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埼玉県深谷市 市街

Downtown, Fukaya city,Saitama

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Apr.2015 柚原君子

中山道第9宿 深谷宿

深谷宿概要

「深谷」という地名の由来については諸説あります。上野台(うわのだい)などの荒川扇状地にできた台地下の谷に、太古の利根川が氾濫を繰り返してできた低湿地から「深谷」と呼ばれるようになったという説や、その低湿地に繁茂した萱(かや)が折り重なる「伏萱」(ふせがや)が転訛して、「ふかや」となったという説などです。

室町時代の1390(康応2)年、深谷上杉氏の祖である上杉憲房(のりふさ)が、庁鼻和(こばなわ)城(現在の国済寺)内に国済禅寺を創建しましたが、そこに奉納された鐘に「幡羅郡深谷庄常興山国済禅寺」と書かれてあり、「深谷の庄」という地名が歴史上に初めて登場してきます。

室町時代から戦国時代にかけて深谷は、関東管領と古河公方の抗争や北条・上杉・武田氏の争いに巻き込まれていきます。1456(康正2)年、5代上杉憲房(のりふさ)が古河公方の侵攻に備えて「深谷城」を築城します。大規模な平地に造られた平城でした。200年以上にわたり深谷の中心であり続けましたが、江戸時代の初めに廃城となります。

江戸時代にはいると、深谷の地の多くは天領(幕府直轄領)となり、中山道六十九次(木曽街道六十九次)のうち江戸から数えて9番目の宿場となります。

1843(天保14)年の『中山道宿村大概帳』によれば、深谷宿の宿内家数は525 軒、うち本陣1軒(飯島家)、脇本陣4軒、旅籠80軒で宿内人口は1,928人。商人が多く、また飯盛女も多く、遊郭もあり、江戸を出て2晩目の宿を求める人で大いに栄えた、とあります。

江戸時代の中頃からは地場産業の窯業や養蚕などが発展して、宿場には日を定めて市が立ち、深谷宿や中瀬河岸を中心に江戸の文化が広まり、八坂神社の祭礼、村々の万作踊りや獅子舞などが盛んになっていきます。

明治時代になると文明開化の波を大きく受けます。なかでも鉄道の開通で、上敷免に日本煉瓦製造株式会社の工場が造られ、日本近代産業の発展に大きな貢献を果たす地となっていきます。会社の設立に深く関わり日本近代実業界の父と後に呼ばれる渋沢栄一氏は、社会公共事業にも大きな功績を挙げ、1931(昭和6)年に亡くなるまで、生まれ故郷の血洗島を愛し続けました。

現在の深谷市は、東京都心から80km圏にある人口約15万人の市。深谷ねぎのブランドとしても有名です。白鳥の飛来地である荒川や利根川を有し、煉瓦の町であり、誠之堂・清風亭をはじめとするさまざまな文化遺産を有する市となっています。(参考資料:フカペディア他) 1、国済寺〜見返りの松

国済寺(黒門、三門、上杉氏歴代の墓が深谷市指定文化財)

所在地:埼玉県深谷市国済寺521

熊谷宿は愛宕神社で終了しましたが、やや先の向かい側のスーパーマーケットの横手を入って行くと国済寺の塀が続いています。塀に沿って進んで行くと「国済寺西通用口」がありますのでひとまず入ります。正面は国道に面しているのでそこから撮影を開始です。黒門の奥に三門が見えて絵になります。黒門は深谷市指定文化財で建立は江戸中期頃。四脚門形式で国済寺の総門にあたりますが、国済寺はもとは庁鼻和城(こばなわじょう)の跡ですので、寺の黒門というよりも城の黒門という形式なのでしょうか?丸い柱が優しい感じです。黒門の間から見えるその奥の三門も深谷市指定文化財です。

山門は楼門形式で建立は江戸初期のようです。枝垂桜が花の盛りを迎えていて鐘楼、楼門とどの角度からもとてもきれいな風景です。寺の立て札には以下の様に書かれています。

『室町初期、関東管領上杉憲顕は、新田氏を抑えるため六男の上杉蔵人憲英(のりふさ)を遣わし館を築かせ、康応2年(1390)高僧峻扇令山禅師を招いて館内に国済寺を開いたと伝えられている。憲英は奥州管領に任ぜられ、以後憲光・憲長と三代この地に居住。天正18年(1590)に徳川家康から寺領30石の朱印状を下付されている』。

寺の裏に当時の築山と土塁が残るとありますので行ってみました。こんもりと盛り上がったところがそうなのでしょうか……。庁和鼻(こばなわ)の館(城)は後に深谷城を築き移転されていきますので、ここは庁和鼻(こばなわ)の館跡と呼ばれています。庚申塔などを眺めながら進みます。

見返りの松

原郷歩道橋の手前に見返りの松があります。江戸から深谷宿までは18里25丁、およそ75km。京に向かって深谷宿に入って行くところになりますが、「見返りの松」といわれる老松があったそうです。前の宿、熊谷は遊女を置かない宿でしたので、この深谷宿には大勢の遊女が集まってきたといいます。江戸時代末期には商家の三割近くが旅籠を営んでいたそうで、その各旅籠ごとに4〜5人の遊女がいたそうですから、相当数の遊女と客がこの松の木の下で別れを惜しんだのでしょうね。

