JAPAN GEOGRAPHIC

Monthly Web Magazine  Apr. 2023


■■■■■ Topics by Reporters

■ 福島の桜はなぜ美しい?  瀧山幸伸

福島、特に三春滝桜が代表する中通りと浜通りの間の阿武隈高原の桜は美しい。理由は桜と梅と桃とレンギョウが同時に咲くから美しいといわれるが、全国に比べてこの地域が美しい理由は他にもある。

「色」の理由として追加で挙げられるのは、遠景で花を引き立たせる安達太良などの白い雪山であり、近景で花を引き立たせる緑の絨毯だ。この地域は牧畜が盛んな高原だから周囲に美しい草地が拡がる。

しかし、さらに重要な要素がある。それは阿武隈高原の地形そのものだ。この地域は石灰岩の浸食が進んだカルスト地形が随所に見られ、なだらかな曲線で形成された山の稜線、なだらかな谷間を流れる小川の曲線、そこを通る道路の曲線、それらが総合的に美しい景観を醸成している。その牧歌的で美しい風景の斜面や川べりに植えられた桜だから、立体的にも美しく見える。特に二本松市の 杉沢の大杉付近の桜合戦場の桜などは地形の美しさに裏打ちされた典型だろう。

同じ石灰岩地形のイタリアの風景画が美しいのと同様だ。そういえばモナリザの背後の風景も阿武隈高原の風景もよく似ているではないか。


■今年はお祭りも  大野木康夫


ここ3年、新型コロナウイルス感染症の影響で、各地のお祭りも中止や縮小開催を余儀なくされてきましたが、ようやく本格的に再開されるところも出てきました。
平成31(2019)年度あたりから意識してお祭りを撮影し始めたところ、そういった状況になって長い間撮影していませんでしたので、今年から撮影を再開しようと思います。
私も地元の神社の氏子組織の役員になってしまいましたので、日程がかぶる祭には行くことができませんが、できる限り毎月一回はお祭りに行こうと思っています。
まず、手始めに、4月の第1土曜・日曜に行われた兵庫県加西市の北条節句祭の撮影に行きました。
北条節句祭は住吉神社の春季例大祭で、かつては旧暦の3月3日が本宮であったところから北条節句祭と呼ばれています。
昨年12月に住吉神社の拝殿、3本殿が重要文化財に指定されたのを記念して、東西両本殿前が開放されていました。(中本殿は前が幣殿になっていて空地がありません。)
   


「播州三大祭り」というのは人によってどの祭を指すのかが異なっているのですが、北条節句祭は必ず入っているそうです。
日曜日の夕方から行われる本宮宮入、龍王の舞、鶏合わせ、打ち別れがハイライトなのですが、日曜日は地元神社の行事があったので土曜日の宵宮宮入を撮影しました。
各町の総代さんや巡行責任者は明治時代からモーニングにシルクハット姿でステッキを持っています。
  

各町から14基(神輿当番の黒駒町は宵宮は奉納せず)の化粧屋台が奉納されました。
化粧屋台は播州の広い地域で奉納されますが、北条の化粧屋台は反り屋根型布団屋台で、四隅を上に折り返して屋根型にしているものです。
 


他の類型としては
神輿屋根屋台(沿岸地域に多い)
 


平屋根型布団屋台(泉州地域、三木市、明石市など)
 

があります。
住吉神社の氏子地域は東郷と西郷に分かれていて、東郷から8基、西郷から黒駒町を除く6基が宮入を行いました。
化粧屋台は独特の掛け声に合わせて境内を巡行し、境内中央の勅使塚と呼ばれる芝生の丘と拝殿前で差し上げられ、その後西郷は反時計回りに、東郷は時計回りに境内を2~3周して拝殿前に差し掛かるたびに差し上げを行います。
差し上げた後は手を上に何回か突き上げるので、屋台が宙に浮いたようになります。
各町の申し合わせにより、舁き手衣装は着流しに決まっているそうです。
      

静止画撮影では差し上げ時に手で突き上げた感じを取ることができませんでしたので、動画から切り出してみました。

突き上げる前
 


突き上げた瞬間
 


複数による練り合わせが行われず、屋台が規則的に動くことから、撮影規制が非常に緩く、思っていたよりも近くで撮影することができました。
(姫路の屋台は練り合わせで不規則に動くので一定間隔を保つように警察の方が規制されたり練場を立ち入り禁止にしたりします。)
今後、近場ではいろいろなだんじり(5月の阪神間(屋根の上で若者がはたきを持って踊る)、7月の平野郷(大阪市内型)、10月の南河内(曳唄にあわせて巡行し、横や縦にゆさぶる。河内長野では後輪を上げて前輪で高速回転する「ぶん回し」を行う。))ややぐら(大きな大八車にやぐらを組んで太鼓を乗せたもの)を見に行きたいと思っています。
また、機会があれば紀州、東海などの祭にも行ってみたいです。


