Monthly Web Magazine Jan. 2024
■ 動画用カメラ遍歴 瀧山幸伸
動画用のカメラは2003年以降の技術進化が早く、HD化、4K化、HDR化、Raw動画化、8K化と、性能が進化する都度、最先端を走るためにはカメラメーカーを変えざるをえず、そのたびにカメラマウントが変わるため、レンズシステムなども買い直す必要があり、大変無駄な出費を繰り返してきました。
2020年の7月のカメラ導入で、ようやく機材への悩みが減ってカメラ遍歴がほぼ安定してきました。8KのRaw動画でHDR(High Dynamic Range)映像が撮影できる体制が整ったので、通信員向けの動画撮影ガイドのページの末尾に自分の動画用カメラ遍歴の情報を加えてみました。どの機材を買って、どのような悩みが出てきて、なぜ新しい機材を選んだか、その結果がどうだったかなど、同じような悩みをお持ちの方へのヒントになれば幸いです。
とはいえ、今の機材でも完全に満足しているわけではありません。現在の悩みは2つあります。
一つはAFの不安定さです。動物などの動く被写体を撮影する場合に、AFが合わない場合が多く、被写体の動きに追随したAFもまだまだ不完全で、せっかく遠征して何日も被写体を探してやっとめぐり会えてもうまく撮影できないことが多いのでストレスが溜まります。
もう一つは暗所性能と幅広いダイナミックレンジです。洞窟や暗い室内や夜間などでも被写体の動きをとらえる必要がある場合、まだまだ性能が進歩してほしいと願っています。
■大阪と奈良の十三仏板碑 野崎順次
前回(先月)での呪文「ふしゃもんふ じみやかんせい あみあしゅだいこく」はすぐに忘れてしまったが、釈迦三尊(しゃもんふ 釈迦、文殊、普賢)と薬師三尊(やかんせい 薬師、観音、勢至)が並んでいるのに気づいた。また、我が家の宗旨は真言宗で、法事の時に十三仏真言というのを唱えていた意味を(今頃になって)理解した(と思う)。
「十三仏真言とは、亡者を浄土に導く十三の仏様(如来・菩薩・明王)のマントラ(Mantra)、真実の言葉、秘密の言葉のことです。」
今回は、大阪府(寝屋川市、東大阪市、柏原市)と奈良県(生駒市)の十三仏板碑を紹介する。生駒谷にも多いので、容像を半肉彫りした十三仏板碑は、生駒山の周囲(西、北、東)に集中していることになる。
寝屋川市高倉1丁目8-12
正縁寺十三仏板碑 安土桃山時代 天正十四年 1586年 花崗岩 高さ84cm
寝屋川市高宮2丁目8-18)
市文 秋玄寺十三仏板碑 室町時代後期 永禄十三年 1570年 花崗岩 高さ114cm 最大幅53cm
東大阪市若江北町3-4-5
蓮浄寺十三仏板碑 室町時代後期 永禄二年 1559年 花崗岩 高さ115cm
柏原市法善寺3丁目
東口地蔵尊十三仏板碑 江戸時代前期 寛文四年 1664年 花崗岩 高さ175cm 上幅71.5cm 下幅67cm
生駒市有里町575-2
輿山墓地(こしやまぼち)十三仏舟形石碑 (室町時代後期、花崗岩、高さ 111Cm)
生駒市有里町304
興融寺十三仏石碑 室町時代後期 天文十八年 1549年 花崗岩 高さ148cm
生駒市萩の台1071
石福寺には三基ある。
十三仏板碑 (安土桃山時代、天正二年 1574年、高さ 99Cm 幅 52Cm)
十三仏板碑(安土桃山時代 慶長五年 1600年、高さ 94Cm 幅 41.5Cm)
十三仏板碑(安土桃山時代 慶長七年 1602年、高さ 101Cm 上幅 39.5Cm)
■文化財建造物の指定告示文から 3 「附」(つけたり)について 大野木康夫
「附」(つけたり)は、重要文化財に指定された文化財に関連する資料等について本体と共に文化財指定するもので、建造物の場合、その大半は建造年代等を確定する根拠となる「棟札」等の資料です。
(例)正蓮寺大日堂(奈良県橿原市)の棟札
また、仏堂の厨子や社殿の宮殿等も多く見られます。
(例)飯盛寺本堂(福井県小浜市)の厨子
塀などの構造物もよく指定されています。
(例)真宗本廟東本願寺(京都市下京区)の築地塀
数は多くないのですが、独立した建造物そのものが附として指定されていることもあります。
