Monthly Web Magazine Oct. 2025
■ 宮本常一 虐げられた人々の軌跡 瀧山幸伸
宮本常一は民俗学者ということになっているが、民俗学にとらわれない学際領域のフィールド研究者だった。彼の膨大な著述と写真は、
宮本の著作の中では、『忘れられた日本人』が取り上げられることが多いが、編者として長期に携わった『日本残酷物語』が胸が苦しくなるほど読みごたえがある。
自分の研究の基本となる人文地理学は「森羅万象」を研究対象とするので、何を研究対象としても良く、学際を超えた究極の「統合科学」(役に立つ科学)であると思っている。宮本が調査した地域もほとんど訪問しているが、彼のように民家に寝泊まりして古老から話を聞くという調査スタイルではないので、研究の深さは彼の足元にも及ばない。だが、広く浅く研究しているがゆえに異なる点と点をつなぎ新たな仮説を生み出すことには役立つ。
例えば、ロシア革命で日本に逃れてきた通称「白系ロシア人」(旧ロシア帝国の多様な民族)の裏側の軌跡を調べるのも興味深い。資金と教養がある避難民は日本に滞留せず文化的になじみやすい欧米に渡る者がほとんどだったが、宮本が今生きていれば、『忘れられた日本人』や『日本残酷物語』に登場するような虐げられた白系ロシア人の調査も行っていたのかもしれない。
函館などに逃れてきた人々のうち、以下の例をつなぎ合わせると、日本に永住することとなった白系ロシア人の軌跡の可能性?が浮かんでくる。彼らの中には鉱山町や豪農や山林地主などに引き取られた者もいたそうだが、その事実はあまり知られていない。
青森県新郷村に「キリストの墓」と呼ばれる場所があり、青い眼をした人がいたのも事実。
秋田美人には日本人離れした美しさの人もいる。木村伊兵衛が撮影した農民風の美人写真は非常に有名で、どことなく日本人離れした顔立ちだ。秋田や山形には鉱山が多く、「美人村」の伝承も多い。
2000年代初頭に仕事で知り合った 東京の広告代理店勤務の女性(かなり美人)が自らこう語っていた。「自分の祖母は白系ロシア人で、逃げ出さないように両目をつぶされて高知の山林地主の家に引き取られた」と。
大阪府の旧和泉国の祭礼では「だんじり」、「布団太鼓」が運行されますが、和歌山に近い地域では「やぐら」が運行します。
だんじり(岸和田だんじり、本町)
布団太鼓(百舌鳥八幡宮月見祭、梅町)
やぐら(樽井秋祭り、濱中講)
だんじりが四輪なのに対し、やぐらは二輪であることが大きな違いです。
やぐらが運行されるのは和歌山に近い泉南市、阪南市、岬町と田尻町の田尻川以南です。そのすぐ北側の泉佐野市や田尻町の田尻川以北ではだんじりが運行されています。だんじりが運行されている地域は旧岸和田藩領、やぐらが運行されているのは旧天領というのも影響しているかもしれません。なお、だんじりの多くは担い棒がなく前梃子が付いている下だんじりですが、泉佐野の山間部には古い形の担いだんじり(人力で担ぐもの)が残っています。
やぐらを撮影するため、泉南市の樽井に行きました。樽井の秋祭りは4台のやぐらが運行されますが、やぐらが大きいのが特徴です。他の地区ではやぐらに付いている太鼓を叩くのにやぐらと一緒に走りながら叩いていますが、樽井ではまた、江戸時代から続く「講」がやぐらを運行するのも他と異なっています。
宮元講のやぐら
長さ11.30m、幅2.9m、高さ4.64m
獅子講のやぐら
長さ10m、幅3.5m、高さ4.6m
濱中講のやぐら
長さ11.3m、幅2.9m、高さ4.64m
戎福中講のやぐら
長さ9.98m、幅3m、高さ4.9m
樽井のやぐらの見せ場は、樽井駅前通りと紀州街道の交差点(旧住友銀行前)で行われる「まっせー」です。「まっせー」はおそらく「回せ」の短縮形ですが、他の地区の多くの「まっせー」はやぐらを円を描くように引くのに対し、樽井の「まっせー」は片方の車輪を軸にしてその場でやぐらを回転させます。だいば(前部の梶棒)を回すのは12人ほど、バランスを取るためうしろ(後部の囃子が乗っている部分)に2人程がぶら下がります。ときおり回している組から遠心力で外れるものが出るほどの全力疾走で回すので迫力があります。
宮元講
