Monthly Web Magazine May 2014

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■■■■■ 水口岡山城復活?と発見された高石垣(推定) 中山辰夫

滋賀県甲賀市水口町

4月20日(土)水口曳山祭りに合わせて、発掘現場説明会がありました。

水口曳山祭

豊臣秀吉の命で1585年に築かれ、関ケ原の戦いの後に廃城となった「水口岡山城」(滋賀県甲賀市)が巨大バルーンで復活し、城跡のある古城山(283m)山頂に設置されました。市のシンボルとして城の復元を目指す市民団体が企画。専門家らの意見をもとに業者に製作を依頼したもので高さは11m。段ボールで作った一昨年の城よりは本物らしくなったとPR。約70人のボランテイアによって組立てられた。水口曳山祭とも重なって人出も多く、アピール効果は満点でした。

この城は、豊臣秀吉が1585(天正13)年に建築を命じ重臣らが居城にしたもので、豊臣が天下を支配する段階で近畿の拠点とした城であり、徳川家康を意識して築造されたとされます。

関ケ原の戦い(1600年)の後で徳川の手で「破城(はじょう)」とされましたが、旧東海道からも良く見え、見せしめとしての破城の効果は抜群だったといえます。

第一次発掘調査が行われ、破城の跡が確認されました。豊臣政権期の城址で城を壊した状況が確認された事例は県内初で、近畿でも珍しいようです。

水口岡山城と城下町(建教育委員会資料)、天主調査区、概略図、天主推定位置

平成25年度の第一次調査の結果、城の正門とみられる入り口付近などで石垣が見つかり、その手前に崩れた多数の石が散乱しているのが確認されました。続く26年度の二次調査で、8〜9mの高石垣の存在が推定されました。

想定断面模式図と現場

石垣の裏込石とみられる栗石が多数散乱してあった。城下町があった南側の発掘現場からは、長さ1メートルを超す石材が出土。威容を示すため意図的に巨石が使われたらしい。他に拮梗文を中心飾りに持つ軒平瓦と巴文軒丸瓦も多く出ました。

現存する本丸石垣

石は花崗岩だけでなく、古城山で産出する菫青石ホルフェルスを使っている。現地調達もあったようです。

また、城下町から城への主要道と考えられる「大手道」周辺では、全長約5メートルの石垣を発見。城の主要部分周辺は総石垣だった可能性があるという。

旧大手道「正面にあるお寺は山の上にあった大岡寺」

水口岡山城は秀吉の重臣が1585年に築城。石垣で囲まれた城であった。1600年の関ケ原の戦いで当時の城主長塚正家が西軍についたため攻められて開城。戦後処理として廃城になった。その後水口は幕府直轄地となった。

1634(寛永14)年新しい水口城「将軍家御茶屋御殿」が築造された。その時には、水口岡山城の石材を転用したとされる。

市教委は「城の全容を解明し、国史跡への指定を目指し、調査を継続していきたい」としている。

≪参考≫

秀吉の城郭ネットワーク

豊臣秀吉は政権を取った後、信長が琵琶湖の周囲に築いた城をベースに新たな城郭網を形成した。湖城としては、安土城に代わって八幡山城を、坂本城に代わって大津城を新たに築いた。内陸部街道の抑えとして、水口岡山城と佐和山城を修築した。新たな拠点には、信頼のおける家臣を城主に配置した。

水口岡山城と佐和山城はいずれも徳川に破城された。

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