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Monthly Web Magazine   Jan.2024


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■蟇股あちこち 45 中山辰夫

 

今月は宮城県です。
伊達政宗は1584年に18歳で家督を継ぎ、1590年に秀吉に初接見、翌年入洛し、京都聚楽第の建築普請に携わりました。
伊達正宗は、入洛してはじめて中央の豪壮華美な文化に接し、新しい領国経営を仙台城の築城からスタートしました。
1601年築城を開始、並行して城下町にも着手。城や城下町の第一期工事が一段落した後に、正宗が力を入れた事業が寺社の造営でした。

1603年の愛宕神社の造営に始まり、五大堂の再興、塩竃神社、大崎八幡宮、国分寺薬師堂と続き、1609年には瑞巌寺の上棟式を行いました。これらの遺構には桃山文化が溢れているとされます。
  

政宗は、上方文化の担い手として京都・紀州・泉州などに出自を持つ芸術家・技術者・職人を仙台に招聘し、思う存分の仕事をさせました。
名家の大半は以後も代々仙台藩お抱えの地位を保ち、江戸期全般を通じて文化芸術面の中枢を占めました。

政宗は1636年(寛永13年)に70歳で死去しました。
政宗の文化に対する姿勢は、二代忠宗以降の歴代藩主にも受け継がれ、さらに深化、発展を遂げていきました。

今月は、仙台城と城下町・愛宕神社、五大堂、塩竃神社、志波彦神社の報告です。



仙台城


宮城県仙台市青葉区

武から文への転換。仙台城は、青葉山に築城された平山城で、「青葉城」とも「五城楼」とも呼ばれていました。
慶長5年(1600)の暮から慶長15年(1610)まで十年の歳月を費やして築かれました。大広間の完成でほぼ全容が整いました。
天守閣は設けられなかったが大広間を含む広大な御殿、5ケ所の櫓、大手門に匹敵する規模を有する詰の門などのほか、御懸造りと呼ばれる崖に突き出た数寄屋風書院、能舞台などすぐれた建築群が偉容を誇っていました。
かっての荒野は大都市へ、工事に要した夫役は100万人に及んだとされます。


□本丸建造作りの姿図 と 本丸全景図
  

□大手門 (戦後焼失) 
焼失前 と 大手門脇櫓西面
     
間口10間の当時最大級のもので、桃山風の豪壮なデザインがあって貴重。菊紋や桐紋を金具に使う大規模な重層門

□焼失前と現在
  
この大手門は、仙台城が廃城となる明治時代以降も門として利用され、昭和6(1931)年には脇櫓と共に国宝に指定されました。
その後、昭和20(1945)年の仙台空襲で大手門と脇櫓が焼失。昭和38(1963)年に脇櫓は再建されました。

□大広間 仙台藩大工棟梁の千田家に伝わる。大広間の具体的な様相を知ることが出来る重要資料
大広間西面姿図 と 地絵図
   
内部は桃山文化の集大成とされる部屋や美術品が集まっていたようです。
規模・意匠ともに豊臣秀吉の聚楽第大広間に匹敵するものとされます。
桃山式書院造で、大工棟梁梅村日向、匠人刑部左衛門国次により造られました。

□現在の仙台城址
   
現在の仙台城は本丸が護国神社、二の丸が仙台市博物館の敷地です。
現在残っているのは、本丸丸の内の天守台や石垣の一部、土塁くらいです。

□護国神社, 城跡に鎮座
 


■遺構
宮城県知事公館正門 :県指定文化財
    

■城下町
芭蕉の辻 錦絵:明治8年(1875年)頃 昭和初期 現代
   
仙台城の大手門から東へのびる大町通りと城下を南北に貫く奥州街道が交差する地点は芭蕉の辻と呼ばれ、仙台城下の中心でした。
この周辺には大きな商家が軒をつらね、城下一のにぎわいを見せていました。
辻の四つ角には竜や兎や獅子の飾り瓦をのせた豪商の店が堂々とした姿を誇り、仙台名所として知られていました。
「芭蕉の辻」という名前の由来には諸説ありますが、高札場があったことから札の辻とも呼ばれました。
この錦絵は、明治8・9年ごろの風景を描いたもの。熊耳耕年<くまがみこうねん>筆。