■ 蟇股あちこち 36  中山辰夫

今月は愛知県岡崎市所在の、伊賀八幡宮(1611 重文)、六所神社(1636 重文)、滝山東照宮(重文 1646)です。
いずれも徳川家に関わる社殿です。
岡崎は徳川家康が生誕した地です。滝山神社境内に創建された滝山東照宮は三大東照宮と称されるともされ、本殿・拝殿・中門・鳥居・水屋などは国の重要文化財に指定されています。


■アカよりシロ  酒井英樹

 先月のWEB-MAGAZINEの続き???

 我が家の近くの小さな稲荷神社の洞・・・そこで夜な夜な舞われる狐たちの舞楽・・それをイメージしてクレイアートで作ってみた・・
 小さな石の舞台で篝火の光を浴びて狐の女の子が舞う童舞の『蘭陵王』で、『六楽狐』が演奏する。
  

 造っているときは、無意識に「シロギツネ」で造ってしまったが・・日本のキツネといえば「ホンドキツネ」(本州・九州・四国に生息)と「キタキツネ」(北海道に生息)でどちらも「アカギツネ」の亜種で白いキツネは生息していない。
 「ホンドギツネ(本土狐)」(長野市内にて)
   

 同時期に作った動物たちのオーケストラ(通称「アニオケ」)が奏でる第九をイメージにしたクレイアートでは「アカギツネ」で制作している・・
 クラリネットを演奏するアカギツネ
  

 「白蛇」「白虎」など・・神格化した霊獣は白色が多い
 古来より「白狐(ビャッコ)」は西方の四神の「白虎(ビャッコ)」と同じ発音・・日本に虎が生息していなかったこともあり、日本に生息するアカギツネのびアルビノ個体「白狐」が代わりを務めていた。
 今回の題材は「白狐」

 先日山口市を訪れる機会があった。
 山口市内にある湯田温泉・・、傷ついた足を池につけている白狐が完治したことを見て温泉を発見したという「白狐伝説」が残り、狐の題材にした多くのモニュメントなどが点在する。
  

 JR湯田温泉駅前にある高さ約8mの巨大モニュメント
  

 商店街に点在する・・招き猫ならぬ・・招き狐
 酒屋
  
 魚屋
  

本屋

  
 自転車屋
  
 などなど・・・
   

 郵便ポストも・・
 
  
 路面には止水(給水)弁のホール蓋にも・・・
 各通りごとにデザインが異なります。
       

観光案内所


 顔嵌め写真ボード
  
 自動販売機にも
  
 店頭のぬいぐるみ
  
 ゲームの説明板にも
  
 カフェラテアート「狐のカフェラテ」
  

 足湯等温泉施設のモニュメント
    

 街中・・公園等のスペースにまだまだあると思われるが・・
  

 日が暮れてきたので・・狐たちに倣って・・ゆっくり温泉に浸り、特製のぐい飲みで酒を嗜み・・
    

 お土産のキツネの置物も全部買い揃えてことだし・・
  

 この続きは、いずれということで・・、おやすみなさい・・でも続くかなぁ・・・‥ZZZZZ・・
  



■今年の福岡市周辺の桜  田中康平


今年は2月前半の日平均気温が高めに推移して例年より早めの桜開花となった。開花後も比較的安定した晴天が多く桜をゆっくり楽しめた気がする。温暖化の影響もあるのだろうか。
福岡市周辺では、早咲きの桜は那珂川市のハツミヨザクラがいい、3月5日ころ満開になる。古代水路である裂田の溝(さくたのうなで)近くの斜面に個人により作られた桜スポットだが、桜の季節には無料開放される(今年はコロナ対策で昨年に引き続き開放は取りやめになったが柵の外から眺めても十分美しい)、商売っ気は皆無だ。
ソメイヨシノの方は福岡市エリアでは福岡城跡の舞鶴公園の桜がかなりいい、今年は3月18日頃満開となった。量的に圧倒的というのと低く誘引してある枝が幾つもあってそばでゆっくり楽しめる。 ただ、今年気になったのは結婚式の前撮りと思しき一群がいい花の前を占領して写真をビジネスとして撮っている光景だ、幾組もいる。せっかくの花見に少しばかりムッとするが今の福岡とはそういうところのある街になっているようにも感じる、ビジネス優先をよしとしたがるバブリーな雰囲気が未だに残っている。活気があるといえばそうなのだろうが。
今年は満開で晴天が続き、自宅の庭のジンダイアケボノは勿論近くの公園や川べりで移ろっていく花の眺めがのんびり楽しめた。これも地球温暖化のもたらす効果の一つなら温暖化もあながち悪くないかな、そんな気がしている。