獅子講
濱中講
戎福中講
4講が揃った際の音頭
「まっせー」でできた木の粉の清掃
まっせー終了後、4講のやぐらはやぐら小屋に戻っていきます。
■清水寺の16不思議 野崎順次
京都東山清水寺の七不思議とか14の謎とかあるが、とりあえず調べてみたら、全部で16あった。どこが謎やねんというのもあるが、それはまあ固いことは言わずに。
① 首振り地蔵
清水寺の仁王門の下に清水寺善光寺というお堂がある。その横に小さな祠があって、地蔵石仏が祀られている。格子の扉が閉ざされているので、ほとんど見えないが、首振り地蔵を呼ばれている。首と胴体が離れているらしい。願い事の方向に首を向ければが叶うとのご利益で人気があったそうだ。
② 馬駐の逆環(うまとどめのさかさかん)
馬の手綱を繋ぎ止めるための鉄製の輪環が取り付けられているが、奥から3本目の柱の下の輪環だけが下向きになっている。なぜかまったく不明。
③ 阿形と阿形の狛犬
社寺の狛犬は「阿形」と「吽形」の一対になっているのが普通である。しかし、清水寺の狛犬はどちらも阿形である。ちなみに、東大寺南大門の北側の狛犬も阿形と阿形。
④ 仁王門の柱の音
仁王門の南側の柱の目線の高さに柱の接合部の両側にくぼみがある。このくぼみに耳を当て、もう片方から指で叩くと「カンカン」と透き通った音が聞こえてくる。そのように意図されていたか一切不明である。
⑤ 八方睨みの虎
清水寺西門の石段下に、「虎の図・石灯籠」と呼ばれる灯籠がある。その表面に虎が刻まれているが、どこから見てもこちらを睨んでいる。
⑥ 6柱の鐘楼
普通の鐘楼は4本柱であるが、この鐘楼は通常の鐘よりも重いために柱を増やしたとされる。また、柱が内側に向けて斜めに建てる「四方転び」という様式だそうだ。
⑦ 景清爪形観音(かげきよつめかたかんのん)
随求堂(ずいぐどう)の前庭に、不格好な石灯籠があり、その石灯籠の火袋の中に線彫りの小さな観音像が祀られている。
平景清(たいらのかげきよ)が壇ノ浦の合戦で滅亡した平家に味方し、捕縛された獄中で自らの爪で石に観音様を彫り、清水寺に奉納されたと伝わる。実際に見るとよく分からないが。晴れて斜めに光が入ると見やすいとか。見てみたい。
⑧ 三重塔の鬼と龍
日本最大級の三重塔である。四方に鬼瓦が置かれるのが通常であるが、東南の4隅は龍である。鬼瓦は厄除のために置かれるが、龍は水神なので火除けの意味がある。
⑨ フクロウの手水鉢
実は、手水鉢の台座の下の四方に4羽のフクロウの姿が刻まれている。
これがなぜフクロウなのか、まったくの不明だそうだ。
⑩ 2本柱の手水舎
2本の石柱でしかも手水鉢を覆っていない。なぜかは不明だそうだ。
⑪ 轟橋
橋というが、欄干があるが下に川は流れていない。川の痕跡もない。
⑫ 弁慶の鉄下駄と錫杖(しゃくじょう)
錫杖が2つあり、1つは約100kgほど、もう1つは20kgほど。これに触ったり持ち上げたりすると弁慶にあやかって健康で力持ちになれるそうで、内外の挑戦者が多い。
⑬ 平景清の足形
朝倉堂の前に大きな足型が刻まれた石がある。弁慶の足形あるいは平家方の武将だった平景清のものとする説もある。
⑭ 舞台の地獄組み
清水寺を象徴する舞台の構造が最大の謎。一切の釘などの金具を使わず、一度組み上げると決して外れない「地獄組み」という技術は、一部の大工にしか伝わらないという。
⑮ 弁慶の指跡
本堂裏の側面の木の目に沿って、2cmほどの深さの溝が真っ直ぐに付いている。これは「弁慶の指跡」と呼ばれて、弁慶が人差指で付けた傷だとされる。
⑯ 千体石仏群
境内の西側に千体石仏群がある。なぜこんなに石仏が集まっているのか、不思議である。これらの石仏は京都各地に祀られていたが、明治時代初めの神仏分離令に端を発した廃仏毀釈運動で行き場を失い、市民たちによって清水寺に運び込まれた。残しておきたいという願望に応える石仏が多い。
岡山県の金山寺、本山寺、本蓮寺です
金山寺は天平勝宝元(749年)に創建して以来、連綿と受け継がれた古刹です。しかし2012年に国重文の本堂を焼失。再建に向けて努力されています。
本山寺は岡山県美咲町にある天台宗の寺院。本堂・三重塔が国重文です。江戸時代、津山藩主の森・松平家の祈願所として崇敬を受けてきました。