大安寺(福井市)の附は、堂々たる建造物4件が指定されています。
指定告示文で附指定が多いのは、薬師寺東塔(奈良市)の古材1,540点ですが、詳細が記載されていないので、感覚的には大峰山寺本堂(奈良県天川村)の棟札6枚、扁額19枚、銘札2枚、寄進札51枚、旧銅丸瓦26枚、旧銅平瓦10枚の併せて114点が多いように思います。
ちなみに、建造物の指定の仕方で、あきらかに独立した建造物を他の建造物の一部として指定しているものもあります。
このあたりの基準はどうなっているのか興味があります。
(例)瑞龍寺北廻廊(富山県高岡市)→鐘楼、大庫裏を含んで指定されている。大庫裏に対面する禅堂は独立して指定されている。
「附」についてはあまり情報がないので、今後、機会があれば調べたいと思います。
今月は宮城県です。
伊達政宗は1584年に18歳で家督を継ぎ、1590年に秀吉に初接見、翌年入洛し、京都聚楽第の建築普請に携わりました。
伊達正宗は、入洛してはじめて中央の豪壮華美な文化に接し、新しい領国経営を仙台城の築城からスタートしました。
1601年築城を開始、並行して城下町にも着手。城や城下町の第一期工事が一段落した後に、正宗が力を入れた事業が寺社の造営でした。
1603年の愛宕神社の造営に始まり、五大堂の再興、塩竃神社、大崎八幡宮、国分寺薬師堂と続き、1609年には瑞巌寺の上棟式を行いました。これらの遺構には桃山文化が溢れているとされます。
■ 酒井英樹
■ いつものように年末年始を過ごすが 田中康平
次第に歳を重ねてくると年末年始の行事がおっくうになる。年末は例によって年賀状つくりが終わると新年のカレンダーつくりにとりかかる。
2023年の各月に撮った写真から1枚づつ選び2024年の卓上カレンダーをつくる、これを自分用の他子供たち家族や親しい友人に送っているのだが、風景写真などで構成するバージョンと野鳥写真バージョンの2種類を例年のように今回も作った。コロナの影響が後びいているのもあって出不精になっていた一年が如実に出てくる、撮影範囲が狭い。
野鳥カレンダー用写真を並べてみると12枚中9枚は毎日のように散歩で回る福岡市内の公園のもので後の3枚も1枚は少し離れた福岡市内、2枚は佐賀市内と近いところだ。しょうがない。
12月31日の最後の夕日と元旦の朝日も毎年撮るようにしているが今回は初日の出は厚い雲をかいくぐるような太陽を近所から何とか撮れたが最後の夕日は雲が厚くまったく見れずに終わった、これもしょうがないが何か心残りだ。今年はいい年になりますように!
写真は1、2,3:野鳥カレンダー用1-4月(モズ、ウグイス、ミヤマホオジロ、キビタキ)、5-8月(ヘラサギ、コアジサシ、カワセミ、チュウダイサギ)、9-12月(ホシゴイ、タシギ、ダイシャクシギ、メジロ)、 4:近所で見た初日の出
■ 2023年の撮影行 川村由幸
皆様、あけましておめでとうございます。
2024年の新年は早々から辛い出来事が続きました。能登沖地震の被害の様子は2011年の東日本大震災をも思い出させ、とても苦しい気持ちになりました。被災された方々の一刻も早い生活再建を祈るばかりです。
さらに羽田空港の航空機衝突事故、不幸中の幸いは大勢の乗客が居たJAL機で亡くなった方がなかったこと。でも能登沖地震の支援に向かう海上保安庁の職員が5名も亡くなっています。
そんな中、国と国民を守るべき政治家が金の問題で逮捕される事態、日本の政治は何が変わればよくなるのでしょうか。
そして、新年のウェブマガジンは例年通り、昨年の振り返りです。
2023年最初の撮影行は栃木県野木町の野木町煉瓦窯です。煉瓦製造のための焼成炉ですが、その規模の大きさに驚き、姿の美しさに感動したことを覚えています。
4月に訪問したのが2軒目が曹源寺です。さざえ堂と言えば会津若松とばかり思っていましたが群馬県太田市にもありました。
堂内には多くの仏像が安置され、見ごたえのある寺で修繕も行き届いており、気持ちの良い撮影ができました。
この時、同時に次に紹介する彦部家住宅にも寄ったのですが大規模な茶会が開かれていて、撮影を諦めました。
彦部家住宅を第一目的についでに訪問したのが重伝建の桐生の町並みです。