添付写真は順に 01、02、03:那珂川市のハツミヨザク 04、05、06、07、08:福岡城址舞鶴公園の桜 09:自宅のジンダイアケボノ
         




■腰痛顛末 川村由幸


2月の半ばにゴルフに行き、右腰を痛めました。当初はいつものゴルフ後の腰痛で数日すれば良くなると思っていました。
ところがいつもと違い痛みがきつく、手持ちの消炎剤を服薬しても改善しないため、仕方なく整形外科を受診しました。
たしか2/24の金曜日だと記憶しています。レントゲン撮影の結果を踏まえて、医師からは「筋膜炎でしょう」との診断で1ケ月分の消炎剤と痛み止め+筋肉弛緩薬、さらに貼り薬2ケ月分が処方されました。
辛い痛みが続いていたため、まじめに服薬したのですが全く回復の兆しさえなく、逆に痛みが増している感じで1週間後の3/4に再度整形外科を受診、痛くて我慢が限界と訴えたのですが、ストレッチでもしてきちんと服薬をといなされただけでした。
仕方なくまじめに服薬を続けましたが痛みは一向に軽くなりません。日常生活にも支障がでるほどで靴下は自分で履けず、顔を洗えば激痛に顔が歪む、仕事に行くのが精一杯で他は何も出来ない状況になってしまいました。
ここで、友人の勧めで整体を試してみました。3/13から3回ほど通いましたが、これが大失敗。
整体の施術の後、痛みが増す傾向はあったのですが、時間とともに回復してその前より痛みが軽くなっている気がしていました。
良くなるのかと期待を抱いていた3回目の施術の後、元々痛めた右腰だけでなく左腰も激痛に見舞われ、ギックリ腰状態。
ほんの少し動いても激痛が走る状態を1週間経験しました。それからは最初の整形外科で処方された薬を服薬して回復を待ちました。
服薬を続けて1ケ月、残念ながら良くなりません。動くたびにピリピリとした痛みが消えないのです。
我慢も限界に近づいていますから、ここで医者を換えてみました。最初と異なる整形外科を受診、痛みが続いていることを訴えると骨折の可能性もありMRIの撮影と消炎剤を変更してくれました。
薬の変更が良かったのか、回復の時期に来ていたのか定かではありませんが、その後少し痛みが和らぎました。
最初に整形外科を受診してからの1ケ月の痛みを「10」とすると「7~8」程度までには回復し、良くなる兆しを感じ出していました。
 
でMRIの結果はというと、「若干の炎症はあるものの特に大きな異常はない」というものでした。上の画像は私のMRI画像の1枚です。
いくらか和らいだとは言え、今も続いている痛みの原因は何かということはわからずじまいなのです。
2番目の整形外科医もMRIの結果に異常がないとの判定から、私の痛みには眼もくれず、2週間分の消炎剤を処方して終わり。
変更してもらった消炎剤を続けていましたら、さらに痛みは薄くなり、現在は「5」ぐらいまで回復しました。
めでたし、めでたしなのでしょうが、あの苦しかった1ケ月はなんだったんだとの思いは強くなるばかりです。
まだ、運動をする勇気は全くなく、続けていたウォーキングももちろんゴルフも休止しています。
さらに4/14には春の高山祭に出かける予定を立てていましたが、これも中止を余儀なくされました。
とんでもない「腰痛」です。
そして、この腰痛の原因は「老化」というのが的を得ていそうです。老化で筋肉が落ちて腰周辺のバランスが崩れている。
「じじぃになったから腰が痛い」ということのようです。年は取りたくありません。

 


■ 車窓の花見、JR大阪・米原・柏原  野崎順次

2023年4月1日(土)、ソメイヨシノ満開でしかも快晴である。JRの青春切符を使って、米原市の徳源院を訪問した。車窓から花見を楽しもうと、景色が順光となる左側の窓席を確保した。実は新快速はよく混んでいて、満員で立っている人も多く、空席が出来たのは彦根以降であった。私は尼崎から乗って、通路の奥に入り、大阪駅で降りそうな人に目をつけて成功した。

09:30 大阪駅発 新快速
明治チョコレート工場や大山崎瓦窯跡あたりはいつも見てるスポットである。

         

10:00 京都駅
駅を出てすぐの鴨川河畔、そして疏水の見上げ

  

10:05 山科駅

  

10:13 石山駅

  

10:29 野洲駅、最後は白鳥川

      

10:29 近江八幡駅、安土城跡

      


10:41 能登川駅、最後は芹川

         

