柳町商店街の町家
東岡町周辺(旧遊郭)
洞泉寺町(旧遊郭)
旧川本家住宅(町家物語館・登録有形文化財)
【国指定文化財等データベースより引用】
本館
大正13(1924)年の建築
木造3階建、瓦葺、建築面積135㎡
街路に東面する木造三階建の旧妓楼で、切妻造桟瓦葺とする。正面は一階に瓦葺庇をつけ、中央を戸口、両脇を出格子とする。上階も繊細な出格子に小庇を付ける。一階は帳場や仏間で、上階の客室は三畳から八畳で色土壁に釣トコを備える。歓楽街の風情を伝える。
座敷棟
大正13(1924)年の建築
木造2階建、瓦葺、建築面積127㎡
本館の西に坪庭を介して接続する木造二階建で、切妻造桟瓦葺とし、西面北に茶室、南に浴室、便所を張出す。南側は一階が厨房、二階が髪結場など営業用で、北側一階の座敷一二畳や二階の六畳二室は居住用の室である。南面高塀には猪目形の透かし窓を開く。
蔵及び納屋
大正11(1922)年の建築
土蔵造2階建、瓦葺、建築面積64㎡
敷地西辺に建つ土蔵造二階建で、座敷棟茶室と渡廊下で接続する。北側を切妻造本瓦葺の蔵、南側を切妻造段違で桟瓦葺の納屋とし、東面に瓦葺の庇を付ける。外壁は漆喰塗で腰を竪板張とし、蔵の戸口枠は木瓜形につくる。敷地の奥に重厚な構えを見せる附属屋。
部分撮影
内部
Mar.17,2016 瀧山幸伸 source movie
箱本十三町めぐり
奈良県大和郡山市
大和郡山の『箱本十三町』とは、郡山城主となった豊臣秀長が商工業種別を基本として造ったもの。
豊臣秀長は城下町繁栄策として同業者の集まる町を形成し、営業上の独占権を与え、商工業保護に力を入れた。
「箱本十三町」は、郡山城外堀の内側にある十三町内から成り、当番制の自治組織で、当番の町は特許状の入った
朱印箱を置き、「箱本」と染めぬいた小旗を立て、一か月全町の治安・消火・天馬の世話をしたという。
同業者を集めて町を形成するのは、城下町にはよくみられ、市内の町名に今でも残っている。
箱本(はこもと)十三町を廻り、その面影を巡ってみた。
本町、今井町、奈良町、藺町、堺町、茶町、豆腐町、材木町、雑穀町、綿町、紺屋町、魚塩町(現在の魚町・塩町)
魚町
一番早く成立したと思われる本町筋についで、魚町・塩町の町筋が形成されたといわれる。「魚塩町」とまとめられていた。
天正19年(1591)には、箱本十三町は地子が免除され、秀長の跡を継いだ秀保もこの政策を継いでいる。
中村邸と吉岡邸(A・B)
両家は並んで建っており、区別がつかない。
郡山は秀長の職人保護政策により、南都(奈良)と並ぶ大和の酒造業の中心となった。秀長の頃から江戸時代にかけて、郡山
に酒造業者は30前後あったが、明治以降は衰退が著しく、この中村酒造は郡山最後の酒造業者であった。屋号を「セキヤ」と
いい200年以上の伝統を誇った。
吉岡邸
蔵の鬼瓦に天明9年(17899の銘があり。本家の建築もこの前後と推定される。間口一杯に建築を鶏、入口から向かって右に
通りニワ、左に3室が並ぶ。「縦割り三間取」と呼ばれる、近世郡山における町家の典型例である。
近辺の家屋
本町とも直ぐ傍である。
本町
杉山小児科(E)
ドイツの木造建築を手本にした杉山小児科医院の建物は、大正10年ごろに建てられたハーフティンバー様式の洋館。
大和郡山城の城下町で、通称本町通は古くからある和風建築が軒を連ねる。その中で独特の外観が異彩を放つ。