■1603 愛宕神社


宮城県仙台市太白区向山四丁目

伊達正宗が寺社整備を最初に手掛けた社寺とされます
  
愛岩神社は仙台総鎮守 火防鎮護 辰巳歳生一代守護として歴代藩主から崇敬され、社殿の造営や社領の安堵など奉納されてきました。
代々伊達家の崇敬社でした。 仙台城を築城し、仙台開府するにともない1603年に荒牧村に遷座、同年に元寺小路に遷座しました。
1650年に二代目藩主伊達忠宗が現在地の愛岩山の山頂に遷しました。現在の本殿は1694年の建立です。

□随神門 建立 1804 三間一戸 桁行三間 梁間二間 八脚単層 切妻 銅板葺
   
向かって右側に大天狗 左側に烏天狗配置 江戸後期に建てられた山門建築の遺構として貴重

□拝殿 建立 1603 桁行五間 梁間三間 向拝一間 入母屋 銅板葺 
 
本殿と対照的に華美な装飾が少なく堅実な作りです
 
□本殿 建立 1694 一間社 流造 銅板葺 古建築
  
仙台藩で見られる霊廟建築に類似して外壁面を極彩色手背彩りとし、金の金物を使用しています 

□展望 絶景 標高 75m
 

参考
伊達正宗は上方文化の担い手として多くの芸術家・技術者・職人を仙台に招聘し、思う存分の仕事をさせました。
城内・城下の諸建築の造営に指導的役割を演じた棟梁級の大工6名には町役免除として保護しました。

以下がその遺構

●大崎八幡宮―1607(慶長12年)完成―梅村彦左衛門家次と弟三十郎頼次
秀吉の霊廟―豊国社の様式を模す―権現造りは日光東照宮の形式に流用される

●陸奥国分寺薬師堂―1607(慶長12年)完成―駿河守宗次・・・和泉日根(大阪府泉南市出身) 利右衛門・三右衛門

●瑞巌寺方丈-1609(慶長14年)完成―梅村日向守吉次・・・大崎八幡宮同様華美を尽くしたもので、木材を紀伊の熊野から海路運送し、梅村一門の下に京都の良工130余人が参加

●仙台城殿舎-1610(慶長15年)に完成―梅村彦左衛門家次…聚楽第に勝るとも劣らない豪壮華麗な建築とされます。現存しません

桃山建築の華を仙台にもたらしたのは、「「刑部左衛門国次」とされ、後世彫刻の名人「左甚五郎」のモデルの一人です。紀州出身

●松島瑞巌寺五大堂―1604(慶長9年)完成 鶴衛家次 同吉衛門頼定

●塩竃神社―1607(慶長12年)完成 

●瑞巌寺方丈―1609(慶長14年)完成 

●仙台城大広間―1610(慶長15年)完成




1604 瑞巌寺 五大堂


宮城県松島町内111

坂上田村麻呂が東征の折りに建立、のち慈覚大師が五大明王像を安置しました。
現在の堂宇は、1604年に伊達正宗が再建した東北地方最古段階の桃山建築で、雄健な彫刻ですが素木造の外観を呈しています。
対照的に奇巧をこらした家形厨子は伊達家形厨子を配し、平安中~後期の五大明王像を安置しています。

アプローチ
    

五大堂 国重文 再建:1604 桁行三間 梁間三間 一重 宝形像 向拝一間 本瓦葺
   
松島海岸から朱塗りの透かし橋でつながった小島に建つ優美なお堂です
紀伊出身の鶴衛家次・同吉衛門頼定の設計施工です。

向拝周辺
        
向拝虹梁上の蟇股や木鼻・手挟、また本堂四面の蟇股および十二支の彫刻も雄健である。内部に奇巧をこらし彩色を施した家形厨子を配し、平安中~後期の五


堂の軒回り四面には各3個の蟇股が配され、方位に従って十二支の彫刻が配しています
  

正面 
   

向かって左側 
   

向かって右側 
      

正面の額には「五太堂」の彫りがあります。「太」は「大」が正しいかも・・・。慈覚大師手掘りとされる厨子内の五大明王は秘仏で、33年毎に開帳されます。

 