本蓮寺は海に映える三重塔が見事な佇まいで、本堂・中門・番神堂は国重文、他に県指定も多く、江戸時代には「朝鮮通信使」の宿館に利用されました。
■福岡市の日佐住吉神社 三宅廃寺跡・若宮八幡宮などを見る 田中康平
福岡市南区に12年前に移り住んで暫くたつが、あたりに流れる空気に時折随分古いものがあるような気がして、住んでいる周りの文化財でもと、時々調べに出かけている。
最近行ったので少し気になっているのが南区日佐(おさ)にある日佐住吉神社だ。日佐という地名は古く10世紀に成立した和名類聚抄に筑前国那珂郡日佐郷の名が記されているというから昔からのもののようだ。「おさ」とは古くは通訳の役職名でこのあたりは上日佐に百済、下日佐に漢の「おさ」が住んでいたところとして有名であったと神社の由来に記されている。
日本書紀には宣化元年(536年)博多の那の津口に那津官家(なのつのみやけ)が設置されたと記述があるが、それ以来この地域は中国大陸や朝鮮半島との外船の往来するところとなり日佐はその応接の要地であったため、その航海の安全や鎮守の神として筑前那珂郡に住吉三社がおかれ(上社は現人神社下社は住吉神社)その中津瀬の神としてこの神社が祭られたと神社の由来にある。相当に古い神社だ。大正4年に火災で焼失した社殿は元禄6年に建てられていたものだったが、再建にあたって神殿、幣殿は香椎宮の古殿を譲り受けこれが現在のものになっているという。建物も結構な歴史があるようだが細かくはわからない。
神社のすぐ北側を都市高速道が通っているがその建設に当たってこの地を広く発掘調査したところ非常に古い時代からの遺物が出土、先土器時代から縄文、明の頃の輸入陶器、平安、室町時代の集落跡などが多数発見されているようだ。日佐遺跡の名がついているが埋め戻されたり土地利用されたりで調査は行ったものの現在では遺跡そのものを見ることはもはやできないようだ、都市部の遺跡の宿命なのだろう。
那津官家(なのつのみやけ)の痕跡の一つと思われる三宅廃寺跡が三宅(みやけ)という地名が残るあたりから発見されているらしいのでそこも見に行った。これも南区だ。ここも同様に調査を行った後は住宅地に利用されていて遺跡は見られない。小さな都市公園が廃寺跡のエリア内にあるのだがここにも何の標識もない。
近くに若宮八幡宮という神社があり「福岡市の文化財」という市のサイトではここの手洗石が三宅廃寺の塔の心礎の転用だと紹介されていてこれも見に行く。見てみるとそういわればそのように思えて廃寺が少しリアルになる。
今の暮らしは連綿と続く過去のなりわいの上に物理的にも存在し続けている、当然のことだがこの地にいるとそのことを日々思い知らされている気がしてそれはそれで面白くもある。
添付写真は順に 00:地図、01:日佐住吉神社正面、02-05:拝殿・本殿、06:由来の説明板、07-08:絵馬殿、09-12:境内風景、13-17:若宮八幡宮、18:三宅廃寺跡エリアにある都市公園
■柏市の装飾彫刻のある寺社 川村由幸
雷電神社、愛宕神社と続いた装飾彫刻の流れから柏市内の見ごたえの装飾彫刻のある寺社を探してみました。
もちろん、先月のウェブマガジンでふれた花野井香取神社もその一つでしょう。
ただ、ここは盗難に遭っていることと、彫刻の撮影がうまくできないことから、これ以上の取材は断念しました。
そして見つけた寺社は二か所。鷲野谷香取神社と五條谷稲荷神社です。
まずは鷲野谷香取神社から。
ここは、以前投稿した国登録文化財の染谷家住宅の至近。歩いて数分のところにあります。
花野井香取神社も実は重要文化財の旧吉田家住宅のすぐ側。
彫刻に囲まれた神社の建立・維持に経済的な裏付けは当然必要で、これらの有力な庄屋や豪商が深く係っていたのは間違いないでしょう。
鷲野谷香取神社は金網で覆われています。金網は画像撮影には邪魔でしかありません。本殿の両サイドの撮影はほぼ不可能でした。
しかし、細かい隙間まで彫刻が施されていて、見事な彫刻は見ごたえがあります。
ただ上の画像の右端、鶴の彫刻と思いますが首が破損しています。いまでは修繕も困難なのでしょうか。
