MONTHLY WEB MAGAZINE Sep. 2012
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トピックス
■■■■■ 霊水のちから 瀧山幸伸
この夏は改めて湧水のちからを実感しました。冷たさとおいしさに霊力が加わり、しなびた細胞が蘇るようでした。
全国各地を歩き回るので、湧き水には縁があります。
「○○の霊水」というのは全国各地にありますが、富山県上市町の穴の谷(あなんたん)霊場の水は特にそれにふさわしいと言えます。
元来、行者の修行場であり、第一の洞窟には薬師如来の石仏がまつられています。
全国各地から善男善女が訪れ、その穴から湧き出る霊水をポリタンクに汲み上げ、それを薬師様の前にお備えして健康祈願あるいは病気平癒の祈りをささげています。
大きなポリタンクを多数満たしますから、運搬を手助けする人が常駐し、電動で道路まで運び上げています。
お布施ではなく、定価の駐車場代と水汲み料金が必要ですが、大量のポリタンクを台車に積んで駐車場まで運びます。
確かに車のナンバーは全国各地からのものでした。
同じ町内の日石寺にも素晴らしい水が湧き出し、寺の境内では周囲に溢れる水音に心洗われます。
この寺の本尊、不動明王の磨崖仏は巨大で、重要文化財に指定されており、俗にまみれた心を洗い流してくださいます。
栃木県塩屋町の尚仁沢湧水は関東屈指の湧水です。
関東では貴重なイヌブナの自然林の山中、あちこちから泉が湧き出ており、水を求める地元の人々で賑わっています。
最上流でゴボゴボと大量に湧く湧水は甘味を感じるほどまろやかで、一番のおすすめです。
そこから50mほど下流では複数の泉から湧いた水が地表を流れ出ています。
光景としては素晴らしいのですが、なぜかその水には渋味を感じました。
この水はパイプを通って数百m下流の駐車場の水汲み場まで運ばれているのですが、その水にも同じ渋味を感じました。
湧水地点から数m地表を流れる間に地表の何かに反応したのか、あるいは地下の土壌成分による味の違いなのか、理由はわからないのですが、明らかに味の違いがあります。
味の違いということでは、山形県遊佐町の月光川上流の胴腹滝の湧水を取り上げない訳にはいきません。
鳥海山のブナ林が涵養した地下水が、お不動様を挟んだ両脇の岩の割れ目から噴き出しており、地元の人々の飲用水として愛好されています。
左の泉はコーヒーに合い、右の泉は日本茶に合うそうですが、私の鈍感な舌ではほぼ同じに感じられました。
水汲みに来たお爺さんに勧められるまま左の水をペットボトルに汲んで東京に持ち帰り、氷とレモンジュースを足しておいしくいただきました。その上流では一ノ滝の蒼い滝壷を楽しむことができます。
月光川の中流域は、映画『おくりびと』のロケ地として有名になりましたが、この夏は雨が降らず、水の流れが無くなって水溜りのようになっていました。
ところが、そこから数百m下流の遊佐の市街地には10ヶ所以上の泉が湧いており、人々が自由に飲むことができるます。
胴腹滝付近から扇状地を伏流水となって地下に潜り、遊佐の市街地で地表に噴出しているのでしょう。
もちろんどの泉も冷たくておいしいのですが、特に丸勝金物店の湧水は素晴らしいです。
作業なさっていた方が手ぬぐいを浸して涼を取っていましたので、お話を伺うと、以前は数mの深さの自噴井戸だったものを、新たに数十m掘って量を増やしたそうです。
味も冷たさも胴腹滝と同様、大変甘露でした。
同じ遊佐町の霊水では、「丸池さま」を取り上げない訳にはいきません。
鳥海山を祀る大物忌神社の境内の一部で、完全な神域です。
この池を汚したり大声で騒いだりすると祟りがあると言われていますが、確かに神秘に満ちた池です。
その池のほとりに小さな社があります。
その傍で池に注ぐ泉が湧いており、畏れ多くも鳥海山の霊を集めたこの水をいただくことができるのです。
冷たくまろやかで、周囲の環境を含め言葉にはできないほどの霊水でした。
川の脇から、鳥海山の伏流水が湧き出しています。
水草も美しく、今の時期はバイカモが盛りです。今回の訪問時、偶然に10分ほど川霧が発生しました。
平野から暖かく湿った空気が流れ込み、冷たい水に冷やされたのでしょう。なんとも幽玄な光景でした。
神社の御神水は手や口を清めるためのものですが、口をすすいだ直感が良い場合、少し水筒に分けていただくことがあります。