幕末安政年間のこのあたりには、総延長2.5kmにわたって、松・杉あわせて457本もの並木だったそうですが、並木として連なる松は現在は一本もありません。見返りの松は2代目だそうです。がんばれ!といいたくなるくらい若い松です。旧中山道は前方の歩道橋の左を入って行きます。

2、東常夜灯〜東源寺〜行人橋

東木戸・常夜灯

右側に大きな常夜燈が見えてきます。明治時代の建立。高さは約4mあります。深谷宿の京都寄りにも西の常夜灯がありますが、どちらも中山道最大級の常夜燈です。

畳屋さん、籠屋さん、閉められた古い家と街道は続きます。左側に見えてきた緑色の洋館は大谷家です。旧中山道から見られるのは深緑色の屋根を持つ洋館と日本家屋の一部のみですが、なぜか和洋が馴染んでいますね。建築年は昭和恐慌の時で、当時の深谷町長であったこの洋館の主の大谷藤豊氏は、地元近隣から多くの棟梁・職人を集めて自邸の改築工事を行い、「お助け普請」として仕事を与えたそうです。多くの職人に働き口を与えるための工事であったため、手の込んだ邸宅になったそうです。折りしも雨、散りそうな桜、う〜んかなり絵になりますね。

旧家が続きます。「だいまさ米店」とあります。江戸時代から続いているようですがお隣の米蔵のあったところをITのお店に貸している?それとも息子さんがIT関連?江戸時代からいきなり現在にワープした感じがおもしろいです。

東源寺

菊図坊祖英(きくとぼうそえい)の塚(深谷市指定文化財)

菊図坊は加賀国(石川県)出身の俳人です。次のような逸話が残っています。

深谷の名家酒井氏が伊香保にて懇意となり、再会を期して別れますが、以来、何の音沙汰もなし。或る時酒井氏宅を訪れた人物がありました。折りしも主人不在、あまりの見すぼらしい風采に家の人は相手にしませんでしたが、彼はちよいとした紙片に『苦くとも味はうて見よ藷の薹』という一句を残して立ち去ります。帰宅した主はびっくり驚天します。これは確かに伊香保で会った菊圖坊ではないか。坊はまだ遠くは行ってないだろうと後を追い、杉並木あたりでまごまごしているところを連れ帰って、地藏堂あたりに置き、大切に世話をしたそうです。町内は申すまでもなく、近郷近在の村人に至るまで、坊に就いて敎を受け、古池やの道に精進したそうです。坊はしばらくは深谷に草鞋の紐を解いたままでしたが、急に旅に出たくなり、町民から貰つた餞別全部を投げ出して菓子を買い込み、隣近所の子ども達に振舞って無一物となり、ひょう然と北の方、上州へと志し、ゆくりなくも大利根に突きあたって立往生するや否や、『死ぬことを知つて死ぬ日や年の暮』といふ辞世の句を残して、身を躍らして飛び込んだが最後、ふたたびこの世に姿を見せなかつた。……というものです。

なんとまあ、という感じですが、東源寺は1486(文明18)年に開山開基された寺です。この塚については、1805(文化2)年に出た「木曽路名所図絵」に「観音堂 深谷にあり、一本の柳のもとに菊図坊の碑あり……と出ているそうです。

まっすぐ歩いて行くと行人橋です。中山道深谷宿の本住町と稲荷町にまたがる橋で、深谷宿の真ん中あたりになります。

行人橋の名前の由来は、この橋の近くにいた行人(ぎょうにん)という僧が、唐沢川の洪水でたびたび橋が流されるのを嘆き、もらい集めた浄財で木橋が多かった時代に石橋を架けたそうで、以来、その橋は「行人橋」と呼ばれるようになったというものです。橋の脇には行人橋碑(明治31年建立)があり、その由来が刻まれています。

都会と違って遊歩道も無ければ、新しい石垣も無い、自然な川です。その流れの中で鴨がじっと水面を見ていました。私もしばし足(ペダル)を休めました。

3、塚本燃料店〜東白菊

深谷駅や本陣が近くなり、深谷の宿の中心らしい街並みになってきました。煉瓦の町深谷です。煉瓦のうだつが多いことでも名を知られています。それにしても厚みといい幅といい、圧巻にして壮絶と巨大と迫力と威厳、いろいろな言葉を重ねても重ねたりないような煉瓦のうだつがあります。塚本燃料店です。

塚本燃料店

お店の右側のウィンドーに自己紹介書があります。それによりますと、うだつを含め、外壁はイギリス積みという形式で積まれていて、日本の商家建築と西洋の煉瓦が融合した建物。創業はおよそ125年前。最初は菓子店でしたが、のちに燃料店に転業しています。店舗は大正元年築。深谷にできた日本煉瓦製造株式会社に石炭を納めていたのが縁で、初代当主の塚本栄平さんが耐火性に優れた煉瓦に注目して防火と装飾を兼ねたうだつを造ったそうです。「上敷免製」と刻印された同社製の煉瓦が残っているそうです。東京駅に使われたものと同じです。「入山採炭株式会社・石炭販売」という看板などがお店の中にありました。まだ指定文化財になっていないのが不思議です。