本殿の背面は金網もなく、きちんと撮影できます。背面からの画像で細かいところまで彫刻がされているのがよく解ります。
正面のの柱に施されている昇り龍、降り龍共に見事な彫刻です。由緒を示す看板はなく、この鷲野谷地域の守護神だったのでしょう。
ここ鷲野谷香取神社から車で10分とかからないところに五條谷稲荷神社はあります。
この二つの神社はともに旧沼南町(平成の市町村合併で柏市に統合)にあります。手賀沼の水を利用したことで江戸時代は水戸街道沿いの柏より豊かな地域だったのだろうと想像できます。
五條谷稲荷神社はとても小さな社です。正面の昇り龍、降り龍共本殿の壁に彫刻されています。
ここにも由緒に関する看板はなく旧沼南町五條谷地域の人々に大切に守られてきた社なんだろうと思いをはせるばかりです。
小さいとは言え、彫刻の一つ一つは丁寧でみごとなものです。現在の社殿は明治期に再建されたもののようです。
鷲野谷香取神社と比べると彫刻の劣化も少なく、よい保存状態と言えると思います。
ただ、この二神社とも今後劣化が進み、修繕が必要となったときに地域住民の力で対応ができるのでしょうか。
寺社の装飾彫刻の供給元も少なくなっているのでしょうし、コストも大幅に増加しているはずです。
しかもこの鷲野谷と五條谷の地域は柏市では過疎な地域で人口も減少しているはずです。
そう考えると、名もない文化財とは言え将来は不安ばかりです。こんな失われるかもしれない文化財をデジタルデータとして残してゆくのもJGの価値なのだろうと思ったりしています。
■Windows 10から11への騒動記 柚原君子
今年の初めに「Windows 10 サポートは 2025 年 10 月 14 日に終了します」と、私のPCに出た。
春先頃には、そうか、と思った。夏ころには10月かぁ、と思った。その頃のPCには「Windows11に移行するには下記の更新が必要です」、と10項目くらい並べてあった。
一つやってみた。すごく複雑で簡単にアップグレィドできそうにもなかった。
また、PC が無料アップグレードの対象かどうかをチェックするには、\[スタート >
設定] > \[Update \& Security > Windows Update] に移動し、\[更新プログラムの確認]
を選択します、とも書いてあったので、やってみたがわからなかった。
9月に入り、サポートが終了したらどうなるかの検索を重ねた。
Yahooには「リマインダーとして、Windows 10は 2025 年 10 月 14 日にサポートが終了します。 この時点でテクニカル
アシスタンスでは、機能更新プログラムとセキュリティ更新プログラムは提供されなくなります。 Windows
10を実行しているデバイスがある場合は、よりモダンで安全で非常に効率的なコンピューティング エクスペリエンスをWindows
11にアップグレードすることをお勧めします。 デバイスがWindows 11で実行する技術要件を満たしていない場合は、Windows 10
コンシューマー拡張セキュリティ Updates (ESU) プログラムに登録するか、デバイスをWindows
11をサポートするものに置き換えることをお勧めします。」と出ていた。
これもさっぱりわからなかった。それでも、サポートされなくなると、ウィルスバスターの問題ではなく、私のpcの中身がごちゃごちゃになる」というイメージを持った。
それなので、どうしたら良いのかヤマダ電機に聞きに行った。
「私のPCはWindows7から8は飛ばして10にアップグレードしたもので、もうかれこれ10年は使用しています。」
「そうですか。Windows7から10にしているのですね。PCは二度のアップグレィドはできませんので、買い替えですね」
とあっさり言われた。買わせたいための言葉か、はたまた何かを探れば11にすることができるのかと一瞬は思ったが、このところ持ち株が上がっていてひとつ売れば買い替え可能のとっさの判断で、買い換えますと返事した。
使っているPCは動きがかなり遅くなっていてイライラしている時でもあったし、人生最後はたぶんPC三昧で楽しむだろうとの思いも強かったので即答した。
