Monthly Web Magazine November 2014
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おしらせ
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■ 街並の本が発刊されます
ジャパン ジオグラフィックの活動成果が本になります。
「一度は行ってみたい 街並発見」、11月末の予定です。
http://www.futami.co.jp/book/index.php?isbn=9784576141480
大人はもちろん、お子様にも教科書として役立つように作りました。試験に出る内容満載で、楽しく学べますのでプレゼントにも最適です。
写真家の作品を集めた通常の写真集と違い、ジャパンジオグラフィック通信員の総力を結集した写真は、視点が確かで、見ごたえがあります。
「街並百選」などを参考に、新規に書きおろしたものです。
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トピックス
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■■■■■ 2つの話題 瀧山幸伸
■ 秋山郷、飢饉で絶滅した村と持続可能(サステイナブル)な社会
10月、長野の秘境、秋山郷を訪問しました。
今回の目的の一つは、天明の飢饉で絶滅した、秋山郷の大秋山集落跡を調査することです。
詳しくは鈴木牧之の「秋山紀行」や「北越雪譜」に記されています。
牧之は今でいう人文地理学者で、単なる旅行作家ではありません。
飢饉の悲惨さは、北東北の調査でもあらためて認識しましたが、なぜこんな調査をしているかというと、私も地理学者のはしくれで、ライフワークとして、世界中の人々が争いなく幸せに暮らせる社会、「サステイナブルコミュニティ」の研究をしているからです。
その根底は、エネルギーでもITでもなく、「家族の食糧を狭い敷地で安定的に生産できるかどうか」です。
自分の研究成果が、世界の難民や被災者の現場など、悲惨な事例でも通用するのかどうか、自ら検証しているのです。
「都市輸出」とか、「スマートシティ」などの言葉が踊っていますが、今後必要なのは、自律可能な「サステイナブルコミュニティ」です。
エネルギーも水も食料も産業も教育も、自分たちが作る社会です。
飢饉で絶滅した大秋山集落跡(現在の屋敷集落近く)
■ 安くておいしい秋の味
諸国行脚の調査はおなかがすきますし、宿も必要です。
たまには飲食、宿泊、物産の話題もいいでしょう。
秋の味わいを3つお届けします。
まずは食事処です。
秋といえば秋蕎麦。もう四半世紀も通っている新潟十日町の土市にあるへぎ蕎麦の由屋(よしや)は、テレビで紹介されて客が押し寄せる今でも、昔からの味と値段を守っています。
その日の天候で出汁の味が変わる細やかさです。付きだしや野菜天ぷらの味わいも格別です。
次は宿泊。温泉があって、安くて清潔で、食事がおいしい宿、そんなのあるわけないですよね。
新潟の長岡にある忠盛館は、新潟方面への調査旅行でよく利用させていただくお気に入りの宿です。
料金は、6千、8千、1万円とありますが、貧乏なのでいつも6千円(税抜き)コースです。
お風呂はまったりと温まります。料理は文句なし。お酒もいまどき300円です。宿の方々のお人柄もよく、家でくつろぐようなここちです。
最後に物販。地域の産物でまちおこしをがんばっている山里をご紹介します。
福島県の阿武隈山中にある鮫川村は、交通不便な過疎の村ですが、町の人々は元気です。
「手まめ館」では、自家製の豆腐やみそのほか、地域の農産加工品を販売しています。
販売所の壁にはぎっしりと生産者の顔写真が貼られています。作り手の顔が見えて安心ですね。
食事処では地元特産品が味わえます。えごまソフトや、手作りパンのカフェもあり、どれもおいしいですよ。
その鮫川には、鹿角平観光牧場があり、サステイナブルタウンの実現性を検証するために、たびたび訪問しています。
結局まじめな話題に戻ってしまいました。
11月はじめに紅葉を探して秋田に出かけてきました。
湯沢市の小安峡 ⇒ 田沢湖 ⇒ 抱返り渓谷 ⇒ 角館のコースです。
今年の東北の紅葉は色づきが早く、さらに前週の前線通過に伴う強風での落葉で紅葉の盛りが過ぎての訪問となりました。
最初に訪れた小安峡も落葉した後の樹の枝が目立ちます。
