MONTHLY WEB MAGAZINE Jan. 2013

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トピックス


■■■■■ 四国漂流の旅 瀧山幸伸

 


■■■■■ 生間流式包丁と京舞 中山辰夫

2012年12月13、14日、明治時代から続く京都料理組合主催の恒例「第108回京料理展示大会」が「みやこめっせ」で開催されました。

特設ステージなどでは料理に纏わるさまざまなイベントが行われ、これも訪れる人の楽しみです。

その中から京の伝統的な美しさ 「生間流式包丁(いかまりゅうしきほうちょう)」と「京の舞」を紹介します。

資料によると、「式包丁」は、平安時代から現在まで1100余年に渡り伝承された食の儀式。

烏帽子、狩衣、袴姿で、まな板の上の魚や鳥に、直接一切手を触れず、包丁と真魚箸だけでさばき、めでたい形に盛り付ける技。

その流儀の一つが「生間流式包丁」です。「生間流式包丁」は、「鯛」と「鯉」では流れ・仕上げが異なるようです。

なお、式包丁は各流派があり、神社などで執り行われます。

鯛の部

鯉の部

会場では、祇園、宮川町、上七軒などの舞妓さんが美しい京舞を披露します。お馴染み「月は、おぼろに東山、霞む夜毎のかがりびに、・・・」の祇園小唄に見惚れます。

この有名な「祇園小唄」は、1930(昭和5)年、映画「絵日傘」(マキノ映画)の主題歌で、京都の四季の風情を織り込んだ歌詞と情緒漂うメロディーで大流行したようです。

京舞井上流4世・井上八千代が、この歌に振付を行い、現在は舞妓さんの定番の踊りの一つとなっています。

ちなみに「祇園小唄」は春から冬まで4番までの歌詞があります。


■■■■■ 年末年始 大野木康夫

大晦日、おせち料理を作りに家内が実家に帰っていたので、早朝、京都御苑内の神社に行き、巳年ゆかりの絵馬を撮影しました。

厳島神社

平清盛が福原に勧請した厳島神社を、還都の際京に移したのが起源で、現在は京都御苑内の九条池の畔に鎮座しています。

厳島神社は宗像三女神で、そのうち市杵島姫命は神仏習合で弁財天が本地とされたので、この神社にも弁財天の絵馬がかかっています。

弁財天の使いは白蛇です。

もう一つの神社、白雲神社に向かいます。

御苑内の砂利には自転車の轍の跡ができており、俗に「御所の細道」と呼ばれています。

自転車はこの細道を通っていきます。

行き違いの際には双方が左側によけるのがルールです。

白雲神社は、元西園寺家で弁財天を祀っていた妙音堂が起源で、やはり祭神は市杵島姫命、弁財天です。

絵馬は弁財天、その琵琶、使いの白蛇などです。

元日は、地元の神社に初詣に行った後、賀茂別雷神社(上賀茂神社)に行きました。

賀茂別雷神社の社殿は殆どが重要文化財(本殿、権殿は国宝)ですが、位置関係が判別しにくいので、およその位置を記しておきます。

一の鳥居から二の鳥居に向かいます。

神馬舎の注意書き「神馬に話しかけないでください」が気になります。

二の鳥居内は正月仕様でした。

拝殿(細殿)はまた本殿付近の工事のために結婚式場使用になっていました。

正面に巳年の板絵が飾ってありました。

絵馬も巳年のものです。

手水を使って、楼門から本殿前に行きます。

初詣期間の1月6日までは、四脚中門を通って祝詞舎前まで進み、間近から本殿に参拝できます。

ただし、祝詞舎から本殿、権殿に向けて写真を撮るのは禁止されています。

また、同じ方向にある透廊、渡廊、末社杉尾社本殿等も当然撮影できません。

参拝後、新宮神社の方に抜けて帰ります。

本殿より東の諸社殿

祝詞舎(重要文化財)東面の唐破風屋根が撮影できました。

本殿、権殿(国宝)の屋根、手前の短い屋根が本殿東渡廊取合廊(重要文化財)です。

末社土師尾社本殿(重要文化財回廊(東)の附指定)

東渡廊(重要文化財)では巫女さんがお守りや破魔矢などを売っています。

その奥の摂社若宮神社本殿(重要文化財)は修理中で覆い屋根の下でした。

唐門から東御供所、新宮神社本殿および拝殿(いずれも重要文化財)