診療棟と居住棟の2棟が市登録文化財。
小児科は木造平屋建(一部二階建)、桁行15m、梁行8m、切妻造り、桟瓦葺の構造で、外観の意匠は、軸部の濃褐色と白色のコントラストが鮮やか。
急傾斜の切妻屋根、筋違、繰形、ドーマー窓風飾り屋根、棟飾りなど、ヨーロッパのハーフチンバー様式を踏襲している。
西側の居住棟は木造二階建て、寄棟造、銅板葺の構造で、昭和初期に建てられたもの。
内部の階段の手すり柱にはアールデコ風の装飾が施されている。
内部(引用)
新中町
浅井吉蔵邸(D)
郡山藩の御用商人であった浅井吉治が、城の櫓の木材を払い下げられて建てたともいわれる。
外見のみならず内部の天井も格子造とするなど洋館を意識した瀟洒な建造物である。
隣接するローマ字の看板は白壁に直接書かれており、「ハクライシウルイトコロ=舶来酒売所」と読めることから
ここで洋酒を販売していたのであろう。ただし、現在の建物はかなり改築されている。
塩町
塩を扱う商人たちがいた町。
筒井順慶が天正8年(1580)に、郡山城に入って間もなく、筒井城下の商家を郡山に移しているので、一番早く成立
した本町筋についで、魚塩町の町並みができたとされる。
浅井邸(C) 元造り酒屋 春岳院の近くである
江戸時代から酒屋を営んでいる旧家である。
間口は敷地一杯に取り、間取は6畳。このうち一番奥の部分だけが低い二階構造のため、表の軒高は低くなる。
このように二階が裏向きに造られるのは郡山の町家の一般的な傾向である。
これは道路に面して二階を造ってはいけないという制限があったためとされる。
近辺の家屋
藺町
「いのまち」は畳表を扱う商人が住んでいた町。新しい町づくりが進行中。彦根市のキャッスルロードに倣う
郡山の中心となる道路に拡張工事が進み、昔ながらの情緒は薄いでゆく。
堺町
天正13年(1585)郡山に入部した豊臣秀長が、城下町の経営に取組んだときに、和泉の堺から商人らを集めてこの町をつくらせた。
今井町
押田商店
近代化産業遺産リストに挙がる押田商店(酒屋)がある。
昭和初期の木造2階建てで、2階部分の壁面にタイル張りの壁が特徴である。
今も酒屋を営業し、住居と商店にてうまく活用されているようだ。
柳町
柳町とは、細長い町の姿が柳を思わせる事による、柳1丁目から柳5丁目まで一直線に延びた町である。
天正13年(1585)郡山城主となった豊臣秀長は、極端なまでの城下町繁栄策をとったので、目を追って城下はにぎわいをみせ
柳町などは最たるものであったとされる。
柳1丁目から4丁目までは「箱本十三町」にはいり、天正19年には地子が免除され、秀長の跡を継いだ秀保も、この保護政策
を継いでいる。
元和元年(1615)郡山城主となった水野勝成は、塩町にあった牢屋敷を柳3丁目に移し、牢屋番を箱本13町が交替で勤める
ことに定めのち牢屋敷を洞泉寺町に移している。
柳一丁目
和菓子の老舗「菊屋」は柳一丁目、柳町の入口である。 車一台がやっと通れる道幅の両側に小店が並ぶ。衣料関係が多い。
菊屋
天正13年(1585)、奈良 大和郡山の城下町で、大納言豊臣秀長公の御用菓子司として店祖 菊屋治兵衛が和菓子
の製造、販売を始めたのが「菊屋」の起こりで、場所は郡山城の大手門の入口で、現在の地であった。
現在の店主は二十五代目である。
幕末頃の菓子屋の構造が判明する貴重な建造物である。
間口は8間もある大きなもので、土間を除く部屋部分は6間取り。