宿場らしい濃い街並みが続きます。お茶の常盤園、伊勢屋さんが街道の面影を残しています。堂々とした屋根の釜屋金物店さん。奥にある土蔵は江戸期のものだそうです。歴史と煉瓦の温かさが伝わる街並みです。

「東白菊」という煙突が見えてきました。

藤橋酒造(藤橋藤三郎商店)煉瓦造り煙突(埼玉県指定 景観重要建造物)

江戸時代末期の1848(嘉永元年)年に越後柿崎(現在の新潟県上越市)より移り創業された藤橋酒造です。街道に面した店舗は木造建築の町屋造り。奥には明治時代末期から大正時代にかけて建てられた米蔵、精米所などが現存しています。代表銘柄は「東白菊」。「東白菊」は関東の東(あずま)に酒の清らかさを白、清酒の香りを菊で表現、とあります。煉瓦造りの煙突には埼玉県指定、景観重要建造物の説明があります。丸に上を記された瓦が塀の脇に並べられています。煉瓦煙突と煉瓦の蔵と松。趣のある藤橋酒造でした。

4、深谷駅〜煉瓦倉庫〜宿街並み〜本陣跡

深谷駅

町中の路地の奥からも旧中山道からも深谷駅舎を見ることができますが、あれ?東京駅?と思ってしまうほど良く似ています。1999(平成11)年には関東の駅百選に選定されています。深谷駅開業は1883(明治16)年10月。橋上駅舎に改築されたのは1996(平成8)年8月。東京駅が深谷産の煉瓦(深谷に所在する日本煉瓦製造で製造された煉瓦が70キロ以上離れた東京駅まで鉄道輸送されて使われたという史実があります)を使用していることに因み、東京駅を模して改築されて「ミニ東京駅」とも呼ばれています。この地の発展に功績をした渋澤栄一の銅像も建っています。

この辺りからの中仙道は宿と宿との間隔が長いので、何も無いところを一時間くらい歩くことはざらです。バスも一時間に一本だったりするので、宿の深訪には駅周辺のレンタサイクルをお奨めします。私もこの辺りから(深谷宿は二度にわたっての記録でした)レンタサイクルのお世話になっています。深谷駅周辺には三ヶ所あります。電動自転車で1日1,000円でした。楽チン!

深谷駅近くは区画整理事業中のところもあって空き地がポツポツあります。その中で目立つのが春山邸です。宿場の遊郭の名残りがないかとキョロキョロしていて出合った家です。

近所を歩いていた年配の方に遊郭の名残りはありますか?とお聞きしましたら、今はもう全く無いとの返答でした。すぐそこの春山邸が近在の大地主だったので趣がありますよ、と教えていただき、外観写真を撮らせていただきました。敷地内の土蔵は江戸と明治の頃に造られたとか。庭内には松尾芭蕉と蜀山人の狂歌碑があるそうですが、残念ながら訪問の勇気が出ずに外観のみとなりました。

深谷駅周辺

春山邸

深谷れんがホール(元柳瀬金物店)

深谷町の交差点を右折して左側に「深谷れんがホール」があります。昭和8年頃の建築。昭和30年頃の妙見市の際には、倉庫1天井まで積み上げられた鍋、窯、バケツを一日で売り切り、昼食もまともに食べられないほど忙しかったそうです。真冬、火の気のない寒さが身にしみる深夜までの仕事、番頭や使用人達の喜び悲しみの涙がしみ込んだ倉庫です。昭和50年頃まで使われていましたが、現在は貸しホールなどの民間施設となっています。1階がレンガ造り、2・3階は木造(土蔵造り)の家屋です。地元の案内によると、入り口や窓には鉄製の扉が付き、2・3階の一部は吹き抜けとなり、3階天井に滑車を付け、商品の上げ下ろしが行われていたそうです。建築材料には多数の再利用の跡があり、煉瓦は地元銀行建物の再利用品、奥の引き戸には明治26年と書かれているそうです。約100㎡(7m×14.5m)の広い板の間、6本の太い柱とレンガ壁の空間はこの倉庫独特の味わいのある雰囲気を醸し出しているそうですが、残念ながらイベント時ではなかったので、正面には重たい錠前が降りているばかり。外観のみの撮影となりました。

煉瓦の町がステキであっちにウロウロこちらにウロウロしましたが、先に進みます。交差点に戻って右側にあるのが本陣跡です。

本陣跡(飯島邸)&パンフレット

本陣は飯島家が継いでいます。現在は飯島印刷。店舗の奥に上段の間(晩翠室)、次の間、入り側、が現存しているそうですが非公開です。飯島印刷の入り口に人の影がありましたのでちょっとお話を伺えるかとインタフォーンを押しました。本陣を説明するかなり詳しいパンフレットが用意されていました。行く行くは公開を考えていらっしゃるそうです。飯島邸の前の説明板によりますと、本陣職の飯島氏は武田家の家臣で、武田家滅亡の後に浪人となって深谷に定着したそうです。宝暦6年飯島十郎兵衛が本陣職を引き継いだそうで、参勤交代の殿のほか皇女和宮も休憩していますが、本陣は一般人の泊まりは無く、公議の厳重な制約を受けての貴人宿泊所ですが、1866(慶応2)年の1年間だけをとってみても休憩・宿泊は僅か33件で、商売にはならなく本陣経営はまったくの奉仕事業だったということです。立て看板にもやむなく明治3年まで続けた、という文言があります。