回廊(東)、楼門、玉橋(いずれも重要文化財)

思いもかけず、新年早々普段撮影できない建造物を撮影することができました。


■■■■■ 昨年を振り返って 川村由幸

毎年一月のweb magazineは昨年を振り返っています。

2012年の投稿は茨城県つくば市の金村別雷神社から始まって同じ茨城県つくばみらい市の願成寺まで78件、

そのなかで印象深い取材先を上げて見ます。

まず最初は埼玉県熊谷市の妻沼聖天山です。

瀧山さんが取材された画像を見て、自分の目で確かめたくなり出かけました。

修復が済んだばかりで社殿は極彩色に包まれていて、その鮮やかさに圧倒されました。

貴惣門の屋根の独特の形も目を楽しませてくれました。

四月に春の高山祭にでかけました。人の多さに僻々とさせられましたが豪華絢爛な屋台やからくり人形が

心に残り、祭りもいいものだなーと再認識しました。

春と秋の高山祭に出る屋台が異なることも知りました。秋の高山祭もチャンスを作って見学したいと考えています。

今年の福島の桜は綺麗でした。心から桜の花を楽しみました。

桜の花の上の安達太良、大きな枝垂れ桜の古木がみんな満開でした。ゴールデンウィーク初日で道路はとても混雑していましたが、

美しい桜が十分にそれを補ってくれました。

それでも滝桜への来訪者は平年の半分とか、東電に保障を求めるそうです。

東日本大震災の影響はいつまで続くのでしょうか。

十月に兵庫県朝来市の竹田城跡を訪問しました。私たちが訪問した直後に映画でここが紹介され

たくさんの観光客が押しかけているようです。中にマナーの悪い方もおられ、名所が俗化とともに荒れている様子が

報道されていました。こころが痛むばかりです。

でも、静かな竹田城跡は時がゆっくりと流れ、石垣だけの城跡が悠久の時を思わせます。

最後が東北の錦秋、子安峡です。

紅葉の美しさもカメラで画像にすると肉眼の印象と随分と違います。

その鮮やかさが、色彩の迫力が肉眼で見た時の感動とかけ離れています。この子安峡の紅葉は、私が今まで見た紅葉で最高のものでした。


■■■■■ アナログの時代を感じる 田中康平

デジカメで時代を捉え時を捉えて遊ぶ、なかなか楽しいが大量の画像データに次第に圧迫されるような気がし始めている。

便利で手軽だがアナログの時代で感じていた何かを失ってき始めているのではないかと時々不安にもなっている。

去年の秋にやっと仕事からも解放され、故郷の福岡市に戻ることにした。

福岡で古くなった家の遺品を大量に処分したり 傷んだ部分に少しは手を入れたりして引越しに備えているが、遺品を整理していくと捨てられなかった贈答品が数多く出てくる。

竣工したビルの置物であったり、湯飲みであったり、お盆であったり、干支の置物であったり、灰皿であったり、ともかく今となってはガラクタでしかない、しかし贈られたものだけに捨てにくかったのだろう。

着物も大量に出てくる。古着屋に見させても殆ど値がつかない。元は高価でも古くなってしまうとどうしようもない。持っていた人以外には価値が分からない。

物は思い入れをこめて使ってこそなのだろう。思い出というアナログな世界は他人には伝わらない。

漆器のお膳や重箱や食器も沢山出てくるがさすがにこれは捨てられない。漆塗りをやってみたいと以前調べた時説明を受けた漆器の目くるめく手の込んだ製造行程が思い起こされて、他人がどう値つけようと手放す気になれない。

プラスチックが幅をきかせるようになる前は軽くて丈夫な漆器の世界があたり一面に広がっていた。弁当箱でも漆器だ。

眺めているとそんな時代が蘇るように感じられてくる。普遍的なアナログの世界ともいえるのだろうか、ここには強さがある。

ともあれ便利なものが世界を覆い手の込んだ工芸品のアナログな世界は次第に駆逐されていく。少し寂しくなる。

デフレということかもしれない。しかしそこに切り捨てられたえもいわれぬ感触が再び見直される時代が廻ってくるように思えている。

最近レコード盤の売り上げが底を打って上がり始めたと伝えられる。デジタルな香りのする文明に人は疲れを覚え始めたのかもしれない。

またアナログの世界に回帰していくような気がしている。贅沢なアナログとも言える時代に。カメラもまたそんな贅沢なフィルムの時代に戻るようになるのだろうか。

これからまだまだ先が長い人類の歴史にはそんなうねりが来ることは当然のような気さえしている。 


■■■■■ 仁王様の乳首、追加事例 野崎順次

以前の報文(ウェブマガ2012年7月)で各所の仁王様(正式には金剛力士像)の乳首を観察すると、人間に近い半球状突起もあることはあるが、造形的な花形キャップが主流のようであった。今回はさらに調査した結果を追加する。