寛政頃(18世紀末)の町割図に菊屋の社名が見られる。
現在の建物は安政2年(1855)の大地震で倒壊したあとに再建されたもの。
柳町の商店街は四丁目まで続く。一〜三丁目は殆どが改築されて新しい家並となっているが、四丁目に近づくと旧家が並ぶ。
順次追って行く。
柳四丁目附近
南邸(G)
幕末から明治初年の建築と思われる。表入口の両側に上半分が折り上げ戸、下半分が店棚となる「揚げたな(みせ))を設け
表の奥には格子がある古風な構えがよく残されている。
和田徳(H) 元呉服屋
和田呉服店は、江戸時代から続く郡山屈指の老舗呉服屋であった。
明治末年頃の当主、和田徳兵衛は郡山紡績や六十八銀行の重役を務めた名士で、その名からこの店は通称「和田徳」と
親しまれた。
建物は明治に淺沼組創業者の浅沼猪之吉によって設計されたもので、特に内部は複雑で凝った構造となっている。
倉庫も郡山八幡宮境内と接している。
附近の家並
花内屋(I) 元旅館
柳四丁目の十字路の角に建つ。
江戸時代から続いた古い旅館。正面向かって右側には古い看板が直接壁にかかれており、味わい深い。
木造二階建てで、二階を大きく取っており、欄間的な浮き彫り風の看板や、漆喰で塗り込めた虫籠窓の回りに鏝絵を描いている。
柳町通りはもとからあった古い街道が秀長の郡山築城に伴って城下町に取り込まれたもので、江戸時代を通じて往来する人が
非常に多かった。以前はこの店の前に「はせ(長谷)、こうや(高野)」などと書かれた道標もあったという。
洞泉寺町
洞泉寺町は、木辻町・東岡町とともに、「奈良三大遊郭」の一つに数えられた街で、今でも古い遊郭建築が多数残されている。
表窓に細い格子がはまった家並み。木造3階建てなど、傾城町の面影が現存する。
この遊郭は元和7年(1621)頃、士風に悪影響ありとして全て取り払われた。
降って延宝・元禄の相次ぐ大火に際し、再びこの町に傾城町が出現した。
かつて洞泉寺町は上流の花街とされ、18軒の遊郭が大正13年(1924)頃営業していたが、昭和33年までに廃業した。
源九郎稲荷神社の表参道の鳥居の直ぐ前に、元遊郭や旅館らしい二階建ての大きな建屋が現れる。
その先、最初の路地を左に行くと正面に3階建て建造物が現れる。それが旧川本邸である。
洞泉寺町周辺には木造3階建てや2階建ての遊郭建築が何軒か残っている。
旧川本邸
洞泉寺には江戸時代から続く遊郭街があった。その中でも最大規模を誇った旧川本邸は大正13年(1924)の建築で
三階建の重厚な造りである。前面に細かい縦格子を張り巡らせ、外観や内部構造に当時の上流花街の面影を色濃く
残し近代史研究の上からも貴重とされる。建物は幸い市が買い取り、保存されることになった。
精巧な格子が美しい。建物は遊郭建築といっても華美な装飾がないのが特徴といえる。
内部(引用)
この元遊郭は両側からお寺に挟まれている。
紺屋町
道の真ん中に水路が流れる通称「紺屋町通」。
この通りを中心とした紺屋町は藍(あい)染めを職業とする人たちが集まった職人町。
16世紀末豊臣秀長の時代に成立したといわれ、豊臣秀長は城下町繁栄のため、この町に住む紺屋のみ営業権を認め
他所では一切禁止という秀長の特許状が紺屋町に残されている。
江戸中ごろには東西290mに約150軒があったが、現在でも大きくは変わっていない、という
町並み
箱本館 元紺屋(旧奥野家)