それでもそこそこに美しい紅葉に出会えました。小安峡は岩の隙間から温泉が噴き出している「大憤湯」も見もので、温泉の湯気にたっぷりと浸かってきました。遊歩道の整備も完璧で憤湯に手を浸すこともできます。
翌日の朝、田沢湖の遊覧船に乗船。この遊覧船は11/5で終了でしたが、宿泊した宿が無理をお願いして下さり、乗船することができました。
タツコ像も湖から眺めると背中ばかり見ることになってしまいます。
田沢湖の紅葉も見頃を過ぎていましたが、まだ十分に美しいと言えるレベルでした。
実は今回、一番楽しみにしていたのが次の抱返り渓谷でした。二年前にも訪問していますが、その時は雨に霞む紅葉でした。今回は快晴で色鮮やかな紅葉を期待していましたが、残念ながら期待を裏切られました。
枝だけの木々が目立ち、完全に紅葉は終わりでした。かろうじて水面に映る紅葉を楽しんできました。
桜や紅葉という季節物は訪問日程を早く決定することから、どうしても当たりはずれが出てしまいます。
小旅行の終わりは角館。重伝建の建造物に紅葉が映えて、桜のシーズンに負けない賑わいでした。
稲庭うどんも美味しい日本酒も、そしてキリタンポもいただきました。それなりに秋田を堪能してきました。
ともかく日本の秋は美しい。
■■■■■ 早めの紅?葉だより 大野木康夫
通信員として登録していただいて4年が過ぎました。
近畿地方のモミジの紅葉は11月後半になるので、月の前半に発行されるウェブマガジンには撮影が間に合わず、紅葉便りは時期が過ぎてからの12月のウェブマガジンに寄稿しておりました。
今年は、10月後半から、早く色づく広葉樹の紅?葉(黄色や茶色が多いので)を撮影してみました。
奈良吉野山の桜
滋賀県大津市葛川梅ノ木町付近
滋賀県高島市朽木針畑郷
滋賀県高島市ビラデスト今津
滋賀県高島市朽木谷
滋賀県大津市葛川坊村町付近
真っ赤に色づくモミジは、葉が比較的薄いので、晴天やライトアップの光によく映えますが、ブナ、桜などの厚手の葉の紅葉は、曇天で見る方が雰囲気があるような気がします。
11月中旬以は、モミジの紅葉の撮影ができるようになると思いますが、今年は天候に恵まれることを願っています。
9月25日太宰府天満宮の神事「神幸式大祭」に行われる「千灯明」に先立ち、21日に水城・政庁跡・観世音寺を灯す「古都の光」が行われました。
「古都の光」は多くのボランティアの団体(TEAM SEICHOU)の協力で下記の様な催しがおこなわれました。
①ギャラリートーク 復元大宰府政庁 (太宰府展示館)
②星空ガイド in プラネタリウム (移動天文台ドーム)
③ASUKAコンサート
④「星のランタン」「蓮の華あかり」
→今回はここの活動を主体に取材
⑤水城跡の原木を使った灯明
⑥絵灯明
⑦竹灯明
⑧木ウソ灯明
何もない大宰府政庁跡のダダぴろい広場が夜暗くなって、灯明に埋め尽くされた風景は、多くの参観者を楽しませてくれました。
その一部始終を垣間見て、ボランティアさん達の力に感動しました。
「恐るべしボランティ・パーワー」
第34回の古本祭りが、10月31日〜11月4日の間、京都・百万遍の知恩寺で開催されました。今年はあいにくの小雨で、やや低調に終わった感じです。
会場の知恩寺は浄土宗の大本山。山号・長徳山。円仁の草創。1331年疫病の流行を、八世善阿空円が念仏百万遍を唱え祈願したところ治まったので,後醍醐天皇から百万遍の寺号を賜ったとされ、浄土宗四本山(知恩院、清浄華院、金戒光明寺)の一つです。
東今出川通りを挟んで京大北門と向かいあっており、山門、御影堂(本堂)、阿弥陀堂、釈迦堂、鐘楼、庫裏、など七堂伽藍が建ち並ぶ大寺です。
祭り当日は、境内は勿論、各堂宇の中まで書籍が並べられ、初日には古書供養が行われました。
三日目の11月2日は、昨日に続き朝から小雨が降ったり止んだりで、売る方はビニールシートを被せたり、外したり、買う方はビニールの上からの本探しで大変なようでした。天気がよければ動きが取れない程人が集まるようで、フアンにとっては恨めしい雨でした。
今年は「古書蒐集」もある意味では「遊び」と、遊びにまつわる古書が集められたようです。お祭りのハイライトはオークションで、最高に盛り上がると聞きます。
最終日は好天となりました。多くの人が来場されたと思います。
京都では、春の岡崎、夏の下鴨、秋の知恩寺と年に3回古本祭りが、京都古書研究会によって開かれます。
地元京都を中心に、関西や岡山などの近郊の古書店が加わって売り場を作ります。