新潟県糸魚川市、能生白山神社の背後の社叢は巨木に覆われており、天然記念物に指定されています。
その巨木が育んだ水が地下の岩の割れ目を通り、本殿脇に湧き出して御神水となっています。
夏の猛暑日にいただいたその霊水の冷たいこと。冷蔵庫に冷やした水とは違う活きた水の冷たさでした。
また、石川県中能登町の石堂山、伊須流岐比古神社の御神水は能生白山神社ほど冷たくはありませんが、とても甘くまろやかです。
「名水百選」や「平成の名水百選」ばかりではなく、日本はどこでもおいしくて冷たい水に出会える幸せな国です。
■■■■■ 睡蓮(スイレン)と蓮(ハス) 中山辰夫
各地の情報が多く投稿されたスイレン・ハスのシーズンも終わった。
最近では、家庭内で育てる人も多く、「癒されセット」の名で通販でも取り扱われているとか。
当方の近辺、草津市では、蓮海寺(スイレン)と烏丸半島(ハス)で見ることが出来ます。
蓮海寺のスイレンは、近江興志記にも紹介されており、江戸期より育成が行われていました。
現在は僅か残っているだけです。
蓮海寺
スイレンとハスとは別系統の花であり、生態もかなり異なる。
スイレンは、日の出と共に花開き夕方には閉じることから、古代エジプトでは「太陽の花」と呼ばれたようです。
花は1〜2週間、開閉を繰り返した後、力尽きたように枯れ、枯れた花は水中に隠れて二度と姿を現わさない。
ハスは、原産地がインド亜大陸、花期は7〜8月。花は「蓮華(れんげ)」といい、中国では「荷」の字も用いる。
仏教では、泥水の中から清浄な美しい花を咲かせることから、仏の智恵や慈悲の象徴とされ、蓮華の文様は仏像の台座である蓮華座など様々な場所に意匠されて用いられてきた。花言葉は「雄弁」である。
蓮は次々と花開き、枯れた後も褐色に変じたまま水面に残り、やがて高貴な形の花托に黒い実をつける。
烏丸半島
スイレンとハスのこれらの花の運命を見た人の感想はさまざまとか。
「スイレンはいさぎよいなあ。美しいところだけ人に見せて、枯れたら表に出ないのか。」「いや、枯れた後も堂々と人前に姿をさらしてありのままに生きているハスの方が自然ではないか。」と、スイレン派、ハス派に分かれるが、齢を重ねるに従ってハスの生き方に共感を覚える人が多くなるのかも。(参考資料:花巡礼)
9月の蓮海寺とハス池
志那港の跡にひっそり佇む蓮海寺には、俳諧の祖、山崎宗鑑の「元朝のみるものにせん不二の山」の句碑のほか、重要文化財木造地蔵菩薩像や湖上交通用の常夜灯が残っています。
蓮の名勝でもあった浜は埋め立てられ、湖岸道路が築かれ、かつての絶景は大きく変貌しましたが、対岸の比叡、比良の山並み、広がる琵琶湖を今なお遠望できる志那の風景は、心に安らぎを与えてくれる。
蓮海寺周辺
旅行先で寺社などを訪れた時、修理中で大変残念な思いをすることがあります。
京都で現在修理中の建物を回ってみました。
建仁寺
平成26(2014)年の開山千光祖師栄西禅師八百年大遠諱に向けた記念事業で重文の方丈が修理中です。
昭和37(1962)年の修理で銅板葺になった屋根をこけら葺に戻しており、平成25(2013)年完成予定です。
矢の根門(重要文化財)や法堂は見ることができます。
知恩院
法然上人八百年大遠諱の記念事業の仕上げとして、国宝御影堂が半解体修理中です。
遠くからも鉄骨の素屋根が見えます。
修理は平成24(2012)年から8年間の予定です。
始まったところなので、素屋根が完成して建物を覆ったばかりです。
屋根瓦の全面葺き替え、構造補強などが行われます。
修理期間中、集會堂(重文)が仮の本堂となります。
工事の素屋根は経蔵(重文)のすぐ近くまで張り出しています。
工事の影響で方丈(大方丈、小方丈。いずれも重文)の拝観は中止され、唐門(重文)も素屋根に隠れています。
よく見たら小方丈の屋根にも覆いが掛かっていました。
清水寺
平日の午後でも多くの人で賑わっていますが、諸堂が順次修理に入っています。
朝倉堂(重文)は半解体修理中です。
覗き窓から厨子が見えました。
子安塔(重文)も全面改修が行われています。
修理期間が長いので、覆いの絵の塔にも慣れてきました。
朝倉堂、子安塔は平成25(2013)年3月竣工予定です。
それらに加えて、阿弥陀堂、奥の院(いずれも重文)の修理が始まっています。
その次は、轟門(重文)の解体修理、釈迦堂(重文)の屋根葺き替えが予定されています。
最後に、国宝本堂の修理が控えています。大修理は平成30(2018)年まで続く予定です。