旧奥野家住宅は、大和郡山市に現存する町家中最も古いとされており、明和頃(18世紀中頃)までに遡る可能性もあるとか・・・。
紺つぼ置き場やオクドのあるドマとそれに接するミセノマ、ナカノマ、ザシキの三間が明和年間(1764—72)の
建築で一番古く、ブツマや格子の間などの建物西側は幕末から近世にかけて増築された物という。
入口から向かって右が土間になっており、藍甕や竈がある。
右は本来3室が縦に並ぶ「縦割り三間取り」である。
旧奥野家は江戸時代から続く紺屋(染物屋)であったが近年廃業し、市が買い上げ箱本館「紺屋」として整備、公開している。
奥野家の歴史
奥野家は家伝によると初代は享保13年(1728)からで、先代・故義夫氏(〜1995)が9代目に当るとされる。
柳澤氏より名字、帯刀が許され、屋号は「柳宗」という由緒正しい家であった。
江戸時代から紺屋を営み代々藍染めの技術が受け継がれ、主に嫁入りの祝い幕や社寺の門(かど)幕、旗
暖簾(のれん)を制作してきた。
現在では伝統的な技術を受け継ぐ職人は少なく、こうした中で奥野家は藍染めの技術を今日に伝えてきた
数少ない町家のひとつである。
箱本館内部
大きな紺ツボが目を惹く。
藍染め体験
占領は天然灰汁発酵建てという昔からの方法で仕込み、色の美しさを追求している。
参考資料≪観光案内、パンフレット、他≫
大和郡山市々内散策
豊臣秀吉の弟、秀長が入封後、商業地として栄えた城下町。現在も当時の町名が残り、往時を偲ばせる古社寺が残る。
また、江戸中期に柳沢吉里が甲州から入部する際に持込んだ金魚は、のちに藩士や農家の副業として盛んに繁殖され
郡山の特産品となった。
郡山市役所
≪菜の花や 中に城あり 郡山≫ 許六
大和郡山市には、遠く奈良時代から盛んだった「農村の顔」、筒井順慶や豊臣秀長によって育まれた「商都」と「城下町の顔」
さらには昭和工業団地や地場産業など、県内総出荷額の3分の1を占める「工業都市の顔」といった3つの顔があるとされ
伝統的な商業や農業の分野においても特色を発揮してきた地域である。
城下町として、戦国時代から江戸時代、明治維新への歴史を刻みつけてきており、今も細い路地が入り組んでいる。
更に、大和三道の一つ、「下ツ道」に沿いには稗田集落があり、環濠集落の姿を残している。
金魚でも有名な大和郡山では、今から270年前から金魚の養殖が行われていた。(市HP)
現在は、“城”を中心に据えた街づくりを進めているようだ。
JR大和郡山駅
城をイメージしたつくりである。ここを起点とする。
郡山城外堀めぐり
外堀全長50町13間(5470m)には石碑が立てられ、順に訪ねると一周できる。
城下町にマッチする形での築地塀を巡らし、市民の安らぎの場として整備を進めている。
外堀は豊臣秀長の後、文禄4年(1595)に20万石で入部した増田長盛が普請を開始。掘削した土を塀の
内側に盛り上げて土塁(土居)をつくり、その中に武家屋敷や城下町を配した。
其の水路の一部を生かして公園としている。
外堀緑地公園
JR郡山駅のすぐ近くの常念寺裏堀跡。幅が7間(12.6m)。公園は長さ580m、郡山城外堀の一部を整備してつくった。
北門に冠木門、南門に高麗門を配した。
市内の目抜きにある公官庁の建物は白亜に近い外観のものが多く、城とイメージが重なる感じである。
藺町(いのまち)線(県道108号線)辺りの佇まいは、滋賀・彦根市のキャスルロードにそっくり似ている感じである。