本陣を過ぎて歩いて行くと塚本燃料店程のうだつではありませんが、煉瓦うだつのある店舗もあります。糸屋製菓店さんを過ぎて見えてくるのは旧七ツ梅酒造です。

5、七ツ梅〜滝澤酒造〜西常夜灯

街並

七ツ梅酒造

本陣の少し先に旧七ツ梅酒造があります。江戸時代の中期に創業したという七ツ梅酒造。

母屋(主屋)・店蔵・精米蔵(レンガ倉庫)・窯屋・東酒蔵・北酒蔵・西酒蔵・馬屋から成り立っていましたが、現在、馬屋はありません。建物は享保元年〜幕末のものと推定。

銘酒"七ツ梅"は、江戸時代に「酒は剣菱、男山、七ツ梅」といわれた三大銘柄の1つで、幕府大奥の御膳酒として愛飲されたそうです。七ツ梅の命名は「七ツ時」(現在の午前4時頃)に最も梅の香りが立ちのぼるところからきています。2004(平成16)年に300年の歴史を閉じ近江に引揚げて廃業となりました(七ツ梅は兵庫県神戸市東灘区にある株式会社浜福鶴銘醸で出しています)。

旧七ツ梅酒造跡は貴重な遺産を壊さずに活用しようと一般社団法人「まち遺し深谷」が商業施設として活用しています。わき道を入ると昭和の世界のお店が並んでいる理由が分かりました。豆腐屋・雑貨屋・飲食店・古書店など深谷市内の色々なお店が移転して営業しています。巨大な蔵を改築した映画館まであって驚きます。通り抜けできますので裏からも周囲からも撮影が可能。煙突がやはり絵になりますね。その少し先にある菊泉の銘のある煙突が滝澤酒造です。その手前にある町屋が「坂本邸」 坂本邸

幕藩時代深谷宿で最大級と位置づけられる典型的な町屋建築。1843(天保14)年の深谷宿家並み絵図には蒔屋・質屋、坂本屋幸吉として残っています。当時からほとんど手を加えていないそうです。元治元年は幕府が滅びる3年前ですが、その元治元年(1864年5月)の、川俣茂七郎(かわまたしげしちろう)と大幡外記(おおはたげき)という名前が書かれた古文書が残っているそうです。 彼らは水戸の天狗党で、この坂本質屋に来て100両出させたその時の借金の証文だそうです。尊王攘夷が実現したら必ず返すと書かれているそうですが、天狗党は敦賀で殺されたといういきさつがあります

そのすぐお隣が深谷を代表する「菊泉」の滝澤酒造です。

滝澤酒造

中山道に面して坂本邸の西隣りに並ぶのは銘酒「清酒菊泉(きくいずみ)」で有名な滝澤酒蔵です。建物の大きさも形も良く似た2棟が建ち並ぶ風景は、深谷宿の姿そのままのようです。創業は1863(文久3)年。1897(明治30)年に小川町から良質な水を求めて移転してきました。滝澤酒蔵の西側を通る南北道路からは、敷地内のレンガ建造物やレンガ造の煙突、酒蔵などが見られます。ぐるりと歩きます。道の上に通路もあるようです。建築物に使われている煉瓦はもちろん深谷産です。正面や東側に比べると西側の煉瓦は新しい模様です。昭和5年建造の煙突は全高30メートルあります。昭和6年、震度6の西埼玉地震で上部3間が崩れ落ちてしまったそうで、その後、県の条例により煙突に鉄の箍(たが)をはめた形状になったそうです。煙突の下の方に第二次世界大戦の時に機銃で撃たれた穴があるそうですが、発見できませんでした。

中山道はその先でカギ形の様に曲がります。見えてくるのは西常夜灯です。

西常夜灯

深谷宿、西木戸・常夜灯とも言います。1840(天保11)年に造られています。郷土の偉人であり深谷市の血洗島を愛した渋沢栄一が生まれた年と同じです。富士講の人達が造り、年間2反の収穫物で灯明の油を負担したそうです。

その脇にあるのが呑龍院。赤い鐘楼堂と常夜灯のアングルが宿場らしいです。呑龍院には子守り地蔵が祀られていますが、これは1931(昭和6)年9月21日午前11時20分3秒に深谷断層系の一部が動いて生じた深谷地震(西埼玉地震)、マグニチュード6.9によって、旧富国館製糸工場(富国館は、両角市次郎(もろずみいちじろう)によって1899(明治32)年に深谷町……現在の田所町につくられ、大正末年まで操業していた機械製糸工場)の赤煉瓦造りの煙突が倒れ、その下で遊んでいた子どもが数人亡くなったということで、犠牲になった子どもたちの霊を慰めたお地蔵様です。この地震は深谷においては関東大震災(1923 年)よりも被害が大きかったそうです。滝澤酒造の煙突に鉄の箍がはめられたのもこの地震でしたね。自然の災害は本当の恐ろしいです。私も手を合わせました。