時には平安貴族の日記が出てくるなど、古本資源の厚みに支えられ、今年でメッセは31回目、下鴨は27回目、知恩寺は34回目を迎えました。
「春の古書大即売会」は京都市勧業会館(みやこめっせ)が会場で、570坪のスペースには古書店43店舗から多くの古書が並べられました。
期間は5月1日から5日までの5日間でした。美術関係や豪華本が中心の様で、屋内で催される古書の即売会としては最大です。
1万冊以上の京都本が並ぶ「京都コーナー」も設けられました。
夏の「下鴨納涼古本まつり」の会場は、下鴨神社の糺(ただす)の森で、5月の葵祭りで「流鏑馬」が披露される南北800mの馬場です。
期間は8月11日から16日までの間でした。児童書を目玉とするため子どもさんの訪問が多いのが特徴とか。
白いテントや木箱、台の売り場が連なり、かき氷やビールを売る露店も出て、晴れた日には1万人が訪れます。
最もにぎわうのは児童書コーナーで、図鑑や物語、伝記、歴史漫画シリーズなど1万冊以上が揃います。
今年は台風の影響で1日遅れて始まり、最終日は大雨で小川があふれ、会場一面が水浸しになりました。書籍にも影響が出て、収支は厳しかったようです。
研究会が開く古本まつりは本好きな人にとっての「京三大祭り」といわれ、待ち焦がれている人が多いと耳にします。
「多くの人で賑わうのを見ると、こんなに読書人口がいるんだと勇気付けられる」と会員の声として、新聞にも記事が出ています。。
年間行事としてすっかり定着し、訪問者の中には、子供の頃来た人が親になり、その子供を連れてくるといった世代を超えたリピーターも増えつつあるようです。
悠久の森の中で、本と出合う楽しみが受け継がれて行く色んな場面を目にすることができるようです。本の魅力は永遠です。
『注』今回掲載した写真の中には、「京都古書研究会」様からご協力を頂きました分も含まれております。ご報告申し上げます。
■■■■■ 鳥の音を録る 田中康平
9月末にプールで泳いでいて右足の膝の辺りの筋肉の肉離れを起こした。
突然右足が動かせなくなった感触だった。
以来暫くおとなしくしている。
無論医者にもかかったが結局は自然治癒を待つほか無いようだ。
秋になると紅葉が気になってもみじを求めてあちこち動き回るのが常だったが今年はそうは行かない。
リハビリが気になってほぼ毎日近くの公園を3つ巡って足を動かしている。
それがその日の唯一の外出になることも何日もある。
一つ目の公園にはカワセミが時折現れる。
辺りが静かな頃合に姿を見せるように思える。
時折写真に撮ろうと一眼レフを抱えて散歩するがそんなときには決まって現れない。
そもそもカメラを向けると飛び去る鳥は多い。
向けられたときの殺気を感じるのだろう。
これとは逆に音を録音している時は逃げない。寄ってくることすらある。
録音したものを後で編集する際に最も気になるのは風の音とかさこそいう雑音だ。
編集で出来るだけ雑音は取り除くのだがその作業が大変で鳥の録音をした後暫く編集はほおって置くことすらしばしばだ。
特に衣服のすれる音は周波数帯が広くてほぼ除去不能だ。
こんな時はその部分全体を消してしまうほかなくなる。
手持ちで録る時は更に手の細かい震えのようなものが伝わってこれも除去が難しい。
そんなこともあり手持ちで音をとるときには人間が発する細かい音を極限まで排除すべく不動の姿勢をとることになる。
自然の中で暫くそんな姿勢を続けていると気配が消えていくのがわかる。
風景に溶け込んでいっているのを感じる。
透明人間が透明になっていく過程とはこんなものなのだろうと思うほどだ。
鳥は人の気配の大半を音で得ているのだろう。
こんなこともあっていい録音ができたと思うときは大抵一人でフィールドに出た時だ。
特に早朝一人でさまよっている時がいい。
鳥をバードウオッチングと称して見ることをここ10年少し続けているが思い返せば鳥の声を何とか聞き分けたいという願望から入っていったような気がしている。
まずは何とか声を録音できないか、というところから始めた。
録音機材は初めはsonyのMDを使っていたが、程なくPCM録音の出来るHiMDを使うようになり、集音もAudiotechnicaのAT822というそれなりのマイクを使って良い音を録ることに気を配っていたが、ちょっと大変だった。
その後SDへのデジタル録音が実用的に出来るようになってきて、ここ5年ほどはsanyoとyamahaの共同開発品の録音機ICR-PS1000を使っている。
録音時間が十分取れるしメディアも当分は安泰だ。