1704 塩竃神社 本殿


宮城県塩釜市 森山1-1 

塩竃神社は塩竃湾を東に臨む高台に位置し、古代より一之宮として崇敬された古社です。
創建は不明ですが、719~794年頃とされています。平安時代の『弘仁式』にはその名があります。
陸奥国最大の神社として代々の領主の精神的支えになっていたとされます。江戸時代に入って伊達家に篤く崇敬庇護されました。
1607年(慶長12年)に伊達正宗が社殿を造営し社領などを寄進されました。
現在の社殿は四代藩主綱村が1695年に着手、五代藩主吉村が九年の歳月をかけて1704年に完成させたものです。
現在の社殿は元禄の造営で建てられたものが中心です。
境内は南面する左宮と右宮、西面する別宮の本殿、さらに随身門及び廻廊、楼門、鳥居からなります。

規模壮大で、整然とした配置を示し、元禄時代の貴重な建築群の並びです。

■表参道~楼門
  
花崗石造の明神鳥居。建立:寛文3年 仙台東照宮(1654・承応3年 国重文)に・大崎八幡宮(1666・寛文8年)と共に江戸初期の典型的な明神鳥居

■随身門(楼門) 建立:1704 三間一戸 木造二階楼門朱塗 桁行二十八尺 梁間十六尺 中央桟唐戸 左右随身像 入母屋造 屋根銅板葺 

□正門側・背面側
      
朱塗りの八脚門、左右随身像 背後木彫鹿 柱円柱、尾垂木付三手先組物 1942( 昭和17年)に両脇に翼廊が付加されました。

□細部
      
総じて和様風、人字形蟇股を配しています。総体に安定諧調をもち、朱塗りが美しく輝く秀作とされます。

■手水舎
     
■唐門と廻廊 正面側と背面側

□四脚門(唐門) 一門一戸 中央に四足門を開き、左右に回廊を付けます。門は木造平屋建 朱塗黒、銅板葺(当初は杮葺) 

□廻廊 桁行五間 梁間二間 切妻造 銅板葺
     
門は彩色を施し、飾り金具を付けます。総和様で朱塗り 東西に昭和期の増築有 祈祷受付所・神符守礼授与所として使用されています。

□細部と全景
      

塩竃神社は左宮・右宮・別宮の三社伝が整然と配置されています。この配置は全国でも類例がほとんどありません。
各宮本殿・幣殿・廻廊の雄大且つ抑制のきいた意匠には藩主綱村の復古思想がうかがえるとされます。
各宮拝殿・随身門等の古風で華やかな意匠には江戸中期特有の堅実な相違が現れており、この二つの対比が見事な諧調を創出しているとされます。
社殿配置と左右宮拝殿(左)と別宮拝殿(右)
  

■別宮
配置と拝殿内部(1)・本殿(2)・幣殿と廻廊下(3)・拝殿(4)
     

■拝殿 国重文 建立:1663 桁行五間、梁間三間、一重、入母屋造、正面向拝三間、背面向拝三間、四周に縁 柱円柱  銅板葺.
   

□正面三間向拝と蟇股、手挟、彫り物細部絵様に彩色 ほか
        

□身舎廻り
    

□軒下の蟇股
            

□奥の方にみえる蟇股
  

■本殿 国重文 建立:1704 三間社流造 檜皮葺 歴史的価値が高く、流派的又は地方的特色が顕著とされます 
■幣殿 国重文 建立:1704 桁行二間 梁間一間 一重 切妻造 正面廻廊に接続 檜皮葺
■廻廊 国重文 建立:1704 中央高屋根:桁行一間 一重 切妻造 妻入 左右翼屋:角南面四間北面五間 梁間一間 一重 一端切妻造
■瑞垣 国重文 建立:1704 一周延長三十一間 潜戸一所を含む 檜皮葺
    