地蔵堂の横には南無阿弥陀仏の石碑が。疲れたので、ちょっとお茶をしてスマホを動かしている間に南無阿弥陀仏と彫られた一本の石碑の背後が気懸かりで調べました。寛政10年とありますので深谷地震とは関係がなさそうですが、一体いつ頃のもの?とスマホで見てみましたら、江戸幕府が開かれて200年頃のことで、ちなみに杉田玄白さんが65歳、鶴屋南北さんが43歳、雷電為衛門さんが31歳、遠山金四郎さんがわずか5歳、歌川広重さんなどまだ1歳の頃、と出ていました。……いやはやスマホは便利にしておもしろいですね。まさしく江戸時代の中山道を人々が行き交っていた頃の石碑でした。南無阿弥陀仏は何への供養だったのでしょうか。

6、清心寺、瀧宮神社〜源勝院

清心寺

西常夜灯と分かれて少し行って左を見ると踏切があります。その先に見えているのが清心寺です。説明板には「源平一の谷の合戦で岡部六弥太忠澄が平氏きっての武将平忠度 を討ち取ったのだが、その菩提を弔うため忠澄の領地の中でも一番景色の良いこの忠度の供養塔を建立した」とあります。門前の両サイドに庚申塔があり歴史を感じました。西常夜灯を過ぎて次の宿に至る街道は心なしか寂れていきますが、4月の花であふれています。モッコウバラ、藤、オレンジのポピー、その中を瀧宮神社に寄ります。

瀧宮神社

近辺は湧水として出るところであったために、古来より人々が生活を営んでいたことが土器や住居跡などの発掘によって知られているそうです。瀧宮神社は深谷上杉氏が1456(康正2)年に深谷城を築いた際に、城の西南に位置するこの瀧宮神社を裏鬼門の守護神として崇敬するとともに、この地の湧水を城の堀に引き込んだそうです。歴代の城主も信仰をし続けたそうです。1634(寛永11)年に深谷城は廃されましたが、深谷は中山道の宿場町として繁栄していましたので、瀧宮神社は仲町・本町・西島の鎮守「瀧宮大明神(たきのみやだいみょうじん)」あるいは「大神宮瀧宮(だいじんぐうたきのみや)」 として栄えました。神社の奥には湧き水の出た場所が小さな池として保存されています。源勝院

岡部藩藩主・安部(あんべ)氏の菩提寺です。安部氏の初代・元真は今川氏に仕えていましたが、今川氏が滅亡すると徳川家康に仕えて、武田信玄・勝頼親子とよく戦ったそうです。そんな安部氏は、ここ岡部の地に所領を与えられて岡部藩を立藩します。

元禄時代には忠臣蔵で有名な浅野長矩による刃傷事件が起こりますが、第4代目の信峯は長矩の従兄に当たったことから連座で出仕を止められ、家督相続も保留となりますが、やがて許されて第4代藩主となり岡部藩は幕末まで続くこととなります。源勝院は安部氏の菩提寺で、旗本として岡部に陣屋を置いた信勝(のぶかつ)が、1599(慶長4)年亡き父の追善のために創建したお寺です。創建当時のお寺は火災により焼失していて、1827(文政10)年に再建されています。現在山門がある場所が「食い違い虎口」の形態を示していて、中世館跡と推定されているそうです。墓地には2代・盛信から、13代・信賽までの墓がずらりと並んでいました。その先に広がる田園地帯の眺めの良さにしばし深呼吸をしました。

7、高島〜百庚申〜滝岡橋

高島秋帆幽囚地

中山道に戻ってしばらく行くと左側に「高島秋帆幽囚地」という石碑の案内が見えます。石碑にそって曲がると左側の畑の中に囲われた一角が見えます。江戸末期の砲術家であった秋帆(高島流砲術の創始者)は幕府に重用されましたが、中傷によってこの地の岡部藩の陣屋に10年間幽囚されました。けれどもペリー来航とともに幕府には必要な人物となり幽閉を解かれています。街道に戻って進みます。右手に普済寺があります。

普済寺

清心寺にあったのは平忠度の供養塔でしたが、こちらの普済寺にあるのは平忠度の句碑です。誰ともわからずに平家の武将を討ち取った岡部六弥太忠澄でしたが、矢いれの中に一首入っていて、薩摩守忠度と書いてあったそうです。「ゆきくれて 木のしたかげをやどとせば 花やこよいの主ならまし」と書いてあります。

中山道に戻り本庄宿の方に歩くと普済寺の交差点がありますので右折します。国道355号が緩やかな傾斜で伸びています。左奥に誰とも知らずに平忠度を討ち取った岡部六弥太忠澄の墓が畑の中にあります。鎌倉時代の典型的な五輪の塔が六基並んでいて埼玉県指定史跡となっています。