何しろHiMDのほうはもう大分前にメディアが生産中止になってしまっている。今更戻れない。
ともあれ音を録るということそのものではいまひとつでも手軽さには代えがたい。
何しろ望遠レンズ付き一眼レフと双眼鏡を抱え時にはビデオも抱えて録音もするのでは出来るだけ機材はコンパクトにしたくなる。
それっという時に録音機が出てこなくなる。
車の中で聞くCDは自分で録音した鳥のCDばかりだ。
しかし最近は音を録ることに雑になってきた、気持ちが少し薄れてきている。
録った後の編集が重荷になっていることがあるのだろう。
ルーズな生活に慣れ浸ってきたこともあるのだろう。
福岡という飛行機の音がひっきりなしに頭上を襲う地に転居したこともあるのだろう。
いつまで続けられるだろうか、そんなことを思う時もある。
全てを受け入れて、録音できなくても頭の中にそれが残ればそれでいいじゃないか、と思うことにしている。
もはや楽に生きていくほか無いようだ。
添付は小浜島の早朝録音した音。
リュウキュウオオコノハズクではないかと思うがよくは解らない。
解らない声が録音できるのは楽しみの一つでもある。
写真は録音機材。左がICR-PS1000,マイクはAT822、右がHiMD。
■■■■■ 看板考 「江崎グリコ」 ゆはらきみこ
所在地:大阪道頓堀
子どもの頃にお腹が空くと、薄力粉・砂糖・水だけの素材だったけれど父が作ってくれた「せんばやき」がすごく美味しかった。母が作ってくれたのは炒り大豆で、それはなんら美味しくなかったので、私も弟も少しだけバラっともらってポケットに入れた。
祖母が作ってくれたのは蒸かし芋と草だんご。草だんごの材料のヨモギは、私たち子どもがテンペツという籠を持たされて、自らあぜ道に摘みにいったものだった。
一般家庭に冷蔵庫など無い時代。余ったおやつは北側に当たる涼しい窓の外で、籠に入れられて、多少のハエなど気にすることも無く揺られていた。子どもの好む甘いものといえば、風邪を引いたときにもらえる「佐久間ドロップ」が上等部類を独り占めしていた。……とまあ、私たち一家は濃尾平野の真ん中に暮らし、古い戸籍簿で示すところの「農民」の出であったから、あまり上等なおやつに縁はなかったかもしれないが、世の中の豊かな上品な家庭では大正時代から子供へのおやつの習慣があったようで、洋風のカステラ、ビスケットなども供されていたそうである。
大正3年に森永ミルクキャラメルが小包装となって箱に収められ、発売後すぐに爆発的ヒットとなった。以後、全国に多くのキャラメルメーカーが出現した。その中に大正10年に創業された「江崎グリコ」(大阪市西淀川区に本社)がある。
江崎記念館の年表によると、グリコの創業者江崎利一氏は佐賀県で父死亡後の家業の薬種業を19歳で継ぎ、日露戦争で看護兵として従属し帰還。25歳で大阪を見学して薬を安く仕入れ、大阪の地でコレラ患者を看護し、その時のヒントから、牡蠣(カキ)に含まれるグリコーゲンから「グリコーゲンの事業化」を思いついた。33歳、九州で江崎商会として葡萄酒販売のトップの会社となり、大阪に江崎商会大阪出張所を開設。37歳で有明海の牡蠣からエキスを抽出。自分の子どもが病気をした際に牡蠣エキスの臨床効果を実感。39歳、一家で大阪に上阪して「合名会社江崎商店」を設立、社長に就任。栄養菓子グリコを試験販売。大正11年、三越で発売に成功、という経緯がある。
牡蠣から抽出される「グリコーゲン」キャラメルの中に入れた、栄養菓子グリコは「一粒で300メートル」というキャッチフレーズで、走るスタイルの「ゴールインマーク」を企業シンボルとしている。
江崎利一氏は「子どもは食べる事と遊ぶことが天職」という持論に基づいて、お菓子の箱の中にシールなどをおまけに入れた。昭和4年にはお菓子の箱の外側にもう一つの箱を付けてオモチャをお菓子につける「グリコのおまけ」を発売。大ヒットした。
昭和6年にはグリコ本舗のチラシを江崎氏自身が街に出て配り歩いたそうである。そのチラシには懸賞の問題や応募の決まりなどが印刷されて、チラシの角には切り取り線があって「5銭のグリコを4銭におまけする」という割引券も付いていて、どこのお店に持って行っても割引になる、とカタカナで書かれてある。昭和30年代に入ると懸賞商品はおもちゃのみならず切手やコイン、洋服などを初めとして、手乗り文鳥やしゃべるオウムなどにも及び、懸賞で何かが当たる、というブームの先駆けともなった。