ここでは古いものを維持管理することの困難さと経済性に思いが至りました。維持管理に必要な費用を何で稼ぎ出すのか、観光だけではここ桐生では賄えきれていないことを感じました。
そしてやっと彦部家住宅です。住まいというだけでなく、城の役割も持っていたのだと感じさせる石垣など、ただの古民家ではない彦部家でした。
2023年遠出の最初は7月の山形、最初の訪問地は寒河江の慈恩寺です。
昨年の夏は特に暑かったのですが、7月の山形もとても暑くて、石段・坂道に往生しました。自分が老人であることを身に染みて実感した慈恩寺でした。
山形で2軒目が鶴岡の出羽三山神社。随身門から出羽三山神社までの2000段を超える石段の走破は最初からあきらめ、随身門から五重塔まで往復し、出羽三山神社には車移動しました。それでもシャツはスプ濡れ、深山幽谷でも暑いばかりでした。
鶴岡では加茂水族館も訪ねましたが、ここで紹介するほどの内容とは思わないため省略します。
山形の最後が月山弥陀ヶ原。絶景が見られるものと楽しみに訪問したのですが、ご覧の通り切りで視界が利かない天候でした。
今回の山形行、慈恩寺は本堂、出羽三山神社では五重塔が共に修繕工事中でネットが架かっており撮影不可、弥陀ヶ原では視界が利かずと不幸が重なって襲い掛かってきていました。私の日頃の行いが原因でしょうか。
10月に出かけたのが埼玉県幸手市にある権現堂公園の彼岸花。過去にも彼岸花の撮影に訪問しているのですが、前回の時よりも花の咲いている面積も拡大し、花の密集度も向上している思われ、感動のひとときを過ごせました。
同じ10月に秋の高山祭を目的に岐阜県への旅行です。
高山への到着が11:00am頃で祭の会場に移動しはじめると突然の雨。これで午後の高山祭は中止となりました。
山形の悪運を引きずっているようです。
翌日は白川郷へ移動。天候にも恵まれ、白川郷を堪能しましたが、高山でもそうでしたが外国からの観光客の多さに唯々驚くばかり。
オーバーツーリズムを実感しました。日本のメジャーな観光地は外国人に埋め尽くされていると考えるべきのようです。
2023年最後の撮影行は茨城県つくば市の矢中の杜です。ここは9月に重要文化財に指定されたばかりです。
千葉・茨城担当としてはJGメンバーの中で最初の取材を心掛けなければならないところ、重文に指定されたことも知らず、瀧山様の先行を許したことは痛恨の極みです。
こんな2023年を過ごし、2024年年明け早々、白内障の手術を受けました。
白内障事態は軽度でそれだけでは手術までいかないレベルでしたが、狭隅角症で、緑内障のリスクが高いためそのリスク軽減に白内障手術が有効であることからの施術です。
1/4に左目が完了、右目は1/18に受ける予定となっています。左目は順調に回復していて、今は視力にも問題ありません。
そんなわけで世情も含め、波乱万丈の2024年がスタートしました。
■「海辺橋」 柚原君子
雨が降っていた。
おかっぱ頭の、まだ少女のようなお母さんが、背中に生後半年くらいの赤ん坊を背負って、傘をさして、家の脇の細い道から家の裏手にまわり、わずかな空間に置いてある洗濯機の方に歩いていくところだった。借家の二階に住んでいる住人だった。
一階は私達夫婦が借りていて自営業をしていた。事務所の奥のわずか一畳ほどの台所の窓ガラス越しから、今、彼女の赤い格子縞の傘が動いていくのが見えていた。背負われた赤ん坊は男の子で、ねんねこから、ぷっくらとした顔がのぞいていた。赤ん坊の薄い髪の毛は傘から落ちる雨の雫を受けるのか、ところどころがぬれて固まっていた。
雨の降る中で二層式の洗濯機に向かっている若い母親。おかっぱ頭のお母さんが洗濯機の操作で前にかがむたびに傘の陰から赤ん坊が見え隠れした。
★
大家のおばさんは本当に意地悪だった。
借家の二階の奥には洗濯機を置くスペースがあるのに、置かせてはもらえず雨が降る日も雪の日も、この若いお母さんは布オムツの洗濯のために外に出ていた。二階のもう一部屋にも子持ちの夫婦が部屋を借りていたが、こちらへも、少しでも床音が立った日には、大家のおばさんは階下から洗濯竿で「うるさいよ!」とばかりにコツコツと警告の突き上げがされているという。