街道に戻る途中に深谷ねぎを満載した軽トラックとすれ違いました。振り向いて一枚急いでパチリ!としました。

街道に戻り信号を二つばかり行くと道が左右に分かれます。右側が旧中山道です。入って行きます。国道259号を通り越した左側に全昌寺があります。

全昌寺

この全昌寺には岡部藩の陣屋(高島秋帆幽囚地の記念碑が立っている場所)にあった二層建ての長屋門が移築されています。前路地が狭くてカメラに収まりきれません。修復がいささか乱暴なのか、壊れ途中なのか良くわかりませんが、守って行くことも大変なのでしょうね。

街道の右の少し急な坂道を下って行くとその奥に歴史公園があります。埼玉県指定遺跡の「仲宿九台倉庫群跡」です。案内板は以下です。『この復元倉庫は、平成3年の発掘調査により発見された16棟のうち、最も規模の大きい1号建物と2号建物を復元したものです。奈良時代に100年間にわたって使用されたものと推定……中略……榛澤郡(現:岡部町)の役所の一部……中略……実際の遺跡では柱穴基礎の部分だけが発見されたわけですが、復元作業は、当時の歴史的背景や古代の建築技術を参考にして実施しました。1号建物は、校倉造りといい、変形6角形断面の木材を積み重ねたもので、4隅を堅固に組み合わせているために、非常に頑丈なつくりとなっています。2号建物は板倉造りといい、当時一般的に用いられた工法で、柱の間に厚板を落とし込み壁を作り出しています。有名な奈良の東大寺正倉院は、この2つの工法を用いて建てられています』

遺跡の倉庫群の柱の跡は丸いコンクリートで示されています。桜が終わり緑濃い遺跡でした。 

目の前に「道の駅」がありました。ふと現代に返って道の駅をブラブラとして、土地のおばあさんの作った五目御飯を買って、遺跡の公園で食べました。うん美味しい、それに遺跡の風はさわやか。

旧中山道はまた二股に分かれます。百庚申の案内がでていますので左側の道に入ります。その先を表示に従って右に下っていくと坂の途中に百庚申が見えてきます。多数の石塔。この百庚申は1860(万延元年)年に建立されたものです。万延元年は、徳川幕府の井伊大老が暗殺されるという大きな事件があったり、黒船来航で鎖国政策が終わりそうな日本の国情で、人々の生活も不安なものであったと想像されます。神仏に祈りたい気持ちと、万延元年はちょうど庚申の年でもあったので、このような百庚申が造られた、とも言えるそうです。庚申塔の中には東京の田端町などと記したものもありました。

百庚申の前を道なりにあがって行くと国道を超えて滝岡橋となります。橋には煉瓦が使われていました。土手には黄色の菜の花と紫のアザミがとてもきれいです。ここから先は本庄宿です。本日はここまでです。さて、自転車を返しに深谷駅まで戻ります……。


Apr.2015 柚原君子

1、JR高崎線「深谷駅」

(日本の駅100選)

東京駅の煉瓦を焼いたのが深谷市ということから、深谷駅は東京駅を模して作られています。ルート17号からも旧中山道からも、踏み切りの遠景としても、煉瓦の古い街並みからもひょっこりと駅の塔がのぞいて、煉瓦の町深谷のPRには良い景観です。

煉瓦の町・深谷市は埼玉県北部に位置する利根川と荒川に囲まれた人口約10万人の都市です。煉瓦以外にも深谷ねぎも有名で日本一の出荷量を誇ります。白い部分が多いので根深とも呼ばれて親しまれています。意外ですがチューリップ(切り花)の生産量も日本一。訪れた時期は四月初旬でしたので町のいたるところにチューリップの植え込みがありました。深谷市では「赤レンガを活かした町づくり」を推進していますので、新旧問わず煉瓦造りの建築物が目を引きますし、煉瓦を取り入れた建築物には町より補助金が出るようです。徹底していますね。

深谷市の煉瓦は古い歴史を持ち、1887(明治20)年に始まります。日本初の機械方式による煉瓦工場、日本煉瓦製造会社が深谷市血洗島(ちあらいじま)出身の実業家・渋沢栄一(1840-1931)により創設されたことに始まります。それまで日本の主要建材は木や石でした。堅牢な赤煉瓦は日本の近代化を象徴するものとして近代建築の中に多く取り入れられていきます。小山川と利根川が堆積させた深谷市の土(粘土と砂)は煉瓦に最適で上質。ねぎとチューリップの生産量が日本一なのも深谷の土のお蔭と言えるかもしれません。

それらの土は煉瓦に形を変えて全国のあらゆる所に分布していきます。ちなみに東京駅にも日本煉瓦製造の煉瓦が構造用として約800万個使われています(ただし、表面の赤煉瓦は品川煉瓦や大阪窯業のもの)。そのことを印象付けるわけではないでしょうけれども、深谷駅は東京駅に似ています。現・東京駅には消失してしまったドームも付けられていることが目新しいことでしょうか。