A.半球状突起

実際の乳首に似ているが、ややデフォルメしている。

岡山県岡山市 金山寺 仁王門 指定無し

吽像の胸の細部は格子に隠れているが、阿像は分かる。

岡山県倉敷市 持寶院 山門前 指定無し(昭和60年製作奉納)

B.単純花形

大分県国東市 両子寺 境内 国東市指定有形文化財

大きさ、力強さ、その見事な均整美ともに、国東半島を代表する仁王像と言える。

露天に建っている。阿像は磨滅したのかかすかな痕跡が残るが、吽像は明白である。元来、多弁花形であったが、磨滅して単純花形に見えるのかもしれない。

C.多弁花形

石川県羽咋市 妙成寺 仁王門 江戸初期

仁王像は作者不詳であるが、江戸初期としては大作である。

山梨県身延市 本遠寺 山門

慶応三年(1867)の火災により、本堂・鐘楼堂以外を焼失するとあるので、山門と仁王像は明治期建立と思われる。

福井県小浜市 神宮寺 仁王門 鎌倉末期?

仁王門は国重文だが、仁王像は無指定らしい。鎌倉末期の製作と云われ、親しみの持てる風貌である。

奈良県吉野町 金峯山寺 仁王門

東大寺南大門に次ぐ日本で2番目の大きさ。

これまでの事例から見ると、最も多いのが多弁花形で、恐らく70%に達するだろう。いずれにしても、乳首にキャップをかぶせるのが標準手法であろう。何故か?詳論は避けるが、基本的には性的弱点を隠すと同時に保護するためであると思われる。仏師のお話を聞いてみたいものだ。

参考資料

大分県観光情報公式サイト

石川県HP

ウィキペディア「本遠寺」

竜胆庵日記HP

徒然寺社巡りHP


■■■■■ 1987年3月31日 国鉄がJRになった日 柚原君子

1987年3月31日。国鉄という名称が消えた日はいまから26年前のことです。この年の社会的事象としては年明けに東証株価指数が2万円に乗せ、南極捕鯨が終了し、利根川進さんがノーベル賞受賞をした年です。またマドンナやマイケルジャクソンが来日し、石原裕次郎が亡くなり、秋にはあの恐るべしブラックマンデーがやってきた年。そして私の大好きだった向田邦子さんが大韓航空爆破事件の乗客だった年……そんな年の3月31日に国鉄という名称が消えました。ですからこの看板は少なくとも今から26年前に立てられたことになります。

国鉄の名称はその後は<E電>に変わったのですが、<E電>はあまり定着せずに、当時の国鉄の代替名称であった<JR>が定着してしまいました。それなのでE電の名称が残っている看板やパンフレットは希少価値とも言われています。どこかで見つけてみたいなぁと、東京のガード下など歩く時に目を皿にしているのですが<E電>の文字はまだお目にかかったことがありません。

それはとも角として、友だちに地下鉄の車掌さんがいます。

「ねえねえ、次は○○なのに××です、って言い間違えたことないの?」

と訊いてみました。

「あるよ。一つ早い駅で銀座って言ってしまって訂正した。で、次の駅で大変失礼しました。次は銀座!銀座!です、って言ったよ」

「乗客から反応あった?」

「あったよ。『銀座も広くなったもんだ』って言われた」

「あははは♪」

車掌の友だちは続けて言います。

「ほんとか嘘か知らないけれど、JRの車掌友だちは<駒込>を一つ早い駅で言ってしまって、次の駅の案内で、<次も駒込、次も駒込!>ってご丁寧に連呼したって話が残っているよ」

「あははは♪それもおもしろいね。車中が和んだかもしれないね」

<次も駒込!>のフレーズは山手線に乗るたびに思い出します。その逸話、国鉄時代だったのかJR山手線と呼ばれる時代になってからだったのかは聞き忘れたけれど。


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Japan Geographic Web Magazine

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編集 瀧山幸伸

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