奥の院の修理で仮の鉄柵が設けられ、いつもより本堂が見やすくなったような気がします。
平等院
平等院鳳凰堂も修理が始まりました。
期間は平成24(2012)9月から平成26(2014)年3月までで、屋根の葺き替えと塗装直しが行われる予定です。
現在は始まったばかりで、素屋根の足場丸太が組まれているところでした。
鳳凰堂の内部拝観は中止されていますが、梵鐘や雲中供養菩薩等を展示する鳳翔館は開館しており、拝観料も大人300円に割引されています。
そのほかにも、賀茂御祖神社(下鴨神社)の一部社殿、教王護国寺(東寺)の東大門などが修理中になっています。
■■■■■ 福岡県筑紫野市原田宿 原田小の時代行列 末永邦夫
江戸時代、長崎街道は長崎と江戸を結ぶ、九州の街道でした。
この街道をオランダ商館員や九州の大名が参勤交代で往来していました。
長崎街道は黒田藩筑前の国を通っており、藩内には宿場が六箇所ありました。
すなわち、肥前藩と国境を接する原田宿(はるだしゅく)、山家宿(やまえしゅく)、内野宿、飯塚宿、木屋瀬宿(こやのせしゅく)、そして、小倉藩と国境を接する黒崎宿です。
これらを筑前六宿(むしゅく)と呼びます。
原田小学校では、6年生になると校区にあった原田宿について学習し、集大成として、6年生全員が当時長崎街道を旅していた人々に扮して、小学校から筑紫神社までの約2kmを歩く、時代行列を毎年10月に行っています。
今回、この様子を取材しましたので、報告します。
なお、6年生の生徒約130人が履く、わらじやぞうりを大分県佐伯(さえき)市の間曽(まそ)久男さん(82才)が一人で作成されています。
きっかけは、間曽さんのお孫さんが原田小生徒の時、夏休みの宿題にわらじを作らせて、提出させたところ、学校の先生の目に止まり、それから作成依頼がくるようになったそうです。
H23年現在で、すでに7年間つづけられているそうです。続き
私は千葉県の利根川沿いの生まれで、今の柏にも40年近く居住しており千葉県には今までの人生のほとんどの時間住んでいます。
ところがなぜか成田山新勝寺に出かけた記憶が無いのです。
一度も出かけていないということはさすがに無いようです。
家内も一緒に参拝したと言っているぐらいですから。
なぜ記憶に残っていないのでしょう??
そんな不思議な気分を抱えながら成田山新勝寺を訪ねてきました。
テレビでは初詣や節分の本堂の様子がよく報道されるため、歴史とか文化財という言葉とは、離れたところにあるお寺だと考えていました。
調べてみると、なんと1000年を超える歴史があり、そり成り立ちには平将門が関わり、神護寺の空海作の不動明王までが出てくる由緒あるものでした。
市川團十郎の屋号成田屋もここが起源のようです。
そして、建造物も国の重要文化財が5棟、どれも趣のある建造物でした。
参拝の順路に従って紹介しますと、
まず、仁王門
参道から急な石段を上がったところにあります。魚河岸の大きな赤ちょうちんが目を引きます。
仁王門を抜け、さらに石段を上ると正面の本堂の右隣りに三重塔があります。
最近、彩色をやり直したようで本来の極彩色に彩られています。
そして、本堂
鉄筋コンクリート造ですから、文化財の指定はありません。
芸能人が豆まきをするのもここです。
本堂の前を左に進むと釈迦堂があります。
この釈迦堂は旧本堂、こちらの本堂のほうがずっと趣もあります。
なぜ、今の本堂を建てたのか理由がわかりません。
釈迦堂の左に見て、石段を昇ると額堂があります。
信者が奉納した額が掲げられているお堂です。額堂という建造物はとても珍しいと思います。
私は他でお目に罹ったことがありません。
この額堂の下に七代目市川團十郎の石造があります。
額堂を左手にした正面に光明堂があります。
これは釈迦堂の前の本堂だそうで、成田山には今、本堂が三つあることになります。
この光明堂が成田山で最も古い建造物で1701年、五つの重要文化財で最も新しいものが1861年の額堂です。
今、額堂の中には入れません。昨年の東日本大震災以降、額の落下の心配から立ち入り禁止となっています。
成田山の中で、私はこの額堂が最も気に入りました。掲げられている額もとても興味深いものです。
そんな訳で成田山新勝寺を見直しました。
江戸時代から続く庶民の信仰の中心であったことが理解できました。
今度は寒い時に訪れたいと思います。
■■■■■暑い夏もやっと終わり 田中康平