我が家も娘が生まれてから、おばさんの意地悪を受けた。よちよち歩きの娘を外で遊ばせていると、おばさんは窓拭きの布を持って待ち構えている。娘が少しでもガラス戸に触ると飛んできて、娘を払いのけるようにして拭いた。
歯がまだ生え揃ってもいない娘にチョコレートを無理やり食べさせたのもこの大家のおばさんだった。甘いものはまだやっていないから、とやんわり断ったにもかかわらず、子供なんて虫歯は当たり前、一口や二口関係ないでしょ!!ほら!食べな!乱暴な言葉で無理やりのように子供の手に持たせた。
家の前を年中、箒ではかれた。店子としては十分気を使っていたから表にゴミが落ちていることはあまりなかったが、執拗という感じで私の家の前を掃き、そして必ず大量に水をまいた。ヨチヨチ歩く子供が、うちにも二階にもいるのに大家のおばさんは子どもを敵対視するかのように水をまいた。
★
仙台堀川にかかっている海辺橋。橋をはさんで平野と深川という町名にわかれている。
大家のおばさんは、もとはれっきとした人妻だった。海辺橋を渡って少し行った左側にある細い路地。その奥の古い小さな借家に、病気気味で気の弱い夫と小学生の子供二人と4人暮らしで貧しかったそうである。少しガサツだけれども馬車馬のように働くことは好きだったそうである。
人妻は海辺橋を越えて、病気の奥さんを持っている人の家に家政婦さんとして通い始めた。
雇い主は表通りに家作をいくつも持っていたから、病気の奥さんの世話と家作の掃除が彼女の仕事だった。
何がどうなったのかは分からない。豊かな暮らしを垣間見たことで気持ちが揺れたのか、それともほかの事にねじ伏せられたのか……。彼女はある日を境にして、その雇い主のところに住み込みで働くようになり、海辺橋を再び渡って戻ってくることはなかった。残された家族の病気気味で気の弱い夫と女の子二人は、いたたまれずにどこかに越したという。
病気で長く伏せている奥さんがいるその同じ家に家政婦さんとして住み込んだ彼女。どんな生活が繰り広げられたのだろうか。やがて奥さんは亡くなって彼女は後妻におさまった。
私たちがこの大家のおばさんとなった女性に意地悪をされていたのは、そんな経緯で彼女が後妻に納まってから10年あとくらいの時期で、彼女は50歳に近いような年齢であったと思う。
当時、大家のおじさんは夏の夕方になるとステテコ一枚で夕涼みに外に出ていて、
「こいつはね、俺の家に入り浸ってきた奴だから表札も出してやらないんだよ。気も強いし、たいした女だから」と言っていた。
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男と女のことも、それから他人の家庭のことも、外からはうかがい知ることはできない。事実は小説より奇なりということが世間には山ほどあるそうだから、何を持って正しいとするのか、仮に正しさがあるとして、果たしてその正しさだけで世間を渡っていかれるものなのか……、私はまだまだ修行が足りないからどれとも言い切ることはできない。
が、執拗とも取れるおばさんの意地悪加減さから推察すると、彼女の心は何かが壊れていたとしか思えない。海辺橋の向こう側の家に置いてきぼりにしてきた自分の幼子二人を思えば、雨の降る日に乳飲み子を背負わせて外に洗濯に出すような、そんな意地悪はふつうの人ではできないのではと思うからである。
「あいつは後妻に入り込んだんだよ」と人ごとのように言っていたおじさんは、そのあいつに介護をされて看取られて亡くなった。しばらく一人で住んでいたおばさんはまだらボケになって老人病院に入院をさせられた。見舞いに行った近所の人に、自分は昔、悪いことをして娘たちにひどいことをした、と涙を流したそうである。やがておばさんも亡くなって、残されたたくさんの家作の一部はおばさんが置いてきたその娘さんたちにも譲られた、と風の噂に聞いた。
★
橋を渡るときは向かい風のときもあれば追い風の時もある。穏やかな日和で無風のときもある。その橋をたくさんの人々が大体は普通に渡っていく。
目には見えないけれど渡ってはいけない橋が存在することを、おばさんの面影を重ねながら時々思う。
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