JAPAN GEOGRAPHIC

Monthly Web Magazine July 2020

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■ 植治の庭をあらためて鑑賞する 野崎順次

ざっくりといいすぎだが、日本庭園について、重森三玲は、芸術性、抽象性、創造性、そして永遠のモダンを求めた。作庭手法からは石組を重視し、枯山水を高く評価する。彼が明治、大正、昭和初期の庭を評するときに芸術性に欠けるとよく言う。これら近代の庭は自然を模倣しただけだというのである。これを自然主義と呼び、代表的作庭家が七代目小川治兵衞(通称植治)である。彼は万延元年4月5日(1860年5月25日)に生まれ、昭和8年(1933年)12月2日に73歳で亡くなった。彼の作品の多くを私自身が訪れている。平安神宮、円山公園、無鄰庵、高台寺、仁和寺、大徳寺などなど。さらに修景も含めば、京都御苑と京都御所、修学院離宮、桂離宮、二条城、清水寺、南禅寺、妙心寺、法然院、青蓮院など。明治28年の平安神宮に始まり、大正、昭和の初めにかけての造園界は植治の独り舞台であった。

というわけで、重森三玲の逆説的な出発点ともいうべき植治の庭を見ようと、特に意識して、京都東山に出かけ、彼の出世作と最晩年作を観察した。これらの庭園は意外と近い。徒歩10分程度。

並河靖七七宝記念館庭園
七代目・小川治兵衛(通称・植治)は、靖之とは隣同士で親しく、その関係で施工を行った。30代半ばの植治にとって、維新後の動乱のあおりで庭造りの仕事が振るわないなか受けた並河邸の作庭は、転機となる重要な仕事だった。植治の作庭園の特徴は、1890年(明治23年)に完成する琵琶湖疎水から得られた豊富な水を用いた躍動的なデザインだが、その萌芽をこの庭園に見ることが出来る。並河邸の庭園は、七宝の研磨用に疏水から水を引き、その余水が池に注いでいる。この池を中心とする庭園は、地主の靖之の意向を汲み、景石や燈籠、手水鉢など石をふんだんに用いた作りになっている。池の中には、靖之が好きだった鯉が放たれている。作庭当初からある木は少ないが、庭園の要に位置するアカマツは当時からあり、庭園内側中央にアカマツを配するのは植治のやり方である。
(ウィキペディアより)

池が大部分を占めるが、水の動きはあまりない。目立つ島は、柱を支える岩島と亀島のような長細い島で、江戸時代からの伝統手法を想像させる。沢渡もある。

           

ウェスティン 都ホテル京都葵殿庭園
葵殿庭園は葵殿の南斜面にひろがり、三段の滝で構成された雄大な回遊式庭園です。この庭は、日本の近代庭園の先覚者として有名な、京都の庭師・七代目小川治兵衛(万延元年~昭和8年)によって、昭和8年に作庭されました。池や流れを「沢飛び」で渡る手法、琵琶湖西岸から疏水船で運ばれてきた縞模様のはっきりした守山石の配置などに特徴が見られます。殊に、急斜面の自然地形を活かしてデザインされた「雲井の滝」と呼ばれる三段の滝は、小川治兵衛の作品の中でも傑作といわれています。
(ホテルウェブサイトより)

ホテルのロビーに入ると、客はほとんどいない。ボーイさんが近づいてきたので、お庭が見れますかと聞くと、エレベーターで5階の庭園入り口まで案内してくれた。

庭はまさに突然現れた深山幽谷である。下を見ると、4階稔りの間で会議中だった。その横が宴会場の葵殿でそこから庭園全体を見上げるのがいいのだが、突然の来訪者には無理である。

     

童橋と雲井の滝

   

さらに奥に行くと、「石抱きの椎の木」など。

    

なるほど、身近に自然を再現し、水を躍動させるのなら、実に分かりやすい。

 

 

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