暑かった夏も山にはリンドウの花が忘れずに姿を現しそろそろ終わりを迎えようとしています。データでみると今年の夏はラニーニャで暑かった一昨年とほぼ同じくらい暑かったようです、ラニーニャの年は暑くエルニーニョの年は冷夏とされますが今年はエルニーニョにほぼなっていたのに冷夏はこずじまいでした。地球温暖化にしては急すぎます。単純な気象ではなくなってきているように思えます。宇宙の殆どを埋めるといわれる未知の物質ダークマターばかりでなく、世は人類の知らないことで満ち満ちているようです。
理屈をいっても暑い時は涼しいところへ逃げるしかありません。7月から8月はともかく手近な奥日光へしばしば訪れました。金精峠を北からあがってコマドリのさえずりに涼しさを求める、中禅寺湖畔をのんびり散策する、湯川沿いを歩いてはスケッチでもしてそれらしく時間をつぶす、小田代ヶ原まで歩いていってただぼんやり戻ってくる、無駄なようでも涼しく時間を過ごせればいうことはありません。
毎年来る夏は無論同じ夏ではありません。全てをうけいれれば暑い夏は逆に楽しみを与えてくれるようにさえ思えてきます。でももうそんな夏も終わりです。
■■■■■ 山の上のお寺で携帯を落とした話など 野崎順次
去年の暮れ、12月30日に山の上のお寺を撮影に行った。大阪から新幹線で約1時間で、その後の交通機関はタクシーで15分である。国重要文化財の本堂から少し上がると墓地、さらに山道を上がった最高地点に県指定文化財の三重塔がある。三重塔を撮影してから携帯でタクシー会社に連絡し、迎えを頼んだ。その直後に携帯を落としたらしい。上半身の服装はダウンジャケット・薄手のセーター・ウールのシャツで、携帯はウールのシャツの胸ポケットに入れていた。ちなみに私はいつも胸ポケットに携帯を入れておく。首にぶら下げるストラップなどはつけないで、これまで落としたことが無い。ところがこの時、セーターとシャツの間に滑らせて胸ポケットに入れたつもりが、そのまま、山道に落ちたようだ。
タクシーで駅に着き、新幹線に乗り込んでから、携帯のないのに気付いた。その時点ではタクシーの座席に忘れた可能性が高いと思っていた。家に帰ってから、タクシー会社に電話したが、そのような忘れ物はないと云う。そこでダメモトでお寺に電話して、どうも三重塔あたりの山道で落としたらしいのでついでの時にでも見ておいて下さいとお願いした。お寺の方は携帯の番号を聞かれた。呼び出し音を頼みに探して下さるようである。だが、マナーモードなので、大きな音はしない。翌朝(大晦日)に三重塔にお供えをするので、見ておきましょうと云って下さった。幸いその夜は雪や雨が降らなかった。降っていたら携帯はアウトである。
翌朝、会社で片づけ仕事をしていると、自宅から電話があり、お寺の方が携帯を見つけて下さったと云う。即座に菓子折を持って新幹線、タクシーを乗り継いでお寺に行った。和尚さんから「ひもで首から下げないと駄目ですよ。」と云う意味の方言で注意された。
自分の携帯を調べると、約1時間半にわたり十数回、他の携帯からの呼び出しがあった。そんなに長く丁寧に山道の草むらの中から聞こえるマナーモード音を探していただいた訳である。携帯を簡単に換えられない「今時の機械音痴のじーさん」にとっては身にしみる善意である。
最近、大阪南部の重要文化財の神社本殿を訪ねた折、道を尋ねた造り酒屋さんでお礼がてら冷生酒500 ml びんを買いこみ、酷暑と渇きに耐えかね、直ぐに飲みほしたところ、神社に着いて撮影途中に本殿前のベンチで寝込んでしまった。日が暮れて目を覚まし、慌てて撮影機材をリュックに詰め込んで帰ったが、ある手作りのカメラ部品を忘れた。大したものではないが、愛着があり、また、神社本殿の撮影も途中だったので、2日後の休日に再度出かけたところ、ベンチの下のきれいに清掃された地面にその部品が落ちていた。お賽銭を少しはずんでお礼参りをしていると宮司さんが朝のお掃除に出て来られた。事情を云ってお礼申し上げた。(ついでにと云っては何ですが)瑞垣内から本殿を撮影させて下さいとお願いしたら、「どうしてもですか」とおっしゃりながら鍵を開けて下さった。
おのれのそそっかしさを大いに恥じる次第である。大変不遜な云い方で申し訳ないが、落としたところがお寺や神社でよかったと本当に思う。
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編集 瀧山幸伸
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