■左右宮
配置図と左右殿本殿(1)と左宮本殿(2)と左右宮拝殿(3)と左右宮拝殿(4)
     

■左右宮拝殿 建立::1663 桁行七間 梁間四間 一重 入母屋造 正面向拝三間 背面向拝三間 柱は角柱 銅板葺 
    
四周に縁廻します。柱は円柱で、組物は側廻りが拳鼻付にて先、内部が拳鼻付出組 軒は支輪付 
総体朱漆塗りで、彫刻や絵様細部には彩色を施しています。歴史的価値が高く、流派的又は地方的特色が顕著とされます

□正面向拝三間周辺と蟇股 エビ虹梁総体朱漆塗、彫り物や絵様細部に彩色
         

□身舎まわり
    

□身舎の軒下に蟇股が配されています
            

□妻飾
  

■左宮本殿 国重文 建立:1704 三間社流造 檜皮葺 左宮と右宮の本殿は、同寸同大、同形式です
■右宮本殿 国重文 建立:1704 三間社流造 檜皮葺
■左宮幣殿 国重文 建立:1704 桁行二間 梁間一間 一重 切妻造 正面廻廊に接続 檜皮葺
■右宮幣殿 国重文 建立:1704 桁行二間 梁間一間 一重 切妻造 正面廻廊に接続 檜皮葺
■左右宮回廊 国重文 建立:1704 中央高屋根:桁行一間 梁間一間 一重 切妻造妻入 左右翼:各桁行五間 梁間一間 一重 一端切妻造 檜皮葺
■左右宮瑞垣 国重文 建立:1704 一周延長四十五間 潜門一所を含む 檜皮葺
           

帰路は東参道を辿ります

■東神門
  

■手水舎 蟇股に注目
     

■東参道 石段の石と敷石は長大なものを使用 住民が手入れされています。
     

■法蓮寺の向拝 塩竃神社の神宮寺として威容を誇っていた法蓮寺、その向拝が創業1724年の地元酒造―佐浦に復元されています。
       

 



1938 志波彦神社 本殿


宮城県塩釜市一森山1-1

塩竃神社境内に鎮座しています。現在の社殿は1938年に造営されたものです。明治・大正・昭和の神社建築の粋を集めて竣工されました。国費で建立された最後の神社とされます。
本殿・廻廊・幣殿・拝殿・神門・手水舎、いずれも朱黒極彩色漆塗りで、比較的装飾を抑えた鹽竈神社とは趣を異にする塩釜市の指定文化財です。
拝殿は桁行5間、梁間3間。内部は石敷きで、左右と背面には高欄付きの廻縁をもち、屋根は入母屋造り、銅板葺きです。

創建は不詳ですが、孝昭天皇の御代に冠川の辺に勧請されたのが始まりとされ、陸奥国延喜式内社の一つとして朝廷からの厚い信仰もあり、奈良時代には存在し格式も高かったようです。
天正年間の兵火で社殿や記録が焼失し、衰微しました。江戸時代に入って伊達家により庇護され、1607年に社殿が再興されました。又1704年にも社殿が造営されましたが、その後衰微していました。
以後明治まで歴代の藩主が神社を治めました。

■境内図
  

■神門手前に建つ手水舎 切妻、銅板葺、4本柱吹抜、朱黒漆塗 塩釜市指定文化財
      

■神門 三間一戸 四脚門、切妻像、銅板葺
□正面・背面
      

□細部
     

□蟇股
  


■拝殿 建立:桁行五間 梁間三間 三間向拝付 入母屋造 檜皮葺(現在は銅板葺)

□向拝の蟇股
     
□拝殿周辺
     

□妻飾
  

□身舎軒下の蟇股 
   

□身舎内部
      
拝殿の背後に四間張り出して拭板式の幣殿を出し、左右に三間ずつ廻廊を設ける。
この廻廊中央に続いて渡殿を設け、その奥に本殿があります。

■本殿 市文化財 建立:1938 桁行三間 梁間二間 檜皮葺 千木勝男木 廻縁勾欄をめぐらし、浜床を設ける 東西透塀、玉垣
外観しか見えません
    

 

 

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