売り場を歩き、デスクトップ一体型で私の使用しているPC専用のデスク幅にぴったりのものを指さした。19万なにがしかで価格的には安くもなし高くもなしの中間だった。7から10への移行は10年前は若かったので自分でやったが、今はもうできないとおもう。しかし、ネットに出ている「アップグレィドのお手伝いをします」という会社はどこの誰が来るやも知れず、変な人が自室に入られるのが嫌で、ヤマダ電機を通せば何かあっても話がしやすいので、移行してくれる人を頼んだ。
どのような項目を移行するかで値段が違うようだった。
「JG,メール、FB、株、iチューン、筆ぐるめ、FFTP、、、、」
「はい、45000円ほどになります」
「えっーーーよろしくお願いします」
合わせて25万円!一瞬、高い!と思ったけれど仕方がない。
「それで10月14日までには間に合いますか」
「はい大丈夫ですよ」
ということで大きな出費となったが生涯最後の大きな買い物だったがほっとした。
10月14日問題の一週間前に新しいパソコンが届き移行してくださる方A氏もいらした。荷をほどき所定の位置に置き新しいPCの前にその方が座われたのが14時15分だった。結果を言うと終了したのは17時30分。三時間半近くかかったことになる。プロの方でも3時間半!!
私はその間、無口で脇にいて、編み物したり布を縫ったり漢字ナンクロをやったりして、必要に応じてパスワードやユーザネームやログイン情報を入れて下さいと言われるので入れていった。そのたびA氏は見ないように席を立たれる。時には有力ではないと出るので、新しいパスワードにへんこうする。ちゃんとメモしてくださいね、とA氏が言う。
私は新しいキーボードが慣れないのと緊張とで、えーとえーと、と言いながらの片手打ちになる……ふだんは早打ちマックで打てるのに、そして終わりました、と言うとA氏は小さな声で「ちゃんとメモしてくださいね」とまた言う。
そしてひとりでまたブツブツとつぶやく声が聞こえる。それは私への苦言ではなく、
「今どきはなんでも確認が携帯電話かメールにきて、その番号を入れなければ先に進めなくって頭にくるなぁ」と。
私の携帯メールは鳴らないので、ご自分の携帯メールで移行の大事なところはやっているのだろうな、と想像する。
そうなんですよ、と私も心の中で言う。PCメールはほとんど詐欺同様のものだし、永年の顧客である証券会社でも一々携帯で電話をかけてからでないと自分の口座を見ることすらできなくなっていて、面倒くさいことこの上ない。さらにひどいときはデバイス確認とかで数字がメールに送られてきて、一分以内にそれを口座のあるページに入力をしなければならない。怒りが沸く時がある。デバイスってなんじゃい、と思う。
A氏が席を立ったり座ったりを繰り返して移行は終わり、最後に「自分でいつものように一通りやってみてください」と言われたので、一通りやってみるために椅子に座る。
FBにうまく入れない。PCが暗証番号を聞いてくる。えーと、というと、A氏が「先ほどメモしたやつ!」と後ろで言う。「次のもいつものようにやってみて」とのたまうので私は向かうがやり直しがでる。
「そこは先頭だけ大文字!と自分で決めたでしょ、僕たちはそういうところは触れないからね」と。
移行してくれる方を頼むのは初めてだから、このA氏が標準なのかどうかわからないが、すごく親切な人という印象が途中からしてきたことは実感である。
次の家への予約が17時であったらしく遅れる旨を伝えたいが、知らない電話番号は今どきスルーされるのが常識なので次の家に電話もつながらない、しかし自分は頼まれた方がしっかりとPCにいつも通りに向かうことが確認できなければ自分の中で終了とは言えない。」
うーん、優しいいい人と、再び私は思った。
「もう大丈夫ですね。質問はありませんね。」ということで終了となった。
新しいPCのトップ画面は、以前のPCと全く違わない位置に見出しが出してあった。数ミリのづれもないくらいであった。誠実な人に出会えてよかったと思う。私も誠実に生きなければと思う。
■ 酒井英樹
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