JAPAN GEOGRAPHIC
日ごろ、JAPAN GEOGRAPHICへの投稿が滞っている福岡、末永です。
今年に入って一段とパワーアップされた通信員の方達の作品を見て、奮起しようと思ってます。
さて、月刊ウェブマガジンの発行に際し、私の現状を報告させて頂きます。
現在、地元の太宰府を中心にした歴史と自然をビデオで取材しています。
遠の朝廷(とうのみかど)太宰府の鬼門(東北)に位置するのが宝満山(約830m)です。
会社勤めの時代には、私の健康管理のためのトレーイニングの山でした。
退職後、宝満山研究会に参加し、山の歴史を勉強しています。
勉強していると、宝満山が奈良時代からの祭祀の山で有る事が分かりました。
宝満山では、明治初期の神仏分離令で山岳信仰が絶たれ、それまで山中に居た山伏達は各地に別れて行きました。しかし、昭和57年(1982)にかまど神社や山伏の子孫の方達の協力で、明治以来途絶えていた
「峰入り」や「大護摩供(おおごまく 火渡り業)」が再開されました。
山伏の姿や各種法具などの資料を博物館で見る時と異なり、眼前で修行する山伏の姿を見ると感慨深いものがありました。
私はこれらの行事を取材し、ビデオ作品としてまとめてきました。
さて、江戸時代の「山伏の峰入り」は宝満山から三郡山、若杉山、糟屋(かすや)郡、宗像(むなかた)市、博多の町、福岡城を経由して、また宝満山へ戻る春峰ルートと宝満山から英彦山へ至る秋峰ルートがありました。
昨年、この春峰のルートにあたる糟屋郡久山(ひさやま)町の山中から中世期(鎌倉・室町時代)の山岳寺院跡が発見されました。
(当初「白山遺跡」と呼んでいましたが、その後「首羅山遺跡」と改称)場所は博多湾を一望する約300m程の丘陵地にあります。
昨年暮れ12月6日、シンポジューム「甦るまぼろしの山岳寺院 首羅山(白山)遺跡」が行われました。久山町教育委員会と調査指導委員会(九州歴史資料館・九州大学・福岡
大学・建築の専門家・日本山岳修験学会)により、地質学・東アジアとの関連・経塚と瓦からみた歴史・宋風獅子(そうふうじし)と薩摩塔(さつまとう)・寺院跡からみた建築物・宝満山修験道峰入りとの関係など各専門家から調査の中間報告がなされました。
また、シンポジュームを記念して、久山町主催で現地説明会が行われました。
町民のボランティアの方達の協力の下、福岡はもとより、中国・四国・京都・東京から約150名の方達が参加されました。
現地説明会の様子を通して、遺跡の概要を説明します。
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