看板は大阪の道頓堀に大きく掲げられたもので、工事中の建て替え期間のみ掲げられる限定看板。女優の綾瀬はるかさんが元気に走っている。(2014年10月23日〜秋に終了)。
江崎グリコの走るスタイルのゴールインマークは企業シンボルで、森永のエンゼルや不二家のペコちゃんと同じである。今回のようにランナーが時流に乗ったキャラクターに取って代わるという細工は、広告効果を重んじる創業者の江崎利一氏の心意気を受け継いでいるのか、その遊び心もおもしろいな、と私も道頓堀の群集に混じってグリコの看板を見上げた。
余談ながら、企業看板であるキャラクター考察を一つ。
ペコちゃんポコちゃんという、まじめに考えれば、ちょっとふざけたネーミングかと思われるシンボルキャラクターは、不二家の看板娘と看板息子である。不二家が1910年(明治43年)、横浜元町洋菓子店より出発したのち、40年後の1950年に誕生している。誕生当時のペコちゃんは年齢6歳の想定。ボーイフレンドのポコちゃんは、翌年誕生したので年下の彼かと思えばそうではなく、7歳の想定になっている。指折り数えれば、現在のお二方は65歳と66歳のはずだけれども実にお若い!グリコーゲンの分子は、エネルギーにいちばん変換されやすい栄養素であるから、もしかしたら、同業者のグリコのキャラメルを夜な夜なひそかに食べて、店頭に立ち続けられる元気さを保っているのではないかしらん、……と、私はひそかに想像した。
参考文献:江崎グリコ70年史・江崎記念館資料・ウィキペディア・他
21世紀に入ってから、おもしろかった話や、ふと気が付いたことをメモしています。メモを少しでも怠ると忘却の彼方に去り、とても残念です。たまに、汚い沼のメタンガスのように、記憶がよみがえることもあり、ボールペンとメモ用紙を探しますが、その最中に水中に落としたコンタクトレンズのようにひらひらと消えてしまいます。
今回は「フルイ」中から「フルイ」にかけて選びました。
・あのレストランのフランスワインは高いなあ。そうや、あそこはボルドー。
・いつもの立ち飲み屋で、そこのおばちゃん自慢の粕汁をアテに日本酒を飲んだ。ひょっとして、酒粕と酒が俺の胃袋で再会したのではないかと思うと胸が熱くなった。鳥肌が立つほどではないが。
・ NHKは日本放送協会(Nihon Hoso Kyokai)の頭文字をとったものである。一昔前の漫才でラジオのNHK大阪のJOBKは、ジャパン、大阪、馬場町、角(Japan, Bambacho, Kado)の略だと云っていた。確かに大阪支社は馬場町の角あたりにあった。
・ 泉大津の回転すしの店で、トイレの横に「流れてないものはお申し付け下さい。」と書かれていた。
・ 昔、読んだアメリカンミステリーの中に日本人の探偵が出てくるが、その名前が「ヤグラマキ」。そんな名前があるか!(トム・サヴェージ「崖の家」ハヤカワ文庫)
・ その後読んだ英国ミステリーの冒頭は、主人公の主任警部が脳腫瘍かとビクビクしながら医師の診断を受ける設定である。その医師の名前が不吉で「アカンデ」。(ルース・レンデル「シミソラ」角川文庫)
・ 食間に服用する薬を、ご飯一杯目と2杯目の間に飲んだ人が実際にいたそうだ。
・ 韓国のソウルに出張するので大阪空港から大韓航空機に乗り込んだ時、スチュワーデス(今ではキャビンアテンダント)が前後の日本人客に「いらっしゃいませ」と云うのに、私には「ヨボセヨ」と云った。そうです、私の顔はすこぶる平坦です。
・ その昔、神戸の元町センター街でおばあさんの酒屋があり、いろいろな洋酒にカタカナの名札を付けていた。その中の傑作が「ジョニーウォッカ」。
・ 京都の二条城の庭園で我が娘に大受けのダジャレ。庭園(Garden)と表示があったので、「お前、知ってるか、ここは蝶々は来るけど、蛾は来ない。」、「何で?」、「蛾−出ん!(ガーデン)」。
・ 白鳥は大人になっても煙草はスワン。
・ NHKFMの日曜喫茶室で聞いた話。ある人が図書館で推理小説を借りて、登場人物一覧を見ると、ある人に印がついていて、こいつが犯人だと書いてあった。
お粗末さまでした。
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Japan Geographic Web Magazine
https://JAPAN GEOGRAPHIC/
Editor Yuki Takiyama
yuki at .jp (Replace at to @)
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