10:49 彦根駅

   

10:54 米原着
11:00 米原発 大垣行き普通

    

11:05 醒ケ井

    

11:09 近江長岡
天野川土手の並木の背景は伊吹山

    

11:14 柏原着


■「フーリンリン」 柚原君子

火鉢の上で鉄瓶が湯気を立てていた。その横で父と伯父が碁を打っていた。

碁盤に打たれた白と黒の石が、右下から中央にもつれ合いながら伸びて陣地を取り合っていた。腕組みをして、うーんと唸る父。傍らの茶器から煎餅を一つ取り出してほおばる伯父。碁盤の残り半分には、小競り合い中の石が置かれていたが、打ち手の所作を比べれば、子どもの私でも伯父の有利は想像できた。



伯父は中央区水天宮の交差点脇で食堂を経営していた。この伯父の弟である私の父は、兄に習って名古屋から上京して墨田区業平橋の交差点脇で、同じように食堂を経営した。

水天宮から都電の『柳島』行きに乗って、伯父は我が家に碁を打ちにやってきていた。伯父には子がなく、私の父が離婚をして私を抱えたまま後添えをもらった時に、伯父が私を貰い受けたいと言ったそうだが、父は自分の初めての子だから渡さなかった、と聞いている。



父が対局できない時は、私が伯父の相手をした。もちろんお遊びもいいところで、父が登場するまでのつなぎであった。碁盤上にある『星』と呼ばれる要所に、自分の石をあらかじめ置かせてもらう。その石の四隅にさらに二目ぶら下げてもらう。ハンディ17目。これを我が家では風鈴の形と見て『風鈴プラスおまけの鈴』という意味で「フーリンリン」と呼んでいた。

「きみちゃん、フーリンリンで碁をやりょみゃーか」。伯父は我が家に来ると、丸っこい顔の中の目じりをたれさせて名古屋弁で言う。碁盤の上にフーリンリンと言いながら黒石をいっぱい置く。こんなに置かれたら伯父さんの陣地は無い様なものだわなぁ、と言いながらも、いつの間にか取れたはずの陣地は死に目となり、伯父の手元は碁笥からあふれたアゲハマでいっぱいになっていく。何手も先を読んでいかなければならない囲碁なのに、フーリンリンにしてもらっても目前の一手しか読めずに負けてしまう自分を、私はいつも情けなく思った。



伯父は大衆食堂経営だけでは飽き足らず、大衆食堂を閉じて練馬に工場を建てて電機部品の会社を興した。ネクタイを締めて社長になった伯父は手形を割ってもらいに父のところに来ていた。父は現金商売なので割っていたらしいが、100万以上の手形は断っていたようだった。大衆食堂成功のようにいかなかったらしく、しばらくして電機工場はつぶれ、それから何をやっても叔父の仕事はうまく続かなかった。

伯父は水天宮の伯父さんと呼ばれたあと、事業の失敗で住居を転々としたために、練馬の伯父さん、寿町の伯父さん、葛飾の伯父さん、とめまぐるしく呼び名が変わった。

葛飾の伯父さんと呼ばれていた頃は、何かの国家試験を目指していて一日中勉強をしていた。私が訪ねると、いたずらっぽい目をして私を呼び「勉強はしているけど自分は中学しか出ていないので受験資格が無い。だけど女房に馬鹿にされるので、勉強に忙しいフリをしている」と小声で言った。

やがて、東京で暮らすことにはどうにもならなくなったようで、葛飾の線路脇のアパートをたたんで伯父は生まれ故郷の名古屋に帰って行った。

伯父は父の元に同居している実母が危篤になった時も駆けつけて来なかった。
父は「いい兄だけど、ちょっと情に欠けるところがある」と珍しく怒った顔をしていた。



離婚を経験した父。東京に出て食堂を根気良く続けた父。金持ちでもないのに兄に手形を割ってやった父。末子なのに母親と同居して面倒を見た父。自分の野望のままに生きて成り立つものもなくふるさとに帰った伯父。

名古屋に帰った叔父と父が電話で大喧嘩をしたことがあった。食堂のカウンターに父が一人伏せて、おいおい泣いている、と母から私に連絡があった。理由を聞いても言わないのよ、と母は困惑していたが、父と伯父の兄弟げんかに介入することはできずにそのままになった。漏れ聞こえた話では、兄弟の中で、父が幸せをみんな持ってしまったということらしかった。

心ならずも名古屋に帰った伯父の気持ちは分からないわけでもないが、幸せを手の中で大事に守った父の日常は、身びいきを差し引いても納得がいくものであり、父の葬儀にも病気を理由に来なかった伯父とはその後、縁が切れている。

 


■おばちゃんカメラマンが行く     事務局

 

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