深谷駅は1996(平成8)年に竣功。総工費は35億円。表面は煉瓦ですが中はコンクリートで出来ています。橋上駅ですので一度は橋の上に上がって改札を抜けて再びホームに降りるとことになります。駅の北口は青淵広場という名称。その中には、和服を着て東京の方角を見つめる渋沢栄一像があります。日本の近代化に力を注がれてお疲れの様子。座象です。渋沢栄一は、第一国立銀行(第一勧業銀行→現・みずほ銀行)の創設に尽力して頭取も務めています。東京商工会議所と東京証券取引所の設立にも関与し、日本鉄道(現.JR東日本)、上武鉄道(現.秩父鉄道)、東京ガス、王子製紙等を含め500社以上の設立に関係した人物でもあります。これらのことから渋沢栄一は日本近代資本主義の父(または日本近代経済の父)と称されています。

深谷駅前にある自販機も煉瓦調でした。さすがですね。

2、埼玉県立深谷商業高等学校 記念館

(国登録有形文化財)

所在地:埼玉県深谷市原郷80番地

開館日/日曜(年末年始を除く。臨時休館あり。)(平成26年6月変更)

時間/10:00〜12:00、13:00〜15:00(平成26年6月変更)

上記以外は敷地外から見学可 深谷駅より北東方角の国道17号に面して建っています。後に訪れる「大谷邸」の主、大谷藤豊が私財を投じて1921(大正10)年に町立深谷商業学校として設立(2年後に県立に移行)しました。校舎は大正11年4月完成。平成25年改修。改修前は赤茶色でしたが、改修にあたりコンピュータ調査がなされました。その結果をうけて復原されて当時の色に再現されています。別名「二層楼」。木造2階建、瓦葺、外装は横板モザイク模様張り。意匠を凝らした塔屋・車寄付の中央部を軸に左右対称のシンメトリック外観構成をとっています。4つの屋根窓、両翼端に櫛形ペディメントを設け、フレンチ・ルネサンス様式を基調とした和洋折衷の校舎です。土台には日本煉瓦製造会社の上敷免煉瓦が使用されています。玄関ポーチや両翼の半円形の破風飾りなどは大正期特有のデザインです。

訪れた当日は平日で中には入れませんでしたが、各部屋の開き戸は片開き戸で階段は広い舞場のある洋風階段との事。天井がはられていない屋根裏には棟札が二枚あり、設計者の濱名源吉の名前もみえるそうです。

校舎の裏側には当時の正門の煉瓦の建築物もありました。ただ、正面の植え込みの国旗掲揚塔が朽ちていたのと、その前に放置された建造物の案内表示のトタン板が横倒れで放置されていたのは、ちょっと残念でした。

3. 福川鉄橋

4、備前渠鉄橋 5、日本煉瓦製造株式会社 旧変電室

6、日本煉瓦製造株式会社 旧事務所

7、旧渋澤栄一邸

8、誠之堂 9、清風亭 

10、深谷の町の煉瓦の風景

A、煉瓦煙突風景

町を見渡すところに来ると煉瓦の煙突があちらこちらに見えます。酒屋、元瀬戸物屋さん、古い住宅ではウダツも瓦でという家もあり驚かされます。猫のいる煙突は元瀬戸物屋さん。「東日本大震災の時にもビクともしなかったよ。煙突は誕生して60年以上」、との事でした。

B、七ツ梅酒造跡地のシネマ

1694年創業。享保元年から約300年の歴史を持つ七ツ梅酒造。「七ツ梅」は株式会社田中藤左衛門商店が醸造していた清酒の銘柄でしたが、2004(平成16)年に田中藤左衛門商店が廃業した後は、深谷市の中山道沿いにある酒造跡の通称として使われて「七ツ梅酒造跡」ともいわれています。「七ツ梅」の名称は、昔の刻限「七ツ時」(現在の午前4時頃)に最も梅の香りが立ちのぼるところから生まれたものです。

主屋、店蔵、精米蔵(煉瓦倉庫)、窯屋、東酒蔵、北酒蔵、西酒蔵、馬屋からなる大きな酒造跡で現在はシネマ、飲食店などが入っています。

主屋の建設年代は棟札墨書より1933(昭和8)年と判明。木造店蔵造り、切妻屋根、桟瓦葺きです。窯屋は平屋建て中央間2階建て建築面積:約110㎡。建築年代は創建当初(享保元年)〜幕末のものと推定されます。墨書・構成部材等の詳細調査は未着手だそうです。

酒蔵は木骨土壁下地の土蔵造り、下見板張り、平入り、東西平側市屋付、切妻屋根、土葺き瓦、小屋組は二重天秤梁形式、本柱・側柱間は繋登梁接続になっているそうです。

七ツ梅のブランドは、現在は灘の酒蔵に受け継がれているそうです。平成16年に廃業した七ツ梅酒造跡地に使われなくなった酒蔵を、映画館やコミュニティスペースとして活用しながら保存するプロジェクトがNPOにより進められました。当時の面影をなるべく残すことが重点とされている様子で、中仙道より店舗と脇道は見えますが、入っていいのかどうか迷う感じがします。映画の撮影のセットのような感じもします。勇気をもって入ってみると、もちろん入っても怒られませんが、どの時代にワープしてしまったのか異様な感覚にさらされます。主屋も酒屋さんの看板が思いきりかかっているので、入ると豆腐屋さんですし、すこし進むと重厚なレンガ造りの倉庫があるのに、現代的な売り物があったり、酒場であったり混沌としています。その奥には深谷シネマという映画館も。一度迷い込んでみられる事をお奨めします。