春岳院
新中町
大納言豊臣秀長の菩提寺。
秀長の位牌や肖像画(市文化財)、千手観音、足利尊氏の念持仏等を安置。箱本制度の史料文献が残されている。
肖像画と朱印箱
七重石塔と四方仏
園融寺
矢田町通18
本尊:木造阿弥陀如来立像
永禄12年(1569)郡山の実感法印が西ノ京に真言宗の寺院として創建したのが始まりと伝わる。
鬼瓦に正保2年(1645)の銘があり、本堂建立もその頃とされる。
本堂は江戸初期の浄土宗寺院の典型的な建築とされる。建築的に見て凝った豪華な造りとされるが良くわからない。
赤膚焼中興の名匠奥田木白の墓がある。
赤膚焼は、桃山時代に秀長ガ尾張常滑から陶工を招き五条山(赤膚山)に窯を開いたとされる。その後柳沢尭山が
保護奨励、郡山藩主柳沢家の御用窯となり、名工奥田木白によってさらに声価を高めた。鹿や五重塔などの素朴な
色合いの焼き物は、奈良の伝統工芸として受け継がれている。
材木町32
奈良時代に大宮人のための薬草園があったところ(塩町の御旅所)に建立された神社で、現在の場所に移された。
本殿は県文化財。境内に50種余りの薬草見本園がある。
源九郎稲荷神社
洞泉寺町15
境内鳥居のすぐ傍が、洞泉寺遊郭のあったところである。
近鉄郡山駅の南西約500mに鎮座する、源九郎狐や綿帽子を買った狐の伝説で有名な神社である。
童謡『やまとの源九郎さん』にうたわれている場所であり、地元では「源九郎さん」の呼び名で親しまれている。
源義経が吉野に落ちのびた際、白狐が側室静を送り届けた話は有名。「白狐渡御」の行事がある。
小さな稲荷であるが、日本三大稲荷の一つに数えられ、北向きの本殿に『白狐源九郎』が祀られている。
家来に化けて源義経を助けたという白狐を祀る。絵馬も狐。歌舞伎や浄瑠璃関係者のお参りが多い。
五穀豊穣・商売繁盛の御利益があり、4月の第一日曜日に、白狐面をつけた子ども行列が練り歩く「源九郎
稲荷春季大祭」が行われる。
洞泉寺
洞泉寺町
国重文の阿弥陀如来と両脇侍立像(鎌倉中期)で知られる寺。このあたり一帯は江戸中期から有名な遊郭の
跡で、細かい路地に格子の古い家並みが続く趣のある町。源九郎稲荷神社と隣り合っている。
浄慶寺
洞泉寺町7
浄土宗知恩院派 旧遊郭の建物が残る洞泉寺町に有る。
旧川本本邸の隣に位置している。
天正年間(1573〜92)に増田長盛がもと七条村(現奈良市)から郡山に移した。本尊阿弥陀仏如来坐像は平安中期の
仏像で国重文
郡山八幡神社
柳町4−25
元呉服屋の蔵が参道と並行して続いている。
天平勝宝元年(749)東大寺大仏殿建立の守護のため勧請された。宇佐八幡を分霊して創建 手向山八幡宮とはの兄弟社とされる。
元は郡山城内にあったが、天正13年(1585)に郡山城鎮護のため豊臣秀長が現在地に移したとされる。
祭神;誉田別命(応神天皇)、比売大神(宗像三女神)、気長足媛命(応神天皇の母、神功皇后
郡山城鎮護の八幡宮として郡山城主の保護を受けた。
大納言塚
箕山町14
豊臣秀吉の異父弟、大和郡山は百万石の城主、大和大納言秀長の墓所。市文化財 4月に墓前法要が営まれる。
土壇の上に立派な五輪塔が立つ。塔には秀長の法名が刻まれている。
前庭に敷き詰められた粗い砂は「お願い砂」といわれ、借りて帰り、願いが叶えば返しに行く。
All rights reserved 無断転用禁止 登録ユーザ募集中