C、小林商店と煉瓦蔵

所在地:埼玉県深谷市西島4丁目

煉瓦蔵は1912(大正元年)竣工。煉瓦は小口積み。奥の3階建の洋風の店舗は、1927(昭和2)年竣工の木造。砂糖問屋の事務所として使用されていたそうです。異なる三つの建物が3対として残っている風景です。

D、煉瓦ホール

(旧柳瀬金物店倉庫)現在はNPO法人深谷にぎわい工房

所在地:深谷市深谷町

建設は1933(昭和8)年。深谷信用組合倉庫の解体レンガを再利用して再建。木造3階建て、1階の部分のみ煉瓦造り(イギリス積み)。1階の入口部分は、セグメンタルアーチ。煉瓦の一階部分と上の二階三階のコントラストがとてもレトロです。鉄製の扉も重厚感有り。

E、瀧澤商店

所在地:埼玉県深谷市田所町9-20

際立った煙突、重量感のある煉瓦塀が続く細道、道をまたぐ空中の通路?どの角度から見ても煉瓦が映えています。煉瓦煙突にも銘のある「菊泉(きくいずみ)」を造っている酒造(他に、升田屋 三年古酒 青淵郷 めざめの刻、などがあります)です。

創業は1863(文久3)年。1897(明治30)年、小川町から良質な水を求めてこの地に移転してきた瀧澤酒造。レンガ造りの煙突は昭和5年建造。昭和6年、震度6の西埼玉地震で上部3間が崩れ落ち、その後に県の条例で鉄の箍(たが)をはめたそうです。下の方に第二次世界大戦の時に機銃で撃たれた穴があるそうですが、発見できませんでした。あらかじめ予約すれば内部見学可能とのことでした。

F、煉瓦うだつのある塚本燃料商会 

所在地:深谷市本住町

建設は1912(大正元年)年。旧中山道に面した商店。建物はごく普通の木造2階建て日本家屋ですが、イギリス積みにされた煉瓦造りの高いうだつ(両脇に設けられた防火壁)がとても目を引きます。うだつの側面には耐震補強の鉄枠、下部には隅石(花崗岩)が設けられています。梁は秩父の山から切出したものを使用してあるとのこと。塚本燃料商会は日本煉瓦製造に粉炭を中心とした燃料石炭を卸していたことがありますので、このうだつもおそらく日本煉瓦製造であろうと思われます。うだつとは、家が連続して建てられている場合に、隣家からの火事が燃え移るのを防ぐために造られた袖壁をいいます。煉瓦の町深谷ならではの煉瓦うだつです。正面から見ると頑丈に守られているのがわかり、しばし見とれました。うだつのある家は裕福な家ということになります。境遇が思うように向上しないときなどに「うだつが上がらない」という慣用句にも使われています。

お店のウィンドーには塚本燃料店のこれまでの案内がでています。

G、その他の煉瓦うだつのある家々

店舗の屋号を記したテントで見えませんが、確かに煉瓦のうだつのある商店が路地角に残っていました。見上げたりキョロキョロしたりしながら大正の風に吹かれることのできる深谷の町です。

H、藤橋藤三郎商店 

所在地:埼玉県深谷市仲町4-10

「東白菊」の名前が刻まれた大きな煙突が目安です。1848(嘉永元年)年に越後柿崎(現在の新潟県上越市)より当地に移り創業。構内にはかつての米蔵、精米所、煙突など土蔵造りの技術を応用したレンガ造りの建物が現存。 工場の煉瓦はイギリス積み。

I、大谷邸(大谷商事合資会社)

国登録有形文化財

(主屋、洋館、本蔵、松庭湯、祠、中門及び塀、裏門及び塀、欅空庵、米蔵の9件)

所在地:埼玉県深谷市稲荷町2-3-39

建築は1931(昭和6)年。木造2階一部平屋建・洋館付き和洋折衷住宅。半切妻状屋根はスペイン瓦葺、外壁は人造石洗い出しで上部をハーフティンバー風。ステンドグラス入りの縦長窓がとても優雅な景観をかもし出しています。

「ゆとりのある者は人に尽くせ」が大谷藤豊氏の口癖で、地元深谷への貢献を常に優先させる人物であったあったといいます。

建築年は丁度昭和の大不況(昭和恐慌)時。当時の深谷町長であった大谷藤豊氏は、地元近隣から多くの棟梁・職人を集めて自邸の改築工事を行い、「お助け普請」として仕事を与えたそうです。多くの職人に働き口を与えるための工事であったため、邸宅は手の込んだものになったといわれています。洋館のデザインは、大正期に流行したドイツのユーゲント・シュティールの影響が強く、窓の上の渦巻き状の装飾や屋根の形状などに表われています。日本家屋の玄関の屋根には凝った彫刻を施した懸魚があるそうですし、塀にも、梅や笹の透かし彫りがあります。竣工まで、連日百人以上の職人が働いたといいます。

公開をされている日ではありませんでしたが、散り始めた桜で敷き詰められた地面の桃色と雨の景色に、洋館が映えていました。(参考資料:文化財紹介より)


Mar.2013 瀧山幸伸

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